ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。またその内容(ないよう)に責任(せきにん)を保持(ほじ)していません。さらに著作権(ちょさくけん)も行使(こうし)しません。どうぞ自由(じゆう)に使(つか)いまわしてください。できればちょっとアレンジしていい感(かん)じになったよというのをど

ar42偉大なのは本当の神様だけ2001.09.09

質問者:
 マリア様と交信している人があちこちにいるんですが、マリア様と波長が合うからですか?

ありがとうございます:
 同じ一人の人でもいろんな分身を持っているんです、高いのから低いのまでね。神様の無限の無限のチャンネルの中にみんなそれぞれに出演しています、高い番組はいい役の演技をしています、低い番組はマイナスの悪い役の演技をしています。一人一人どういう番組に波長を合わせてどれを眺めるか、マリア様もピンからキリまであります。より高い番組のマリア様ほど力もあるし輝きも大きいし、低い所ではたいした事ありません。そしてマイナスに傾いたほうではあまりプラスもないといった感じの姿もあります。
 本物かどうかもまた別なんです、化けて出る場合もある、人まねして出る場合もあります。同じマリア様というのでもピンからキリまであるし、マリア様のまねをして出てくる時もあるんですね。自分の気持ちが暗いほうへマイナスへ傾いている時は、マリア様もマイナスに見えます、いい姿に見えなくなります。マリア様が素晴らしく見える人は、その人は進境が高いですね。どんな人を見るのでもマイナスにみるのは自分がマイナスなんですね、高く見るほうが良いですね、それも神様の現れというふうにね、最高に素晴らしいと見える自分が一番良いですね。

・・・本物偽物の見分け方はありますか?

高いか低いかを見分ける方法は謙虚かどうかですね。高いほど謙虚で自分を隠してしまいます、名も名乗らないです、低いほど偉大な神様の名前を名乗ってきます。見てたらわかるんですけどね、天狗になって傲慢になってきますね、あれをしろこれをしろといろいろ注文してきます、押し付けてきて強制してきます、低いのはね。高いほうは、名乗ってこないし、人の自由を絶対に縛らないし。
 なぜかというと、本当に高い自分だったら・神様から一瞬一瞬受け直している自分だったら、神様の前に立ったら謙虚になるしかないのよね。神様の偉大さがわかればわかるほど、自分がマイナス無限大に見えてきます。だから必然的に謙虚に謙虚になるしかなくなってしまいます、だから自分を名乗る事も出来なくなってしまいます。全て神様なんだ・全て神様の偉大な力なんだとね、自分には何の力もないんだとわかってきます。偉大なのは本当の神様だけ、だから名乗る必要はないですね。自慢する必要は全然ないですね。


ただ必要なだけでいいんです

質問者:
 波長の合わせ方を教えてください

ありがとうございます:
 言葉の力です、言葉で合わせるんです,高い番組に合わせたかったらいい言葉を使うほうが良いですね、だんだんと合ってきます。
 本当に必要だったらなんですけどね、この世に生きてこの世で生活しなければならない時に、中途半端に他の世界が見えたら中途半端な生き方になってしまうでしょう。その時その時の自分の状態によって変化します、同時に他の世界を見る必要があれば同時に見えるでしょうし、一つの番組の中でそこで何かしっかり吸収して勉強するために、その番組だけに絞るんだったらその番組だけしか見えなくしてくれるし、それが必要なんですね。 この世とあの世とがいっぺんに見えたらごっちゃになってしまいます。ただ必要なだけがいいんですね。
 いろんな超能力があったらいいなと思う人は多いんですが、逆かもしれないですね、余りありすぎたら困る。いろんな世界からいろんなインスピレーションを送り込んできて、強制的に聞かされるとするでしょう、本当にいろんな声が聞こえてくるよね、ノイローゼになる<笑い>。いろんな世界が見えるのも同じですね、テレビを10台並べてみるのとは違うでしょう、次元の違うのがダブって見えるんだから大変ですね。
 本当の神通力というのは、必要な時に必要なだけが降りてきます。いつも強制的に見せられたり、聞こえたりするのは良くない。

・・・前世が見えるとか、天使の声が聞こえるとか言う人の言葉は信じてはいけないんですか?

前世が見えるというのでもね、番組ごとに前世過去世があるでしょう。低い番組の前世過去世を見られたら、あの人は悪いことばかりしていると言われますよ、高い番組のだったら、あの人は良い事ばっかりしてきたと言われますね。それを自分が聞いてどれを受け入れるかでしょう、マイナスなんか聞きたくないですよね。
 過去を掴むのはあまり良い事ないですね、その番組にはまり込んでしまうからね。今を新たに神様から何を受け直すかという生き方が良いですね、過去に縛られないほうが良いですね。


頼る所は神様だけ

質問者:
 場を良くするエネルギーグッズはどうなんでしょうか?場・環境を良くしてその人が良くなるという?

ありがとうございます:
 環境の影響を受けるときはまだ自分が弱い時です。自分が強くなったら環境を変えていくんです、自分を強くして環境を変えていけるほうが良いですね。だから、お祈りして感謝して神様の力をもらって自分を強く輝かしていけばいいよね。そしたらどんな場も変わります、自然に変わるのが一番の理想ですね。何かに頼るとそれがないとだめになってくるでしょう、逆に、自分の力を出さなくなってきますね、杖に頼ったら足でも強くならない。頼る所は神様だけがいいんです、そしたら中から力が湧いてきます。頼ったらだめというのではない、それが早く要らなくなるのが大切ですね。


感謝は神様が創造したものを全て受け入れる心です

質問者:
 「ありがとうございます」を唱えていると、何にもしなくても整ってくるんです。「ありがとうございます」の効果と言っていいですか?

ありがとうございます
 最初は何でも自分の思いで作り上げていこうという生き方ですよね、思いなんてちっぽけな力なんですよね、思い通りになったにしてもチョッと実現したぐらいですね。でも、感謝は神様の創造したものを全て受け入れる心ですね。だから、無限に無限に偉大なものでも感謝さえすればスッと受けられますね。自分が作るんじゃなしに神様が創ったものをもらうだけなんですよね、感謝というのはね。
 だから、どんな大きいものでも受け取っていけるというのが感謝です、それは順番に段階を追って神様が与えてくれるものを受け入れていけます、どこまで行っても無限に無限に大きいものが待っていてくれます。
 自分の力で何か作るというのも良いんですけど、神様の中に溶け入ったら神様と共に作っている感覚が生まれてくるんです。ただ受けるだけじゃなしに、神様の宇宙創造に自分が一つになって参加しているような気持ちになっていきます、奥へ入れば入るほどね。その喜びのほうがもっともっと大きいですね。
 人間は神様と同じ創造の喜びを持っているものなんです、この世へ出てきて思いを出して創造するのは本当にちっぽけな創造への参画みたいなものですね。神様の中へ溶け込んで神様と一緒にいろんな番組を創造しているというのがいいじゃない!それも同時に味わって楽しんでいます。

・・・芸術家は絵を描いたり作曲したりしますが、私たちは人生そのものが芸術だとはいえませんか?

元々そうなんです、人生の本当の目的は、神様の最高表現を受けて現実化して楽しむ事なんです。この世へ最高表現の番組を引っ張り出す事ですね。芸術家は芸術を通してしているんですね、ふつう・みんなも生活の場で最高表現を現実化しようとしているんです、本当は芸術家以上かもしれない。生活の場で現実化できるのが一番の理想でしょう、芸術の分野だけじゃなしにね。
 音楽家で音楽の分野だけで最高のものを表せても、現実の生活ではまだまだ中途半端な人はいるんじゃないですか、人格的にチョッとおかしいとか。本当は現実の生活の場で人格も最高の姿を出して全て生活が整ってこないとね、そっちのほうが大事ですね。 仕事を通して神様の最高表現を現実化する訓練・勉強をしているんですね。


神様は必要なものを与えてきます、それは絶対の真理です

質問者:
 こつこつと自分で積み上げていく、積み上げたものの中で安住の地を求める小さい幸せを求めているんですが 、それを打ち破る教えがないように思います。

ありがとうございます:
 神様は一人一人を見守り続けているでしょう、絶対の愛の力で守っている限り、人の愛なんか比べ物にならないくらい大きい深い愛で守っているんです。本当に必要になったら神様の方から救いの手がサッとさしのべられます、今まで神様の助けを必要としていないんですね、まだね、まだ自分の思いのままに自由勝手に生きてみたいという時期ですね、だから神様は控えめに見守っているんです。必要になったら必ず必要なものを与えてきます。それは絶対の真理です。
 これから一人一人が何を必要とするかで変わってくると思います、本当に神様の助けを必要として、神様の最高表現を現実化しようとする生き方を選んできたら、それに必要なものを的確に神様が与えてきます、それはいろんなインスピレーションになって降ってくるかもしれない、それを誰かが受けてみんなの前に持ってくるかもしれない。神様は一人一人に必要なものを与えてきます、だから、何を必要としているかが大事ですね、必ず必要なものは与えてもらえます。
 だから、何も心配はないんです。神様に守られている・神様の手の中で動いているだけだから、どうにでもなります。

・・・神様にそっぽを向くのも神様のほうへ向くのも自由であると神様は自由を与えられたんでしょうが、今、神様のほうを向きましょうという提案は神様はしてないでしょうか?
ありがとうございます
神様は神様と一体の一人一人を信じ切っているんです。一時的にマイナスの番組に落ち込んでそれを体験しても、それにはまり込む事はないと信じきっているんですね、必ず戻ってくるとね、それだけのいいものをすでに与えてあるからとね。
 神様と一体の悟った自分というものをみんな持っているんだから、時間的なずれは少々あってもそれが一番良いんだという感じですね。何も心配してないんです、必ず時期がきて最高表現の番組を味わえるようになってくるんです、必ずそうなってくるんです。だからお節介の方が時期を誤らせるんです、中途半端だともう一回マイナスに戻りたくなるでしょう<笑い>まだ見たりないと、時間が余計に遅くなりますね。


全ての番組に出演しています

質問者:
 地獄の亡者もいつかは神様と一体化するんですか?

ありがとうございます:
 皆さんも低い番組の表現をとっているんですよ、同時にね。低い番組に出演しているんです、地獄の亡者の姿をとっているんですよ。そこへ波長を合わせることでそれを感じ取れるんです、
もしそれが番組としてなかったら、どんなにマイナスな事があっても体験する事も合わす事も出来ないじゃない。だから全ての番組に出演していると思えばね、みんながそうだから、もし低い番組を見てあの人は悪いと見たら、自分が低い波長にあわせているだけよね、部分的にもね。
 周りの人がいろいろ変化するのも、自分が願って変化したいと思うのも、自分の中に同じマイナスを持っているからなんです、本当はね。まず、自分の心を変えたらいいんです。根本はね、自分の心の状態を変えていい番組に波長が合うようにして行きたいだけよね。それを他に責任を転嫁するような姿をとっているだけでしょう、他のせいにしてチョッと逃げている所がある。全部自分の心の中にあるんです、自分の心の中の状態を周りの姿に映し出している、心の状態を鏡に映し出して見ているというようにも例えられますね。


何もないほうが良いよね

質問者:
 最近の学校は、設備が整っていてそこで勉強している割には行き詰まっていて、昔のような優秀な人が出てきていないように思うんですが?

ありがとうございます:
 質素な生活を・・・不明・・・
贅沢な事をすると借金を背負うんです。例えば、学校の校舎は国の税金を使って建てるでしょう、国の税金というのはみんなの思いをいっぱい背負っている姿です、みんなあまり喜んで出さないですね、税金はね、取られたと思うじゃない!そうするとマイナスがいっぱいくっついてきます。だから人のマイナスの思いを背負ってしまいます、国の税金から援助して建てたといってもね。立派な校舎を作れば作るほど、マイナスが子供に負いかぶさってきます、それが結果としてはいい結果が出ませんね、もっとぼろっちい掘っ立て小屋で良いんです。そこでのびのびと自由に勉強させたら本物になりますね。
 
まず心にマイナスを背負うと利己的になるんです、背負わなかったら正しい助け合いの心が自然に湧き出るでしょう、愛の心が深くなっていきますね。だから運命的にも悪いことは絶対に起こらないはずです。
 道元さんの生きているときは、弟子たちが修行する場所はみすぼらしい掘っ立て小屋なんでしょう、今みたいな道場は建っていない、どちらが良いかと言うと何もないほうが良いよね、雪が舞い込むような掘っ立て小屋のほうが良いですね、そこで修行するほうが幸せになる、余計なマイナスを背負わないですね、 そん してますね。


働きに違いはあっても全体は一つです、融和しているんです

質問者:
 キリスト教なら天国、仏教なら極楽、それぞれ別に存在するんですか、交流したりはしないんですか?

ありがとうございます:
 この世でいろんな言葉を使っていろんなものに表現しているのはかなり囚われた表現です。それも全部番組としてあるんですけどね。もっともっと高い世界ではこの世の言葉では表現できないもっといい言葉の表現の世界です。だから分かれてないですね、高い世界ほどね、分かれる必要がないですね。働きの違いはあっても全体は一つです、融和してるんです。
 純白の光が七つに分かれて出てきます、ばらばらというより、七つの光が渾然と融和して一つになっているというのが良いでしょう。今はまだ、キリスト教はキリスト教でないと救われないというような感じでしょう、囚われているでしょう。キリスト教からはキリスト教のいいものを受けて、他からは他のいいものを受けて、全部からいいものを受けて、全体がいいものになっているというのが良いでしょう。

・・・キリスト教で天国へ行けば、縛られない融合されたそういう世界へいける?

キリスト教自体にピンからキリまでの段階があるんですね、高いキリスト教だったら全部抱擁してしまうものがあります。全てのものを抱擁して生かしきっている本当のキリスト教の姿があるんです。一宗一派的に頃固まっているのは低い番組ですね。

・・・キリスト教でも仏教でも最高番組に到達すれば、融和した所へいけるということですか?

ただ、キリスト教だけでずーっと上がるかというと、そういう人もないとは言えないけれど。いろんな勉強をしてるんですよ、繰り返し繰り返し生まれ変わってはね、いろんな宗教のいいところを吸収して、みんなからいい所を吸収するのがいいんだというやり方で、ドンドン番組を上げていくよね。
 みなさんが「ありがとうございます」へたどり着くという前に、いろんな体験をしているんですね、ほとんど全部というくらい。だから何か少し勉強したらすぐわかるはずよね、ただ、この世では全部を勉強はしてないかもしれないけどね。


神様の道は自由自在なんです

質問者:
 私は過去の世の記憶がないんです

ありがとうございます:
 過去に縛られないほうが楽なんです、過去の足跡みたいなものなんです、過去の足跡をたどってもね、今だけが良いですね、過去の足跡に囚われると同じ傾向をたどります。

・・・未来にも縛られないほうが良いですか?

未来のことを心配しても意味がないですね、今の連続で良くなるばっかりなんです。

・・・任せるというのはそういうことですか?

レールは必要ないんです。宇宙の大道という神様の道は自由自在なんです、どこへでもいける道なんです。


皆、違う悟りを・道を進む姿を選んで生きてくれている

質問者:
 聖フランシスコは ありがとうございます にとってどんな人ですか?

ありがとうございます:
 いろんな番組に出演しているでしょう、一つの番組でこの世に生まれてきて一つの姿をとったにしてもね、本当はあんまりたいしたことはないんですよね。最高番組の中の姿を見ていけるというのが一番大事なんです、無限に無限の素晴らしい褒め言葉で語ったほうがいいんですよね、本当はね。
 小さい生き方じゃないんですね本当はね、この世の人にチョッとは参考になる姿はあっても、本当の参考になる姿とはいえないですね。これが良いと決め付けるとまた囚われるし、過去のこの世に生まれてきた大勢の聖者がいても、それぞれ全部生き方が違うんですね。その真似が出来るかというと出来ないですね、それぞれに良いところがいっぱいあるんです。
 自分が最高のいき方をとったとしても、自分ひとりで全部を表現するわけには行かないですね、自分の代わりに周りの人はみんな、代わっていろんな行き方をとってくれています。悟りへの道を歩む姿でもそうですね、皆、違う悟りを・道を進む姿を選んで生きてくれている。その悟りの姿も同じなんです、同じ悟りじゃ意味ないでしょう、個性のある違った悟りが良いでしょう。皆の違った悟りを大きく取り込むのが良いですね。
 だから、みんなを自分の代わり・自分の分身のように見て、みんなそれぞれに素晴らしいなというのが良いですね。

・・・ありがとうございます を自分の分身と言って良いですか?

いいですよいいですよ。遠慮なくどうぞ!分身が無限の無限のを言ってくれています。

・・・自分の思い通りにしたいと、それが頭打ちになるまでやってから感謝の道に入ったほうが、結果的には早い事になりますか?

感謝に生きる人は、まず第一に、気持ちが大きくなっていきます。この小さい自分が頭打ちしなくても周りの人がいっぱい頭打ちしてくれますから、分身を使うんです<笑い>頭打ちするまでお祈りをしないというのでは大変ですから、自分はお祈りをしながら分身を使って頭を打つ、そのほうが早いですね。


個性は最高表現の中にあるんです

質問者:
 ありがとうございますと同じような個性の人がいたら教えてください

ありがとうございます:
 本当の個性は、神様と一体化したときに個性が与えられるんです。神様から全てを受け直したという自分は、神様の全ての働きを頂いているでしょう。その全てをこの現実で表現できるかというと出来ないですね、無限の中の一つですらこの一生では表現できないですね、同じ無限の個性を持っていてもその一つすら現す事が不可能です。
 それくらい違うんです。神様と一体の自分というのは、みんなそれぞれ同じなんです、ただその意識の中心が違うんです、その意識の中心がそれぞれ別なんです。同じ材料を持ちながら、意識が違う事によって組み立てるものが違うんです。材料が同じでも組み立てが違ったら全部変わるでしょう。
 同じダイアモンドの原石があっても、面のカットの仕方で全部変わりますね。本質的には神様の全部を受け直しているんです、意識の中心が全部違う事によって、全部個性ある表現がそれぞれ生まれるんです。最高表現の中にそういうものがあったとして、次元・番組をドンドン下げてくると、最高表現の個性のほんの一部が出てきます。個性は最高表現の中にあるんです、個性が豊かになってくるほどそれぞれの違いが良くわかってきます、みんな違ってそれぞれ素晴らしいというのが良くわかってきます。その違いがわからないのが個性なんです、ぼんやりとしてぼやけてしまっています。
 個性がはっきりしてこないと本物とはいえないですね、一人一人の中に素晴らしい良さが出てこないといけない。神様の特性をそれぞれみんな持っているんです、例えば、明るさという一面があっても、明るさが全部違わないといけない、同じ明るさの姿をとったらいけない。喜び方も喜びの表現がそれぞれ変わらないといけない、個性が発揮されればされるほど、喜びの表現が全部変わるんです、同じ喜びであってもね。全部・そういうふうに全部変わってくるんです。だから誰も真似は出来ません。一人一人違うんです、無限の人がいたら無限の違いがあります、それで個性というんです。
 似たような姿があるかもしれないけれど、やっぱり違うんですね。それが自然に「ありがとうございます」と感謝しているうちに、最高表現・個性がより豊かに現実化していきます。自然に出てくるのが良いですよね、出てくるのを邪魔するものを払いのけて消してしまえば良いです、思いを消したらいいだけなんですね。思いが個性が出てくるのを邪魔していたんです、思いをドンドン消してもらえば、ちょうど空の雲が消えて太陽が輝き出るような感じですね。個性がそれぞれに出てきます。
いろんな見方があります

質問者:
 病気の人を何万人も治されたんですが、それは、病気の人の思いが消えていく姿だったんですか?

ありがとうございます:
 いろんな見方があるんですけど、病気をするのが幸せか?治るのが幸せか?治るのが幸せというのが普通ですね。治した人を幸せにしているという錯覚があるんです、病気直しをして人を幸せにしているという錯覚があると、病気直しを一生懸命する事が喜びなんですね。それでそれに一生懸命に励むという一面もあるんです。また、自分の心の中にマイナスの心があると見た時は、それを消してもらうためにお祈りを励んだという一面もあります。そういう枝葉のものを目的にしたんじゃなしに、お祈りの訓練のためにそれをさせてもらったと見れば、お祈りの訓練のための大きい材料になりますね。
 だからいろんな意味あいがたくさんあります、プラスに見ればいくらでもプラスに見れる目的があったんですね。それを通してかなり勉強もし心も清めてもらい幸せをつかませてもらったというのが本当ですね。
 同じ表現の姿が、いく通りも見方がありますね。人によってまた見方が変わると思うんですけど、自分ひとりにとってもいろんな見方がありますね。時期が変わって違う見方が出てくるかもしれないしね。


感謝は光です、光は大きくなります

質問者:
 「ありがとうございます」が天照大御神様いまここにましますという意味だと何時頃どんなふうに気付いたんですか?

ありがとうございます:
 認識はドンドン変わりますよね、「ありがとうございます」を唱えるとバーッと光を感じました、三歳の頃から。感謝は光なんです、光は大きくなります、それがドンドン大きくなると自然に天照大御神様に結びつきます。天照大御神様という言葉を使ったのが何時かというだけでね、光はドンドン強く感じてますからね、感謝すればするほどね。感じ方は自然に変わります。





ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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