0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.3940.41.42.43.44.45.
46.47.48.49.50.51.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.67.68.69.70.71.72.73.74.75.76.77.78.7980.81.82.83.84.85.86.
87.88.89.90.91.92.93.94.95.96.97.98.99.100.101.102.103.104.105.106.107.108.109.110.112.113.114.115.116.117.118.119.110.
111.112.113.114.115.116.117.118.119.120.121.122.123.124.125.126.127.128.129.130.131.132.133.134.135.136.137.138.139.
140.141142.143.144.145.146147.148.149.150.151.152.153.154.155.156.157.158.159.160.161.162.163.164.165.166.
神の御名
-ありがとうございます-
どうしても自分の心癖が変わらなくて、例えば主人に感謝したいとか。主人はとても良い人なんですけど大嫌いなんです。
合うとお互いマイナスの思いを出してしまいます。頭では良い事をたくさん知っているんですが、心と一緒にならなくて辛いんです。心の向き(癖)を治す方法を教えてください。
ありがとうございます:
誰かご存知じゃないですか?(笑い)
一番効果的なのは「ありがとうございます」と唱える事なんですけどね。この「ありがとうございます」という言葉は、誰でも知ってる簡単な言葉なんですけど、本当は、究極の神様の名前なんです。全てを生かしきってくれる神様の名前です、必要なものを的確に与えてくれるんです。だから、「ありがとうございます」という神様の名前を唱えたら、最高の神様がサッと降りてきて全ての問題を解決してくださるんです。
今までは皆、ああしたい・こうしたいと自分勝手な生き方をしてきてると思うんです。この「ありがとうございます」という神様は、一番謙虚で謙虚で控えめなんです。最高の神様なので強制力を使ったら神様の思い通りになってしまいます。自由を絶対に縛りたくないというのが神様の本当の願いです。人の自由意志で神様の御心のままに・神様と一緒に歩きたいというふうに、自分の意思で決定してくれると神様は力を揮えるんです。
今までは皆自由にさせて貰っているはずなんです。何を思っても自由・何を願っても自由・どんな生き方しても大丈夫、自由にさせてもらっていたんです。でもまだまだ最高の幸せというのはつかめてないでしょう、最高の幸せを掴む最後の切り札は、「ありがとうございます」という究極の神様にすがるしかないんです。
何億年以上もズーッと待っていてくれたんです。どこにいても自由にさせてくれていたんですけど、必ず行き詰まるんです、自分の力で自力で生きようとしても本当の幸せはつかめないですね。また、いろんな他力にすがって神仏にすがって幸せを得ようとしても、「ありがとうございます」という究極の神様ほど大きくないんです。阿弥陀様にすがって悟りが開けたと思っても、まだ小さいんです。だから本当に満足できたかというと、まだ誰も満足できていないんです。
最後に戻るのは、「ありがとうございます」という究極の神様の中に戻って行くんです。それで心が一番幸せな状態になって、大満足の状態になるんです。
どこへ行っても自由だといって、宇宙の端から端まで順番に行ってたら時間がいくら有っても足りません。だからその辺はほどほどに、早く戻らないと損をする。ちょっちょっちょっと回って、たいした事ないなと解かったらすぐに「ありがとうございます」という神様の中に飛び込めばいいんです。
「ありがとうございます」と言えば必要な助けが与えられて、即受ける事になるんです。受けられるんですね。そして順番に自分の幸せが大きくなるように守り導いてくれているんです。
だから、自分の心を自分の一番良いようにコントロールしようと思っても自分ではできないですよね。でも、「ありがとうございます」と唱えていると必ず早く自分の願っているようになっていくんです。不思議な力があるんです、「ありがとうございます」という一言にね。
ただ、必要なだけを与えてくれるんですね、モグラに太陽の光を与えると強すぎて困るでしょう。月明かりくらいが喜べるんですね、強い光に慣れてきたら強い光を与えてくれます。食べ物でも必要なだけがいいでしょう、山盛りいっぱい家中いっぱいだったら身の置き所もなくなります。必要なだけというのが大事なんです。
欲しいものと必要なものにはズレがあります。皆欲しいものを手に入れたりするでしょう、あれも欲しいこれも欲しいと思うんだけど、それは本当は必要なものじゃないんです。必要以上に多いかもしれないし、必要なものじゃないかもしれないですね。
必要なものを与えてもらってそれを喜ぶようになるのが一番理想なんです。例えば、健康に対して感謝できないと言う人があるとしたら、一回病気になる方が良いでしょう。病気というのが必要なんです、一回病気をすると健康に対する感謝が湧き上がってきますね。ああ、健康ってありがたいなと解かるんですね。電気でもありがたいなと思うんですけど、慣れてしまうと当たり前なんですね。たまに停電しないと困るんですね、停電というのが必要になるんです。電気というのはありがたいなという気持ちが湧き上がるようにしてもらえるんです。
神様は究極には、無限の感謝できる自分に変えたいと思うんですね。無限の感謝ができる自分というのが一番幸せな自分なんです。感謝のできない自分は思い通りになっても小さい幸せしか味わっていません。
感謝の心は無限に広がります、全てに行き届いて価値を見出して幸せを感じ取れるでしょう、感謝が無限に広がるのが一番の幸せです。
病気にも感謝でき・健康にも感謝でき・ありとあらゆるもの全部に感謝できたが良いでしょう。そういう自分に神様はしてあげたいんです。それに必要な勉強も兼ねて必要なものを与え続けるんです。
心にいろんな引っ掛かりというのが出てきます、思い通りにならない事もあります。それも、思い通りにしようという心をとるためだったら、思い通りにならない状況を与えてくる事があります、これは必要なんです。そしたら、思い通りにするのをやめておこうとなります、だから本当は、思い通りにしなくてもいいんです。皆自由に放してあげたら良いんです。
神様が一人一人を自由にしているんです。どういう生き方をしても自由です、ただ本当の幸せは、神様の中に戻るしかないんですけどね。神様の中へ自分が戻らないと損しますね、神様と一体化すれば神様の心が自分の心になります。神様の愛と自分の心がひとつになります。
神様の愛というのはね、
思いやりの心というのがまずひとつ、思いやりというのは必要なものを的確に与えていく心です。どんな人にも物にも動物にも植物にも、全てに必要なものを的確に与えていく心です。
次に、寛容の心。全てを一大抱擁する心です。全てに無限の価値を見出してプラスにプラスに見ていく心です。どんな国に対してでもその存在価値を見出してあげなければいけない、悪いと言ってはいけない、何か意味があります。
世の中の悪人といっても人類のマイナスの思いを一手に背負って、全部集めて身に振り替えて背負っている姿かもしれないんです。だから大菩薩かもしれないんですね、皆の身代わりだったらね。家族の中にも、家族の皆のマイナスの思いを一手に背負ったらその人が大きいマイナスを心に背負うわけでしょう。それが形に出てくるんです、意地悪な姿をとる場合もあります、嫌な姿を与える事もあります。でも人の生き方は自由でそれぞれ自由にさせてもらうので、認めてあげなければいけない。
思いやりの心・寛容の心というものを自分も神様から与えてもらったら、どんなものもプラスにプラスにと見ていけるように変わっていけるんです。
もうひとつは、許しの心というのが神様の愛の中にあります。許しというのは過去を放す事です、過去を掴まないんです。常に、新たに新たに置き換えていく心が許しの心です。過去の事を云々したり何も言わない、過去はそれでよかったと放してしまうんです。
今必要な事が神様の方から与えられてそれぞれ演じているんだというわけです。そしたら悪く見なくなるんですね、新たに神様に与えられた役を演じているという姿は全体のためには必要なんです。素晴らしい演技をしてくださってというふうに見ていけるようになります。神の愛とひとつになると引っ掛かりがドンドン少なくなります。
神様は、人に完全な自由を与えて、全てに平等なものを与えています。平等というのはどこに於いて平等かと言うと、肉体の立場でも魂の立場でもありません、一番奥の命の自分・本心の自分・神なる自分に戻ったときに全てが平等なんです。
神様と一体の本心の自分はいつも神様から新たな「全徳の無限の無限の輝きがいっぱい」というのを受け取れるんです。この最高のものを皆平等に受け取れるんです。これは人間だけでなく動物も鉱物も植物も意識のあるものは全部平等に受け取れるんです。そういう意味では神様の前に立つと皆平等です。
神様から最高のものを受け取ったときに必ず恩返しの心が出てきます。こんな素晴らしい最高の幸せを与えてもらってありがとうございますと思うと、全てを捧げ尽くしてでも恩返ししたいと思うときが必ずあります。その時に、謙虚に謙虚に下にへりくだる(謙る)んです。
だから、神様が必要とされるんだったら、宇宙大劇場でどんな演技でもさせていただきますということなんです。一番良い中心の役を演じさせてくださいとは言わない。良い役はお互いに譲り合うんです、一番最低の役目・地獄のどん底の亡者の役目、これでも私は喜んでさせていただきますと言えるんです。最高の幸せを与えてもらっている自分にとったら、そんな事どうでもいいことなんです。
仮にね、亡者の役をするとするでしょう、それは自分が最低だからしているんじゃないですね、神様から最高のプレゼントを受けて、最高に輝いた自分が、謙虚になって亡者の役割を演技するんでしょう。この宇宙の全ての表現がそうなんです。最高の力を持った神様が最低の役割を演じているんです。
地獄の亡者の姿でも本当は、自分の過去世の業想念を無理やり背負ってくれている愛の働きの姿かもしれないですよ。そこまで言わなくっても、皆それぞれ自由に、神様が必要とする役を演じ切ってるというように見たほうが良いかもしれないですね。
そうしたら、悪い役だからといって、あの人は悪いと言うのはおかしいですね。舞台を降りたら名優なんです。神様の前に立ったら、宇宙大劇場で演技する名優なんですね、最高の一人一人です。ただ舞台が色々あるんです、無限のチャンネルの舞台が準備されています。そこで配役が全部必要になっています。地獄番組では地獄で演技する人が大勢います。それは、演技してチャンと表してもらわないと地獄番組を誰も楽しめないんです。
そういう意味で、運命として現れるこの姿というのは、これも演技の姿・番組の姿ですね。それをどのように見て受け止めるかは自由なんですけどね、できたらプラスにプラスに眺めて楽しめたほうが良いですね。番組の中の姿を、これが自分なんだと掴んでしまうと、自由を失ってしまいます。自分は神様と一体なんだと・神様の世界にいておやつを食べながらテレビを見るように、この世を眺めているんだというように、チョッと放すのがいいですね。
昔から、執着するなと教えにあるわけです、どんな教祖も聖者も言ってるでしょう。この世に執着するなとね。お釈迦様もそうですね、全ての迷いは執着から来るとね。だから、その番組を掴んでしまうと巻き込まれるんです、サーッと流れるように眺めていると掴まないでしょう。だから執着しなくて済みます。
執着さえしなかったら、心に執われがないんです。ただ眺めるだけで良いんです。ちょうど、演奏会を聞くだけ・聞き流しに聞くだけで良いんですね、その方が素晴らしい演奏を味わえるでしょう。テレビ番組を見るように、この世を眺めていると、心が自由になります。
テレビ番組は色々ありますが、最低の悪い番組もあります、戦争映画も・悪者番組も有るじゃないですか、それを楽しみながら見ているじゃないですか、あの人は悪いとは言わない、演技だとわかっているんです。だから、神様の宇宙大劇場の演技というふうに眺めると、チョッと見方が自由になって楽になります。
「ありがとうございます」と回数多く唱えているとそういう心になるんです。神様の心が良くわかってくるんです。神様の御心に沿った見方をすると全部プラスに見るようになります。
結 婚
-ありがとうございます-
結婚したいと思ってるんですが、いい相手が見つかりません。それは今の私には必要ないということなんでしょうか。
ありがとうございます:
何が必要なのか、結婚などもまだまだ小さいんです。本当に必要なのは何か、自分にとって一番大事なことは、本当の自分に戻る事ですね。神様と一体の本当の自分にね、これか一番幸せでしょう。だから、結婚は何のためにするのですか?
-ありがとうございます-
そろそろ一人は嫌かな。
ありがとうございます:
ほかの人がするから自分も?
-ありがとうございます-
そういう訳じゃない、一人より二人のほうが良いかな・・・
ありがとうございます:
どんな相手でも良い?
-ありがとうございます-
そういう訳じゃないんですけど。
ありがとうございます:
結婚は何のためにするかしっかり考えた方がいいですね。何を目的にするのか、幸せになるためにと言っても、幸せな人は結婚してもしなくても幸せなんです。結婚したから幸せになるとは限らない、結婚して不幸になる人も多いでしょう?皆は両方体験してると思いますが?
まず、自分が幸せになる事なんです、幸せな心に感謝できる心になったほうがいいんです。そうすると、結婚してもそれを幸せな結婚に結び付けられるんです。独身でも自由で幸せなんです。一番必要なのは、早く幸せになる道なんです。結婚したほうが幸せになるんだったら(神様は)与えてくれるんです。最低の人かもしれないし最高の人かもしれないんです、わからないんです。幸せになるための勉強だっていろんな勉強があるわけでしょう。
-ありがとうございます-
じゃあ、全て勉強というわけですか?
ありがとうございます:
勉強ですね。幸せになるための勉強です。
-ありがとうございます-
最低な人と出会って、最低の結果になったとしても、それは将来のための勉強になるんですか?
ありがとうございます:
大きい勉強になります。
-ありがとうございます-
・・・はー・・・
ありがとうございます:
それで悟りが開けたら最高の勉強になります。ソクラテスが悪妻と結婚したからあれだけの哲学者に成ったという話があるじゃないですか。悪いかどうかは別にして、ソクラテスのように悟りを開いた哲学者というのは、かなりいろんな勉強をしていると思います。特にマイナスの勉強をしたほうが早く悟れるんです、マイナスをマイナスと見なくなるでしょう、その勉強が神様の心をしっかり捉える心になるんですよ。だから、「ありがとうございます」と唱えていると、必要だったら結婚すると。ね!
-ありがとうございます-
必要だったら?!!△□???
ありがとうございます:
本当に必要なかったら自由にさせてもらうんですよ。結婚したから、縛られたからいいんじゃないんです、心が自由自在で心がプラスをいっぱい感じ取れるようになる方が先ず先決ですね。慌てなくていいですよ。
結婚した人も、一瞬一瞬新たにという心を呼び戻さなければいけないんです、いつも新婚という気持ちにならなければね。今日新たに結婚させて頂いた、今日一日だけというように、そういう気持ちの方がいつも感動新たに悦びいっぱいになれます。一日だけで良い、明日はまた別人と・・・笑い・・
本当は新しい別な人と(結婚)してるはずなんですよ、そういう感覚のほうが大きい幸せを感じ取れるんです。過去に執着し執われると自由を失ってしまうんです、太陽だって毎日見てたら感動しないでしょう、始めてみた太陽は感動しますよね、目が悪い人が目が良くなって初めて太陽を見たら無限の感動を感じます。それなのにそれなのに、毎日見てる人は感動しない。毎日、何もないところからの受け直しというのが必要だと思います感謝の自由な心だと掴む心を消せます。
-ありがとうございます-
手放すというのはどうすればできるのですか、自分なりにやってきたんですが、心の問題だけにうまくいきません。
ありがとうございます:
これは良いものだと思うと掴むでしょ、もっと良いものが現れれば放すけど、現れなければ掴んだままですね。そういう習慣性ってありますね。そうなると、最低のものを掴んでも、焼け火箸を掴んでも掴んだまま放せないんです。マイナスのものを掴んでもなかなか放せないんですね。プラスのものを掴んでもマイナスのものを掴んでも、両方の掴む心を神様に消してもらわないといけない、掴む心を自分で消す事はできません。
大体、今の自分の心が掴む心でしょう、掴む心で掴む心は消せないんです、別な心でないとね。感謝の自由な心だと掴む心を消せます、「ありがとうございます」とそのまま全部神様に預けてしまうんです。「ありがとうございます」というのは、自分の命も全てを捧げる心なんです、神様に全部預けると消えるんです。そして、新たに受け直したのが自由なんです、掴まない心なんです、戻ってくるんです。
掴む心があった時に、「ありがとうございます」を加えればいいんです。掴む心をどうこうしてからじゃないんです、そのままで良いんです、そこに「ありがとうございます」を加えたら、そのまま神様にスッと預けて消してもらって、新しい自由な心と置き換えてくれるから、だんだんと掴む心が減ってきます。
すぐに全部は消えないかも知れないですよ、順番だから、今まで掴み続けてきたんだからチョッと残っているんです、順番に出てきます。これだけ「ありがとうございます」を唱えてもまだ消えないのはこういうことです。「ありがとうございます」と言っている時は浮かび出たものは全部消えてるんですよ、でも奥にあるものが次から次に浮かび出てきます、それは順番に「ありがとうございます」と消し続けたら、掴む心はなくなってきます、自由になってくるんです。
「神様が育ててくださっています」
-ありがとうございます-
子供が九歳と六歳です、育児の上で何を一番大事にしたらいいですか。
ありがとうございます:
子供を育てる秘訣は、自分が育てるとは思わない方が良いようです。神様が育ててくださっている・・というのが良いですね。だから、一人一人に、宇宙の大神様は別として、守護神さん・守護霊さんが専属に付いています。
守護神さん・守護霊さんはその子が幸せを早くつかめるように、心の勉強をさせるために付いています。早く悟りが開けて最高の幸せをつかめるようにね、的確な勉強を与えるのが守護神さん・守護霊さんの役割です。
守護神さん・守護霊さんに心向けるだけが良いですね。守護霊さんありがとうございますというのを、守護霊さんと宇宙の最高の大神様とを繋いで、そこから的確な守り指導が降りているんだと、おまかせしきって安心していたほうが良いんです。ほったらかしが良い。自由にほったらかしが良いんです。
ただ、「ありがとうございます」があります。守りが完璧になって子供がすくすく育っていい持ち味を出してくるんです。しつけは本当は必要ないんです、皆中に最高のものを持っています、それが邪魔されずに出てくる方が良いですね。
学校の勉強でも、あれしなさいこうしなさい、押し込めるより自由に放した方が中から天才が湧き出てくるんです。知識をあまり詰め込みすぎたら知恵がでなくなります。のびのびと必要な事を理解させながら勉強させるのが良いですね、そうすると知恵が湧き出てくるようになります。
知恵と言うのが神様と一体化する道なんです。必要な事が的確にその時にできるようになってくるんです。東大へ行って神様の知恵とひとつになるかと言うとそうではない、知識いっぱいになるでしょう、知識いっぱいになるとある意味でノイローゼになりやすいんです。知識がいっぱいあると知恵が流れてくるのを邪魔します、通りが悪くなります。
子供が一番幸せな状態に早くなれるのは、神様の知恵に導かれるのが良いんです。自由を縛らずに、守護神さん・守護霊さんに「ありがとうございます」また、神様に心向けるだけが良いんです。
普通、親が働いて子供の生活の面倒を見ていると思うんだけど、本当はそうじゃないんです、神様が、守護神さん・守護霊さんが親を使って、親を通して働いて子供の面倒を見ています。子供がいるから必要なものを、親を通して回してくれるんです。
だから極端な事を言うと、親がいなくても子供は育ちます。それは、子供の守護神さん・守護霊さんが必要な人を使って与えてくれるからです。だから、親が育てているんじゃないんです。必要なものを与えているのは守護神さん・守護霊さんの方です。
私の父は財産家に生まれたから、心の持ち方がチョッと間違ったところがあったんです。いろいろ勉強してきても(心の)癖が抜けなかったんです。子供に対して、子供が言う事を聞いている内は優しいんだけど、チョッと反発すると、親が働いて育ててやっているのに口答えするな、というふうに私や妹は怒られていました。
その時に神憑りになって、神様が指導に降りてきて怒るんです、「親が子供の面倒見れると思ったらやってみろ」怖いですね、実際、神様が締め付けたら、自分ひとり食べる分も入ってこないですね。「子供を育てるのは親じゃない神だ」としっかり叱り付けました。
親は神様のお手伝いをするんです。子供を神様が育てるお手伝いをさせてもらうんです、そして子供の成長を見ていて喜ばせてもらうんです。子供が幸せになっていくのを自分の幸せとして味あわせて貰うだけなんですね。
だから、自分が何もできなくてもいいんです。「ありがとうございます」が言えたら最高の親です。あとは守護神さん・守護霊さんが全部面倒見るから、何何しなければというのは何もないですね、させて貰うだけだから。必要だったらさせて頂けるしね。
普通は、親は働きすぎるし、物を与えすぎですよね。必要なもの以上に欲しいものを与えすぎています。欲しいものを与えすぎるのはあまり良い事はないですね、子供の持っている徳分を早くなくさせてしまいます。無駄遣いさせてしまいます、必要なものだけに使わせてあげるほうが将来プラスになります。
一生で使う徳分は大体決められて生まれてくるようですね、食べ物の徳分も小さい時に美味しいものを食べ過ぎると、年をとってから食べるものがなくなってきます。無駄に食べさせないほうが良いですよ、必要なだけを頂けばいいんです、一生不自由しなくて済むでしょう。 世の中のいろんな人の姿を眺めていたら解かると思いますが、無茶食い、贅沢にいっぱい食べた人は晩年にお金があっても食べられなくなります。病気になって食べられないとか、何か食べられない状態になっています。
全てがそうなんです、必要な事に使ってあげるほうが良いんです。欲しいものを与えすぎないほうが良いと思います。
プラスの言葉で運命を創る
-ありがとうございます-
不安恐怖症・・・(数字の四と九が気になるとか、コンセントから火を噴きそうだとか)の場合、どのようにすれば良いでしょうか。
ありがとうございます:
人間は思うようになるんです、その人はその人の運命を思い通りにしてしまいます。だから、思い方をプラスに変えたほうが良い、思いだけ・心だけを変えることは難しいでしょう。
だから言葉を変えていきます、言葉をプラスプラスに置き換えていきます。数字(四)だったら、喜びの数字なんだというふうに、良いことがいっぱい起こるんだというふうに。「四」だって死ぬ方の「し」と、悦ぶの「よん」とは違うでしょう。
プラスの言葉に置き換えると心がコントロールできてきます。そうすると運命として良い姿に変わってきます。心をプラスにして心を自由にすれば形にはすぐにこだわらなくなります。心がプラスに変わってないと、四で悪い結果が出たと結び付けやすいですね。
言葉で、プラスプラスに翻訳するような言葉遊びをすると良いです。世の中には言葉をマイナスにマイナスに解釈する人もいるし、プラスにプラスに解釈する人もいます。例えば、家の屋敷に柿の木を植えると、家系が絶えて死に絶えるとかマイナスに言う人が居るでしょ。「欠ける」という「かき」をね、欠けるというふうに見ていくんです。
でもプラスに見る人は、昔は「かき」を「かがやき」と言ったんです。やっぱり柿の実の色は輝いていますよね、葉っぱでもつやつや輝いていますね。日本人はもともと柿の木を「かがやき」と言った、それが柿の木になってるんです。輝き輝きと言えば、それを家の周りにたくさん植えたら、家全体輝いて幸せになりますね。
そういうふうに、自分が言葉をプラスに使えば良いだけでしょう、全てをプラスにプラスにね。神様はマイナスには創ってないはずなんです、どんなものもプラスに見なさいというのが神様の御心だと思います。
拝み切れば仏様
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」を初めて数ヶ月なんですけど、一人だけすごく意地悪になった人がいるんです。ドンドン悪い方向に行ってるんですけどなぜでしょうか?
ありがとうございます:
仏教の熱心な信者さんだった光明皇后様が、千人の沐浴行をしていた。いろんな人が背中を洗ってもらいに来ます、光明皇后様はこの人は仏さまだ仏様だと拝み続けています。
最後に一番やりにくい人が出てきました、らい病患者です。全身膿でいっぱいです、その人が無理難題を吹っかける、洗ってくれとは言わないんです、「この膿を吸ってくれ」と言うのです。意地悪どころじゃないですね、昔の考えだったら、吸ったら死んでしまうかもしれない。言葉の意地悪や態度の意地悪じゃないですね、最低の状態ですね。
でもそれは、この人は仏様なんだという修行の最後の仕上げなんです。本当に、この人は仏様なんだと拝み切った時に、そのらい病患者の人が、光り輝く如来という仏様になって現れました。そう(光明皇后様は)感じられたんです。そしたら、らい病患者の肉体人間も治ってしまいました。
だから、最後の仕上げとして一人残しておかなければ、〈笑い〉でもまだ千人はいってない?〈笑い〉
感謝すれば若返り
-ありがとうございます-
生まれたからには老いていくんですが、喜んで老いていくにはどうしたら良いでしょうか?
ありがとうございます:
やっぱり、老いていきたいですか〈笑い〉若くなりたくないですか?言葉の使い方で、老いていく生き方と、若返っていく生き方とあります。今の地球人は、過去を掴みすぎて老いていくんです、もっと進化した星では、肉体人間も年をとるほどに若くなっていきます。それは過去を掴まないから、新たに新たに神様から最高の姿を受け直す心になっていくからです。年取るほどに輝いてくる・若返ってくるんです。
神様はいつも新しい宇宙を創るでしょう、それと同じように、人間も新しいもの新しいものを受け直せる状態に置いてくれてるんです。この肉体も一瞬一瞬新たに置き換えてもらってるから、年取っちゃいけないんです。地球人が感謝をドンドンしだしたら、年取るほどに若返るように逆転するかもしれないね。
感謝の世界へ
-ありがとうございます-
人間がこれから、テレパシーで通信し、移動もテレポーテーションで瞬時に行う、そんな時代が近いうちに来るでしょうか?
ありがとうございます:
近いうちといえばそうなんでしょうが、それは人々の心の変化によって自由なんで、予言的に言うのも自由、これを縛ったら困るんでね。予言というのは、未来のマイナスを防ぐためにチョッと予言するんですね、それを考えてもらってプラスになるように、努力していただこうというわけですよね。
これからは、思いじゃなく、感謝の世界が広がります。思いと云うのはひとつのことしか思えないでしょう、でも、感謝は無限に広がります。「ありがとうございます」というのは、世界が無限に広がります。テレパシーで特定の波を感じてもたいした事ないでしょう、感謝は神様の波を全部を必要だったら感じます。
必要だったら感じるというのが一番良いんです、必要なものだけで良いんです、この世で楽しみたい時は、あの世のことは何も感じない方が良いでしょう。あの世の姿、あの世の事がいっぱい聞こえてきたら困りますね。
必要なだけは感謝させて頂いて与えてもらう、だから、思いの世界から感謝の世界に置き換わっていきます。そうすると必要なものが的確に与えられて、自分の世界が無限に広がる、そういう時代になります。
前世も掴んだもの
-ありがとうございます-
私は、前世・来世が信じられないんです、本当にあるんですか?
ありがとうございます:
神様の最高表現の頂点、無限の無限のチャンネルの頂点というのがあります。過去世とか前世というのは低い方の番組なんです。あんまり前世とか過去世とか言い過ぎると、過去を引きずる事になります、過去を引きずってあんまり良い番組には心が行かなくなります。高い番組は、過去を掴まないから一瞬一瞬最高の、最高表現だけを受け続けるから、心が自由で縛りがありません。
この世の姿はあの世の縮図になっているんです、あの世は無限のチャンネルがあります、この世はあの世の縮図としての全体をひとつにみている世界です。この世の地獄も極楽もあり、いろんな姿がいっぱいあって、この世は、何を心に選択して選び続けていくかという勉強の場なんです。
心をプラスに向けていく人も、マイナスに向けていく人も自由なんです。この世のプラスを選び続けたら心がプラスを選ぶ心になるでしょう。そうするとあの世へ行ってもチャンネルが上がっていきます。そういうチャンネル選びの勉強の場なんです。
最低の名前
-ありがとうございます-
私は自分の名前は好きなんですが、苗字が嫌いなんです、良くないですか?
ありがとうございます:
何でも好き嫌いというのは、好きになるのはプラスのものを受けたときに好きになるんです。プラスを発見できたら好き、でもマイナスになった時は嫌いになります。人がお互い好き嫌いを言うにも、相手から自分にプラスのものを与えてもらっている内は好きなんです、逆に、迷惑かけられたりマイナスを与えられたら嫌いになるんですね。
前世・過去世からの繋がりがあるでしょう、お互いにマイナスを与えすぎたら嫌いになります、でも、プラスを与え続けられていたら無性に好きになっているんです。結婚する相手を見つけるにも、好きな人と結婚するというのは借金があるんですよ(女性に大受け)、過去世でお世話になった・可愛がってもらった恩返しに尽くさなければならない責任があります。
ところが好きで結婚して、尽くして尽くして相手から尽くし返されないと、今度は自分が尽くしたほうが多くなるでしょう、借金返しを済ましてしまったら好きが消えていって、相手からマイナスを受けたら嫌いになります。
だから名前もおんなじですよ、プラスに解釈できたら好きになります。今マイナスに感じているんでしょう?どんな名前でも無限に謙虚な自分だったら全部プラスになるんだけどね。逆に最低の名前を付けたほうが良いくらいですよ、謙虚になる意味でもね。
だから法然さんは、愚禿法然とか言って自分を最低に落とすでしょう、それは、そのほうが謙虚になって感謝しやすいからです。だから最低の名前・悪魔ちゃんじゃないけれど、一番最低の名前のほうが良いんですよ、謙虚になりたい自分にとったら最高じゃないですか。
一瞬一瞬を楽しむ
-ありがとうございます-
子供を育てる上で、型にはめないでおおらかに育てたいのですが、はしゃぎすぎて人様に迷惑をかけることもありますが、迷惑とはどんなものでしょうか?
ありがとうございます:
無限のチャンネルには、迷惑を掛け合う番組もあります、はしゃぎまわる番組もあって良いですね。それを止めようとしてもなかなか止まらないですね、止める番組もあるし、ほっといても良くなる番組もあります。自分がどの番組を本当に見たいのかそれさえ決まったら方法は出てきます。はしゃぎまわらないおとなしい番組が良いのかね。
本当は、まあ元気な子ですね、と見ていけるのがいいんですけど、みんな自分の考えで決めてしまいますね、もっと自由な柔軟な心だとプラスプラスに見ていけるのにね。だから心の問題ですね、自分の問題ですね。
もしその子が寝たっきりで動けない状態だったら、這ってでも動いて欲しいと思うでしょう、走れたらものすごく喜びますね。この世に生まれてきてくれただけでも「ああ嬉しい」と思えるのが本当は正しい見方だと思います。もし生まれてきてくれなかったら、何も良いところをひとつも味わえないでしょう、生まれてきてくれた事だけでも無限に嬉しいね、五体満足で普通に育ってくれたら無限にありがたいですね。手足がなく寝たっきりでといわれたら・・・それでも生まれてきた事はありがたいんですよ。
そういうようにプラスにプラスに捉え変えていたら、走り回るほうがいいんじゃないかな。周りの人が迷惑に思っているかどうかというふうに思ったら、それも自分の浅知恵でみてる考えです。周りの人はそれを喜んでいてくれているかも知れない、わからないものね。本当に迷惑をかけているにしても、迷惑をかけられた人が過去世で迷惑をかけて、それを帳消しにしてもらうために、迷惑をかけられている姿を与えてもらって、過去の罪を消しているのかもしれないのです。
プラスに受けたほうが自分にとってはいいんです。だから、自分だけの問題かもしれないんですよ、お母さんが子供にうるさく言っているのもね、自分の立場からみたら過去世の自分の姿をマイナスにチョッと受けてもらっていると見えるかもしれないですね、そしたらもう、喜んでいるだけでいいんじゃない?「ありがとうございます」と幸せを味わうだけの行き方の方が良いですよね。プラスにプラスに。
運命に現れたこの世の形を掴んでしまう事が間違いの元なんです。さっきの物質化現象の話にもあったように、普通は入らないコーラのビンに大きいものがパッと入るんでしょう、それが又パッと抜けるんでしょう。でも、一瞬一瞬の置き換えだったら何でもないですよ、今パッとビンが物質化して出てきた、次に、入ってる姿がパッと物質化して出てきた、次に、空のビンがパッと出てきたら瞬間に空っぽになるでしょう。本当は宇宙の全てが一瞬一瞬の物質化現象ですね。
だから、一瞬だけを捉えればいいんです、すべての現象を今の一瞬だけ楽しめばいいんです、次の瞬間にまったく別なものが出てくるんです。それを無理に繋がなくて良いんです、普通・繋ぐというのは過去を掴んで残像と新しいのとをつぎ合わせたわけです。本当は繋がっていません。
今の科学でもこの世の全てが波動なんだとだいぶわかっているんです。波動というと本当は塊じゃないんです、波の変化でしょう、一瞬一瞬の変化です。変化というのは同じ物じゃありません、常に変わっています。現実の姿に執着してここにこういう形のものがあるというのは、本当は間違いです。これが、一瞬一瞬の置き換えということが本当にわかれば、執着しないで楽しむだけでいいんですよね。
禅宗に公案というのがあるでしょう、お饅頭を出されて、「これをいつ食べるんだ」と言われるでしょう、いつ食べます?・・・「今食べる」と言うでしょう、今と言うのでも無限の億万分の一秒という時間の今に食べられるかと考えてください。食べられないでしょう、今食べると言うけど無限億万分の一秒たったらもう過去なんですよ。過去になったら過去には絶対に食べられないでしょう。無限億万分の一秒未来にも、まだ未来だから来てないから食べられないですね。本当に無限億万分の一秒で口に入るかというと入らないですね。 そしたら、本当は一瞬一瞬の置き換えなんですね。食べてない姿が今出ているでしょう、次に、食べたという結果があったら、その食べている姿がパッと出てくるわけです。だから、そのつながりを人の思いで上手に連続的につぎ合わせているんです。本当は、一瞬一瞬切り離したほうがいいんです。
また、別な話で、兎と亀の追いかけっこでも良いですね。兎が亀を後から追いかけます、亀は必ず前へ進むでしょう、例えば一秒かかって前へ進んだとするね、兎も追いかける一秒かかってサッと来ます、次に亀は前へ出るでしょう、兎もチョッと早く近づきます。でも際限なくどこまでも無限億万分の一秒亀が前へ出たら、兎もその時間で追いつこうとするんだけど、限りなくゼロに近づいていくとチョッとズレがあるんです。だから、兎が亀に追いつけなくなるんです、絶対にね。
でも実際は、兎のほうが早いから追い越しますね。でもそれは、残像をつないであるからです。
だから、この世の姿もあの世の姿も、番組として現れている運命の姿全部を一瞬一瞬置き換えになっているんです。だから奇跡的な手品みたいな事が本当は何でもないんです。一瞬にパッと蕾が花開いたり出来るんです。パッと消えてもいいんです。蕾に優しい言葉をかけて素晴らしいねと言うと、喜んでしまって、時間のサイクルが短くなるでしょう喜びの世界というのはね、そうするとサッと落ちてしまう結果が出てしまうということも起こります。
高い世界の一秒は、低い世界の何億年かも知れないですね。浦島太郎の話と同じなんです、浦島太郎が竜宮城へ行っていると、竜宮城はチョッと次元が高いんです、幸せいっぱいの高い世界です。そうすると、そこでは時間がたつのを忘れているでしょう、僅かな時間がたったと思って現実に帰ったら、何百年もたっている感じなんでしょう。
感謝のない状態が欲
-ありがとうございます-
自分は幸せだなと感謝しているんですが、いろんな欲が出てきます。今が十分に満たされてないと感じるから欲が出るんだと思うんですが、それって、本当に感謝してないということなんでしょうか?
ありがとうございます:
感謝の心と欲の心とは正反対です、両極に分かれるんです。感謝というのは神様の心とひとつになる心です、神様の心が感謝の心です。慾という字は谷に欠ける心・・・古い字体はそうですね。谷というのは宇宙の絶対神の意味です、宇宙の絶対神の心が欠けた状態が欲なんです。感謝のない状態が欲の心になります。
感謝の心は神様の全てを受けているから満ち足りています。いまさら求める必要がありません。必要なもの全部与えられているから、ただ感謝で喜びで満足なんです。欲のほうはその満ち足りた心がないんですね。ところが心は満ち足りた状態を知っているから、足りないものを補おうとするんです、そして、欲の心という求める心が出てくるんです。ただそれをどこへ向けるかなんです、神様に向けたらそれがスッと満たされるんです。
だから、欲の心が出る時は、神様の心を忘れてるよという警告みたいなものです。だから神様のほうへ心を向けなさいよとね、感謝しなさいよねという意味です。そしたら求めなくて済むわけですね。食べ物でも、食べたいものいっぱい食べたら幸せかというとそうじゃないですね。そんなのは小さいですね、食べたときチョッと満足するだけでしょう。
本当は、必要なものを頂いて無限の感謝を捧げたほうが喜びが湧き上がってきます。食べ物を殺生して食べるというんじゃなしに、感謝して食べる心は食べ物が・お米一粒一粒が自分の命を捧げて、私の命をお使いください・食べてくださいと言っているんでしょう。命を捧げてもらって「ああ、ありがとうございます」と受けたら何か良い事して、お米が喜ぶようにしてあげないといけない。そういう深いとこまで考えて受けていけば、ご飯一膳食べるにしてもものすごく深い意味があります。 「ありがとうございます」と頂いて、何か大きい役に立つ事をさせて頂こうという気になりますね。
感謝というのはそういうように無限に価値を見出していきます。だから、まず、感謝を先行させたほうがいいんです。そしたら欲が出なくなります。食欲が悪いんじゃないですね、感謝していただくのは食欲とは言わない、感謝を忘れたときは食欲と言うのかも知れないですね。
謙虚になることが心の進歩
-ありがとうございます-
見ている番組がどの程度の次元なのか、見極める方法を教えてください。友人にサニワを職業にしている人がいるんですが、本人はやめたがっているのに、懸かっている神様が止めさせてくれないんです。
ありがとうございます:
番組の見極め方・懸かってくる神様の見極め方ですね。どういう神様が懸かってくるかは大事ですね、自分の心に波長が合わないと懸かってきません、自分の心が謙虚になっていれば謙虚な神様しか懸かってこないんです。謙虚な神様は一番高いほうの神様です、絶対に人の自由を縛りません、本当に謙虚に命がけで神様にすがったときに、必要なだけの助けを与えてくれます。
無理やり向こうからこれをやりなさいとは言ってこない、自分が心を磨いていかないとわかるようにはなりません。謙虚になることが自分の心の進歩です、謙虚になればなるほど感謝が深くなって感謝が湧いてくるようになります。感謝の深さに比例して番組が高まっていくというふうに見ると大体わかりますね。
ご友人は、やめたい気持ちもあるけれど、やめたくない気持ちの方が強いんだと思います。自己弁解の心とか、よく見せたいという心がいろいろ出てきます、そうすると、自分の(本当の)気持ちを受け入れにくい時もありますよね。そうすると、神様のせいにするんですよね。自分の波長に合う神様が降りてくる時もあるし、そうでない時もあります、自分が勝手に思い込んでいる時もあるし、潜在意識の働きもあるし、番組というのはいろいろあります。
結局は本人が定めています、そのままで良いのにね、本当に変わりたかったら変わります。
悟りの要
-ありがとうございます-
沢山の修行者・巡礼者が志半ばに倒れていったと思うんですが、先生はご自分で,どこが良くて現在に至ったとお考えですか?
ありがとうございます:
一番良いのは、感謝を勉強させてもらった事かもしれないですね。いろんな耐乏生活・苦労を通して何でもありがたいという、粘土を食べる事と比べたら何でもおいしくありがたく食べられるでしょう。そういう体験を通じて、感謝がまず起こせるようにして頂いたことが一番大きいと思います。
次に、何か人のためにするのでも、人の嫌がる事でも喜んで進んですることが神様の御心にかなう事だと、小さい時に教えられていたんです。だから、嫌な仕事を進んで無報酬でする習慣がついていました。何をしても苦痛に思わなかった、どんなに汚い事・こえ汲みしてもなんともない、骨集めをしてもなんともない。どんな仕事をしても苦痛にならなかったんです。これは、神様に指導してもらったおかげだと思いますが、喜んでする・報いを求めないでするのが良いのだという、小さい時からの習慣性がかなりプラスになっています。
それと最後には、自分の命を神様にお返しできた事、神様に命を捧げて、お使いくださいと言えたところですね。それでますます謙虚になれたんです。それで、神様の大きい助けを受けて、どれだけ神様が試そうとしたかは知らないけどね、試しても試しても守ってもたったんですね。だから自分でも神様はすごいなと思います。
だから、自分の力じゃないみたいですね、最初から最後まで神様が守り続けてくれるという感覚です、これはみんなおんなじだと思いますよ。いろんな体験は生きてくると思います、ただチョッと徹底したほうが良いですね、中途半端だと、右へ行ったり左へ行ったり迷うところがあるのね。徹底するとすぐに気付かせてもらう・わかると思います。
食べ物でも、何もない状態に一度自分を置いてみると、不思議と周りから食べ物を運んでくれるんですね。例えば、一ヶ月間何も食べないと決めると、本当に一口も口に入らないかと言うとそうでもない、周りから食べ物を口へ押し込んできます。誰も押し込んでくれないと思うでしょう、自分で食べ物を手に入れて食べないとと思うでしょう、本当はそんな事ないのね。一回開き直ってみると良くわかります、神様の力はやはりすごいですね、かならず食べ物を運んでくれます。
神も本心の自分も、我には謙虚
-ありがとうございます-
にっちもさっちも行かない時に、「ありがとうございます」と感謝すれば・神様に全部お任せするというのは、本心の自分は正しい答えを知っていて、神様がそうしてくださるということですか?
ありがとうございます:
そうだね、本当の自分は本心の自分・神様から新たに新たに受け直している自分ね、その本心の自分がこの世にスーッと出てこないと嘘なんだけど、本心の自分も謙虚でしょう、我の心があると遠慮して控えめになります、神様がそうなのと同じように本心の自分も我の部分に対しては謙虚なんです。
まーチョッと自由にしてごらんというふうに、ある一定期間自由にさせてくれるんです。でも必ず行き詰まるようになるから、本心の自分へ神様が向けてきます。その時に心を(神様のほうへ)向けたら良しよしと言うように我の心を消してくれます。それで、本心の自分がスーッと出てきて力を振るうようになります。
本当は、本心の自分の自由意志で全部動くんだけど、我の自由を一時的に許すのも本心の自分の自由なんですね。最後には本心の自分の自由意志でチャンと仕上げてきます。
最低に謙虚に悟る
-ありがとうございます-
悟りを開いた状態とはどんな状態ですか?
ありがとうございます:
悟りにも無限の段階があるようですね。私は二十歳のときに心が大きく広がったんです、肉体感覚・魂の感覚は消えてしまいました。その後、神様への感謝が深まりました。
悟りというのは、自分と神様の(差)を(取)ることなんです、宇宙絶対神と自分の間の差をどれだけ取ってしまうかというのが悟りの深さですね。新しい神様の姿を受けなかったら神様と離れていきます。過去を掴んでいると、過去の古いものにしがみついて新しいものを受け損なうんです。それは(神様との)距離をドンドン離してしまう状態です。
でも本当は、本心の自分は神様と一体なんです、新たに出てきた自分が本当の自分でしょう、神様とまったくひとつなんです、神様とピタッとひとつになっているんです。切り離す事は絶対に出来ません。だから、自分が本心の自分に意識が戻ってしまったら、みんな悟っているのが良くわかります。みんな無限に無限に輝いているというのが本当なんです。今から悟るのではないんです、みんなもう悟っているというのが本当ですね。
木で例えると、幹があって枝葉があるでしょう、枝葉の一番先の一枚一枚の葉っぱが肉体人間という感覚ですね。でも本心の自分は木全体なんです、神様から全てを受け直す自分というのはね。木全体から一番先の一枚に葉っぱを見たときに、葉っぱをパッと切り離した状態が枯れた状態でしょう、葉っぱというのはね自分の思いで勝手に切り離すときがあるんですね。
そうすると、神様と自分が繋がっていないと思ってしまいます。だから、根のほうへ根のほうへと戻ればいいだけなんです。それは、大きくなればいいんです、気持ちを大きく大きくしていくのが一番良いですね。又、この世だけじゃなくていろんな次元の世界に心をぐんぐん広げるのが良いですね。結局は感謝を大きく深くするしかないんです。
だから、感謝の対象を無限に大きくすれば良いでしょう、又深くすればいいのね。感謝を極めたらドンドン大きいものが感じられてくるんです、神様をより大きく感じ取れる自分になっていきます。
だから、感謝も悟りも一回悟ったからいいんじゃないんですね、無限に無限にさらに深まっていくんです。今現れた神様の最高表現も、次の瞬間又新しい最高表現が現れてくるでしょう。今受けたからといって、次の瞬間受けなかったらもう最低なんです。
一瞬一瞬の真剣勝負です、本当にね。それも一番謙虚な状態で受けないと本当に最高の受け方が出来ないから、いま自分が最高だと思ったら常に一番最低に自分を突き落とさないといけない、謙虚にね。そして又そこから最高のものを受け直します。その繰り返しによって、受け方も上手になり、そして自分というものも消えて神様だけというふうに感じ取れるようになってきます。
だから、本当の悟りは、自分がなくなること・神様がすべて・神様しかないんだという事です。無という状態ではなくて、神様を大肯定する状態です。自分というものが一切なくなるほうがいいんです。自分がなくなったら(神様との)差がないでしょう。いまさら差を作ることもないのにね。
「ありがとうございます」という神様が宇宙の究極の神様です。究極の神様の名前です、この中に全部あるんです。ありとあらゆる神様の名前が全部あります、すべての全てが備わっています。「ありがとうございます」を唱えているうちに、究極の神様とひとつになっていくから、全部自分の中にある・自分といったらおかしくなるから・神様の中に全部ある・神様が全てなんだという感覚が湧いて来るようになります。
そしたら、この世にいても、地獄に下りていても、神様だけを感じます。地獄にいるから苦かと言ったらそれは違います、地獄にいても、地獄を中心に置いて無限に無限に輝いた世界を感じます。全体をいつも感じるようになるから、地獄も苦痛ではなくなってきます。地獄を拡大しては見ないんですね、無限の中の一点ぐらいになります。
自分の心に応じて出てきます
-ありがとうございます-
医療に従事しています、患者さんが「ありがとうございます」と口先だけででも唱えているときに、症状が好転したりします。病気というのは悟りへ導きではないのかと思うんですが?
ありがとうございます:
神様の番組が・無限のチャンネルがあるでしょう、形の姿というのも、無限健康と無限の病と両極がありますね、その間に無限の段階がありますね。又、心の持ち方もそうですね、マイナスに思う心とプラスに思う心と無限の違いがあります。病気を掴んでその病気を治すというよりは本当はね、番組を変えているんですね本当はね。病気になっている人もそうだし治療する側も同じですね。
治療する側が病気を認めない心境になったら、病人がもう出て来ないですね。病人がお客さんとして出てくる間は自分の中に病気を相手にする心がチョッと残っているはずです。いい意味でも悪い意味でも、病人を治したいという心があるかもしれないし、マイナスに思う心が自分の中に残っているかも知れないですね。 それを感謝する事によって自分自身がプラスの番組にドンドン変わっていきます。そうすると、病気が瞬間にサッと治ったり、きてすぐ勝手に治ってしまう患者さんが来たり、来る前に治ってしまったりということが起こるかもしれないですね。いろんな現象が自分の心に応じて出てきます。
私も、二十歳ぐらいのときから病気治しのお祈りを一生懸命しました。みんな神様なんだ、無限健康なんだ、完全なんだというふうにね、一生懸命祈り続けたんですね。その時は病気を相手にしていました、小さい時にお医者さんになりたかったというのは、病気というものをかなり掴んでいたんだと思います、過去世でね。それは、病人を相手にしなければならない運命ですね。
いろんな人から病気を治してと言われるんですね、毎日何十人と頼まれて一生懸命に祈り続けて十年ぐらい病気治ししていました。そして、プラスに思うお祈りを一生懸命するでしょう、そうすると自分の中の病気というのはドンドン消えてしまいます。自分の目の前に病人が現れなくなります。
今度は、病気治しの仕事は消えてしまって、幸せを与える仕事になります。職業が変わるんじゃないですか。私の前にくれば幸せになりますよという仕事です。実際、お医者さんは、このお医者さんは必ず病気が悪くなって死ぬというお医者さんとね、このお医者さんは、患者さんが来たら診断する前に良くなって帰ってしまうようなお医者さんと、二通りありますね。お医者さんにも心がいろいろですよね、プラスプラスに見ていくお医者さんにはいい患者さんが来て、早く治る患者さんが来ますね。
やっぱり、自分のみる世界・自分の運命というものは、自分に必然的になって、自分の自由意志でどうにでもなるんだと言うほうが正しいんだと思います。そうでないと自分の運命は変わらない、人のせいにしていたら自分の力を発揮できない、嫌なお客さんが来たと人のせいにしていたら、何時まで嫌なお客さんが続くかも知れない。でも、自分が心を変えることでいつでも変えられるんだったら、瞬間に変えられますね。だから、もう病人は絶対に見たくなかったら、みんな無限健康いっぱい・無限の幸せいっぱいというふうに拝み続けるのが一番です。
自由自在に唱える
-ありがとうございます-
「ありがとうございます」を唱えるのは、声に出して言霊として唱えるのがいいいですか、心の中で
唱えてもいいですか?
ありがとうございます:
自由自在でね、口に出すのもいいし、心だけで唱えるのもいいし、字に書いてもいいしね、見るだけでもいいし、人に代わりに唱えさせるのもいいですよ、(笑い)唱えさせたのも自分(のもの)よ。
私だけの問題
-ありがとうございます-
二十歳の頃の病気治しはどんなふうだったんですか?
ありがとうございます:
二十歳代の頃は忙しかったー、今死にそうだと電話してくるんです、寝る暇がなかったです。必死で電話してくるでしょう。
-ありがとうございます-
治らなかった事は?・・・・
ありがとうございます:
たいてい治っていますね。
-ありがとうございます-
それは本人に(病人に)感謝の気持ちが・・
ありがとうございます:
それは違う、私たけの問題ですね。勝手に治りますね、私の心をマイナスからプラスに変えるお祈りの練習の時期だったと思います。感謝を深める段階ですね。私の心が病人を掴んでいるでしょう、それをお祈りして掴まなくなったら、掴まなくなってその人が健康な姿を見せてくれるだけなんです。
自分の世界を自分が受けるんでしょう、私の世界は、この世を見ていないんです、大きい大きい宇宙をいつも眺めているんです。だから、地球もあまりに小さすぎます、この世も小さいです、それも光が少ないこの世でしょう。本当は、無限に無限に輝いた新しい宇宙を受け直しているんです。
だからこの地球が滅んでも、この肉体が消えても、私の幸せには無関係なんです。絶対に崩れない幸せなんです、無限の無限の幸せいっぱいというのはね。感謝がぐんぐん深めさせてもらえたら、本当の幸せはそこまで行くんですよ。
この世のことは相手にしていません、病気が治ろうが、地震が止まろうが。そんなのはあまりに小さすぎてね、本当は、無限の無限の幸せを受け直すほうが大きい幸せでしょう。皆はすでに悟っている・みんな無限に無限に輝いているんだという実感のほうがいいじゃない。
肉体はこういうふうに話したりいろいろしているけど、私は肉体を持っていないから、奥で奥でみんな無限に無限に輝いている・輝いて悟っているんだというふうに見ているんです。だからこの肉体は本当の自分からみたら、大したことはないのです。
-ありがとうございます-
そこまで思えるというのは、執着心が完全になくなるということですか?
ありがとうございます:
そう・・もうこの世に執着心はないね。この世に、もうすべてにね。過去に対して一切ない。だから新たに受け直す方に心を向けているから、一瞬でも受け損なったら、新しいものを失うという感覚だね。
-ありがとうございます-
形のあるものはすべてなくなるという感覚ですか?
ありがとうございます:
そうね、新しく生まれたらね、消えないと次ぎのもの出てこれないから。(あと不明・・)
ありがとうございます
質問者:
どうしても自分の心癖が変わらなくて、例えば主人に感謝したいとか。主人はとても良い人なんですけど大嫌いなんです。合うとお互いマイナスの思いを出してしまいます。頭では良い事をたくさん知っているんですが、心と一緒にならなくて辛いんです。心の向き(癖)を治す方法を教えてください。
ありがとうございます:
誰かご存知じゃないですか?<大笑い>
一番効果的なのは「ありがとうございます」と唱える事なんですけどね。この「ありがとうございます」という言葉は、誰でも知ってる簡単な言葉なんですけど、本当は、究極の神様の名前なんです。全てを生かしきってくれる神様の名前です、必要なものを的確に与えてくれるんです。だから、「ありがとうございます」という神様の名前を唱えたら、最高の神様がサッと降りてきて全ての問題を解決してくださるんです。
今までは皆、ああしたい・こうしたいと自分勝手な生き方をしてきてると思うんです。この「ありがとうございます」という神様は、一番謙虚で謙虚で控えめなんです。最高の神様なので強制力を使ったら神様の思い通りになってしまいます。自由を絶対に縛りたくないというのが神様の本当の願いです。人の自由意志で神様の御心のままに・神様と一緒に歩きたいというふうに、自分の意思で決定してくれると神様は力を揮えるんです。
今までは皆自由にさせて貰っているはずなんです。何を思っても自由・何を願っても自由・どんな生き方しても大丈夫、自由にさせてもらっていたんです。でもまだまだ最高の幸せというのはつかめてないでしょう、最高の幸せを掴む最後の切り札は、「ありがとうございます」という究極の神様にすがるしかないんです。
何億年以上もズーッと待っててくれたんです。どこにいても自由にさせてくれていたんですけど、必ず行き詰まるんです、自分の力で自力で生きようとしても本当の幸せはつかめないですね。また、いろんな他力にすがって神仏にすがって幸せを得ようとしても、「ありがとうございます」という究極の神様ほど大きくないんです。阿弥陀様にすがって悟りが開けたと思っても、まだ小さいんです。だから本当に満足できたかというと、まだ誰も満足できていないんです。
最後に戻るのは、「ありがとうございます」という究極の神様の中に戻って行くんです。それで心が一番幸せな状態になって、大満足の状態になるんです。
どこへ行っても自由だといって、宇宙の端から端まで順番に行ってたら時間がいくら有っても足りません。だからその辺はほどほほどに、早く戻らないと損をする。ちょッちょッちょと回って、たいした事ないなと解かったらすぐに「ありがとうございます」という神様の中に飛び込めばいいんです。
「ありがとうございます」と言えば必要な助けが与えられて、即受ける事になるんです。受けられるんですね。そして順番に自分の幸せが大きくなるように守り導いてくれているんです。
だから、自分の心を自分の一番良いようにコントロールしようと思っても自分ではできないですよね。でも、「ありがとうございます」と唱えていると必ず早く自分の願っているようになっていくんです。不思議な力があるんです、「ありがとうございます」という一言にね。
ただ、必要なだけを与えてくれるんですね、僕らに太陽の光を与えると強すぎて困るでしょう。月明かりくらいが悦べるんですね、強い光に慣れてきたら強い光を与えてくれます。食べ物でも必要なだけがいいでしょう、山盛りいっぱい家中いっぱいだったら身の置き所もなくなります。必要なだけというのが大事なんです。欲しいものと必要なものにはズレがあります。皆欲しいものを手に入れたりするでしょう、あれも欲しいこれも欲しいと思うんだけど、それは本当は必要なものじゃないんです。必要以上に多いかもしれないし、必要なものじゃないかもしれないですね。
必要なものを与えてもらってそれを悦ぶようになるのが一番理想なんです。例えば、健康に対して感謝できないと言う人があるとしたら、一回病気になる方が良いでしょう。病気というのが必要なんです、一回病気をすると健康に対する感謝が湧き上がってきますね。ああ、健康ってありがたいなと解かるんですね。電気でもありがたいなと思うんですけど、慣れてしまうと当たり前なんですね。たまに停電しないと困るんですね、停電というのが必要になるんです。電気というのはありがたいなという気持ちが湧き上がるようにしてもらえるんです。
神様は究極には、無限の感謝できる自分に変えたいと思うんですね。無限の感謝ができる自分というのが一番幸せな自分なんです。感謝のできない自分は思い通りになっても(幸せでも)小さい幸せしか味わっていません、感謝の心は無限に広がります、全てに行き届いて価値を見出して幸せを感じ取れるでしょう、感謝が無限に広がるのが一番の幸せです。病気にも感謝でき・健康にも感謝でき・ありとあらゆるもの全部に感謝できたが良いでしょう。そういう自分に神様はしてあげたいんです。それに必要な勉強も兼ねて必要なものを与え続けるんです。
心にいろんな引っ掛かりというのが出てきます、思い通りにならない事もあります。それも、思い通りにしようという心をとるためだったら、思い通りにならない状況を与えてくる事があります、これは必要なんです。そしたら、思い通りにするのをやめておこうとなります、だから本当は、思い通りにしなくてもいいんです。皆自由に放してあげたら良いんです。
神様が一人一人を自由にしているんです。どういう生き方をしても自由です、ただ本当の幸せは、神様の中に戻るしかないんですけどね。神様の中へ自分が戻らないと損しますね、神様と一体化すれば神様の心が自分の心になります。神様の愛と自分の心が一つになります。
神様の愛というのはね、
思いやりの心というのがまず一つ、思いやりというのは必要なものを的確に与えていく心です。どんな人にも物にも動物にも植物にも、全てに必要なものを的確に与えていく心です。
次に、寛容の心。全てを一大抱擁する心です。全てに無限の価値を見出してプラスにプラスに見ていく心です。どんな国に対してでもその存在価値を見出してあげなければいけない、悪いと言ってはいけない、何か意味があります。世の中の悪人といっても人類のマイナスの思いを一手に背負って、全部集めて身に振り替えて背負っている姿かもしれないんです。だから大菩薩かもしれないんですね、皆の身代わりだったらね。家族の中にも、家族の皆のマイナスの思いを一手に背負ったらその人が大きいマイナスを心に背負うわけでしょう。それが形に出てくるんです、意地悪な姿をとる場合もあります、嫌な姿を与える事もあります。でも人の生き方は自由でそれぞれ自由にさせてもらうので、認めてあげなければいけない。 思いやりの心・寛容の心というものを自分も神様から与えてもらったら、どんなものもプラスにプラスにと見ていけるように変わっていけるんです。
もう一つは、許しの心というのが神様の愛の中にあります。許しというのは過去を放す事です、過去を掴まないんです。常に、新たに新たに置き換えていく心が許しの心です。過去の事を云々したり何も言わない、過去はそれでよかったと放してしまうんです。今必要な事が神様の方から与えられてそれぞれ演じているんだというわけです。そしたら悪く見なくなるんですね、新たに神様に与えられた役を演じているという姿は全体のためには必要なんです。素晴らしい演技をしてくださってというふうに見ていけるようになります。 神の愛と一つになると引っ掛かりがドンドン少なくなります。
神様は、人に完全な自由を与えて、全てに平等なものを与えています。平等というのはどこに於いて平等化と言うと、肉体の立場でも魂の立場でもありません、一番奥の命の自分・本心の自分・神なる自分に戻ったときに全てが平等なんです。神様と一体の本心の自分はいつも神様から新たな「善徳の無限の無限の輝きいっぱい」というのを受け取れるんです。この最高のものを皆平等に受け取れるんです。これは人間だけでなく動物も鉱物も植物も意識のあるものは全部平等に受け取れるんです。そういう意味では神様の前に立つと皆平等です。
神様から最高のものを受け取ったときに必ず恩返しの心が出てきます。こんな素晴らしい最高の幸せを与えてもらってありがとうございますと思うと、全てを捧げ尽くしてでも恩返ししたいと思うときが必ずあります。その時に、謙虚に謙虚に下にへりくだる(謙る)んです。だから、神様が必要とされるんだったら、宇宙大劇場でどんな演技でもさせていただきますということなんです。一番良い中心の役を演じさせてくださいとは言わない。良い役はお互いに譲り合うんです、一番最低の役目・地獄のどん底の亡者の役目、これでも私は喜んでさせていただきますと言えるんです。最高の幸せを与えてもらっている自分にとったら、そんな事どうでもいいことなんです。
仮にね、亡者の役をするとするでしょう、それは自分が最低だからしているんじゃないですね、神様から最高のプレゼントを受けて、最高に輝いた自分が、謙虚になって亡者の役割を演技するんでしょう。この宇宙の全ての表現がそうなんです。最高の力を持った神様が最低の役割を演じているんです。地獄の亡者の姿でも本当は、自分の過去世の業想念を無理やり背負ってくれている愛の働きの姿かもしれないですよ。そこまで言わなくっても、皆それぞれ自由に、神様が必要とする役を演じ切ってるというように見たほうが良いかもしれないですね。
そうしたら、悪い役だからといって、あの人は悪いと言うのはおかしいですね。舞台を降りたら名優なんです。神様の前に立ったら、宇宙大劇場で演技する名優なんですね、最高の一人一人です。ただ舞台が色々あるんです、無限のチャンネルの舞台が準備されています。そこで配役が全部必要になっています。地獄番組では地獄で演技する人が大勢います。それは、演技してチャンと表してもらわないと地獄番組を誰も楽しめないんです。
そういう意味で、運命として現れるこの姿というのは、これも演技の姿・番組の姿ですね。それをどのように見て受け止めるかは自由なんですけどね、できたらプラスにプラスに眺めて楽しめたほうが良いですね。番組の中の姿を、これが自分なんだと掴んでしまうと、自由を失ってしまいます。自分は神様だと一体なんだと・神様の世界にいておやつを食べながらテレビを見るように、この世を眺めているんだというように、チョッと離(放)すのがいいですね。昔から、執着するなと教えにあるわけです、どんな教祖も聖者も言ってるでしょう。この世に執着するなとね。お釈迦様もそうですね、全ての迷いは執着から来るとね。だから、その番組を掴んでしまうと巻き込まれるんです、サーッと流れるように眺めていると掴まないでしょう。だから執着しなくて済みます。
執着さえしなかったら、心に囚われがないんです。ただ眺めるだけで良いんです。ちょうど、演奏会を聞くだけ・聞き流しに聞くだけで良いんですね、その方が素晴らしい演奏を味わえるでしょう。テレビ番組を見るように、この世を眺めていると、心が自由になります。
テレビ番組は色々ありますが、最低の悪い番組もあります、戦争映画も・悪者番組も有るじゃないですか、それを楽しみながら見ているじゃないですか、あの人は悪いとは言わない、演技だとわかっているんです。だから、神様の宇宙大劇場の演技というふうに眺めると、チョッと見方が自由になって楽になります。
「ありがとうございます」と回数多く唱えているとそういう心になるんです。神様の心が良くわかってくるんです。神様の御心に沿った見方をすると全部プラスに見るようになります。
結 婚
結婚したいと思ってるんですが、いい相手が見つかりません。それは今の私には必要ないということなんでしょうか。
ありがとうございます:
何が必要なのか、結婚などもまだまだ小さいんです。本当に必要なのは何か、自分にとって一番大事なことは、本当の自分に戻る事ですね。神様と一体の本当の自分にね、これか一番幸せでしょう。だから、結婚は何のためにするのですか?
*質問者:そろそろ一人は嫌かな。
ありがとうございます:ほかの人がするから自分も?
*質問者:そういう訳じゃない、一人より二人のほうが良いかな・・・
ありがとうございます:どんな相手でも良い?
*質問者:そういう訳じゃないんですけど。
ありがとうございます:結婚は何のためにするかしっかり考えた方がいいですね。何を目的にするのか、幸せになるためにと言っても、幸せな人は結婚してもしなくても幸せなんです。結婚したから幸せになるとは限らない、結婚して不幸になる人も多いでしょう?<会場では意味不明の笑いが長く続く>皆は両方体験してると思いますが?
まず、自分が幸せになる事なんです、幸せな心に感謝できる心になったほうがいいんです。そうすると、結婚してもそれを幸せな結婚に結び付けられるんです。独身でも自由で幸せなんです。一番必要なのは、早く幸せになる道なんです。結婚したほうが幸せになるんだったら(神様は)与えてくれるんです。最低の人かもしれないし最高の人かもしれないんです、解からないんです。幸せになるための勉強だっていろんな勉強があるわけでしょう。
*質問者:じゃあ、全て勉強というわけですか?
ありがとうございます:勉強ですね。幸せになるための勉強です。
*質問者:最低な人と出会って、最低の結果になったとしても、それは将来のための勉強になるんですか?
ありがとうございます:大きい勉強になります。
*質問者:・・・はー・・・
ありがとうございます:それで悟りが開けたら最高の勉強になります。ソクラテスが悪妻と結婚したからあれだけの哲学者に成ったという話があるじゃないですか。悪いかどうかは別にして、ソクラテスのように悟りを開いた哲学者というのは、かなりいろんな勉強をしていると思います。特にマイナスの勉強をしたほうが早く悟れるんです、マイナスをマイナスと見なくなるでしょう、その勉強が神様の心をしっかり捉える心になるんですよ。だから、「ありがとうございます」と唱えていると、必要だったら結婚すると。ね!
*質問者:必要だったら?!!
ありがとうございます:本当に必要なかったら自由にさせてもらうんですよ。結婚したから、縛られたからいいんじゃないんです、心が自由自在で心がプラスをいっぱい感じ取れるようになる方が先ず先決ですね。慌てなくていいですよ。結婚した人も、一瞬一瞬新たにという心を呼び戻さなければいけないんです、いつも新婚という気持ちにならなければね。今日新たに結婚させて頂いた、今日一日だけというように、そういう気持ちの方がいつも感動新たに悦びいっぱいになれます。一日だけで良い、明日はまた別人と・・・<笑い>本当は新しい別な人と(結婚)してるはずなんですよ、そういう感覚のほうが大きい幸せを感じ取れるんです。過去に執着し囚われると自由を失ってしまうんです、太陽だって毎日見てたら感動しないでしょう、始めてみた太陽は感動しますよね、目が悪い人が目が良くなって初めて太陽を見たら無限の感動を感じます。それなのにそれなのに、毎日見てる人は感動しない。毎日、何もないところからの受け直しというのが必要だと思います。
感謝の自由な心だと掴む心を消せます
質問者:
手放すというのはどうすればできるのですか、自分なりにやってきたんですが、心の問題だけにうまくいきません。
ありがとうございます:
これは良いものだと思うと掴むでしょ、もっと良いものが現れれば放すけど、現れなければ掴んだままですね。そういう習慣性ってありますね。そうなると、最低のものを掴んでも、焼け火箸を掴んでも掴んだまま離せないんです。マイナスのものを掴んでもなかなか放せないんですね。プラスのものを掴んでもマイナスのものを掴んでも、両方の掴む心を神様に消してもらわないといけない、掴む心を自分で消す事はできません。
大体、今の自分の心が掴む心でしょう、掴む心で掴む心は消せないんです、別な心でないとね。感謝の自由な心だと掴む心を消せます、「ありがとうございます」とそのまま全部神様に預けてしまうんです。「ありがとうございます」というのは、自分の命も全てを捧げる心なんです、神様に全部預けると消えるんです。そして、新たに受け直したのが自由なんです、掴まない心なんです、戻ってくるんです。掴む心があった時に、「ありがとうございます」を加えればいいんです。掴む心をどうこうしてからじゃないんです、そのままで良いんです、そこに「ありがとうございます」を加えたら、そのまま神様にスッと預けて消してもらって、新しい自由な心と置き換えてくれるから、だんだんと掴む心が減ってきます。
すぐに全部は消えないかも知れないですよ、順番だから、今まで掴み続けてきたんだからチョッと残っているんです、順番に出てきます。これだけ「ありがとうございます」を唱えてもまだ消えないのはこういうことです。「ありがとうございます」と言っている時は浮かび出たものは全部消えてるんですよ、でも奥にあるものが次から次に浮かび出てきます、それは順番に「ありがとうございます」と消し続けたら、掴む心はなくなってきます、自由になってくるんです。
「神様が育ててくださっている」というのが子供を育てる秘訣
質問者:
子供が九歳と六歳です、育児の上で何を一番大事にしたらいいですか。
ありがとうございます:
子供を育てる秘訣は、自分が育てるとは思わない方が良いようです。神様が育ててくださっている・・というのが良いですね。だから、一人一人に、宇宙の大神様は別として、守護神さん・守護霊さんが専属に付いています。守護神さん・守護霊さんはその子が幸せを早くつかめるように、心の勉強をさせるために付いています。早く悟りが開けて最高の幸せをつかめるようにね、的確な勉強を与えるのが守護神さん・守護霊さんの役割です。
守護神さん・守護霊さんに心向けるだけが良いですね。守護霊さんありがとうございますというのを、守護霊さんと宇宙の最高の大神様とを繋いで、そこから的確な守り指導が降りているんだと、おまかせしきって安心していたほうが良いんです。ほったらかしが良い。自由にほったらかしが良いんです。ただ、「ありがとうございます」があります。守りが完璧になって子供がすくすく育っていい持ち味を出してくるんです。しつけは本当は必要ないんです、皆中に最高のものを持っています、それが邪魔されずに出てくる方が良いですね。学校の勉強でも、あれしなさいこうしなさい、押し込めるより自由に放した方が中から天才が湧き出てくるんです。知識をあまり詰め込みすぎたら知恵がでなくなります。のびのびと必要な事を理解させながら勉強させるのが良いですね、そうすると知恵が湧き出てくるようになります。
知恵と言うのが神様と一体化する道なんです。必要な事が的確にその時にできるようになってくるんです。東大へ行って神様の知恵と一つになるかと言うとそうではない、知識いっぱいになるでしょう、知識いっぱいになるとある意味でノイローゼになりやすいんです。知識がいっぱいあると知恵が流れてくるのを邪魔します、通りが悪くなります。
子供が一番幸せな状態に早くなれるのは、神様の知恵に導かれるのが良いんです。自由を縛らずに、守護神さん・守護霊さんに「ありがとうございます」また、神様に心向けるだけが良いんです。
普通、親が働いて子供の生活の面倒を見ていると思うんだけど、本当はそうじゃないんです、神様が、守護神さん・守護霊さんが親を使って、親を通して働いて子供の面倒を見ています。子供がいるから必要なものを、親を通して回してくれるんです。だから極端な事を言うと、親がいなくても子供は育ちます。それは、子供の守護神さん・守護霊さんが必要な人を使って与えてくれるからです。だから、親が育ててるんじゃないんです。必要なものを与えているのは守護神さん・守護霊さんの方です。
私の父は財産家に生まれたから、心の持ち方がチョッと間違ったところがあったんです。いろいろ勉強してきても(心の)癖が抜けなかったんです。子供に対して、子供が言う事を聞いている内は優しいんだけど、チョッと反発すると、親が(自分が)働いて育ててやっているのに口答えするな、というふうに私や妹は怒られていました。その時に神憑りになって、神様が指導に降りてきて怒るんです、「親が子供の面倒見れると思ったらやってみろ」怖いですね、実際、神様が締め付けたら、自分ひとり食べる分も入ってこないですね。「子供を育てるのは親じゃない神だ」としっかり叱り付けました。
親は神様のお手伝いをするんです。子供を神様が育てるお手伝いをさせてもらうんです、そして子供の成長を見ていて喜ばせてもらうんです。子供が幸せになっていくのを自分の幸せとして味あわせて貰うだけなんですね。
だから、自分が何もできなくてもいいんです。「ありがとうございます」が言えたら最高の親です。あとは守護神さん・守護霊さんが全部面倒見るから、何何しなければというのは何もないですね、させて貰うだけだから。必要だったらさせて頂けるしね。
普通は、親は働きすぎるし、物を与えすぎですよね。必要なもの以上に欲しいものを与えすぎています。欲しいものを与えすぎるのはあまり良い事はないですね、子供の持っている徳分を早くなくさせてしまいます。無駄遣いさせてしまいます、必要なものだけに使わせてあげるほうが将来プラスになります。
一生で使う徳分は大体決められて生まれてくるようですね、食べ物の徳分も小さい時に美味しいものを食べ過ぎると、年をとってから食べるものがなくなってきます。無駄に食べさせないほうが良いですよ、必要なだけを頂けばいいんです、一生不自由しなくて済むでしょう。世の中のいろんな人の姿を眺めていたら解かると思いますが、無茶食い、贅沢にいっぱい食べた人は晩年にお金があっても食べられなくなります。病気になって食べられないとか、何か食べられない状態になっています。
全てがそうなんです、必要な事に使ってあげるほうが良いんです。欲しいものを与えすぎないほうが良いと思います。
プラスの言葉で運命を創る
質問者:
不安恐怖症・・・(数字の4と9が気になるとか、コンセントから火を噴きそうだとか)の場合、どのようにすれば良いでしょうか。
ありがとうございます:
人間は思うようになるんです、その人はその人の運命を思い通りにしてしまいます。だから、思い方をプラスに変えたほうが良い、思いだけ・心だけを変えることは難しいでしょう。だから言葉を変えていきます、言葉をプラスプラスに置き換えていきます。数字(4)だったら、喜びの数字なんだというふうに、良いことがいっぱい起こるんだというふうに。「4」だって死ぬ方の「し」と、悦ぶの「よん」とは違うでしょう。
プラスの言葉に置き換えると心がコントロールできてきます。そうすると運命として良い姿に変わってきます。心をプラスにして心を自由にすれば形(4本指で4を示す形)にはすぐにこだわらなくなります。心がプラスに変わってないと、4で悪い結果が出たと結び付けやすいですね。
言葉で、プラスプラスに翻訳するような言葉遊びをすると良いです。世の中には言葉をマイナスにマイナスに解釈する人もいるし、プラスにプラスに解釈する人もいます。例えば、家の屋敷に柿の木を植えると、家系が絶えて死に絶えるとかマイナスに言う人が居るでしょ。「欠ける」という「かき」をね、欠けるというふうに見ていくんです。でもプラスに見る人は、昔は「かき」を「かがやき」と言ったんです。やっぱり柿の実の色は輝いていますよね、葉っぱでもつやつや輝いていますね。日本人はもともと柿の木を「かがやき」と言った、それが柿の木になってるんです。輝き輝きと言えば、それを家の周りにたくさん植えたら、家全体輝いて幸せになりますね。
そういうふうに、自分が言葉をプラスに使えば良いだけでしょう、全てをプラスにプラスにね。神様はマイナスには創ってないはずなんです、どんなものもプラスに見なさいというのが神様の御心だと思います。
拝み切れば仏様
質問者:
「ありがとうございます」を初めて数ヶ月なんですけど、一人だけすごく意地悪になった人がいるんです。ドンドン悪い方向に行ってるんですけどなぜでしょうか?
ありがとうございます:
仏教の熱心な信者さんだった光明皇后様が、千人の沐浴行(この人が仏様だと拝みながら、千人の人の背中を洗う)をしていた。いろんな人が背中を洗ってもらいに来ます、光明皇后様はこの人は仏さまだ仏様だと拝み続けています。最後に一番やりにくい人が出てきました、らい病患者です。全身膿でいっぱいです、その人が無理難題を吹っかける、洗ってくれとは言わないんです、この膿を吸ってくれと言うのです。意地悪どころじゃないですね、昔の考えだったら、吸ったら死んでしまうかもしれない。言葉の意地悪や態度の意地悪じゃないですね、最低の状態ですね。
でもそれは、この人は仏様なんだという修行の最後の仕上げなんです。本当に、この人は仏様なんだと拝み切った時に、そのらい病患者の人が、光り輝く如来という仏様になって現れました。そう(光明皇后様は)観じられたんです。そしたら、らい病患者の肉体人間も治ってしまいました。
だから、最後の仕上げとして一人残しておかなければ、〈笑い〉でもまだ千人はいってない?〈笑い〉
感謝すれば若返り
質問者:
生まれたからには老いていくんですが、喜んで老いていくにはどうしたら良いでしょうか?
ありがとうございます:
やっぱり、老いていきたいですか〈笑い〉若くなりたくないですか?言葉の使い方で、老いていく生き方と、若返っていく生き方とあります。今の地球人は、過去を掴みすぎて老いていくんです、もっと進化した星では、肉体人間も年をとるほどに若くなっていきます。それは過去を掴まないから、新たに新たに神様から最高の姿を受け直す心になっていくからです。年取るほどに輝いてくる・若返ってくるんです。
神様はいつも新しい宇宙を創るでしょう、それと同じように、人間も新しいもの新しいものを受け直せる状態に置いてくれてるんです。この肉体も一瞬一瞬新たに置き換えてもらってるから、年取っちゃいけないんです。地球人が感謝をドンドンしだしたら、年取るほどに若返るように逆転するかもしれないね。
感謝の世界へ
質問者:
人間がこれから、テレパシーで通信し、移動もテレポーテーションで瞬時に行う、そんな時代が近いうちに来るでしょうか?
ありがとうございます:
近いうちといえばそうなんでしょうが、それは人々の心の変化によって自由なんで、予言的に言うのも自由、これを縛ったら困るんでね。予言というのは、未来のマイナスを防ぐためにチョッと予言するんですね、それを考えてもらってプラスになるように、努力していただこうというわけですよね。
これからは、思いじゃなく、感謝の世界が広がります。思いと云うのは一つのことしか思えないでしょう、でも、感謝は無限に広がります。「ありがとうございます」と云うのは、世界が無限に広がります。テレパシーで特定の波を感じてもたいした事ないでしょう、感謝は神様の波を全部を必要だったら感じます。必要だったら感じるというのが一番良いんです、必要なものだけで良いんです、この世で楽しみたい時は、あの世のことは何も感じない方が良いでしょう。あの世の姿、あの世の事がいっぱい聞こえてきたら困りますね。
必要なだけは感謝させて頂いて与えてもらう、だから、思いの世界から感謝の世界に置き換わっていきます。そうすると必要なものが的確に与えれれて、自分の世界が無限に広がる、そういう時代になります。
前世も掴んだもの
質問者:
私は、前世・来世が信じられないんです、本当にあるんですか?
ありがとうございます:
神様の最高表現の頂点、無限の無限のチャンネルの頂点というのがあります。過去世とか前世というのは低い方の番組なんです。あんまり前世とか過去世とか言い過ぎると、過去を引きずる事になります、過去を引きずってあんまり良い番組には心が行かなくなります。高い番組は、過去を掴まないから一瞬一瞬最高の、最高表現だけを受け続けるから、心が自由で縛りがありません。
この世の姿はあの世の縮図になっているんです、あの世は無限のチャンネルがあります、この世はあの世の縮図としての全体を一つにみている世界です。この世の地獄も極楽もあり、いろんな姿がいっぱいあって、この世は、何を心に選択して選び続けていくかという勉強の場なんです。
心をプラスに向けていく人も、マイナスに向けていく人も自由なんです。この世のプラスを選び続けたら心がプラスを選ぶ心になるでしょう。そうするとあの世へ行ってもチャンネルが上がっていきます。そういうチャンネル選びの勉強の場なんです。
最低の名前
質問者:
私は自分の名前は好きなんですが、苗字が嫌いなんです、良くないですか?
ありがとうございます:
何でも好き嫌いというのは、好きになるのはプラスのものを受けたときに好きになるんです。プラスを発見できたら好き、でもマイナスになった時は嫌いになります。人がお互い好き嫌いを言うにも、相手から自分にプラスのものを与えてもらっている内は好きなんです、逆に、迷惑かけられたりマイナスを与えられたら嫌いになるんですね。
前世・過去世からの繋がりがあるでしょう、お互いにマイナスを与えすぎたら嫌いになります、でも、プラスを与え続けられていたら無性に好きになっているんです。結婚する相手を見つけるにも、好きな人と結婚するというのは借金があるんですよ<女性に大受け>、過去世でお世話になった・可愛がってもらった恩返しに尽くさなければならない責任があります。ところが好きで結婚して、尽くして尽くして相手から尽くし返されないと、今度は自分が尽くしたほうが多くなるでしょう、借金返しを済ましてしまったら好きが消えていって、相手からマイナスを受けたら嫌いになります。
だから名前もおんなじですよ、プラスに解釈できたら好きになります。今マイナスに感じているんでしょう?どんな名前でも無限に謙虚な自分だったら全部プラスになるんだけどね。逆に最低の名前を付けたほうが良いくらいですよ、謙虚になる意味でもね。
だから法然さんは、愚禿法然とか言って自分を最低に落とすでしょう、それは、そのほうが謙虚になって感謝しやすいからです。だから最低の名前・悪魔ちゃんじゃないけれど、一番最低の名前のほうが良いんですよ、謙虚になりたい自分にとったら最高じゃないですか。
一瞬一瞬を楽しむ
質問者:
子供を育てる上で、型にはめないでおおらかに育てたいのですが、はしゃぎすぎて人様に迷惑をかけることもありますが、迷惑とはどんなものでしょうか?
ありがとうございます:
無限のチャンネルには、迷惑を掛け合う番組もあります、はしゃぎまわる番組もあって良いですね。それを止めようとしてもなかなか止まらないですね、止める番組もあるし、ほっといても良くなる番組もあります。自分がどの番組を本当に見たいのかそれさえ決まったら方法は出てきます。はしゃぎまわらないおとなしい番組が良いのかね。
本当は、まあ元気な子ですね、と見ていけるのがいいんですけど、みんな自分の考えで決めてしまいますね、もっと自由な柔軟な心だとプラスプラスに見ていけるのにね。だから心の問題ですね、自分の問題ですね。もしその子が寝たっきりで動けない状態だったら、這ってでも動いて欲しいと思うでしょう、走れたらものすごく喜びますね。この世に生まれてきてくれただけでも'ああ嬉しい'と思えるのが本当は正しい見方だと思います。もし生まれてきてくれなかったら、何も良いところを一つも味わえないでしょう、生まれてきてくれた事だけでも無限に嬉しいね、五体満足で普通に育ってくれたら無限にありがたいですね。手足がなく寝たっきりでといわれたら・・・それでも生まれてきた事はありがたいんですよ。
そういうようにプラスにプラスに捉え変えていたら、走り回るほうがいいんじゃないかな。周りの人が迷惑に思っているかどうかというふうに思ったら、それも自分の浅知恵でみてる考えです。周りの人はそれを喜んでいてくれているかも知れない、解からないものね。本当に迷惑をかけているにしても、迷惑をかけられた人が過去世で迷惑をかけて、それを帳消しにしてもらうために、迷惑をかけられている姿を与えてもらって、過去の罪を消しているのかもしれない。
プラスに受けたほうが自分にとってはいいんです。だから、自分だけの問題かもしれないんですよ、お母さんが子供にうるさく言っているのもね、自分の立場からみたら過去世の自分の姿をマイナスにチョッと受けてもらっていると見えるかもしれないですね、そしたらもう、喜んでいるだけでいいんじゃない?「ありがとうございます」と幸せを味わうだけの行き方の方が良いですよね。プラスにプラスに。
運命に現れたこの世の形を掴んでしまう事が間違いの元なんです。さっきの物質化現象の話にもあったように、普通は入らないコーラのビンに大きいものがパッと入るんでしょう、それが又パッと抜けるんでしょう。でも、一瞬一瞬の置き換えだったら何でもないですよ、今パッとビンが物質化して出てきた、次に、入ってる姿がパッと物質化して出てきた、次に、空のビンがパッと出てきたら瞬間に空っぽになるでしょう。本当は宇宙の全てが一瞬一瞬の物質化現象ですね。だから、一瞬だけを捉えればいいんです、すべての現象を今の一瞬だけ楽しめばいいんです、次の瞬間にまったく別なものが出てくるんです。それを無理に繋がなくて良いんです、普通・繋ぐというのは過去を掴んで残像と新しいのとをつぎ合わせたわけです。本当は繋がっていません。
今の科学でもこの世の全てが波動なんだと大分わかっているんです。波動というと本当は塊じゃないんです、波の変化でしょう、一瞬一瞬の変化です。変化というのは同じ物じゃありません、常に変わっています。現実の姿に執着してここにこういう形のものがあるというのは、本当は間違いです。これが、一瞬一瞬の置き換えということが本当にわかれば、執着しないで楽しむだけでいいんですよね。
禅宗に公案というのがあるでしょう、お饅頭を出されて'これをいつ食べるんだ'と言われるでしょう、いつ食べます?・・・今食べると言うでしょう、今と言うのでも無限の億万分の一秒という時間の今に食べられるかと考えてください。食べられないでしょう、今食べると言うけど無限億万分の一秒たったらもう過去なんですよ。過去になったら過去には絶対に食べられないでしょう。無限億万分の一秒未来にも、まだ未来だから来てないから食べられないですね。本当に無限億万分の一秒で口に入るかというと入らないですね。そしたら、本当は一瞬一瞬の置き換えなんですね、食べてない姿が今出ているでしょう、次に、食べたという結果があったら、その食べている姿がパッと出てくるわけです。だから、そのつながりを人の思いで上手に連続的につぎ合わせているんです。本当は、一瞬一瞬切り離したほうがいいんです。
また、別な話で、兎と亀の追いかけっこでも良いですね。兎が亀を後から追いかけます、亀は必ず前へ進むでしょう、例えば一秒かかって前へ進んだとするね、兎も追いかける一秒かかってサッと来ます、次に亀は前へ出るでしょう、兎もチョッと早く近づきます。でも際限なくどこまでも無限億万分の一秒亀が前へ出たら、兎もその時間で追いつこうとするんだけど、限りなくゼロに近づいていくとチョッとズレがあるんです。だから、兎が亀に追いつけなくなるんです、絶対にね。
でも実際は、兎のほうが早いから追い越しますね。でもそれは、残像をつないであるからです。だから、この世の姿もあの世の姿も、番組として現れている運命の姿全部を一瞬一瞬置き換えになっているんです。だから奇跡的な手品みたいな事が本当は何でもないんです。一瞬にパッと蕾が花開いたり出来るんです。パッと消えてもいいんです。蕾に優しい言葉をかけて素晴らしいねと言うと、喜んでしまって、時間のサイクルが短くなるでしょう喜びの世界というのはね、そうするとサッと落ちてしまう結果が出てしまうということも起こります。
高い世界の一秒は、低い世界の何億年かも知れないですね。浦島太郎の話と同じなんです、浦島太郎が竜宮城へ行っていると、竜宮城はチョッと次元が高いんです、幸せいっぱいの高い世界です。そうすると、そこでは時間がたつのを忘れているでしょう、僅かな時間がたったと思って現実に帰ったら、何百年もたっている感じなんでしょう。
感謝のない状態が欲
質問者:
自分は幸せだなと感謝しているんですが、いろんな欲が出てきます。今が十分に満たされてないと感じるから欲が出るんだと思うんですが、それって、本当に感謝してないということなんでしょうか?
ありがとうございます:
感謝の心と欲の心とは正反対です、両極に分かれるんです。感謝というのは神様の心と一つになる心です、神様の心が感謝の心です。欲という字は谷に欠ける心・・・古い時代はそうですね。谷というのは宇宙の絶対神の意味です、宇宙の絶対神の心が欠けた状態が欲なんです。感謝のない状態が欲の心になります。感謝の心は神様の全てを受けているから満ち足りています。いまさら求める必要がありません。必要なもの全部与えられているから、ただ感謝で喜びで満足なんです。欲のほうはその満ち足りた心がないんですね。ところが心は満ち足りた状態を知っているから、足りないものを補おうとするんです、そして、欲の心という求める心が出てくるんです。ただそれをどこへ向けるかなんです、神様に向けたらそれがスッと満たされるんです。
だから、欲の心が出る時は、神様の心を忘れてるよという警告みたいなものです。だから神様のほうへ心を向けなさいよとね、感謝しなさいよねという意味です。そしたら求めなくて済むわけですね。食べ物でも、食べたいものいっぱい食べたら幸せかというとそうじゃないですね。そんなのは小さいですね、食べたときチョッと満足するだけでしょう。本当は、必要なものを頂いて無限の感謝を捧げたほうが喜びが湧き上がってきます。食べ物を殺生して食べるというんじゃなしに、感謝して食べる心は食べ物が・お米一粒一粒が自分の命を捧げて、私の命をお使いください・食べてくださいと言っているんでしょう。命を捧げてもらって'ああ、ありがとうございます'と受けたら何か良い事して、お米が喜ぶようにしてあげないといけない。そういう深いとこまで考えて受けていけば、ご飯一膳食べるにしてもものすごく深い意味があります。 「ありがとうございます」と頂いて、何か大きい役に立つ事をさせて頂こうという気になりますね。
感謝というのはそういうように無限に価値を見出していきます。だから、まず、感謝を先行させたほうがいいんです。そしたら欲が出なくなります。食欲が悪いんじゃないですね、感謝していただくのは食欲とは言わない、感謝を忘れたときは食欲と言うのかも知れないですね。
謙虚になることが心の進歩
質問者:
見ている番組がどの程度の次元なのか、見極める方法を教えてください。友人にサニワを職業にしている人がいるんですが、本人はやめたがっているのに、懸かっている神様が止めさせてくれないんです。
ありがとうございます:
番組の見極め方・懸かってくる神様の見極め方ですね。どういう神様が懸かってくるかは大事ですね、自分の心に波長が合わないと懸かってきません、自分の心が謙虚になっていれば謙虚な神様しか懸かってこないんです。謙虚な神様は一番高いほうの神様です、絶対に人の自由を縛りません、本当に謙虚に命がけで神様にすがったときに、必要なだけの助けを与えてくれます。
無理やり向こうからこれをやりなさいとは言ってこない、自分が心を磨いていかないと解かるようにはなりません。謙虚になることが自分の心の進歩です、謙虚になればなるほど感謝が深くなって感謝が湧いてくるようになります。感謝の深さに比例して番組が高まっていくというふうに見ると大体解かりますね。
ご友人は、やめたい気持ちもあるけれど、やめたくない気持ちの方が強いんだと思います。自己弁解の心とか、よく見せたいという心がいろいろ出てきます、そうすると、自分の(本当の)気持ちを受け入れにくい時もありますよね。そうすると、神様のせいにするんですよね。自分の波長に合う神様が下りてくる時もあるし、そうでない時もあります、自分が勝手に思い込んでいる時もあるし、潜在意識の働きもあるし、番組というのはいろいろあります。
結局は本人が定めています、そのままで良いのにね、本当に変わりたかったら変わります。
悟りの要
質問者:
沢山の修行者・巡礼者が志半ばに倒れていったと思うんですが、先生はご自分で,どこが良くて現在に至ったとお考えですか?
ありがとうございます:
一番良いのは、感謝を勉強させてもらった事かもしれないですね。いろんな耐乏生活・苦労を通して何でもありがたいという、粘土を食べる事と比べたら何でもおいしくありがたく食べられるでしょう。そういう体験を通じて、感謝がまず起こせるようにして頂いたことが一番大きいと思います。
次に、何か人のためにするのでも、人の嫌がる事でも喜んで進んですることが神様の御心にかなう事だと、小さい時に教えられていたんです。だから、嫌な仕事を進んで無報酬でする習慣がついていました。何をしても苦痛に思わなかった、どんなに汚い事・こえ汲みしてもなんともない、骨集めをしてもなんともない。どんな仕事をしても苦痛にならなかったんです。これは、神様に指導してもらったおかげだと思いますが、喜んでする・報いを求めないでするのが良いのだという、小さい時からの習慣性がかなりプラスになっています。
それと最後には、自分の命を神様にお返しできた事、神様に命を捧げて、お使いくださいと言えたところですね。それでますます謙虚になれたんです。それで、神様の大きい助けを受けて、どれだけ神様が試そうとしたかは知らないけどね、試しても試しても守ってもたったんですね。だから自分でも神様はすごいなと思います。
だから、自分の力じゃないみたいですね、最初から最後まで神様が守り続けてくれるという感覚です、これはみんなおんなじだと思いますよ。いろんな体験は生きてくると思います、ただチョッと徹底したほうが良いですね、中途半端だと、右へ言ったり左へ行ったり迷うところがあるのね。徹底するとすぐに気付かせてもらう・わかると思います。
食べ物でも、何もない状態に一度時自分を置いてみると、不思議と周りから食べ物を運んでくれるんですね。例えば、一ヶ月間何も食べないと決めると、本当に一口も口に入らないかと言うとそうでもない、周りから食べ物を口へ押し込んできます。誰も押し込んでくれないと思うでしょう、自分で食べ物を手に入れて食べないとと思うでしょう、本当はそんな事ないのね。一回開き直ってみると良くわかります、神様の力はやはりすごいですね、かならず食べ物を運んでくれます。
神も本心の自分も、我には謙虚
質問者:
にっちもさっちも行かない時に、「ありがとうございます」と感謝すれば・神様に全部お任せするというのは、本心の自分は正しい答えを知っていて、神様がそうしてくださるということですか?
ありがとうございます:
そうだね、本当の自分は本心の自分・神様から新たに新たに受け直している自分ね、その本心の自分がこの世にスーッと出てこないと嘘なんだけど、本心の自分も謙虚でしょう、我の心があると遠慮して控えめになります、神様がそうなのと同じように本心の自分も我の部分に対しては謙虚なんです。まーチョッと自由にしてごらんというふうに、ある一定期間自由にさせてくれるんです。でも必ず行き詰まるようになるから、本心の自分へ神様が向けてきます。その時に心を(神様のほうへ)向けたら良しよしと言うように我の心を消してくれます。それで、本心の自分がスーッと出てきて力を振るうようになります。
本当は、本心の自分の自由意志で全部動くんだけど、我の自由を一時的に許すのも本心の自分の自由なんですね。最後には本心の自分の自由意志でチャンと仕上げてきます。
最低に謙虚に悟る
質問者:
悟りを開いた状態とはどんな状態ですか?
ありがとうございます:
悟りにも無限の段階があるようですね。私は二十歳のときに心が大きく広がったんです、肉体感覚・魂の感覚は消えてしまいました。その後、神様への感謝が深まりました。
悟りというのは、自分と神様の(差)を(取)ることなんです、宇宙絶対神と自分の間の差をどれだけ取ってしまうかというのが悟りの深さですね。新しい神様の姿を受けなかったら神様と離れていきます。過去を掴んでいると、過去の古いものにしがみついて新しいものを受け損なうんです。それは(神様との)距離をドンドン離してしまう状態です。
でも本当は、本心の自分は神様と一体なんです、
新たに出てきた自分が本当の自分でしょう、神様とまったく一つなんです、神様とピタッと一つになっているんです。切り離す事は絶対に出来ません。だから、自分が本心の自分に意識が戻ってしまったら、みんな悟っているのが良くわかります。みんな無限に無限に輝いているというのが本当なんです。今から悟るのではないんです、みんなもう悟っているというのが本当ですね。
木で例えると、幹があって枝葉があるでしょう、枝葉の一番先の一枚一枚の葉っぱが肉体人間という感覚ですね。でも本心の自分は木全体なんです、神様から全てを受け直す自分というのはね。木全体から一番先の一枚に葉っぱを見たときに、葉っぱをパッと切り離した状態が枯れた状態でしょう、葉っぱというのはね自分の思いで勝手に切り離すときがあるんですね。そうすると、神様と自分が繋がっていないと思ってしまいます。だから、根のほうへ根のほうへと戻ればいいだけなんです。それは、大きくなればいいんです、気持ちを大きく大きくしていくのが一番良いですね。又、この世だけじゃなくていろんな次元の世界に心をぐんぐん広げるのが良いですね。結局は感謝を大きく深くするしかないんです。
だから、感謝の対象を無限に大きくすれば良いでしょう、又深くすればいいのね。感謝を極めたらドンドン大きいものが感じられてくるんです、神様をより大きく感じ取れる自分になっていきます。
だから、感謝も悟りも一回悟ったからいいんじゃないんですね、無限に無限にさらに深まっていくんです。今現れた神様の最高表現も、次の瞬間又新しい最高表現が現れてくるでしょう。今受けたからといって、次の瞬間受けなかったらもう最低なんです。一瞬一瞬の真剣勝負です、本当にね。それも一番謙虚な状態で受けないと本当に最高の受け方が出来ないから、いま自分が最高だと思ったら常に一番最低に自分を突き落とさないといけない、謙虚にね。そして又そこから最高のものを受け直します。その繰り返しによって、受け方も上手になり、そして自分というものも消えて神様だけと言うふうに感じ取れるようになってきます。
だから、本当の悟りは、自分がなくなること・神様がすべて・神様しかないんだと言う事です。無という状態ではなくて、神様を大肯定する状態です。自分というものが一切なくなるほうがいいんです。自分がなくなったら(神様との)差がないでしょう。いまさら差を作ることもないのにね。
「ありがとうございます」という神様が宇宙の究極の神様です。究極の神様の名前です、この中に全部あるんです。ありとあらゆる神様の名前が全部あります、すべての全てが備わっています。「ありがとうございます」を唱えているうちに、究極の神様と一つになっていくから、全部自分の中にある・自分といったらおかしくなるから・神様の中に全部ある・神様が全てなんだという感覚が湧いて来るようになります。そしたら、この世にいても、地獄に下りていても、神様だけを感じます。地獄にいるから苦かと言ったらそれは違います、地獄にいても、地獄を中心に置いて無限に無限に輝いた世界を感じます。全体をいつも感じるようになるから、地獄も苦痛ではなくなってきます。地獄を拡大しては見ないんですね、無限の中の一点ぐらいになります。
自分の心に応じて出てきます
質問者:
医療に従事しています、患者さんが「ありがとうございます」と口先だけででも唱えているときに、症状が好転したりします。病気というのは悟りへ導きではないのかと思うんですが?
ありがとうございます:
神様の番組が・無限のチャンネルがあるでしょう、形の姿というのも、無限健康と無限の病と両極がありますね、その間に無限の段階がありますね。又、心の持ち方もそうですね、マイナスに思う心とプラスに思う心と無限の違いがあります。病気を掴んでその病気を治すというよりは本当はね、番組を変えてるんですね本当はね。病気になってる人もそうだし治療する側も同じですね。
治療する側が病気を認めない心境になったら、病人がもう出て来ないですね。病人がお客さんとして出てくる間は自分の中に病気を相手にする心がチョッと残っているはずです。いい意味でも悪い意味でも、病人を治したいという心があるかもしれないし、マイナスに思う心が自分の中に残っているかも知れないですね。それを感謝する事によって自分自身がプラスの番組にドンドン変わっていきます。そうすると、病気が瞬間にサッと治ったり、きてすぐ勝手に直ってしまう患者さんが来たり、来る前に直ってしまったりということが起こるかもしれないですね。いろんな現象が自分の心に応じて出てきます。
私も、二十歳ぐらいのときから病気直しのお祈りを一生懸命しました。みんな神様なんだ、無限健康なんだ、完全なんだというふうにね、一生懸命祈り続けたんですね。その時は病気を相手にしていました、小さい時にお医者さんになりたかったというのは、病気というものをかなり掴んでいたんだと思います、過去世でね。それは、病人を相手にしなければならない運命ですね。 いろんな人から病気を治してと言われるんですね、毎日何十人と頼まれて一生懸命に祈り続けて十年ぐらい病気直ししていました。そして、プラスに思うお祈りを一生懸命するでしょう、そうすると自分の中の病気というのはドンドン消えてしまいます。自分の目の前に病人が現れなくなります。今度は、病気治しの仕事は消えてしまって、幸せを与える仕事になります。職業が変わるんじゃないですか。私の前にくれば幸せになりますよという仕事です。実際、お医者さんは、このお医者さんは必ず病気が悪くなって死ぬというお医者さんとね、このお医者さんは、患者さんが来たら診断する前に良くなって帰ってしまうようなお医者さんと、二通りありますね。お医者さんにも心がいろいろですよね、プラスプラスに見ていくお医者さんにはいい患者さんが来て、早く直る患者さんが来ますね。
やっぱり、自分のみる世界・自分の運命というものは、自分に必然的になって、自分の自由意志でどうにでもなるんだと言うほうが正しいんだと思います。そうでないと自分の運命は変わらない、人のせいにしていたら自分の力を発揮できない、嫌なお客さんが来たと人のせいにしていたら、何時まで嫌なお客さんが続くかも知れない。でも、自分が心を変えることでいつでも変えられるんだったら、瞬間に変えられますね。だから、もう病人は絶対に見たくなかったら、みんな無限健康いっぱい・無限の幸せいっぱいというふうに拝み続けるのが一番です。
自由自在に唱える
質問者:
「ありがとうございます」を唱えるのは、声に出して言霊として唱えるのがいいいですか、心の中で
唱えてもいいですか?
ありがとうございます
自由自在でね、口に出すのもいいし、心だけで唱えるのもいいし、字に書いてもいいしね、見るだけでもいいし、人に代わりに唱えさせるのもいいですよ、<笑い>唱えさせたのも自分よ。
私だけの問題
質問者:
二十歳の頃の病気直しはどんなふうだったんですか?
ありがとうございます:
二十歳代の頃は忙しかったー、今死にそうだと電話してくるんです、寝る暇がなかったです。必死で電話してくるでしょう。
・・・・治らなかった事は?・・・・たいてい治っていますね。
・・・・それは本人に(病人に)感謝の気持ちが・・・・それは違う、私たけの問題ですね。勝手に治りますね、私の心をマイナスからプラスに変えるお祈りの練習の時期だったと思います。感謝を深める段階ですね。私の心が病人を掴んでいるでしょう、それをお祈りして掴まなくなったら、掴まなくなってその人が健康な姿を見せてくれるだけなんです。
自分の世界を自分が受けるんでしょう、私の世界は、この世を見ていないんです、大きい大きい宇宙をいつも眺めているんです。だから、地球もあまりに小さすぎます、この世も小さいです、それも光が少ないこの世でしょう。本当は、無限に無限に輝いた新しい宇宙を受け直しているんです。だからこの地球が滅んでも、この肉体が消えても、私の幸せには無関係なんです。絶対に崩れない幸せなんです、無限の無限の幸せいっぱいというのはね。感謝がぐんぐん深めさせてもらえたら、本当の幸せはそこまで行くんですよ。
この世のことは相手にしていません、病気が治ろうが、地震が止まろうが。そんなのはあまりに小さすぎてね、本当は、無限の無限の幸せを受け直すほうが大きい幸せでしょう。皆はすでに悟っている・みんな無限に無限に輝いているんだという実感のほうがいいじゃない。肉体はこういうふうに話したりいろいろしているけど、私は肉体を持っていないから、奥で奥でみんな無限に無限に輝いている・輝いて悟っているんだというふうに見ているんです。だからこの肉体は本当の自分からみたら、鋭利な切っ先(きっさき)みたいなもの、大したことはない。
…そこまで思えるというのは、執着心が完全になくなるということですか?
…そう・・もうこの世に執着心はないね。この世に、もうすべてにね。過去に対して一切ない。だから新たに受け直す方に心を向けているから、一瞬でも受け損なったら、新しいものを失うという感覚だね。
…形のあるものはすべてなくなるという感覚ですか?・・そうね、新しく生まれたらね、消えないと次ぎのもの出てこれないから。一大循環の相象(すがた)の流れを止めるとマイナスになっていくからね。