ありがとうございます おはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。
またその内容(ないよう)に責任(せきにん)を保持(ほじ)していません。さらに著作権(ちょさくけん)も行使(こうし)しません。
どうぞ自由(じゆう)に使(つか)いまわしてください。できればちょっとアレンジしていい感(かん)じになったよというのをどんどん、是非(ぜひ)メールでお知(し)らせください。

ar43輪廻転生の目的 2002.09.08

質問者:
 輪廻転生して成長していくと思うんですが?
 
ありがとうございます:
 いろんな世界があります、この世を一つの世界としたら他にも無限の世界があるんです。その輪廻転生というのは、この世があって・肉体に魂が宿って・魂が何回も生まれ変わって出てくるというのが輪廻転生なんですけど、輪廻転生のある世界は無限にある世界の中でほんの僅かな世界なんです、輪廻転生をしない世界もたくさんあります。
 この世に生まれてきた人には、輪廻転生がどんな意味があるのか?神様と一体の本当の自分というのが一番奥にあって、その自分が無限のチャンネルの中から好きなのを選んで、例えばこの世という番組を選んで出てくるんです。一つの番組を眺めているような感じなんですね、その中に肉体の自分があって・そこに宿る魂の自分があって。輪廻転生の目的というのは、魂に本当の自分の良さを素晴らしく表現してくるか、そのために輪廻転生をしてくるんです。
 あまり輪廻転生に囚われると、縛りに引きずられていきます。でも、もっともっと高い番組に心を合わせていくと輪廻転生をしなくて済む番組が出てきます。神様の中から一瞬一瞬出てくる自分が光り輝くだけという、魂も消えて神なる自分が輝く世界もあります。
 どんな世界でも神様は用意してくれています、人の使う言葉どおりの世界は全部用意されています。あまり輪廻転生という言葉を使いすぎるとその世界にはまり込んでいきます。自分が何を選んで神様から受けているかというのが大事なんです、人は自由があるので何でも受けていけるんですけど、本当に自分がこれでいいというのを選んで、それを言葉にしていくとそれを受けていけます。
 輪廻転生の過程では、魂は、女性的・男性的という割合がありますが魂はどっちにでもなるんです、男性的な要素を本体の自分からから引き出してそれを輝かせてくると、男性的な要素がたくさん出てきます。女性的なものもそうですね。魂の自分がこの世に生まれ変わってきた時に、男性的な要素が強い人がこの世に生まれてくると、男性的な生き方を取るんです。ある期間男性的な生き方を取ると男らしさが表に出る姿を取ります。でも、今度生まれ変わった時に、女性の肉体に男性的な魂の人が宿ると、女の人でありながら男っぽい姿をとります。でも、女性の体に生まれてくる時は女性らしさを学ぶために生まれてきます、その時は本体から女性らしさをドンドン引き出してくる勉強します、その逆もあります。両性の素晴らしさを同時に兼ね備えるという自分に・魂の自分になって、自由自在に必要に応じて表現できるのが良いですね。


自分はどっちを選びたいのか

質問者:
 ご先祖様はみんな光り輝いていると思っているんですが、他の人からいろんなことを言われて迷っています。

ありがとうございます:
 いろんな言葉があるでしょう、その言葉の中から自分がどの言葉を選ぶかが大事なんです。いろんな情報は無限にあります、その中から自分が一番良いものを選んでいくのが大事なんです。いろんな考え方は無限にあります、ご先祖様に対する見方考え方はいっぱいあるでしょう、ご先祖様が迷っているとか・ご先祖様はみんな悟って光り輝いているとか、自分はどっちを選びたいかでしょう。
 迷っているといったら迷っているご先祖様を掴んでしまいます、そうすると、供養をしなければと縛られてくるでしょう。迷っていると決め付けるのはご先祖様に失礼ですね、本当は自分が迷っているのにね<笑い>それで、供養する過程で自分の心をプラスにプラスに変えていくんだと思うけど。それだったら最初から、ご先祖様は悟っているんだと・輝いていつも自分を守り続けていてくれているというふうに感謝するほうが良いですね。


「ありがとうございます」の意味

質問者:
 「ありがとうございます」の意味を教えてください。

ありがとうございます:
 本当の意味は言霊で解釈します。

まず「あ」
 「あ」は絶対とか、命の本源とか、光の源・光源とか光りという意味です。

「り」はら行音の「り」は螺旋状という意味があって、神様の絶対の中に相対に別れる要素の全てがあって、それが両方に分かれて螺旋状に放射されて組み合わされるようになっています。螺旋状の組み合わせは必ず無限の交わりが出来ます。直線の交わりは一点だけど、螺旋状に組み合わさって入れ子構造の宇宙が生まれるんです。そういう意味でら行音の「り」を使います。

「が」は、「か」をダブらせて輝きに輝くという意味です。宇宙の創造された姿が無限に無限に輝いているという意味です。

「とう」は、数字の十字・十字交差という意味で、相対の両極を十字に組み合わせて大調和しているという姿をとります。縦と横・時間と空間そういうのを組合すと、十字交差されて大調和の姿をとっています。

「ご」は、「こ」がダブって、凝り固まって凝り固まってというふうに、高い次元が次元を下げて下げてとか、物質化されて物質化されてというふうに、これが「ご」

「ざ」は「さ」をダブらせて、さらさら流れるという、命が流れる・光が流れるというふうに移り変わる姿を指しています。それも中から湧き上がるように、花開くように変化してくる姿が、さらさら流れるという。それが「ざ」

「い」は命の「い」、石ころ一個も原子一個も神様の命を生きています・命を表現しています。命が躍動して輝いているんだと・単なる物じゃないんです。

「ま」はまったき(全き)・完全な完璧なという意味です。神様の絶対から創造されて、最高表現として無限に輝きのあるものが生まれて、それが無限の無限の番組のチャンネルとなって現れて、物質化されて現実のいろんなものに形として現れてきています。その全体像が完璧極まりないという意味です。その完璧極まりない姿がまた絶対へ戻る、その繰り返しを指しています。

「ます」というのは、今現れたものが絶対へ戻って、次に現れた時に素晴らしくなって増えて、増して出てくるという、その循環を表します。

「ありがとうございます」全体で本当の神様の全ての働きを指し示しています。本当の神様の名前なんです、究極の呼び名です。「ありがとうございます」と唱えるだけで神様の全体から必要な助けを的確に受けていけます。
 いろんな神様の名前は神様の働きを表しています、全体像を指す言葉が「ありがとうございます」です。いろんな神様の名前を唱えると部分的な働きを指しているんです、部分的な助けは受けられます、でも全体からは受けられないですね。全ての神様の名前を呼び続けるのは大変でしょう、それだったら一つに「ありがとうございます」にしましょうという感じですね。



感謝で受けた世界が自分になります

質問者:
 「ありがとうございます」と唱えていたら自分にどういう変化が現れますか?

ありがとうございます:
 「ありがとうございます」と唱えるという事は、本当の神様を呼んでいるんです。だから、本当の神様を感じ取れるようになります、本当の神様を感じるというのは、本当の神様は幸せの本体なんでね幸せが感じられてきます。
 「ありがとうございます」と唱えている時は、本当の神様の助けを受け入れますという意思表示をしています。神様は喜んで助けにスッと入ってきます、その時に必要な助けを的確に与えてくれます。「ありがとうございます」と唱えていない時は、自分の思い通りにしますと言っているわけです、神様は奥に引っ込んでいてとね、神様は手出しが出来ない状態ですね、人の自由を縛っては神様は干渉してきません、自由にどうぞと隠れて見守っている状態ですね。
 自分の力で生きようとするのは限界が来るんじゃないですか?ある程度思いどうりになっている間はよさそうに見えるんですが、思い通りということは周りの人の自由を縛っている事になります。
 本当の神様の助けというのはどのように来るかと言うと、まず、無限の無限のマイナスを免除してもらっていると気付きます。現実にいろんなマイナスの姿が出てきた時でも、それは億分の一ぐらいの軽さで消してもらっているというように見えてきます。何もない状態がいつも大難を無難に変えてもらっているというふうにね、そういう受け直しが自然に出来るようになります。そしてまた、無限の無限のプラスのものをいっぱい常に与えられていると気付いていけるんです。気付かないとないのと同じだけどね、太陽がそうでしょう、太陽さんありがとうと気付いた時が自分のものですね、その気付きが無限に無限に増えていきます。
 これもまだまだ初歩なんです、それが無限の無限の感謝ができるようにしてもらって、なおかつ今度は
自分のほうから神様の中へ飛び込まなければいけない。神様の中へ飛び込んで溶け入ったときに、本当の神様との一体感が生まれてきます。神様の方から自分の中へ入ってくるのはまだ小さいですね、自分という器が小さかったらチョッとしか入ってこないよね、それを循環を多くしたってたいしたことはないですね。感謝が深まるとだんだんと自分を神様の中に溶け入らせる生き方をとってきます、自分を神様に全部捧げ尽くして、神様の中に溶け入るという、自分を消して神様と一体化した生き方です。そうすると自分が神様になってきます、神様の与えてくる素晴らしいものを一瞬一瞬受け直せるようになってきます、神様から受け直したものが自分になるんです。
 神様から何を受けるかというのが一番大事でしょう、感謝で受けるのと思いで受けるのでは全然違いますね。思いで受けるのは、この肉体が自分と思ったら肉体だけが自分ですね。でも、感謝というのは「ありがとうございます」と受けるのは、例えばこの世界を全部「ありがとうございます」と受けたら世界が自分ですね。感謝を深めると受け直せる世界がドンドン高まります、もっともっと素晴らしい世界が出てきます。感謝で受けた世界が自分になります、自分が大きい宇宙になります。だから、無限に無限に奥深いですね。



断食

質問者:
 私は断食をして人生が変わったんですが、どうしてだと思いますか?

ありがとうございます:
 <笑い>みんなにどういうところが変わったか教えてよ!

・・・ 十日間を二回、水と気功による断食をしました。それで二十キロぐらいやせたんですけど、表面的に見た目は変わって心が軽くなったというか、こだわりが取れてきたというか、それは中の悪いものが出たから?他には、人が好きになってきた。

ありがとうございます:
 断食中に苦痛はなかった?

・・・ 最初は苦しかったけど、ここでがんばらなくちゃと思って!

ありがとうございます:
 人は普段ものを食べ過ぎるのかもしれないですね、必要以上に食べ過ぎている時は重たくなってきますね。チョッと断食をすると余計なものが取れてしまいますね、自然な姿に戻りやすいですね。本当の自分の持っている良さが自然に外に出て来易いというのは確かです。
病気する人は食べ過ぎて病気になる場合が多いですね。必要なものだけをを食べている限りは病気にならないと言うね、たまには(不純なもの・・不正確です)を落としてしまうのも必要かもしれないですね、それが形で肉体の贅肉を落とすだけじゃなしに、心の汚れも取ってしまうんですね。それで、元々ある自分の良さが出て来易くなります。

・・・変わったわけじゃないんですね?

そうね、隠されていたものが汚れが取れて、良いものが自然に出てきたんですね。


感謝は光りです、思いは闇です

質問者:
 私は食べたいんです、でも食べると太ります。食べたいという欲を感じて嫌なんです。

ありがとうございます:
 
欲の心がなぜ悪いかというのは、マイナスを掴みすぎて求める心を起こしすぎるところがマイナスになっていきやすいんで、必要なものを感謝で受けるんであればそれは欲とは言わないですね。神様は必要なものを与えてきます、それを感謝で受けるのは欲とは無縁のものです。慾という字を分析したら、谷に欠ける心と書きますね。谷はこくしん(谷神?)と言って宇宙の大神様です、宇宙の大神様の御心の欠けて状態ですね。感謝を忘れた状態が慾と言います、神様の恵みを感謝で受けるのは神様の御心のままですね。感謝を忘れて生きている状態が慾の心です、神様の御心から外れていますね、その時に慾というのが生まれています。思い通りにしたいと、例えば、何かむちゃくちゃに食べたいというのもそうだけど。思いというのは自分の思いだけじゃなしに周りの人の思いも受ける時がありますね、周りの人が食べたい食べたいと思っていると自分も食べたくなるとかね、あの世の人が食べたい食べたいと思っていると自分も食べたくなってしまうとかね。ただ、思いというのは感謝しているとスッと消えていきます、感謝は光です・思いは闇です。感謝の光が出てくると思いの闇が消えます、神様が消してくれるんですね。

・・・自分の思い通りになったときに「ありがとうございます」と思うのとは違うんですか?

違うんです、思い通りになったらだめなんです。思い通りというのはマイナスを・借金を積み重ねます、思い通りというのは人の自由を縛っている事になります、他人の自由をね、その反動で縛られる状態が必ず来ます。だから、思い通りにならないほうが良いんです。神様の御心のままになるのが良いですね、それは、必要なものだけが的確に与えてもらえるんだから良いんですね。自分のあれが欲しい・こうしたいというのが実現しても本当の幸せじゃないですね。
 神様が必要と認めるものを与えられて、「ありがとうございます」と受けられるのが良いんですね。小さい子供がいるとするでしょう、甘いものをいっぱい欲しい欲しいと食べるとするでしょう、小さい子供は甘いものをたくさんもらって喜んでいるでしょう、親の立場から見たら、甘いものを食べ過ぎたら体に悪いし、虫歯になったり苦しまなければならないのにと思うでしょう。親の立場からは健康にいい必要なものを必要なだけ与えたいでしょう、子供の願いと親の願いは違いますね。同じように人の願いと神様の願いは違います。
 「ありがとうございます」と唱えていると、神様の願いをそこへ持ってきます、そして神様が一番幸せになるように働きかけて、必要なものを与えてくれます。だから思い通りにならないですね、感謝していると思い通りにならずに必要なものが与えられていきます。それで幸せへの最短コースを歩むようになります。



感謝は思いを消して、与え尽くす心を出してくれます


質問者:
 男の人からしつこくされていたんですが、「ありがとうございます」と唱えていたら諦めてくれたんですが、それでよかったんでしょうか?

ありがとうございます:
 人の思いは縛りなんですね、男の人が可愛い女の人を見てあの子が好きだ好きだというでしょう。好きだというのは自分のものにしたいという所有欲ですね、ものすごい縛りになるでしょう。昔から美人薄命という諺がありますね、美しい人は大勢の人から思われますね、あの人を自分のものにしたいという思い方で縛ってきます、そうすると命が思いでがんじがらめに縛られた状態で働けなくなります、そうすると早死にしたりしてしまいます。
 だから、好きだと思われるのは良い事じゃないですね、好きというのと愛というのは違いますね。神様の方から来る愛というには人の自由を縛りません、相手の必要なものを的確に与え尽くしていこうという行き方ですね。相手に何も求めないですね、相手が幸せになることを願うわけです、必要なものを与え尽くしていきます。与え尽くす心だから相手も与え尽くしてくれます。
 
求め合うのは良くないですね、与え合うのが良いですね。好きというのは求め合うほうですね、相手を縛って相手から奪うという行き方になります、必ず傷ついて心が痛んできます。でも、与え尽くすというのは、相手を幸せにしたいばっかりだから、相手からも幸せをもらえるし、周りから全体から幸せをもらえるようになります。
 感謝というのは、与え尽くす心が中にあります、思いをドンドン消して与え尽くす心を出してくれます。だから、相手に尽くせる心になってくるでしょう、そうすると相手から周りから尽くされて幸せが大きくなります。
 好き嫌いの好きというのは、前の世かもっと前の世でね、相手からかなり借りがあるんです、借金があるんです。無性に相手が好きになって、何するか、尽くしたくなるね、借金返ししたくなるんです。好きという感情に囚われすぎたら幸せになれません。


過去・現在・未来を通して全体から助けを受ける

質問者:
 「ありがとうございます」と「ありがとうございました」はどう違うんですか?

ありがとうございます:
 「ありがとうございます」は神様の名前を呼んでいますが「ありがとうございました」は呼んでいませんね、一つの現れに対する小さい感謝です。神様を呼ばないと、過去・現在・未来を通して全体からの助けを受けられないですね、だから、「ありがとうございます」が正しいです。


最初は自分の思い通りに生きようとするんです

質問者:
 思い通りに行かなくて良いということですが、私は何十年も傲慢だったということになりますか?

ありがとうございます:
 人は最初は自分の思い通りに生きようとするんですね、自分中心ですね、でも、思い通りに生きようとすると必ず行き詰まります。思い通りにしただけ人を奴隷のように扱ったことになります、必ず自分が逆になって、思い通りにならなくなって周りの人の奴隷のようになっていきます。
 最初、思い通りになったということは大きい借金ですね、借りを作っているんです、それが利息が付いていくと今度は逆になって、自分の思い通りには絶対ならなくなってしまいます。これは必ず頭を打たなければいけない、行き詰まって頭を打って気付くんです。それで、一番の幸せは、神様の御心のままに生きるのが良いと気付くんです、神様のほうは最高の幸せを与え続けてきて、それを受けて欲しいと待っているんです、待ち続けているんです何億年でもね。感謝にいきなさいと神様は呼びかけているんです、感謝に生きたら神様が与えてくださる無限の無限の幸せがスッと受けられます。
 思い通りになったって一つ思い通りになっただけでしょう、他の全部を疎かにしてしまっています、思い通りになったというのは単なる自己満足でしょう。でも、神様のほうは必要なものを全部的確に与え続けてきているんです、それに気付くほうが大事なんです。
 例えば、綺麗な服を着たいと、綺麗な服を着れたとしてもそれ一つだけでしかないですね、人が幸せに生きるためには無限に必要なものがいっぱいあるでしょう、太陽も必要だし、空気も必要だし、水も必要だしね、そういうのは先に神様が与えてくれているでしょう、必要なものを的確に与えているんですね。ただ気付かないんです、思いを出して生きている間は気付かないですね。感謝をドンドンしていくようになった時に初めて必要なものに気付いていけるんです。太陽はどれだけの価値があるか?無限の価値がありますね、そういうのにドンドン気付いていったら、無限の価値あるものを自分のものにしていけるでしょう、幸せが無限に無限に大きくなっていきます。思いに生きている間はマイナスにマイナスに落ちていきます。
 例えば、この世で権力を握って、全部を支配するような権力者になったとするでしょう、この人があの世へ行ったらどこへ行くか?地獄へ行きます。大勢の人を自分の奴隷に扱ったんです、一人の人を奴隷にするんだったらまだ良いけど、大勢の人を自分の権力を笠に着て支配するんでしょう、人を幸せにしていないですね、そういう人は全部地獄へ落ちていくんです。大勢の人を支配した分は長く地獄の中で苦しまなければならない。言ってみれば借金ですね、高い借金したら長い年月借金返しに苦しむんです。
 思いは捨てたほうが良いですね、思いに生きるより感謝に生きるほうが良いですね。思いは重たい・心が重苦しくなってきます、ドンドンドンドン心が落ち込んできます。感謝に生きたら心がスッと軽くなります、青空に太陽が輝くように心が明るくなってきます、自由な心になります。思いはがんじがらめです、縛られた心だから不自由です、奴隷のようになってしまいますね。

・・・現世で総理大臣とか社長とかは地獄へ行くんですか?

全部が全部とはかぎらないけど、どれだけ他に幸せを与えたかでしょう、幸せを与えた人はいいところへ行けるよね、プラスを与えたらプラスの貯金が出来るから。でも、マイナスばっかり与えていたらだめよね、この世にいい姿を与えてもらうのは借りですね、自分がいい物を与えてそのお返しに与え返されたものはいいけどね、自分は何もプラスは与えてないのにプラスをいっぱいもらっているというのは借りなんです。それもあの世へ行ったら低い所へ落ちていくんです、ただ大臣になるだけでも七代祟られると言われるぐらいのマイナスの借金を増やします。
 普通、いいことしても褒められたら帳消しでしょう、表彰されたらマイナスになるかな?大臣になったからって借金背負うんです。だから、良いことしても目立たないほうが良いですね。

・・・そういう人は地獄に行った時に自分でもわかるんですか?

死にたくない−!という状態になります。死の恐怖 がない人は良い所へいけるというのが心の中で感じているんですね、でも、低い所へ落ちていくと感じている人は死にたくはないですね。借りは作らないほうが良いですね。


あまり無理はしないほうが良いですね

質問者:
 26歳の甥が3回ほど自殺未遂をしているんですが、どういうふうに考えたら良いでしょうか?

ありがとうございます:
 一人一人生き方は自由なんで、その人その人の自由な生き方なので、ただ自分がその姿を見て自分の責任と思うんだったら、それを全部自分の責任として心に取り込んだら変えていく手立てを何か講じられるんです。でも、自分とは別と見たら、相手にしないほうが良いですね。
 自分というのも、小さい自分もあるし大きい自分もあるし、浅い自分もあるし深い自分もあるし、どの自分を掴んで生きるかによって生き方が変わりますね。だから、あまり無理はしないほうが良いですね、本当に大きい自分を生きたかったら、世界が全部自分と思ったら世界中の責任を全部自分がとらなければいけない、それは大変ですね。
 人はそれぞれ思い通りに生きているので、思いを出して思い通りに行きたいという時期もあるんですね、そういうときは感謝に生きたいというのとは違うから、感謝したら良いよと言っても全然受け付けないし、方向が違うんですね、時期が違うから方向も違うんです。思い通りに生きようとして、頭を打って行き詰まって、心が感謝に向き変わった時はお手伝いできますね、その時は一緒にお祈りしたりいろんなことして、感謝が深まるようにお手伝いしたら良いですね。


神様に頼る心を起こしたとたんに助けてくれます

質問者:
 私のこの5年間を振り返ると、「ありがとうございます」という言葉を深く考える事はなかったんですが、感謝をする生き方の連続だったように思います、そんな奇跡みたいな事ってありますか?

ありがとうございます:
 普通、お金に頼っているでしょう、人に物に頼っているでしょう、神様に頼ってないですね。それが、お金に頼り、人に物に頼るのをやめたとたんに神様に頼った事になります。そうすると神様の方から先に助けがスーッと入ってきます、そして感謝のできる自分に変えてくれます。
 神様は感謝しないと助けないじゃなしに、神様に頼る心を起こしたとたんに助けてくれます。そして永遠に感謝できる心に変えてくれるんです、神様にすがり続けられるように・感謝できるように変えてくれるんです。だから、神様のほうが先に助けにきてくれているんです、他に頼らなかったから良かったんです、やめたから良かったんです。本当に頼る所は神様なんです、神様以外に頼り過ぎていたんですね、神様以外に頼るのをやめたとたんに、あとは神様だけが頼る所になります。


人を幸せにする事に使えば貯金になります

質問者:
 土地とか、宝くじとかバブルとかで得たお金を、世の中のために使ってもそれは借金なんですか?

ありがとうございます:
 良い事に使ったら貯金でしょう、それももっと良い事に使ったら高利の利息の付く貯金ですね。借金の利息を上回る高利の利息が付けば良いのよね、本当に人を幸せにするために使えば少々の借金は消えてしまいます、そして貯金が増えていくと思います。プラスの心を起こせばいいんです、ただ、大金が入った時にプラスの心が起こせない人がいるんですね、大金が入った時に欲の心が起きやすいでしょう、そういう人は大変ですね、そういう人は持たないほうが良いですね。良い事につかえる人は心の重荷に負けない人です・強い人です、元々徳が・貯金がたくさんある人ですね。そういう人だったら良い事に使って貯金を増やせますね。
 宝くじが当たったら、ここへこう寄付してと思うじゃない、当たったとたんにどこへも寄付しない<笑い>心はいっぺんに変わります。


プラスの言葉は貯金です、マイナスの言葉は借金です

質問者:
 お金に利息が付くのはわかりますが、良い事をしたらそれに利息が付くというのがわからないんです。

ありがとうございます:
 この世の貸し借りはほんの一部の貸し借りですね、本当の貸し借りは、プラスのことばを使うかマイナスの言葉を使うかで大きく変わります。プラスの言葉が貯金のほうです、マイナスの言葉が借金のほうになります。マイナスの言葉を使ったらドンドン借金が膨らみます、この世の借金もその一部です、借りるというのもマイナスの言葉の一部でしょう、小さいマイナスの言葉だけどね。

・・・100のマイナスの借金が出来たとして、それに利息が付きますか?

付くよ、借金も種類があってね、高利の利息が付くのもあるし、チョッとだけ付くのもあるしね、全部違います。マイナスの言葉でも、軽いマイナスの言葉ときついマイナスの言葉とがあるじゃない、きついほど利息が増えます。この馬鹿野郎と言うのと、死んでしまえではだいぶ違うでしょう、きついほうが利息は早く増えます。プラスの言葉も同じです、いい言葉ほど利息は増えます。「ありがとうございます」が最高の利息のつく言葉です。


神様へ心を向けて、最高の情報を受け直す

質問者:
 先生はこれからの情報化社会・情報というのをどのようにお考えですか?

ありがとうございます:
 立心偏に青、青空のような、本当の神様の心なんです元々はね、情というのはね、神様の方からいろんな響きがドンドン来るように伝わってくるわけでね、それを受け直して神様の恩に報いていくというのが「情報」なんでしょうがね。人を相手にするんじゃなくて神様を相手にするのが本来の生き方でしょうね。
 今までは低い番組に心を向けすぎて、本当の意味での神様からの情報を受け損なっていたという一面があるでしょうね。神様へ心を向けて最高番組からの情報をいっぱい受けるのが良いんでしょうね、本物の時代というこれからは特にそうですね。神様に心を向ける時代ですね、最高番組へ心を向けて最高のものをこの世へ降ろしていただくために、最高のものを受け直さないといけない。
 ほんのチョッとの心の向け方なんですね、ちょうど太陽を見るんだったら、心をまともに向けたらいつも光が降り注ぐんですね。チョッと角度をずらすだけで光の量は極端に少なくなっていきますね。

最初から太陽が輝いています

質問者:
 禅で言う、空っぽにすると、「ありがとうございます」の違いを教えてください。

ありがとうございます:
仏教は空を目指すんですね、ただ、空の解釈が無に思い違えていた一面があるでしょう。空とは何かというのがね、無と同一視する、今もそういう考え方をする人がありますね。そこに問題があったと思うんですね。
 本当の空は神様の絶対を指しています、無限の無限のプラスでいっぱいという世界ですね。そこからいろんな表現が生まれてくるわけでしょう、表現というのは一瞬一瞬移り変わりますが、変化する・無常なんだというのが、バックがなにもないと儚い・虚しいですね、寂しくなります。バックが神様・無限の無限のプラスであれば良いものがドンドンドンドン出てくるだけなんです、変化ほど楽しいものはないということになります。
 自分の心の中からいろんな思い・感情・雑念、全部を振り払ってなくしてしまえば青空のようになるんです、青空の中へ太陽を持ってこないといけない。いくら青空といっても太陽が消えたら闇です、無限の無限のプラスを心の中へもってこないといけない。それも、雑念を消してから持ってくるというのは難しいんですね、消したつもりになってもすぐにまた湧いてきます、本当に消しきるのはなかなか大変なんです。一時的に表面から押さえ込むのは出来ます、過去の全部を消しきるというのは大変な行がいるんです。
 消すのも兼ねて、無限のプラスを持ってくるのが良いです。だから、最初から「ありがとうございます」を唱えていたら、雑念はドンドン消されていくし、最初から太陽は輝いています。そうしたら、早く心はスッキリして虚しさ・寂しさは絶対起こらないですね。いつも楽しい楽しいとね、神様の愛を身近に感じられるようになってきます。


消す力

質問者:
 「ありがとうございます」を唱えていると、汚れたものを消せますか?

ありがとうございます:
 「ありがとうございます」の中に消す力があります。一応全部消えるんです、新たに起きたものは積み重なりますね。ただ、自分がどれだけ大きくなっていくかというのも関連します、小さい部分は消えても、大きい立場から見たらまだ消えて無い部分もあるでしょう。自分が小さい時に透明になったと思うでしょう、その後自分の気持ちがグッと広がって大きくなった時に、小さい部分は消えているんですが、大きい部分はまだ残っている所があるでしょう。どれだけ自分が大きくなっていくかというのに比例して全部消し切っていったら本当の透明ですね。いったん消えたものは戻る事はありません。

結果を先に受け直せる世界が神様の世界です

質問者:
 何かの没頭している時にも「ありがとうございます」を唱えたほうが良いんでしょうか?二つに分裂しそうなんですが?

ありがとうございます:
 精神統一というのは二通りあると思うんです。思いの自分が思いを集中するというのと、もう一つは、感謝の心で神様の大きい無限のエネルギーを一点に集中するというのとね。思いのほうは、集中すればするほど凝り固まっていくんです、思いの自分が集中しようというのと感謝とは正反対ですね、できないですね、感謝すると集中が途切れたりするね、思いの集中がね。
 感謝だけをしている自分であれば、一点に集中するということは神様の無限の力をそこに集める事になります。逆に言うと、神様の力が大きく降りるから、何をしても神業になります。

・・・例えば、バッターが打とうと集中している時、「ありがとうございます」と唱えれば神業になりますか?

勝ち負けの世界は神様の世界と全然違うんですね、勝ち負けの世界は思いの世界ですね。神業が出るといったら、勝ち負けを超越していないといけない。名人を超越しなければいけない、神業が出るというのは。鉄砲を撃つにしても、百発百中じゃないといけない、何するにも百発百中じゃないといけない完璧でないとね。本当はそこまで行くんです、本当の神様が働いたら・神様の力が降りたら。  例えば、野球でバットでボールを打つのでも、常にボールが止まって見えるぐらいになって、常にホームランを打てるぐらいになったら神業ですね。その時はすでにボールを相手にしていないと思います、すでにボールを打ってホームランになっているという結果だけを見ている世界が神様の世界なんです。だから、どんなボールを投げられても、ボールが止まってそこにちゃんとバットが当たって、全部ホームランになっているというふうに、結果を先に受け直せる世界が神様の世界ですね。それが神業になって出てくるんです。
 だから、勝ち負けを考えてお互い力を出し合っているのはまだまだ低い世界です。思いのある世界はまだダメですね。


神様の全部を感じなければ悟りとはいえない

質問者:
 悟られた時はどんな感じでどんな事が起きましたか?

ありがとうございます:
 悟りはピンからキリまであります<笑い>神様の全体とピタッと一つになるというのは本当は不可能なんです、不可能ですね、神様があまりに大きすぎるし深すぎるし、言葉を超えて想像を絶するものがあるんでね。だから、神様の部分的なものを感じるんですね、太陽ぐらいの光を感じたぐらいでは小さいんです、太陽を無限億万倍したぐらいの大きい光・圧倒的なものを感じてもまだ小さい。
 神様をどれだけ自分の身近に感じ取れるかでしょう、神様はこの世だけが神様の姿じゃないし、無限のチャンネルの全ての表現も神様の働きの姿なので、本当は全部を感じなければならないでしょう、さとり・神様と自分の差を取るというね。本当は神様の全体を感じ取らなければ悟りとはいえない。

・・・イエスとか釈迦とかそれぞれ悟りの段階が違うんですか? 

何を感じているかですね、感じただけが自分のものになっているんでしょう、どれだけ大きく神様の全体像を感じ取っているかで違うんです。悟ったと思っても、奥が無限に無限にという感じですね。今の一瞬悟ったと思っても次の一瞬には悟っていない自分になるかもしれない、逆にドンドン深まるかもしれない。

・・・一旦悟ってまた元に戻るような事は?

あるでしょうね、受け直しを忘れたら、神様をより新しい姿で受け直さなければいけない。例えば太陽を神様に例えてね、太陽を見たら神様を感じたと言うでしょう、次の瞬間目をそらしたらもう感じてないじゃない!そしたらチョッと悟りから遠ざかるでしょう。一瞬一瞬神様を見続けなければいけないでしょう、一瞬の隙もないというくらいね、そこまで感謝し続けないとね。

・・・無限のチャンネルを見ている自分・悟った自分だと思うんですが、その自分にも段階がありますか?その自分と、一瞬一瞬受け直して行く自分との関連性を教えてください。

本当の自分に分身がたくさんあります。分身にいろいろ囚われた自分があります、この世を見ている自分も本当の自分の一つの分身です、だから、意識が全体に及んでいません、部分的には意識しているんだけれど。本体の本当の自分に戻った時に全てに意識が行き届きます、それで自由自在、神様の全てを受け直しているというね。

・・・見ている自分というのもドンドン進化していきますか?

そうですね、神様がどこまでも進化向上する姿をとり続けるから、自分もそれに合わせて行かなければいけないよね、神様には行き止まりがありません、だからどこまでもどこまでも自分も変化するんです。難しいですね悟りは。


感謝に生きようという気持ちだけで大丈夫です

質問者:
 いろんな選択判断をする時に、業・想念(思いの自分)と本真の自分の判断があると思いますが、「ありがとうございます」と唱える事で本真の自分のほうへ導いてもらえますか?

ありがとうございます:
 まず、思いの自分を生きるか、感謝の自分を生きるかでしょう。最初は思いの自分を生きるんですね、思い通りにいきたいとね。これはある程度続きます、ある程度体験すると頭打ったり・行き詰まったり、これはおかしいなと気付きだすんですね、それで今度は感謝に生きようとなるんです。
 感謝に生きようという気持ちを起こした時から神様の助けが入ってきます。神様は感謝に生きはじめた時からずーっと守り続けて助けてくれています。ただ、過去の惰性が残っています、思いに生きていた惰性が残るんですね、時々思いが出てくるのは惰性が顔を出しているんです。それは心配ないですね、神様は感謝に生きるんだから助けようと一生懸命働いている時だから、惰性という思いを消し続けてくれます、どれだけ出てきても心配せずに、自分は感謝に生きようという気持ちだけで大丈夫です。


全体像を捉えて、全体から助けを受ける

質問者:
 守護霊とか守護神とか神様とかのランクはあるんですか、それとも一つなんでしょうか?

ありがとうございます:
 本当の神様は一つですね、神様の部分として全てがあります。無限の無限のチャンネルがあるというのも、神様の表現の全体像からみると、そういうふうに分かれていろんな働きに分化して出てくるんだということです。いろんな次元のいろんなチャンネルの中にそれぞれいろんな人がいるでしょう、高い次元の高いチャンネルの中の人たちはみんな神様なんです、守護霊さん級の人がいっぱい入る番組もあるし、守護神さん級の人がいっぱいいる番組もあるし、番組によって全部違います。
 全体像を捉えて、全体から助けるのが大事なんですね。一人の守護霊さんからだけじゃなしに、無限の守護霊さんから助けを受けるほうが良いじゃない!また他からも必要だったら全体から助けを受けるのが大事ですね。


小さい生き方は必要ないでしょう

質問者:
 天照大御神様に感謝する事と、身近に守護霊さんに感謝する事とどのようにバランスをとっていったら良いでしょうか?

ありがとうございます:
 守護霊さん・守護霊さんと呼ぶと、守護霊さんから助けが来ます。その守護霊さんをどう見るかでしょう、小さい姿でみると守護霊さんだけの助けしか来ないんです。守護霊さんが天照大御神様・宇宙の大神様と一体であって、そのすべての力を必要に応じて与えてくださるという姿で、守護霊さんを大きく捉えたら、守護霊さん・守護霊さんというのと「ありがとうございます」というのが一致してきます。
 ただ、守護霊さんというのを小さく見る人が多いですね。大きく見るんだったら守護霊さんは消えていきますね、「ありがとうございます」だけになっていきますね、必要ないでしょう小さい生き方はね。「ありがとうございます」にみんな戻っていきます。

・・・守護霊さんに気持ちを向けなくても「ありがとうございます」と唱えていれば

「ありがとうございます」といえる人は途中はなくても大丈夫ですね、でも、最初から「ありがとうございます」にいけない人がほとんどですね、そしたら、身近にすがれるものに心を向けていく事が大事ですね、それが最初は守護霊さんかもしれない、観音様であったり阿弥陀様であったりいろいろします。でも、最後は「ありがとうございます」に戻っていきますね。


地獄と極楽

質問者:
 地獄は人間が作り出したものではなく本当にありますか?

ありがとうございます:
 そうですね、番組としてありますね。ただ、それを絶対見なければならないのじゃないですね、選んでは見る事が出来るけれど、神様が番組として用意しているということです。
 地獄を作るのも相当な力が要るんです、神様の無限の力を振るって作り上げた最高傑作ですね。ただ、地獄を見る事によって、謙虚に感謝が深まるという一面もありますね、それで、最高番組・極楽番組が見れたら、本当に幸せいっぱいという気持ちになるでしょう。最初から地獄なんかないんだといったって、感謝が浅くなるんであれば意味がないですね。地獄も知って極楽を味わえるほうが感謝が無限に無限に深くなるね、そういう意味で地獄番組も大事ですね。

・・・地獄は人間の心が作り出したものだと思っていたんですが、そうではなくて、そういう番組が用意されているということですか?
 
ただ、地獄番組を見るには、その波長に合う心を起こさないと受けられないですね。心で番組を選んで引き出してくるんです。ただ、この世では本当の地獄は味わえないですね、この世はこの世の無限のチャンネルの中の一つでしょう、この世は特に全体の縮図としてあるから、この世の地獄は味わえても本当の地獄は味わえません。

・・・極楽はどんな世界ですか?

極楽というのはね、自分の全てを与え尽くして一切求める心を起こさない世界です。与えて与えて与え尽くすだけの世界です、周りが全部同じ事をしてくれます。自分に必要なものは全部回りから、与えて与えて与え尽くしてきます、これ以上幸せな事はないというくらいね、そういう世界です。
 逆に地獄は、求める心を生きる世界です。相手から奪うような心で全部自分のほうへ取り込もうとしますね、周りも同じように自分の全部を奪い取ってくれます。自分の行き方の通りの世界が生まれてくるんですね。

・・・与えるか奪うかで別れる?

与える心と奪う心を一つの要素としてみた時はどっちになるかという振り分けですね。他のものもありますよ、光が極楽・闇は地獄、いろんな要素が振り分けられて地獄と極楽を構成する要素になるんです。その中の一つの要素として、与える心と奪う心があります。


順番に体験して、神様との一体感を深めていきます

質問者:
 神様を感じるというのはどういうことですか?

ありがとうございます:
 神様を感じる感じ方は無限にあります。無限の中の一つを感じたからといって、神様の全部を感じたわけではないんです。神様はどこから来るか?どこから来るかというのも一つの感じ方なんですけれど、常に神様の中に居るという感じ方もありますね、常に神様が全体から、来ているというよりも、神様の中に置かれているという感覚になってきますね。
 感じ方も無限にいろんな感じ方があって良いと思います、それを順番に味わって体験して、神様との一体感を深めていくんです。私は神様がどこからか来るという感覚は全然ないですね、神様の中に居るという感覚ですね、周りは神様ばっかり。どこにいても神様ばっかりとしか感じないですね、いまさら神様をどこかに求めるでもないし、(どこかに)いて欲しいとも思わないし。いろんな感じ方を順番に体験して楽しむんですね。


質問者:
 夢の中でもそういう感じ方はありますか?

ありがとうございます
 夢の中でもいろんな感じ方が出てくるでしょうね、いろんな神様が出てきたという夢もあるかもしれないし、神様の中に居るという夢になるかもしれないし。夢に出てきた事はあるものだけにだけ結び付けて考えないほうが良いですね、それだけに囚われてしまうでしょう、いろんな楽しみ方があります。


自分が消えて神様だけというのが本当の感じ方です

質問者:
 「ありがとうございます」は天照大御神様いまここにまします、ということですが、それは自分の中にということですか?

ありがとうございます:
 自分が消えて、天照大御神様だけが存在するというのが本当なんです。自分がと入ってくると天照大御神様の全体像はつかめなくなります。神様だけがというのが本当の感じ方になってきます。自分が消えていくのが一番良いですね、自分の立場も消えて器も消えてとね、そして天照大御神様だけになったら本当の感じ方ですね。

・・・南無妙法蓮華経のように、「ありがとうございます」はいろんなものが寄ってくる心配はないですか?

「ありがとうございます」は自分を神様にお任せするいき方なんです、そして神様の全てを受け直すいき方なので、全托なんです、自力を使わないですね「ありがとうございます」はね。神様の助けだけを受け入れる・神様の力だけを受け入れる。
 でも、普通はみんな自力で生きようとしているでしょう、自力の我の心を持ったままで南妙法蓮華経と唱えるんでしょう、悟った人は我がないのよね、我なしで唱えたら高らかな響きが出てきますね。我を最初から持ちながらだから、我に波長の合うものを引き寄せてしまいます。肉体の似自分・未熟な自分を掴んで自慢しているような感じになるでしょう、傲慢になった姿をとります。そうすると、傲慢な波に・波長の合うものを引き寄せてしまうでしょう、だからマイナスをいっぱい背負ってしまうんです。感謝には傲慢さはないんですね、全てを神様にお任せしているから謙虚に謙虚になるだけですね。だから、余計なマイナスを背負う必要がないんです、寄ってこないですね。
 「ありがとうございます」は自分にマイナスが合ってもそれを消してくれます、周りにマイナスがあっても自分を通してそれを消してくれます。
 南無妙法蓮華経と南無阿弥陀仏は全然行き方が違いますね、南無阿弥陀仏のほうが他力で作ってもらう側に自分を置いて、自分で何かをしようとはせずに、阿弥陀様だけにすがるでしょう、だから余計なものをかき集める事はないんです。マイナスを背負わなくて済みます、自分のマイナスを阿弥陀様にとってもらうだけの生き方になります。
 「ありがとうございます」は南無阿弥陀仏とは違うんですよ、他力じゃない絶対力だからね。作ってほしいという立場には立たない「ありがとうございます」と唱える時はね、神様から全てを受け直すだけだから悟った自分を受け直すね。「ありがとうございます・ありがとうございます」ともとから悟った自分を受け直します、古いものと新しいものとを置き換えてもらうだけですね。古いものを掴んでしがみついて迷っている自分を悟らしてもらうというように思わなくなります。自力と他力と絶対力と三つあって皆違うんですね。


降りただけ気付いているんです

質問者:
 瞑想とかで、観察者・一つの意識に気付いていく努力というのは自力の分野に入るんですか?

ありがとうございます:
 したからの積み上げというのは自力ですね、最初から悟っている自分・気付いている自分がすっと降りてくるのがいいもんね。

・・・日常の生活で気付こうと努力するのは自力なんですね?
 
下からの行き方だから自力的な行き方ですね。

・・・「ありがとうございます」でやっていくと、ある日突然気付いている自分が出てくるんですか?

悟った自分が降りてくるんです、降り方が順番・段階があっても、悟った自分が降りてくるから、そのぶん降りただけ気付いているんです。迷った自分がいくら気付こうと思っても本当は気付かないですよね、本当の気付きにはならないですね。


徹底するのが一番早く効果が出てきます

質問者:
 効果を求めて「ありがとうございます」を唱えるのはどんなものでしょうか?

ありがとうございます:
 何かを求めてするのは、求める心がマイナスにまず番組をあわせてしまうんです。そこへ「ありがとうございます」を加えるんですけど、まず低い番組にあわせて「ありがとうございます」を加えてチョッと高めてもらうんですね、だから、その差が少ないんです。求める心を起こさずに与え尽くす心で「ありがとうございます」を言うと番組の流れ方がグンと上がります、そうすると効果が大きいですね、差が大きいだけに奇跡に見えますね。
 ただ「ありがとうございます」だけを唱えているんだったら大丈夫なんですよ、ところが違うもんね!マイナスな事をいっぱい交えています、これだけしているのに効果がないと言って、効果がない姿を表しているんです。言葉どおりの番組に波長が合います、感謝したら感謝しただけいいものがドンドン降りてきているんですけどね、マイナスの言葉を交えているんですね。全て言葉通りに思い通りになるんですけど、いくら思っても思い通りにならないという人がいるんです、そういう人は思い通りにならないと思っているから思い通りにならない、そういう言葉を使っているしね。徹底していいことがいっぱいと言えばいいのにね、嘘でもなんでもね<笑い>そうすると良い事がいっぱいになってくるよね。徹底するのが一番早く効果が出てきますね
、マイナスの言葉さえ使わなかったらいいのにね、それを使っているからですね。
 今「ありがとうございます」と唱え出したからといってすぐには結果は出ません、過去に自分がどれだけマイナスの言葉を使い続けてきたかというのが、それが影響するんです。だから、無限のマイナスの言葉を使ったら、そのマイナスの言葉を消しきらないといけないでしょう。チョッと「ありがとうございます」を言ったから表面的に良い事がバーッと出るとは限りません、それ(ありがとうございます)をマイナスを消すことに全部使われたら現実は何も変わらないですね。ただ、心の中の大きいマイナスは消してもらうんですね、それが目に見える結果にまでは出てこないということです。

・・・ということは、若い時から唱えたほうがいいということですね?

前の世からね<笑い>、「ありがとうございます」を唱えるのは一人一人時期が違うでしょう、だから何時からでも良いんですよ、そういう時期が来たら神様の助けがスーッと入ってきて、神様に助けてもらった結果「ありがとうございます」が湧き出てくるんです。神様の助けを受け入れる心の状態になっているからなんです、それまではそれぞれ我がまま勝手に生きたい時ですね、その時は神様は奥で控えめに待機しているから、「ありがとうございます」は絶対に言えないです。





ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.
19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.
35.36.37.38.39.40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.
51
.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.

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