ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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AR112 2001.5.3.02
 DNA・クローン・続進化論

質問者: (番組の話)先生はチャンネルの1チャンネルから100チャンネルの全部を見てらっしゃるのか、それとも100チャンネルだけを見てらっしゃるのか?

「ありがとうございます」:100チャンネルだけを見てる時もありますしね、謙虚に謙虚になって、一番下から全部仰ぎ見ようとしてる時もありますね。もう、何もかもプラスで見たいっていうね。地獄の番組もプラスで見たいっていうね。両方あります。でもなかなか全部見きれないですよ(笑)。なかなか謙虚になりがたいですね。やっぱり本当の地獄の苦痛を味わうのは大変ですよね。皆自分の身代わりになってマイナスを背負って下さってる姿、愛の姿って思っても、実際その前に立つと苦しい、痛いが先に立つんですよね。でも下から見上げたいですね(笑)。どこまでもどこまでも下があるみたいで・・・。ありがとうございます。

質問者: (「ありがとうございます」と響きの似ている)「おめでとうございます」というのは言霊的にはどうなんでしょうか?

「ありがとうございます」: よく似てるんですね。そっくりな位にね。お正月の「おめでとうございます」もすごい言葉ですね。新たに出直す言葉なんですね。「お」は大きいという意味だったら、無限に無限に偉大な存在っていう風に捉えられますしね。「め」は目に見える姿で現れた全てを捉える言葉ですよね。絶対から現れる全部っていうね。「で」は照り輝く、それがだぶってるっていう風に見るとね、照り輝き照り輝き、無限に無限に輝いたってことですよね。「とう」は「ありがとう」の「とう」と一緒ですね。
 だから、同じと言ってもいい位。いい言葉ですね、「ありがとう」と「おめでとう」はね。こういう素晴らしい言葉は日本にしか無いらしいですね。ありがたいことだと思います。

質問者: 「ありがとうございます」も「おめでとうございます」もこれからたくさん使わせてもらおうと思います。

「ありがとうございます」: そうですね。「あけまして」っていう言葉もいいですね。「新年」っていうのもね。常に新たに新たにっていうね。いい言葉がいっぱいですね(笑)。嬉しいですね。

質問者: (ここの土地を買ったお金等)「ありがとうございます」先生のお金の出処は・・・?

「ありがとうございます」: どっから入ってくるんでしょうねえ(笑)。この辺からさっと入ってくるといいんですけどね。必要な時にね、すっとお金持ってきて下さるんですね。その時期が来たらね。私が何にも思ってもみなくても、何でこんなお金入ってくるの?って思うんですけどね。そのすぐ後に話が来るんです。もう、理由も何も無いんですよね。やっぱり背後で神様が、お陰さまが働いて下さるみたいですね。だから私が計画も何もしてないのに、向うの方から、向うの世界で計画して動いて下さる神様がいっぱいいてるみたいですね。そうでないと、ぴたっと金額合うこと無いでしょう(笑)。だから、必要なだけしか入ってこないですけど、それがぴったりの金額なんで不思議なんですね。
 面倒見な可哀想って思って下さるのか分かりませんけど(笑)、(その必要な分は)神様の計画では必要なんでしょうね。それで神様の責任のもとに色んな神様を使われて応援して下さるんだと思うんですけどね。それでなかったらこういう所では、時代が変わっても全然進まないですよね。まず、この辺は木がいっぱい生えてて電柱一本立ててくれるいうことも絶対無いんですよ。木を切りだす時に邪魔になるからってね。この前の山でもそうなんですけどね。森林組合とか山の所有者で管理してるんですね。絶対作らせないんですよね。それが奇跡みたいに電柱が立ったんですからね。だから全てがそういう風に、奇跡の連続でね。神業みたいな感じで。建築規制の点でも、余分なお金も全然かからずに自由に建てさせてもらえたしね。全部うまくいってるのね。(相手側に)神様が目隠ししてくれたのかもね(笑)。向うの宿泊施設もそうですよね。考えられへんですよ、本当。奇跡みたいで。誰が口封じしたんか、いう感じ(笑)。上手に神様が操ってるのかもしれないんですけどね。

質問者: 人が来るかどうかも分からない時点でこのような宿泊施設を建てたというのは予知のようなものが働いたのでしょうか?

「ありがとうございます」: 無いゆうたら無いし、あるゆうたらあるんですけどねえ・・・(笑)。でも、もう一つの番組のストーリーとして神様が計算した通りになってるんですよね。でも、今の一瞬一瞬は別に何の思いも無いし、感謝だけなんですよね。だから、いい番組のストーリー通りに運ばれていってるだけっていう感じで。たぶんこの地域一体が皇(すめら)の聖地っていうような感じでね、(神様の)計画的にはこういう大勢の人を誘ったりする人を生み出す場所になってるらしいですね。「ありがとうございます」を唱える事によって本当の神様と一体化する、というね。いっぱい出てくるらしいですよ。何万人どころじゃないみたいですね。だから、そういうことだったら神様の方で大きい計画を立てて、地球をかえる為にっていう計画のもとに動いてるんでしょうね。でも、そういうと言葉にとらわれてしまうんでね、隠しとくほうが(笑)いいんかなって。結果を見て、それでよかったって思ったらいいんでしょうね。

 神様の世界と人間の世界

質問者: 自分にとって神様はまだ遠い存在だけれども、人類がこの先進化するにつれ、神様の世界と我々人間の世界がそれぞれ存在する、という考え方を持つようになるのでは?神様の計画があるとすれば、我々人間はいちいちじたばたせずに、その計画に沿って進んでゆけばいいのでは?

「ありがとうございます」: その方が本当ですよね。そういう考えにたどり着いたらすごい悟りですよ(笑)。やっぱり神様が根本ですもんね。そこから全部現れて、動かしてますよね。ただ今までの人類は思いを出して、その思いで本当の姿を隠してきてたっていう感じなんでしょうね。ダーウィンの進化論にしても、今いろいろ言われてるクローン人間にしても、本当は大きな間違いを犯してるみたいですね。間違った考えをしてるみたいなんですよね。何故かっていうと、神様は絶対の中に同じものを一つとして持ってないのね。全部違うものを無限に無限に、いっぱい倉庫に溜めてあるのね。それを一つずつ出してきてね、新しい創造をし続けるんです。だから進化論といっても、例えば三角があって四角があってマルがあって、とするでしょう。三角から四角になるのはなり易いと思うんですね、直接三角からマルよりはね。三角から四角になって、それからマルになるほうが正しいんだろうと思う訳ですよね。そういう考えを定説として流して、それに賛同する人間が増えてきたから進化論が生まれたと思うんですね。でもね、神様の方からは三角も四角もマルも絶対の中に全部持って出て、それを新たに新たに押し出してくるんですよね。今まで三角しかなかった。ちょっと淋しいから今度は四角を降ろそうかって訳ね(笑)。で、三角・四角降ろしたから今度はマルも降ろそうかってね。

 だから、三角や四角をマルに変えた訳じゃないんですね。新しくそこへ持ってきただけなんですよね。だから、進化論は合わないんですね。間違ってるんです。それともう一つクローン人間は、同じものもう一つ作れるんかっていう考えですけど、これは絶対不可能ですよね。例えば一つの設計図で三軒の家を建てるとするでしょう。素材をマツとスギとヒノキって三つに分けたとするでしょう。マツの家、スギの家、ヒノキの家、とすると、形は同じだけど、同じ家とはいわないでしょう。区別の分かる人はこっちはマツ、こっちはスギって、同じじゃないって言いますよね。設計図が同じで形も同じでも、素材が違ったらやっぱり全く別のものですよね。それと同じで構成する一つ一つが本当は全部違うんですね。もう、原子一個一個でも全部違うし、原子を構成する素粒子一個一個も全部違うしね。大きいもの程違うものをいっぱい組み合わせて作られてるから、なんぼ表面的に似たような姿をとってても全然違う訳ね。もう、無限に大きい違いがあるのね。

 だから、DNAの設計図をもとにして作ったとしても、一つ一つを構成してる要素が違うから、どこをさがしても同じものは絶対に無いんですよ。宇宙には一つだけなんですね。それに代わるものはどこからも持ってこられない。人間の細胞が六十兆近くあったとして、六十兆の積み木と思えば、ね。Aっていう要素はここ、Bっていう要素はここって決められてるとしたら、似たものでもどこからも持ってこられない。代用がきかない。だから、クローン人間を作れると思ってる人は、頭がいいんです(笑)。よすぎるんですね。作ったように錯覚できるんですけど。でもそれは神様の側から見たら、幼稚な馬鹿な間違った考えなんだっていう風に神様は言うてくるんですけどね。

質問者: (人間の間違った考えも)最終的には神様の計画に沿った方向へ向かうための過程なんでしょうか?

「ありがとうございます」: 神様の表現は、どの番組の表現も本当は最高表現なんですよね。地獄の番組もね。神様の最高傑作になるんですよね。地獄の石ころ一個もね、本当は無限に無限に輝いてるんです。絶対の個性あるものを複雑に組み合わせて生み出して、地獄の石ころ一つにかえる訳ですからね。その本当の違いが分かれば一個一個の存在が無限に無限に輝いて見えるんですね。たとえ地獄にあっても。その違いが分かったら、本当の意味での神様の表現を正しく味わえてるって言えるんですね。それが分からないのはまだ見る目が無いのね。その見る目を何かで覆いかぶしてるか、見えない状態なんですね。それが思いで目隠ししてるのかもしれないですけど。思いを捨てて、感謝の心で正しく明るく見えるようになった時にその区別がはっきり出来る様になるんですね。

 例えば、今ここにお饅頭があったらいつ食べるかっていう問答をかけてくるお婆さんがいたとしますね。お饅頭いつ食べますか?(例えば)「今」食べるって言うでしょう。でも、今って言うのはすぐに過去になるんですね。万分の一秒たったらもう過去の時間でしょう。過去には食べられないよね。万分の一秒未来だったらまだ来てないから食べられないしね。それをもっと絞り込んで、無限分の一秒過ぎ去ったとしても、もう過去ですから食べられない。無限分の一秒未来でも、まだ来てないから食べられない。だから「今」食べることは絶対に不可能でしょう。永遠に食べられない(笑)。

 もう一つ。うさぎが亀を追いかけてるとしますね。で、うさぎが亀に追いつくでしょう。(追いついた瞬間に)亀はちょっと前へ進みますね。そうすると差が出てくるでしょう。次にまたうさぎが亀を追いかけて、また追いついたとしますね。でも亀はまたちょっと前へ進みますね。それが永遠に続きますよ。うさぎは永遠に亀に追いつけない。これは全部一瞬一瞬に置き換えたら分かるんですね。(うさぎと亀が)離れてる状態を表して、次の一瞬で追いついた状態を表してるね。追いついた姿を表したらもう追い越してるんですよね。お饅頭の話も同じよね。「今」食べてないという姿よね。ただ、一瞬一瞬の置き換えって言っても時間が無いんですよね。限りなくゼロに近い無限分の一秒と言ってもね。(言葉として一瞬一瞬とは言うけれど)神様の置き換えは時間の無い置き換えで、何一つ同じものを表さず、繰り返さず最高の表現をして下さるんですね。

 だから、一瞬一瞬を「ありがとうございます」でいかにそれをもらう瞬間を楽しむか、っていうのが大事なポイントだと思うんですよね。だから進化論なんて、間違いだと思いますね。猿から類人猿になって人間になって、なんて。そんな考え方とても受け入れられへんですね。例えば聖書の中でも土に息を吹き入れて人間を創った、とかありますけど。神様の言葉とは言えないですね。まあ、例えとして表現してるにしても、神様の側から見たら何かちょっとおかしいですもんね。

質問者: 「南無阿弥陀仏」を信じれば救われるのか、それとも回数を多く唱えれば救われるのかという話がありますが、「ありがとうございます」はどうなんでしょうか?

「ありがとうございます」: 「南無阿弥陀仏」は他力の生き方なんですけど、救う側と救われる側が最初から離れてるんですよね。信者だけで一つにつながって救われるとか、行じただけで救われるとか、色んな方法があっていいと思うんですけど。ただ、最初に離れてるところがちょっと問題があると思うんです。「ありがとうございます」は絶対力で、最初から離れてないんです。最初から神様と自分とは一体なんだっていう。切り離すことはできないっていう。だから、信じてもいいし、行じてもいいし、どっちもしなくても救われているんです。「ありがとうございます」って唱えた時にもう一体だっていう、与えてもらって悟ってるっていう自覚がよみがえってくるんですね。だから無条件かもしれないね。

質問者: 「瞬間瞬間に神の光を受け直す」という表現をされますが、「受け続ける」と「受け直す」の違いは?

「ありがとうございます」: まあ、似てるんですけどね。「受け直す」っていうと根本から頂き直すっていう様な感じなんですね。根本に心を向けなくても「受け続ける」ことはできるんですね。ところが根本へ向くほうが正しく受け易いんですよね。受けて、直接根本から受け直すっていう感じで。神様から直接に受けてるっていう感じを「受け直す」っていう言葉で表現してるんじゃないかって思います。一瞬一瞬新たに受け直すっていうね。

質問者: 神様と一体になると思うのは、自分が神だということでしょうか?

「ありがとうございます」: 思うんじゃなく、感謝だけでいいんですよね。思いだけでは部分的なんですね。 感謝は奥まですーっと入るんです。木があって葉っぱがいっぱい茂ってますよね。で、一枚の葉っぱが表面の自分とするでしょう。その立場で「ありがとうございます」って感謝すると、すーっと小枝から幹から根までいくんですよね。そうすると根から見るとみんな一体ですよね。神様が全てなんですね。ところが思いというのはつながってる様でも、その葉っぱを中心にした考え方なんですね。根までなかなか入っていかないんです。そうすると疑いの心が生まれたり、本当の一体感が実感として湧いて喜ぶことが出来ないんですね。感謝が全部なんですね。神様の心が感謝なんですね。神様の心はいつも全体を把握してるんで、全体を把握する心がすーっと自分の心によみがえるような感じなんですね。時間かからない、一瞬で神様の心で分からせてもらえるのね。神様の心は全てのものと一体の愛の心ですから、枝の葉っぱを自由自在に離してのびのびと成長させる訳ですね。思いの方は、愛の一体感を思えば思うほ葉っぱと葉っぱをくっつけるのね。自由を奪って縛っていくから、思いの愛の一体感は偽物なんですね。葉っぱ同士を思いの接着剤でくっつけるからね。不自由になって行くばっかり。根本からの本当の一体感は一枚一枚の葉っぱをくっつけずにのびのびと自由に離すんですね。

質問者: 人にはそれぞれに天命があるのか?また、感謝の心で天命に沿って生きるだけではなく、自分自身こうありたいという思いも持っていた方がいいのでしょうか?

「ありがとうございます」: 思いがなくなったら、天命を果たしてるのね。天命というのはその人の個性を最大限に発揮してる状態ですよね。神様と自分とを切り離さなかったら、一つにつながってる状態だったら必ず個性が生まれるんですね。で、その個性を発揮するんですね。それが本当の天命を果たしてるのね。神様の方から役目付けられたね。(例えば)この手の指がそうですね。一本一本全部切り離しておいたら単に指が一本一本あるだけなんですよね。過去は親指であろうが人差し指であろうが関係なくなるのね。単に指があるだけになってしまうのね。個性がないんですよね。でもこれがつながって動いてるときは一つ一つに役目があって個性がある。人も神様とつながってる時は、感謝してる時は必ず役目があるんですね。個性があって個性を発揮してるんですね。それが本当の意味での天命を果たしてる状態なんですよね。だから神様と自分とは一体なんだっていう自覚を呼び起こすだけがいいんですよね。その一番いい方法の「ありがとうございます」を唱えるだけで自然に個性を発揮して天命を果たさせてもらえるんです。難しいことは考えないほうがいいみたいですね。

 神様はどこにいるの?

質問者: 神様はいつもどこにいるのでしょうか?

「ありがとうございます」: 本当の神様、唯一無二絶対の神様はこの世の全てに居てるし、奥の全てにも居てるし、全部に居てるんでしょうね。全体が一つの神様ゆう風に言えたら一番いいんですけど。(神様って)どの神様ですかって言われたら、全体の神様でなかったら部分の神様だったら居てるとこに居てるんですけどね。

質問者: 「ありがとうございます」先生の神様は(どこに居るのですか)?

「ありがとうございます」: 私の神様は「ありがとうございます」って神様だけなんで、全部に。この世の全てにもあの世の全てにも、もっともっと奥の次元の全部にもね。全ての全てに満ちわたって全ての全てになってる神様って感じですね。

質問者: (世の中では色んな事件が起るけれど)そういうのは全てに神様が居ながらも起るようにしているのか、それとも個人の役目としてやっているのか?

「ありがとうございます」: 神様の創ってる放送番組、無限の無限のチャンネルの中のストーリーだったら、神様が全部に役目を与えてつくらせてるんですよね。神様が創ってる訳だから、どうしようもないね。勝手にかえるわけには絶対にいかないからね。でもそれをつくった人、それを見て味わう人は番組の中にはいないですね。あくまでも番組の中はつくられたものでしょう。本物じゃないですね。俳優さんは、撮影所にはいるかもしれないけどテレビの中にはいないですもんね。テレビの画面上の姿で、本当の自分はテレビの中にはいないですもんね。だからどんな悪いことをしてても本人はこたつでおいしいもの食べながら見てる訳でしょう。だから、現実を心でちょっと離すだけでいいんですね。ちょっと距離を置いて見てる自分になればね。自分は色んな番組をつくるために、いい役も悪い役も果たしたっていう風に見てね。それを今お茶を飲みながら、好きな番組をもう一回見てるんだっていう感覚でね。だから、神様が何かをしてる訳でも何でもないんですね。楽しませて下さってる訳ですね。

質問者: ただ単に「ありがとうございます」を唱えるべきなのか、それとも無限の無限の愛を感じながら唱えるべきなのか?また、声に出した方がいいのか、それとも心の中で唱えればいいのか?

「ありがとうございます」: 別にそれは自由でいいと思います。ただ、回数が増えれば増えるほど自由な本当の自分に戻っていくんですね。心で唱えるだけでもいいし口に出してもいいし、また
他の人の唱えてるのを聞くだけでもいいし、他の人に唱えてもらうのもいいし。それはもう、自分の中に「ありがとうございます」っていうのがどんどん入ってくるようにしてもらうのがいいんですよね。自らも感謝し、人からも感謝されるっていうね。そういう人は得ですよね。早く自由になる。感謝の心に戻っていくんで、その自分は神様の色んな表現を自由に楽しめるようになってくるんですね。だから、自然なのがいいですね。条件付きにこれを唱えたからどうのこうのって思わないほうが楽でいいですね。もう最初から結果を「ありがとうございます」って受けるような気持ちでね。条件付けない方が感謝そのものであるんですね。

質問者: 「ありがとうございます」先生には人類を良くしようとか、そういう気持ちはないのですか?

「ありがとうございます」: 思いのあるときはそういう気持ちになるんでしょうけど、感謝になったときは、無いですね。もしマイナスの多い番組を見てるとしても、その番組をいい番組にかええようとは思わなくなるんですね。その番組はそれでいいんだってね。いい番組はすでにあるからね。もしいい番組が見たかったら、ちょっとだけチャンネルをかえていい番組をそのままさっと受けたら、もう欲っさないでで済む訳だから。もうそこに実現してるっていうね。地球も無限のチャンネルの地球があるのね。低い番組の地球もあるし、高い番組の地球もあるし。人も同じですね。低い番組の自分もあるし、高い番組の自分もあるし、っていうね。全部取り揃えられてるんですよね。(自分がどこにチャンネルを合わせるかによって)見えてくる世界が違ってくる。

質問者: 悪い番組を見ても、自分でチャンネルをかえることによって危害を被らないようにできるのでしょうか?

「ありがとうございます」: 例えば地獄の番組を見てるとして、一生懸命見てるとその中へ入り込んでしまうんですね。そのなかの登場人物を自分だと思い込んで、周りからの危害をそのまま受けてしまうような錯覚を起こしてしまうんですね。でもテレビを見てる自分と、中の配役の自分は違うんですよね。テレビを見てるっていう風にちょっと距離を置いた時に、これは作り事だからって離したら自分には危害は及ばないですよね。感謝するっていうことはテレビを見てる自分に戻ることなんですね。

質問者: 一日のうちでも高い(番組の)自分の時と低い自分の時があるが、低い状態の時は感謝の「ありがとうございます」を唱えることによって高い自分に切りかえたらいいんですね?

「ありがとうございます」: そうですね。「ありがとうございます」の言葉だけに頼らずに、周りの人もいつも自分のために「ありがとうございます」って祈ってくれてるとか、神様が根本的に無限の無限の「ありがとうございます」を自分に向けて与え続けてくれてる、っていう風に思うと楽になりますね。

質問者: 神社で我々が祈願したりする姿は神様から見てどういう風に写っているのか?また、神様に願いを叶えてもらうには、もうすでにその願いが叶ったかのように過去形で願うといいという話を聞きました。祈って願いが叶うのであれば、どういう祈り方がいいのでしょうか?

「ありがとうございます」: 祈りにも無限の段階があるんですよね。無限のマイナスの祈り、無限のプラスの祈りがあるんですね。プラスの祈りにしても無限の段階があって、それはそれぞれの段階に必要なんですね。だから、どれがいいか悪いかは言えないんです。必要な段階の祈り方がないと上れないですね。色んな神社がありますけど。本当の神様を直接に把握するのは難しいんですね。だから心を向けるための模型を持ってくるんですね。そして(その模型である神社に)心を向けることによって本物を感じやすくするんですね。実際には神様は神社にはいないんですね。そんな中に入れるような神様じゃないですね。宇宙を一瞬一瞬創り続ける神様は模型の中には入れないですね。お祭りしてあるのは本物の神様じゃないですね。でもそこに何の力もないんかっていうと、また違うんですね。神様に心を向けることは、結局その神様からの一体の流れを受けるんですよね。受けやすくなる。直接の神様じゃなくてもそこから順番に段階を追って神様の使いっていう感じで、段階を追った色んな神様が働いて下まで来るんですね。それで神社で願い事をすると、その心の波長と合う神様が助けてくれる。

 でも「ありがとうございました」っていう感情の人にはその波長と合う神様が応援して助けてくれる。一番いいのは「ありがとうございます」って最後に加えるのがいいですね。究極の神様からの大きい助けがすっと入るよね。それぞれに色んな祈り方があっていいんですよね。ただ自分がどんどんいい祈り方に変化していけば。最後に行きつくところは「ありがとうございます」ですよね。どの神社でもその神社の神様の名前を呼んで、最後に「ありがとうございます」を加えるんですね。何々でありますように、っていう言葉を断定的に祈るのも祈れる人はいいんです。ただ現実と理想とのギャップの大きい人は、例えば現実は病気なのに健康であるって断定するのは矛盾が生じて逆に健康を疑ってそう思えなくなるっていうのがあるんですね。そういう場合は断定じゃなく神様の世界に健康があるっていうのを信じて、その健康を降ろしてくださいっていう感じで健康でありますようにって祈る方が、矛盾とか心の葛藤が無いんですーっと光が入ってきやすい場合があるんですね。それも一つの方法ですね。それぞれに必要な人が必要な方法を使って、より神様の大きい助けを受けるっていうのが軸になってるんだと思うんですけどね。

 お祈りについて

質問者: (お祈りは)過去形でも現在形でも、その時の自分の気持ちに沿った言い方ですればよいのでしょうか?

「ありがとうございます」: 「世界人類が平和でありますように」っていう祈り言葉も浅い祈り方と深い祈り方と両方兼ね備えてるんです。「世界人類が平和であります」っていう断定の世界にまず自分が飛び込んでつかんだら、それは断定の祈りなんです。後に「ように」っていう言葉が付いてたとしても。全部に通用するようにつくってる言葉なんです。断定できない人には「ように」が大きく働くんです。断定的に祈れる人には「世界人類が平和であります」っていう断定の世界を先に心にとらえてしまうんです。そしたら「ように」は要らないですよね。無くてもそのままでさっと実現するんですね。断定の祈りを先に奥でつかまえない人は現実を先に見てるんですね。現実には断定の世界なんか無いんですよね。まだ平和じゃない状態っていうのが現実にはあるんでね。祈り言葉も色んな活用の仕方があるんですけどね。神様から来る祈り言葉は行く通りにも解釈できるんです。誰にでも通用する言葉なんです。

質問者: 「ありがとうございます」先生は以前病気の方を治療されていたと聞きましたが、もう今はやってらっしゃらないんですよね?

「ありがとうございます」: そうですね。もう今は病気の人が目の前に現れなくなった(笑)。

質問者: その時の癒しの方法と言うのは?

「ありがとうございます」: 私は小さい時からお医者さんになって病気の人を全部治してあげたいって思ってたんですね。ところがそれは病気をつかんでる心が多分にあったと思うんですよね。だから、病気の人が目に付いて仕方がなかった。それで一生懸命治してあげたいと思って祈ってたんです。祈るのは病気を見つめるんじゃなく、無限に無限に完全健康を見つめて置き換えてもらうっていう祈りなんですね。皆が神様で完全健康なんだっていうね。光り輝いてる健康な姿を、心にイメージじゃなく感じるまで祈りごとを唱えるんですね。そうすると目の前にいる人全員が(かみのみちからみいのちみひかりって感じる内容不明瞭?)。病気の人が情報として入ってこなくなる、見なくなる。だから人の病気を治したっていうよりも、自分の心の中の病気を健康に置き換えてもらったって言った方が正しいかもしれないね。自分が選んだ番組だったかもしれないね。本当は健康ばっかり見てるのが幸せですよね。

質問者: それは例えば病気の人が目の前に現れたとしても、もうその人は健康だっていう・・・?

「ありがとうございます」: そうですね。今だったらもう無限に無限に輝いてるっていう見方でしか見ないですから。だから病気を治してあげたいとも思わないし、お祈りできるようにしてあげたいとも思わないですね。もう皆が無限に健康で無限に幸せにお祈りできてる、皆がアマテラスの大身神様なんだっていう風な感謝の仕方をずっと続けさせてもらってるんで。一番得な役目を与えてもらってる(笑)。

 人間の構造・意識のレベル

質問者: (人間の寿命の長短について)

「ありがとうございます」 寿命も必要があってそういう寿命になってるんですね。(地球上の)人口が百倍にもなったら食べ物も無くなるし、生きていけませんね。だからほどほどの人口に整えてバランスをとってくださるのね。それは地球という一つの、まあ一つか二つか三つかのチャンネルの幅の中での動きですよね。だから日本でもそうですよね。食料が少ない時は(人口が)三千万四千万くらいでしょう。外国からたくさん食料が入ってくるようになると一億超えてもいいんですもんね。

質問者: 寿命は神様が決めるのでしょうか?

「ありがとうございます」: いえ、本人が選ぶんです。どの番組のどういう姿をとるかというのを一人一人の責任で選んで決めてるんです。(寿命の)理想が百二十歳とかいいますけどもうちょっと高い番組になるともう何千歳なんです。肉体を持ちながら。もっと高いともっと延びるんでしょうね。そして、年を取れば取るほど若くなる。老化が無いんですよね。だから番組によっては全然違う寿命の表現があるんですよね。
寿命の長い短いは必要性で決まるんですね。長く生きたからいいんじゃないんですね。勉強し残してる人はもうちょっと長生きして、っていうのもあるんですね。早死にしても悪いとは言えない。この一生の分は終わったから早くもっといい所へ行きなさいっていうね。

質問者: 色んな課題を持ってこの世に生まれ、生きている間にそれらを学び、そして死という卒業式を迎えるのだと思うのですが。

「ありがとうございます」: そうですね。それも一つの考え方なんですよね。卒業式っていうね。でも、卒業式じゃなくて早くもっといい勉強の場へ移る人もいるんですね。途中でもっといい場所へ移動させてもらうと卒業式じゃないんですよね。色々あるんですね。一番いい所へ、必要なところへ行くんですね。だから卒業じゃなくても転業でもいいんですよね。落第しても留年してもいいんです。一番いいように計らってもらってるっていう位の気持ちで。(物事は)自分一人で決めてるんではなく神様や周りが全部自分のことを詳しく見ていて一番いい方法を与え続けて下さってるんですね。

質問者: この世は色んな次元の世界(天国の世界・地獄の世界など)が同時進行しているといいます。個人の思いがそれらの世界をつくっているのでしょうか?

「ありがとうございます」: 全員が「ありがとうございます」を唱えたとしても地獄は地獄で永遠に存在し続けるんです。ただ「ありがとうございます」を唱えてる人にとっては地獄の番組も神様の最高傑作の一つとして味わえるんですね。必要な番組って分かるんです。ただ巻き込まれて苦しいばっかりっていう見方をしなくなるんです。地獄の石ころも輝いてるっていうね。どんな悪役の姿も名演技なんだっていう見方ができるんですね。こういうのを演じてくれる俳優さんも名優だなっていうね(笑)。

質問者: 地球を良くするための情報について(?)

「ありがとうございます」: みんな、多分に一つの番組にはまり込んでますよね。はまり込んだ人をいかに番組の外へ引き出してより良い番組の方へ心を向けさせるかっていう方法は、色んなのがあるんでしょうね。

質問者: みんな、案外怖い物見たさがあるのではないでしょうか?

「ありがとうございます」: それもあるでしょうね。それぞれに色んな生き方があっていいんだと思いますけどね。みんな必要があってそういう方法がそこにあるんで。必要な体験も勉強もしながら、本当に自分に必要なものを的確に与え続けてもらってね。もし必要だったらもう少し番組が上るようにとかね。一つだけの方法って無いんですよね。

質問者: (人生で)起る様々な問題は神様が与えているのか、それとも自分で選んだ番組なんでしょうか?

「ありがとうございます」: 神様が与えてるっていえば全てのチャンネルの番組をつくって与えてるって受けた方がいいでしょう。神様は強制的にこの番組を見なさいとは言われてないよね。どれを選んで見るかは人の側なのね。自分の好きなものを選んで見てるのね。だから神様がどうのこうのって言えないのね。神様がつくり損ないをしてるかっていうと、絶対無いんですね。もう全てをつくった表現ですから、無いものは一つとして無いんですね。全部揃ってるんですね。まだこれがありませんなんていうことは絶対無いんですね。無限の無限のチャンネルっていう言葉通り全部揃ってますから。全部揃えて与えてるっていう限りはそれを受けて味わう人間の側の全責任になってくるんですね。だから病気になって治るように色んな(味わい方をしてしまう内容不明瞭)。やっぱり違うんですよね。本当の神様の導きっていうよりもその番組の中のストーリーを自分がそういう番組として見てるっていう位でね。

質問者: 暗い番組というのは人間の意識がつくっている様に思います。そして、我々一人一人の中に神があって、人間の意識のレベルでは暗い番組を選ぶけれども神の部分では一瞬一瞬を輝きにかえているのだと思うのですが、どうでしょうか?

「ありがとうございます」: 番組というのは本当は限身(カギリミ)の、輝いた神通自在のものを限定して一つの形に表した姿なのね。だから無限のチャンネルの番組の全てが限身なんです。もう決まってしまってるんですね。永遠の未来まで全部決まってしまって形も用意されてしまってるって言えるんですよ。ただ同じ形を受けても受け方は人によって色々ですね。地獄をも輝いて見る人もいれば、苦しいばっかりの思いで見る人もいるしね。見方は色々ですけど形は変ってないのね。地獄は地獄の形がありますよね。

 見方によって自由自在

質問者: 神は地獄にあっても光の部分を見せようとしていると私は理解しているのですが、人間の意識、エゴが闇の部分を見ようとしているのではないのでしょうか?

「ありがとうございます」: 神様の方は、一番輝いた番組もあるし下へ行くほど光の少ない番組もあるでしょう。上と下とを比べたら上は無限に無限に輝いてるし、下は無限の無限の闇なんですよ。その違いが絶対あるんですよね。一番下の闇の方を神様は輝かせようとする必要は無いんです。そこはもう闇としての役割という形なんですね。ただ見る人によったら、地獄にも無限のプラスの役割の姿として見ることは出来るんですね。相対の両極というのは悪いばっかりがマイナスにあるんじゃないんですね。双方がお互いから見る立場なんでしょうね。与える側があったら受ける側がいる訳でしょう。受けるっていうのが悪いかっていうと違いますね。受けるから与える側がいるんですね。空間というのは相対でいうとどっちもいいですよね。プラスマイナスっていうよりもね。時間っていう要素も素晴らしい、空間って言う要素も素晴らしい、褒め讃え合うだけですよね。人間の霊と体も同じですね。プラスとマイナスに分かれる状態もあるし、色々な要素があるんでね。極楽と地獄も、場合によったら地獄が愛の極地っていう風に見ると、地獄にも無限に輝いた状態がありますよね。そういう意味だったら大きいプラスに見える番組に逆転するね。見方によって自由自在に変化するのも、いいかもしれませんね。

質問者: 「ありがとうございます」先生は人前にお出になりませんが、もし全国をまわられたら「ありがとうございます」の素晴らしさに気付く人が増えるのでは、と思いますが?

「ありがとうございます」: 「ありがとうございます」は神様が前面に出てみんなを仲良くさせていくみたいですね。だから私は「ありがとうございます」で幸せにしてもらった小さい実例というだけです(笑)。これからは皆さんが「ありがとうございます」で、謙虚に単なる小さい実例なんだという位の感じで、神様を表に出せばいいんじゃないかと思うんですけどね。そしたらもう宗教争いも何も無くなるんですね。これから、そういう一体化する時代が来るんですよね。私はどんどん奥へ隠れます(笑)。

質問者: 外国にも様々な神様がおられます。その中でアマテラスの大御神に匹敵する神様はおられないのでしょうか?

「ありがとうございます」: ちょっと言葉が足りないですね。(例えば)アラーの神だったら、似てるんですけどちょっと足りないですね。アマテラスの方が意味がたくさんあるんですね。整ってるんですね。一番分かりやすい、感じやすい言葉が日本には多いですね。

質問者: 日本人じゃないと感じられないのですか?

「ありがとうございます」: 時期的に早く感じ取れる人は日本に生まれてきてるみたいですね。皆本当は同じなんだと思います。外国に住んでる人はまず部分的に勉強して、最後に全体を総括する勉強に入るっていう風に見ると、日本人は先輩になるんでしょうね(笑)。上級生っていう感じね。順番にまた日本っていう学校に入学してくる。外国にいて色んな役割を果たす人は日本に生まれてもいいのに外国に生まれて指導者としての役割を果たしてるとも言えるんですよね。

質問者: 今は日本が「上級生」ですが、時代によって「上級生」になる地域は違っていたのでしょうか?

「ありがとうございます」: 違うんでしょうね。でも本当はこの島国日本のことじゃないんですね。日の本の国(ひのもとのくに)っていうと、絶対なんですね。神様の一番奥の最高表現っていう風に見た方がいいんですね。そこからいつも全体に必要なものを送り込んで来るっていうね。島国日本の場合時代で変化するとしたら、日本から世界に広がる時もあれば世界から日本に入る時もある筈なんです。その両方を繰り返してるかもしれないしね。だから、いつも日本が上なんだって言えないのね。逆に世界の方が上で子供を育てるように日本を育ててくれた時期もある筈なのね。でも、絶対っていう根本は日の本はいつも光を与える側なんでそれは変わらないと思いますけど。

 皇(すめら)っていう言葉も「皇高天原命(すめたかあまはらのみこと)」で、宇宙の絶対神の全てっていう、「ありがとうございます」と同じ意味なんですね。天皇陛下を皇みことって呼ぶ言葉も、一部として宇宙絶対神の御心をそこに大きく体現した人っていう意味で皇みことっていうね。だから、宇宙絶対神の心をしっかりと把握して、言ってる人はみんな皇みことなんですね。絶対神のことは「皇高天原命(すめたかあまはらのみこと)」っていう、全体を指す言葉として使うんですけど。皇っていうだけではちょっと足りないんですね。ただ長いと不便なんで皇って言います。軽く、簡単な言葉っていう意味でね。

質問者: (人からの)頼まれごとをする時に、自分を必要として欲しいという想念が働いてしまうことがあると思うのですが?

「ありがとうございます」: 自分の命を神様にお返しするまでは、自我や思いが出るんでしょうね。(自分の)全部を神様に捧げます、お使いくださいという全託の行をかなり積み重ねていかないと、自分の願いや思いが残ってるんですよね。神様は自分をどういう風に使いたいかっていうのは一番必要なところで使って下さる筈なんですけど、自我があると自分の願い通りのところで使ってもらいたいっていう気持ちが先に出てくる。大きく使いたいのに小さな気持ちでいると神様は使いにくいですよね。何でも神様の御心のままにっていう風になってるんでしょうね。自我の思いのままにだと行き詰まるんです。

質問者: 実は今あるところから頼まれごとをしているのですが、(自分の中にそういう気持ちがあるのかどうか)ちょっと心に引っ掛かったもので・・・。

「ありがとうございます」: 「ありがとうございます」をこれだけしっかり唱えてる限りは神計らいで必要なことしか来ないですね。最高じゃないですか(笑)。

質問者: 「ありがとうございます」が根本ですが、日常生活の中で気を付けることについでアドバイスをお願いします。

「ありがとうございます」: もう、そのままでいいですよ。大丈夫(笑)。神様の護りは無限に無限に大きいですからね。「ありがとうございます」をお祈りできない時は神様がかわりにして下さってるっていう位に開き直っていいですね。

 人間の構造について

質問者: 人間の構造を教えて頂きたいのですが。

「ありがとうございます」: どの部分の自分でもいいんですけど、まず今の自分を全体の中心に置くんですね。必要な神様の働きが無限に無限にどこまでも広がってるっていう風にね。一番外側が絶対っていう風に見るんですね。絶対っていう大光源の中心に今の自分があるんですよね。他の人もそれぞれにね。中心はどれだけあっても大丈夫なんですね。皆がそれぞれ絶対の中心に置かれて護られてるっていう見方がいいんですね。その働きっていうのは言葉で表すのは不可能ですよね。無限の無限の働きが複雑に組み合わさって、中心にいる今の自分をありとあらゆるところから護って下さってるのね。銀河系の遠いところからの宇宙の光にも入ってくるんですね。ただ、それがどういう風に入ってきてるのかっていうのは考えても分からないですよね。でも宇宙の全部から直接的にも間接的にもありとあらゆる働きが入ってきてますね。
 また、この肉体が小宇宙っていう風に見ると大宇宙とは相似形なんでお互いに影響しあってますよね。複雑な構造が無限の無限の構造としてあるんですね。ちょっと分かり辛いですけど。あまり単純化するとまた余計に分かり辛いのでね。

質問者: 説明する時に・・・?

「ありがとうございます」: 説明する時にね。分かる人には分かるし、分からない人には分からないんで、説明してもあまり・・・。でも感謝の心で感じたのは変わらないんですよね。理解して納得してるんですね。ある時忘れてもまた思い出すんです。だから、本当は皆最初から知ってるって言う大前提のもとに、必要な時に自覚がよみがえって来たらいいんだっていう位でいいんですよね。

質問者: 動物を殺すこと、また肉食することの善悪は?

「ありがとうございます」: 生き物を殺す必要の無い番組があってもいいですけど、殺し合う番組があってもいいんですよね。それは単に殺すということではなく、命を捧げ合うという意味でね。肉食でも、牛がその命を人間に捧げて自ら願って食べて欲しいって言ったとしたら、それはものすごい愛の心ですね。神様に全託の心ですね。そうしたら牛の魂が次第に進化を遂げて、人間を飛び越えて神様になるかもしれない(笑)。そういう番組だったら牛の捧げてくれる肉を食べるのも素晴らしい生き方なんですね。でも、嫌がるのを殺して無理矢理食べて、恨みの思いを受けるという番組もある。色んな番組に応じての必要性だと思うんですけど。形にとらわれなくてもいいと思います。

(しばし場内のやりとり。中略)

質問者: 悟りというのはどういう状態のことなのでしょうか?

「ありがとうございます」: 神様との一体感なんですよね。離れてるっていうのが差がある状態で、離れてるっていう感覚が無くなる状態が悟り、つまり神様と一体であるという意味なんですね。全てが一体だったら、生き物を殺しても自分で自分の命を必要ないから神様の世界へ戻しますっていう感覚と同じですよ。

(しばし場内のやりとり。中略)

質問者: 人間・動物・植物・鉱物、それぞれに意識を持っているのでしょうが、その(意識の)レベルの差はどうなっているのでしょうか?

「ありがとうございます」: やっぱりランクがあるんですね。どれだけ神様の大きい意識に近いかっていうね。人間は万物の霊長っていう位で一番神様の意識に近いんでしょうね。動物よりは昆虫の方がレベルは低いと思います。低い意識を高める方法も色々でしょうけど、命を捧げることによって大きく進化するっていう一面もありますね。

質問者: 鉱物の中には人間と同じ位の意識を持つ物もあるといいますが?

「ありがとうございます」: 石ころの方が人間よりもはるかに高い意識を持ってる場合もありますしね。
・・・ありがとうございます。

     AR112 2001.5.3.02
 DNA・クローン・続(ぞく)進化論(しんかろん)

質問(しつもん)者(しゃ): (番組(ばんぐみ)の話(はなし))先生(せんせい)はチャンネルの1チャンネルから100チャンネルの全部(ぜんぶ)を見(み)てらっしゃるのか、それとも100チャンネルだけを見(み)てらっしゃるのか?

「ありがとうございます」:100チャンネルだけを見(み)てる時(とき)もありますしね、謙虚(けんきょ)に謙虚(けんきょ)になって、一番下(いちばんした)から全部(ぜんぶ)仰ぎ見(あおぎみ)ようとしてる時(とき)もありますね。もう、何(なに)もかもプラスで見(み)たいっていうね。地獄(じごく)の番組(ばんぐみ)もプラスで見(み)たいっていうね。両方(りょうほう)あります。でもなかなか全部(ぜんぶ)見(み)きれないですよ(笑)。なかなか謙虚(けんきょ)になりがたいですね。やっぱり本当(ほんとう)の地獄(じごく)の苦痛(くつう)を味(あじ)わうのは大変(たいへん)ですよね。皆(みな)自分(じぶん)の身代(みが)わりになってマイナスを背負(せお)って下(くだ)さってる姿(すがた)、愛(あい)の姿(すがた)って思(おも)っても、実際(じっさい)その前(まえ)に立(た)つと苦(くる)しい、痛(いた)いが先(さき)に立(た)つんですよね。でも下(した)から見上(みあ)げたいですね(笑)。どこまでもどこまでも下(した)があるみたいで・・・。ありがとうございます。

質問(しつもん)者(しゃ): (「ありがとうございます」と響(ひび)きの似(に)ている)「おめでとうございます」というのは言霊(ことだま)的(てき)にはどうなんでしょうか?

「ありがとうございます」: よく似(に)てるんですね。そっくりな位(くらい)にね。お正月(しょうがつ)の「おめでとうございます」もすごい言葉(ことば)ですね。新(あら)たに出直(でなお)す言葉(ことば)なんですね。「お」は大(おお)きいという意味(いみ)だったら、無限(むげん)に無限(むげん)に偉大(いだい)な存在(そんざい)っていう風(ふう)に捉(とら)えられますしね。「め」は目(め)に見(み)える姿(すがた)で現(あらわ)れた全(すべ)てを捉(とら)える言葉(ことば)ですよね。絶対(ぜったい)から現(あらわ)れる全部(ぜんぶ)っていうね。「で」は照り輝(てりかがや)く、それがだぶってるっていう風(ふう)に見(み)るとね、照り輝(てりかがや)き照り輝(てりかがや)き、無限(むげん)に無限(むげん)に輝(かがや)いたってことですよね。「とう」は「ありがとう」の「とう」と一緒(いっしょ)ですね。
 だから、同(おな)じと言(い)ってもいい位(くらい)。いい言葉(ことば)ですね、「ありがとう」と「おめでとう」はね。こういう素晴(すば)らしい言葉(ことば)は日本(にほん)にしか無(な)いらしいですね。ありがたいことだと思(おも)います。

質問(しつもん)者(しゃ): 「ありがとうございます」も「おめでとうございます」もこれからたくさん使(つか)わせてもらおうと思(おも)います。

「ありがとうございます」: そうですね。「あけまして」っていう言葉(ことば)もいいですね。「新年(しんねん)」っていうのもね。常(つね)に新(あら)たに新(あら)たにっていうね。いい言葉(ことば)がいっぱいですね(笑)。嬉(うれ)しいですね。

質問(しつもん)者(しゃ): (ここの土地(とち)を買(か)ったお金(かね)等(とう))「ありがとうございます」先生(せんせい)のお金(かね)の出処(しゅっしょ)は・・・?

「ありがとうございます」: どっから入(いり)ってくるんでしょうねえ(笑)。この辺(このへん)からさっと入(いり)ってくるといいんですけどね。必要(ひつよう)な時(とき)にね、すっとお金持(かねもち)ってきて下(くだ)さるんですね。その時期(じき)が来(き)たらね。私(わたくし)が何(なん)にも思(おも)ってもみなくても、何(なん)でこんなお金(かね)入(いり)ってくるの?って思(おも)うんですけどね。そのすぐ後(あと)に話(はなし)が来(く)るんです。もう、理由(りゆう)も何(なに)も無(な)いんですよね。やっぱり背後(はいご)で神様(かみさま)が、お陰(おかげ)さまが働(はたら)いて下(くだ)さるみたいですね。だから私(わたくし)が計画(けいかく)も何(なに)もしてないのに、向(むこ)うの方(ほう)から、向(むこ)うの世界(せかい)で計画(けいかく)して動(うご)いて下(くだ)さる神様(かみさま)がいっぱいいてるみたいですね。そうでないと、ぴたっと金額(きんがく)合(あ)うこと無(な)いでしょう(笑)。だから、必要(ひつよう)なだけしか入(いり)ってこないですけど、それがぴったりの金額(きんがく)なんで不思議(ふしぎ)なんですね。
 面倒(めんどう)見(み)な可哀想(かわいそう)って思(おも)って下(くだ)さるのか分(わ)かりませんけど(笑)、(その必要(ひつよう)な分(ふん)は)神様(かみさま)の計画(けいかく)では必要(ひつよう)なんでしょうね。それで神様(かみさま)の責任(せきにん)のもとに色(いろ)んな神様(かみさま)を使(つか)われて応援(おうえん)して下(くだ)さるんだと思(おも)うんですけどね。それでなかったらこういう所(ところ)では、時代(じだい)が変(か)わっても全然(ぜんぜん)進(すす)まないですよね。まず、この辺(このへん)は木(き)がいっぱい生(は)えてて電柱(でんちゅう)一本(いっぽん)立(た)ててくれるいうことも絶対(ぜったい)無(な)いんですよ。木(き)を切(き)りだす時(とき)に邪魔(じゃま)になるからってね。この前(このまえ)の山(やま)でもそうなんですけどね。森林(しんりん)組合(くみあい)とか山(やま)の所有者(しょゆうしゃ)で管理(かんり)してるんですね。絶対(ぜったい)作(つく)らせないんですよね。それが奇跡(きせき)みたいに電柱(でんちゅう)が立(た)ったんですからね。だから全(すべ)てがそういう風(ふう)に、奇跡(きせき)の連続(れんぞく)でね。神業(かみわざ)みたいな感(かん)じで。建築(けんちく)規制(きせい)の点(てん)でも、余分(よぶん)なお金(かね)も全然(ぜんぜん)かからずに自由(じゆう)に建(た)てさせてもらえたしね。全部(ぜんぶ)うまくいってるのね。(相手(あいて)側(がわ)に)神様(かみさま)が目隠(めかく)ししてくれたのかもね(笑)。向(むこ)うの宿泊(しゅくはく)施設(しせつ)もそうですよね。考(かんが)えられへんですよ、本当(ほんとう)。奇跡(きせき)みたいで。誰(だれ)が口(くち)封(ふう)じしたんか、いう感(かん)じ(笑)。上手(じょうず)に神様(かみさま)が操(あやつ)ってるのかもしれないんですけどね。

質問(しつもん)者(しゃ): 人(ひと)が来(く)るかどうかも分(わ)からない時点(じてん)でこのような宿泊(しゅくはく)施設(しせつ)を建(た)てたというのは予知(よち)のようなものが働(はたら)いたのでしょうか?

「ありがとうございます」: 無(な)いゆうたら無(な)いし、あるゆうたらあるんですけどねえ・・・(笑)。でも、もう一(もうひと)つの番組(ばんぐみ)のストーリーとして神様(かみさま)が計算(けいさん)した通(どお)りになってるんですよね。でも、今(いま)の一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)は別(べつ)に何(なん)の思(おも)いも無(な)いし、感謝(かんしゃ)だけなんですよね。だから、いい番組(ばんぐみ)のストーリー通(どお)りに運(はこ)ばれていってるだけっていう感(かん)じで。たぶんこの地域(ちいき)一体(いったい)が皇(すめら)の聖地(せいち)っていうような感(かん)じでね、(神様(かみさま)の)計画的(けいかくてき)にはこういう大勢(おおぜい)の人(ひと)を誘(さそ)ったりする人(ひと)を生み出(うみだ)す場所(ばしょ)になってるらしいですね。「ありがとうございます」を唱(とな)える事(こと)によって本当(ほんとう)の神様(かみさま)と一体化(いったいか)する、というね。いっぱい出(で)てくるらしいですよ。何(なに)万(まん)人(ひと)どころじゃないみたいですね。だから、そういうことだったら神様(かみさま)の方(ほう)で大(おお)きい計画(けいかく)を立(た)てて、地球(ちきゅう)をかえる為(ため)にっていう計画(けいかく)のもとに動(うご)いてるんでしょうね。でも、そういうと言葉(ことば)にとらわれてしまうんでね、隠(かく)しとくほうが(笑)いいんかなって。結果(けっか)を見(み)て、それでよかったって思(おも)ったらいいんでしょうね。

 神様(かみさま)の世界(せかい)と人間(にんげん)の世界(せかい)

質問(しつもん)者(しゃ): 自分(じぶん)にとって神様(かみさま)はまだ遠(とお)い存在(そんざい)だけれども、人類(じんるい)がこの先進(せんしん)化(か)するにつれ、神様(かみさま)の世界(せかい)と我々(われわれ)人間(にんげん)の世界(せかい)がそれぞれ存在(そんざい)する、という考え方(かんがえかた)を持(も)つようになるのでは?神様(かみさま)の計画(けいかく)があるとすれば、我々(われわれ)人間(にんげん)はいちいちじたばたせずに、その計画(けいかく)に沿(そ)って進(すす)んでゆけばいいのでは?

「ありがとうございます」: その方(がた)が本当(ほんとう)ですよね。そういう考(かんが)えにたどり着(たどりつ)いたらすごい悟(さと)りですよ(笑)。やっぱり神様(かみさま)が根本(こんぽん)ですもんね。そこから全部(ぜんぶ)現(あらわ)れて、動(うご)かしてますよね。ただ今(ただいま)までの人類(じんるい)は思(おも)いを出(だ)して、その思(おも)いで本当(ほんとう)の姿(すがた)を隠(かく)してきてたっていう感(かん)じなんでしょうね。ダーウィンの進化論(しんかろん)にしても、今(いま)いろいろ言(い)われてるクローン人間(にんげん)にしても、本当(ほんとう)は大(おお)きな間違(まちが)いを犯(おか)してるみたいですね。間違(まちが)った考(かんが)えをしてるみたいなんですよね。何故(なぜ)かっていうと、神様(かみさま)は絶対(ぜったい)の中(なか)に同(おな)じものを一(ひと)つとして持(も)ってないのね。全部(ぜんぶ)違(ちが)うものを無限(むげん)に無限(むげん)に、いっぱい倉庫(そうこ)に溜(た)めてあるのね。それを一(ひと)つずつ出(だ)してきてね、新(あたら)しい創造(そうぞう)をし続(しつづ)けるんです。だから進化論(しんかろん)といっても、例(たと)えば三角(さんかく)があって四角(しかく)があってマルがあって、とするでしょう。三角(さんかく)から四角(しかく)になるのはなり易(やす)いと思(おも)うんですね、直接(ちょくせつ)三角(さんかく)からマルよりはね。三角(さんかく)から四角(しかく)になって、それからマルになるほうが正(ただ)しいんだろうと思(おも)う訳(わけ)ですよね。そういう考(かんが)えを定説(ていせつ)として流(なが)して、それに賛同(さんどう)する人間(にんげん)が増(ふ)えてきたから進化論(しんかろん)が生(う)まれたと思(おも)うんですね。でもね、神様(かみさま)の方(ほう)からは三角(さんかく)も四角(しかく)もマルも絶対(ぜったい)の中(なか)に全部(ぜんぶ)持(も)って出(で)て、それを新(あら)たに新(あら)たに押し出(おしだ)してくるんですよね。今(いま)まで三角(さんかく)しかなかった。ちょっと淋(さび)しいから今度(こんど)は四角(しかく)を降(お)ろそうかって訳(わけ)ね(笑)。で、三角(さんかく)・四角(しかく)降(お)ろしたから今度(こんど)はマルも降(お)ろそうかってね。

 だから、三角(さんかく)や四角(しかく)をマルに変(か)えた訳(わけ)じゃないんですね。新(あたら)しくそこへ持(も)ってきただけなんですよね。だから、進化論(しんかろん)は合(あ)わないんですね。間違(まちが)ってるんです。それともう一(もうひと)つクローン人間(にんげん)は、同(おな)じものもう一(もうひと)つ作(つく)れるんかっていう考(かんが)えですけど、これは絶対(ぜったい)不可能(ふかのう)ですよね。例(たと)えば一(ひと)つの設計(せっけい)図(ず)で三(さん)軒(けん)の家(いえ)を建(た)てるとするでしょう。素材(そざい)をマツとスギとヒノキって三(みっ)つに分(わ)けたとするでしょう。マツの家(いえ)、スギの家(いえ)、ヒノキの家(いえ)、とすると、形(かたち)は同(おな)じだけど、同(おな)じ家(いえ)とはいわないでしょう。区別(くべつ)の分(わ)かる人(ひと)はこっちはマツ、こっちはスギって、同(おな)じじゃないって言(い)いますよね。設計(せっけい)図(ず)が同(おな)じで形(かたち)も同(おな)じでも、素材(そざい)が違(ちが)ったらやっぱり全(まった)く別(べつ)のものですよね。それと同(おな)じで構成(こうせい)する一つ一(ひとつひと)つが本当(ほんとう)は全部(ぜんぶ)違(ちが)うんですね。もう、原子(げんし)一個(いっこ)一個(いっこ)でも全部(ぜんぶ)違(ちが)うし、原子(げんし)を構成(こうせい)する素粒子(そりゅうし)一個(いっこ)一個(いっこ)も全部(ぜんぶ)違(ちが)うしね。大(おお)きいもの程(ほど)違(ちが)うものをいっぱい組み合(くみあ)わせて作(つく)られてるから、なんぼ表面的(ひょうめんてき)に似(に)たような姿(すがた)をとってても全然(ぜんぜん)違(ちが)う訳(わけ)ね。もう、無限(むげん)に大(おお)きい違(ちが)いがあるのね。

 だから、DNAの設計(せっけい)図(ず)をもとにして作(つく)ったとしても、一つ一(ひとつひと)つを構成(こうせい)してる要素(ようそ)が違(ちが)うから、どこをさがしても同(おな)じものは絶対(ぜったい)に無(な)いんですよ。宇宙(うちゅう)には一(ひと)つだけなんですね。それに代(か)わるものはどこからも持(も)ってこられない。人間(にんげん)の細胞(さいぼう)が六十兆近(ちか)くあったとして、六十兆の積み木(つみき)と思(おも)えば、ね。Aっていう要素(ようそ)はここ、Bっていう要素(ようそ)はここって決(き)められてるとしたら、似(に)たものでもどこからも持(も)ってこられない。代用(だいよう)がきかない。だから、クローン人間(にんげん)を作(つく)れると思(おも)ってる人(ひと)は、頭(あたま)がいいんです(笑)。よすぎるんですね。作(つく)ったように錯覚(さっかく)できるんですけど。でもそれは神様(かみさま)の側(がわ)から見(み)たら、幼稚(ようち)な馬鹿(ばか)な間違(まちが)った考(かんが)えなんだっていう風(ふう)に神様(かみさま)は言(い)うてくるんですけどね。

質問(しつもん)者(しゃ): (人間(にんげん)の間違(まちが)った考(かんが)えも)最終(さいしゅう)的(てき)には神様(かみさま)の計画(けいかく)に沿(そ)った方向(ほうこう)へ向(む)かうための過程(かてい)なんでしょうか?

「ありがとうございます」: 神様(かみさま)の表現(ひょうげん)は、どの番組(ばんぐみ)の表現(ひょうげん)も本当(ほんとう)は最高(さいこう)表現(ひょうげん)なんですよね。地獄(じごく)の番組(ばんぐみ)もね。神様(かみさま)の最高(さいこう)傑作(けっさく)になるんですよね。地獄(じごく)の石(いし)ころ一個(いっこ)もね、本当(ほんとう)は無限(むげん)に無限(むげん)に輝(かがや)いてるんです。絶対(ぜったい)の個性(こせい)あるものを複雑(ふくざつ)に組み合(くみあ)わせて生み出(うみだ)して、地獄(じごく)の石(いし)ころ一(ひと)つにかえる訳(わけ)ですからね。その本当(ほんとう)の違(ちが)いが分(わ)かれば一個(いっこ)一個(いっこ)の存在(そんざい)が無限(むげん)に無限(むげん)に輝(かがや)いて見(み)えるんですね。たとえ地獄(じごく)にあっても。その違(ちが)いが分(わ)かったら、本当(ほんとう)の意味(いみ)での神様(かみさま)の表現(ひょうげん)を正(ただ)しく味(あじ)わえてるって言(い)えるんですね。それが分(わ)からないのはまだ見(み)る目(め)が無(な)いのね。その見(み)る目(め)を何(なに)かで覆(おお)いかぶしてるか、見(み)えない状態(じょうたい)なんですね。それが思(おも)いで目隠(めかく)ししてるのかもしれないですけど。思(おも)いを捨(す)てて、感謝(かんしゃ)の心(こころ)で正(ただ)しく明(あか)るく見(み)えるようになった時(とき)にその区別(くべつ)がはっきり出来(でき)る様(よう)になるんですね。

 例(たと)えば、今(いま)ここにお饅頭(まんじゅう)があったらいつ食(た)べるかっていう問答(もんどう)をかけてくるお婆(ばあ)さんがいたとしますね。お饅頭(まんじゅう)いつ食(た)べますか?(例(たと)えば)「今(いま)」食(た)べるって言(い)うでしょう。でも、今(いま)って言(い)うのはすぐに過去(かこ)になるんですね。万(まん)分(ふん)の一(いち)秒(びょう)たったらもう過去(かこ)の時間(じかん)でしょう。過去(かこ)には食(た)べられないよね。万(まん)分(ふん)の一(いち)秒(びょう)未来(みらい)だったらまだ来(き)てないから食(た)べられないしね。それをもっと絞り込(しぼりこ)んで、無限(むげん)分(ふん)の一(いち)秒(びょう)過ぎ去(すぎさ)ったとしても、もう過去(かこ)ですから食(た)べられない。無限(むげん)分(ふん)の一(いち)秒(びょう)未来(みらい)でも、まだ来(き)てないから食(た)べられない。だから「今(いま)」食(た)べることは絶対(ぜったい)に不可能(ふかのう)でしょう。永遠(えいえん)に食(た)べられない(笑)。

 もう一(もうひと)つ。うさぎが亀(かめ)を追(お)いかけてるとしますね。で、うさぎが亀(かめ)に追(お)いつくでしょう。(追(お)いついた瞬間(しゅんかん)に)亀(かめ)はちょっと前(まえ)へ進(すす)みますね。そうすると差(さ)が出(で)てくるでしょう。次(つぎ)にまたうさぎが亀(かめ)を追(お)いかけて、また追(お)いついたとしますね。でも亀(かめ)はまたちょっと前(まえ)へ進(すす)みますね。それが永遠(えいえん)に続(つづ)きますよ。うさぎは永遠(えいえん)に亀(かめ)に追(お)いつけない。これは全部(ぜんぶ)一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)に置き換(おきか)えたら分(わ)かるんですね。(うさぎと亀(かめ)が)離(はな)れてる状態(じょうたい)を表(あらわ)して、次(つぎ)の一瞬(いっしゅん)で追(お)いついた状態(じょうたい)を表(あらわ)してるね。追(お)いついた姿(すがた)を表(あらわ)したらもう追い越(おいこ)してるんですよね。お饅頭(まんじゅう)の話(はなし)も同(おな)じよね。「今(いま)」食(た)べてないという姿(すがた)よね。ただ、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)の置き換(おきか)えって言(い)っても時間(じかん)が無(な)いんですよね。限(かぎ)りなくゼロに近(ちか)い無限(むげん)分(ふん)の一(いち)秒(びょう)と言(い)ってもね。(言葉(ことば)として一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)とは言(い)うけれど)神様(かみさま)の置き換(おきか)えは時間(じかん)の無(な)い置き換(おきか)えで、何一(なにひと)つ同(おな)じものを表(あらわ)さず、繰り返(くりかえ)さず最高(さいこう)の表現(ひょうげん)をして下(くだ)さるんですね。

 だから、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)を「ありがとうございます」でいかにそれをもらう瞬間(しゅんかん)を楽(たの)しむか、っていうのが大事(だいじ)なポイントだと思(おも)うんですよね。だから進化論(しんかろん)なんて、間違(まちが)いだと思(おも)いますね。猿(さる)から類人猿(るいじんえん)になって人間(にんげん)になって、なんて。そんな考え方(かんがえかた)とても受け入(うけい)れられへんですね。例(たと)えば聖書(せいしょ)の中(なか)でも土(つち)に息(いき)を吹(ふ)き入(い)れて人間(にんげん)を創(つく)った、とかありますけど。神様(かみさま)の言葉(ことば)とは言(い)えないですね。まあ、例(たと)えとして表現(ひょうげん)してるにしても、神様(かみさま)の側(がわ)から見(み)たら何(なに)かちょっとおかしいですもんね。

質問(しつもん)者(しゃ): 「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」を信(しん)じれば救(すく)われるのか、それとも回数(かいすう)を多(おお)く唱(とな)えれば救(すく)われるのかという話(はなし)がありますが、「ありがとうございます」はどうなんでしょうか?

「ありがとうございます」: 「南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)」は他力(たりき)の生き方(いきかた)なんですけど、救(すく)う側(がわ)と救(すく)われる側(がわ)が最初(さいしょ)から離(はな)れてるんですよね。信者(しんじゃ)だけで一(ひと)つにつながって救(すく)われるとか、行(ぎょう)じただけで救(すく)われるとか、色(いろ)んな方法(ほうほう)があっていいと思(おも)うんですけど。ただ、最初(さいしょ)に離(はな)れてるところがちょっと問題(もんだい)があると思(おも)うんです。「ありがとうございます」は絶対(ぜったい)力(りょく)で、最初(さいしょ)から離(はな)れてないんです。最初(さいしょ)から神様(かみさま)と自分(じぶん)とは一体(いったい)なんだっていう。切り離(きりはな)すことはできないっていう。だから、信(しん)じてもいいし、行(ぎょう)じてもいいし、どっちもしなくても救(すく)われているんです。「ありがとうございます」って唱(とな)えた時(とき)にもう一体(いったい)だっていう、与(あた)えてもらって悟(さと)ってるっていう自覚(じかく)がよみがえってくるんですね。だから無条件(むじょうけん)かもしれないね。

質問(しつもん)者(しゃ): 「瞬間(しゅんかん)瞬間(しゅんかん)に神(がみ)の光(こう)を受け直(うけなお)す」という表現(ひょうげん)をされますが、「受け続(うけつづ)ける」と「受け直(うけなお)す」の違(ちが)いは?

「ありがとうございます」: まあ、似(に)てるんですけどね。「受け直(うけなお)す」っていうと根本(こんぽん)から頂(いただ)き直(なお)すっていう様(よう)な感(かん)じなんですね。根本(こんぽん)に心(こころ)を向(む)けなくても「受け続(うけつづ)ける」ことはできるんですね。ところが根本(こんぽん)へ向(む)くほうが正(ただ)しく受(う)け易(やす)いんですよね。受(う)けて、直接(ちょくせつ)根本(こんぽん)から受け直(うけなお)すっていう感(かん)じで。神様(かみさま)から直接(ちょくせつ)に受(う)けてるっていう感(かん)じを「受け直(うけなお)す」っていう言葉(ことば)で表現(ひょうげん)してるんじゃないかって思(おも)います。一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あら)たに受け直(うけなお)すっていうね。

質問(しつもん)者(しゃ): 神様(かみさま)と一体(いったい)になると思(おも)うのは、自分(じぶん)が神(かみ)だということでしょうか?

「ありがとうございます」: 思(おも)うんじゃなく、感謝(かんしゃ)だけでいいんですよね。思(おも)いだけでは部分的(ぶぶんてき)なんですね。 感謝(かんしゃ)は奥(おく)まですーっと入(はい)るんです。木(き)があって葉(は)っぱがいっぱい茂(しげ)ってますよね。で、一枚(いちまい)の葉(は)っぱが表面(ひょうめん)の自分(じぶん)とするでしょう。その立場(たちば)で「ありがとうございます」って感謝(かんしゃ)すると、すーっと小枝(こえだ)から幹(みき)から根(ね)までいくんですよね。そうすると根(ね)から見(み)るとみんな一体(いったい)ですよね。神様(かみさま)が全(すべ)てなんですね。ところが思(おも)いというのはつながってる様(よう)でも、その葉(は)っぱを中心(ちゅうしん)にした考え方(かんがえかた)なんですね。根(ね)までなかなか入(いり)っていかないんです。そうすると疑(うたが)いの心(こころ)が生(う)まれたり、本当(ほんとう)の一体感(いったいかん)が実感(じっかん)として湧(わ)いて喜(よろこ)ぶことが出来(でき)ないんですね。感謝(かんしゃ)が全部(ぜんぶ)なんですね。神様(かみさま)の心(こころ)が感謝(かんしゃ)なんですね。神様(かみさま)の心(こころ)はいつも全体(ぜんたい)を把握(はあく)してるんで、全体(ぜんたい)を把握(はあく)する心(こころ)がすーっと自分(じぶん)の心(こころ)によみがえるような感(かん)じなんですね。時間(じかん)かからない、一瞬(いっしゅん)で神様(かみさま)の心(こころ)で分(わ)からせてもらえるのね。神様(かみさま)の心(こころ)は全(すべ)てのものと一体(いったい)の愛(あい)の心(こころ)ですから、枝(えだ)の葉(は)っぱを自由(じゆう)自在(じざい)に離(はな)してのびのびと成長(せいちょう)させる訳(わけ)ですね。思(おも)いの方(ほう)は、愛(あい)の一体感(いったいかん)を思(おも)えば思(おも)うほ葉(は)っぱと葉(は)っぱをくっつけるのね。自由(じゆう)を奪(うば)って縛(しば)っていくから、思(おも)いの愛(あい)の一体感(いったいかん)は偽物(にせもの)なんですね。葉(は)っぱ同士(どうし)を思(おも)いの接着剤(せっちゃくざい)でくっつけるからね。不自由(ふじゆう)になって行(い)くばっかり。根本(こんぽん)からの本当(ほんとう)の一体感(いったいかん)は一枚(いちまい)一枚(いちまい)の葉(は)っぱをくっつけずにのびのびと自由(じゆう)に離(はな)すんですね。

質問(しつもん)者(しゃ): 人(ひと)にはそれぞれに天命(てんめい)があるのか?また、感謝(かんしゃ)の心(こころ)で天命(てんめい)に沿(そ)って生(い)きるだけではなく、自分(じぶん)自身(じしん)こうありたいという思(おも)いも持(も)っていた方(がた)がいいのでしょうか?

「ありがとうございます」: 思(おも)いがなくなったら、天命(てんめい)を果(は)たしてるのね。天命(てんめい)というのはその人(ひと)の個性(こせい)を最大限(さいだいげん)に発揮(はっき)してる状態(じょうたい)ですよね。神様(かみさま)と自分(じぶん)とを切り離(きりはな)さなかったら、一(ひと)つにつながってる状態(じょうたい)だったら必(かなら)ず個性(こせい)が生(う)まれるんですね。で、その個性(こせい)を発揮(はっき)するんですね。それが本当(ほんとう)の天命(てんめい)を果(は)たしてるのね。神様(かみさま)の方(ほう)から役目(やくめ)付(つ)けられたね。(例(たと)えば)この手(て)の指(ゆび)がそうですね。一本(いっぽん)一本(いっぽん)全部(ぜんぶ)切り離(きりはな)しておいたら単(たん)に指(ゆび)が一本(いっぽん)一本(いっぽん)あるだけなんですよね。過去(かこ)は親指(おやゆび)であろうが人差し指(ひとさしゆび)であろうが関係(かんけい)なくなるのね。単(たん)に指(ゆび)があるだけになってしまうのね。個性(こせい)がないんですよね。でもこれがつながって動(うご)いてるときは一つ一(ひとつひと)つに役目(やくめ)があって個性(こせい)がある。人(ひと)も神様(かみさま)とつながってる時(とき)は、感謝(かんしゃ)してる時(とき)は必(かなら)ず役目(やくめ)があるんですね。個性(こせい)があって個性(こせい)を発揮(はっき)してるんですね。それが本当(ほんとう)の意味(いみ)での天命(てんめい)を果(は)たしてる状態(じょうたい)なんですよね。だから神様(かみさま)と自分(じぶん)とは一体(いったい)なんだっていう自覚(じかく)を呼び起(よびお)こすだけがいいんですよね。その一番(いちばん)いい方法(ほうほう)の「ありがとうございます」を唱(とな)えるだけで自然(しぜん)に個性(こせい)を発揮(はっき)して天命(てんめい)を果(は)たさせてもらえるんです。難(むずか)しいことは考(かんが)えないほうがいいみたいですね。

 神様(かみさま)はどこにいるの?

質問(しつもん)者(しゃ): 神様(かみさま)はいつもどこにいるのでしょうか?

「ありがとうございます」: 本当(ほんとう)の神様(かみさま)、唯一(ゆいいつ)無二(むに)絶対(ぜったい)の神様(かみさま)はこの世(よ)の全(すべ)てに居(い)てるし、奥(おく)の全(すべ)てにも居(い)てるし、全部(ぜんぶ)に居(い)てるんでしょうね。全体(ぜんたい)が一(ひと)つの神様(かみさま)ゆう風(ふう)に言(い)えたら一番(いちばん)いいんですけど。(神様(かみさま)って)どの神様(かみさま)ですかって言(い)われたら、全体(ぜんたい)の神様(かみさま)でなかったら部分(ふん)の神様(かみさま)だったら居(い)てるとこに居(い)てるんですけどね。

質問(しつもん)者(しゃ): 「ありがとうございます」先生(せんせい)の神様(かみさま)は(どこに居(い)るのですか)?

「ありがとうございます」: 私(わたくし)の神様(かみさま)は「ありがとうございます」って神様(かみさま)だけなんで、全部(ぜんぶ)に。この世(よ)の全(すべ)てにもあの世(よ)の全(すべ)てにも、もっともっと奥(おく)の次元(じげん)の全部(ぜんぶ)にもね。全(すべ)ての全(すべ)てに満(み)ちわたって全(すべ)ての全(すべ)てになってる神様(かみさま)って感(かん)じですね。

質問(しつもん)者(しゃ): (世の中(よのなか)では色(いろ)んな事件(じけん)が起(おこ)るけれど)そういうのは全(すべ)てに神様(かみさま)が居(い)ながらも起(おこ)るようにしているのか、それとも個人(こじん)の役目(やくめ)としてやっているのか?

「ありがとうございます」: 神様(かみさま)の創(つく)ってる放送(ほうそう)番組(ばんぐみ)、無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルの中(なか)のストーリーだったら、神様(かみさま)が全部(ぜんぶ)に役目(やくめ)を与(あた)えてつくらせてるんですよね。神様(かみさま)が創(つく)ってる訳(わけ)だから、どうしようもないね。勝手(かって)にかえるわけには絶対(ぜったい)にいかないからね。でもそれをつくった人(ひと)、それを見(み)て味(あじ)わう人(ひと)は番組(ばんぐみ)の中(なか)にはいないですね。あくまでも番組(ばんぐみ)の中(なか)はつくられたものでしょう。本物(ほんもの)じゃないですね。俳優(はいゆう)さんは、撮影(さつえい)所(しょ)にはいるかもしれないけどテレビの中(なか)にはいないですもんね。テレビの画面(がめん)上(じょう)の姿(すがた)で、本当(ほんとう)の自分(じぶん)はテレビの中(なか)にはいないですもんね。だからどんな悪(わる)いことをしてても本人(ほんにん)はこたつでおいしいもの食(た)べながら見(み)てる訳(わけ)でしょう。だから、現実(げんじつ)を心(こころ)でちょっと離(はな)すだけでいいんですね。ちょっと距離(きょり)を置(お)いて見(み)てる自分(じぶん)になればね。自分(じぶん)は色(いろ)んな番組(ばんぐみ)をつくるために、いい役(やく)も悪(わる)い役(やく)も果(は)たしたっていう風(ふう)に見(み)てね。それを今(いま)お茶(ちゃ)を飲(の)みながら、好(す)きな番組(ばんぐみ)をもう一(いち)回(かい)見(み)てるんだっていう感覚(かんかく)でね。だから、神様(かみさま)が何(なに)かをしてる訳(わけ)でも何(なん)でもないんですね。楽(たの)しませて下(くだ)さってる訳(わけ)ですね。

質問(しつもん)者(しゃ): ただ単(たん)に「ありがとうございます」を唱(とな)えるべきなのか、それとも無限(むげん)の無限(むげん)の愛(あい)を感(かん)じながら唱(とな)えるべきなのか?また、声(こえ)に出(だ)した方(がた)がいいのか、それとも心(こころ)の中(なか)で唱(とな)えればいいのか?

「ありがとうございます」: 別(べつ)にそれは自由(じゆう)でいいと思(おも)います。ただ、回数(かいすう)が増(ふ)えれば増(ふ)えるほど自由(じゆう)な本当(ほんとう)の自分(じぶん)に戻(もど)っていくんですね。心(こころ)で唱(とな)えるだけでもいいし口(くち)に出(だ)してもいいし、また
他(た)の人(ひと)の唱(とな)えてるのを聞(き)くだけでもいいし、他(た)の人(ひと)に唱(とな)えてもらうのもいいし。それはもう、自分(じぶん)の中(なか)に「ありがとうございます」っていうのがどんどん入(いり)ってくるようにしてもらうのがいいんですよね。自(みずか)らも感謝(かんしゃ)し、人(ひと)からも感謝(かんしゃ)されるっていうね。そういう人(ひと)は得(とく)ですよね。早(はや)く自由(じゆう)になる。感謝(かんしゃ)の心(こころ)に戻(もど)っていくんで、その自分(じぶん)は神様(かみさま)の色(いろ)んな表現(ひょうげん)を自由(じゆう)に楽(たの)しめるようになってくるんですね。だから、自然(しぜん)なのがいいですね。条件付(じょうけんつ)きにこれを唱(とな)えたからどうのこうのって思(おも)わないほうが楽(らく)でいいですね。もう最初(さいしょ)から結果(けっか)を「ありがとうございます」って受(う)けるような気持(きも)ちでね。条件付(じょうけんづ)けない方(がた)が感謝(かんしゃ)そのものであるんですね。

質問(しつもん)者(しゃ): 「ありがとうございます」先生(せんせい)には人類(じんるい)を良(よ)くしようとか、そういう気持(きも)ちはないのですか?

「ありがとうございます」: 思(おも)いのあるときはそういう気持(きも)ちになるんでしょうけど、感謝(かんしゃ)になったときは、無(な)いですね。もしマイナスの多(おお)い番組(ばんぐみ)を見(み)てるとしても、その番組(ばんぐみ)をいい番組(ばんぐみ)にかええようとは思(おも)わなくなるんですね。その番組(ばんぐみ)はそれでいいんだってね。いい番組(ばんぐみ)はすでにあるからね。もしいい番組(ばんぐみ)が見(み)たかったら、ちょっとだけチャンネルをかえていい番組(ばんぐみ)をそのままさっと受(う)けたら、もう欲っさないでで済(す)む訳(わけ)だから。もうそこに実現(じつげん)してるっていうね。地球(ちきゅう)も無限(むげん)のチャンネルの地球(ちきゅう)があるのね。低(ひく)い番組(ばんぐみ)の地球(ちきゅう)もあるし、高(たか)い番組(ばんぐみ)の地球(ちきゅう)もあるし。人(ひと)も同(おな)じですね。低(ひく)い番組(ばんぐみ)の自分(じぶん)もあるし、高(たか)い番組(ばんぐみ)の自分(じぶん)もあるし、っていうね。全部(ぜんぶ)取り揃(とりそろ)えられてるんですよね。(自分(じぶん)がどこにチャンネルを合(あ)わせるかによって)見(み)えてくる世界(せかい)が違(ちが)ってくる。

質問(しつもん)者(しゃ): 悪(わる)い番組(ばんぐみ)を見(み)ても、自分(じぶん)でチャンネルをかえることによって危害(きがい)を被(こうむ)らないようにできるのでしょうか?

「ありがとうございます」: 例(たと)えば地獄(じごく)の番組(ばんぐみ)を見(み)てるとして、一生懸命(いっしょうけんめい)見(み)てるとその中(そのなか)へ入り込(はいりこ)んでしまうんですね。そのなかの登場(とうじょう)人物(じんぶつ)を自分(じぶん)だと思い込(おもいこ)んで、周(まわ)りからの危害(きがい)をそのまま受(う)けてしまうような錯覚(さっかく)を起(お)こしてしまうんですね。でもテレビを見(み)てる自分(じぶん)と、中(なか)の配役(はいやく)の自分(じぶん)は違(ちが)うんですよね。テレビを見(み)てるっていう風(ふう)にちょっと距離(きょり)を置(お)いた時(とき)に、これは作り事(つくりごと)だからって離(はな)したら自分(じぶん)には危害(きがい)は及(およ)ばないですよね。感謝(かんしゃ)するっていうことはテレビを見(み)てる自分(じぶん)に戻(もど)ることなんですね。

質問(しつもん)者(しゃ): 一日(いちにち)のうちでも高(たか)い(番組(ばんぐみ)の)自分(じぶん)の時(とき)と低(ひく)い自分(じぶん)の時(とき)があるが、低(ひく)い状態(じょうたい)の時(とき)は感謝(かんしゃ)の「ありがとうございます」を唱(とな)えることによって高(たか)い自分(じぶん)に切(き)りかえたらいいんですね?

「ありがとうございます」: そうですね。「ありがとうございます」の言葉(ことば)だけに頼(たよ)らずに、周(まわ)りの人(ひと)もいつも自分(じぶん)のために「ありがとうございます」って祈(いの)ってくれてるとか、神様(かみさま)が根本的(こんぽんてき)に無限(むげん)の無限(むげん)の「ありがとうございます」を自分(じぶん)に向(む)けて与(あた)え続(つづ)けてくれてる、っていう風(ふう)に思(おも)うと楽(らく)になりますね。

質問(しつもん)者(しゃ): 神社(じんじゃ)で我々(われわれ)が祈願(きがん)したりする姿(すがた)は神様(かみさま)から見(み)てどういう風(ふう)に写(うつ)っているのか?また、神様(かみさま)に願(ねが)いを叶(かな)えてもらうには、もうすでにその願(ねが)いが叶(かな)ったかのように過去(かこ)形(けい)で願(ねが)うといいという話(はなし)を聞(き)きました。祈(いの)って願(ねが)いが叶(かな)うのであれば、どういう祈(いの)り方(がた)がいいのでしょうか?

「ありがとうございます」: 祈(いの)りにも無限(むげん)の段階(だんかい)があるんですよね。無限(むげん)のマイナスの祈(いの)り、無限(むげん)のプラスの祈(いの)りがあるんですね。プラスの祈(いの)りにしても無限(むげん)の段階(だんかい)があって、それはそれぞれの段階(だんかい)に必要(ひつよう)なんですね。だから、どれがいいか悪(わる)いかは言(い)えないんです。必要(ひつよう)な段階(だんかい)の祈(いの)り方(がた)がないと上(のぼ)れないですね。色(いろ)んな神社(じんじゃ)がありますけど。本当(ほんとう)の神様(かみさま)を直接(ちょくせつ)に把握(はあく)するのは難(むずか)しいんですね。だから心(こころ)を向(む)けるための模型(もけい)を持(も)ってくるんですね。そして(その模型(もけい)である神社(じんじゃ)に)心(こころ)を向(む)けることによって本物(ほんもの)を感(かん)じやすくするんですね。実際(じっさい)には神様(かみさま)は神社(じんじゃ)にはいないんですね。そんな中(なか)に入(い)れるような神様(かみさま)じゃないですね。宇宙(うちゅう)を一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)創(つく)り続(つづ)ける神様(かみさま)は模型(もけい)の中(なか)には入(い)れないですね。お祭(おまつ)りしてあるのは本物(ほんもの)の神様(かみさま)じゃないですね。でもそこに何(なん)の力(ちから)もないんかっていうと、また違(ちが)うんですね。神様(かみさま)に心(こころ)を向(む)けることは、結局(けっきょく)その神様(かみさま)からの一体(いったい)の流(なが)れを受(う)けるんですよね。受(う)けやすくなる。直接(ちょくせつ)の神様(かみさま)じゃなくてもそこから順番(じゅんばん)に段階(だんかい)を追(お)って神様(かみさま)の使(つか)いっていう感(かん)じで、段階(だんかい)を追(お)った色(いろ)んな神様(かみさま)が働(はたら)いて下(した)まで来(く)るんですね。それで神社(じんじゃ)で願い事(ねがいごと)をすると、その心(こころ)の波長(はちょう)と合(あ)う神様(かみさま)が助(たす)けてくれる。

 でも「ありがとうございました」っていう感情(かんじょう)の人(ひと)にはその波長(はちょう)と合(あ)う神様(かみさま)が応援(おうえん)して助(たす)けてくれる。一番(いちばん)いいのは「ありがとうございます」って最後(さいご)に加(くわ)えるのがいいですね。究極(きゅうきょく)の神様(かみさま)からの大(おお)きい助(たす)けがすっと入(はい)るよね。それぞれに色(いろ)んな祈(いの)り方(がた)があっていいんですよね。ただ自分(じぶん)がどんどんいい祈(いの)り方(ほう)に変化(へんか)していけば。最後(さいご)に行(い)きつくところは「ありがとうございます」ですよね。どの神社(じんじゃ)でもその神社(じんじゃ)の神様(かみさま)の名前(なまえ)を呼(よ)んで、最後(さいご)に「ありがとうございます」を加(くわ)えるんですね。何々(なになに)でありますように、っていう言葉(ことば)を断定(だんてい)的(てき)に祈(いの)るのも祈(いの)れる人(ひと)はいいんです。ただ現実(げんじつ)と理想(りそう)とのギャップの大(おお)きい人(ひと)は、例(たと)えば現実(げんじつ)は病気(びょうき)なのに健康(けんこう)であるって断定(だんてい)するのは矛盾(むじゅん)が生(しょう)じて逆(ぎゃく)に健康(けんこう)を疑(うたが)ってそう思(おも)えなくなるっていうのがあるんですね。そういう場合(ばあい)は断定(だんてい)じゃなく神様(かみさま)の世界(せかい)に健康(けんこう)があるっていうのを信(しん)じて、その健康(けんこう)を降(お)ろしてくださいっていう感(かん)じで健康(けんこう)でありますようにって祈(いの)る方(がた)が、矛盾(むじゅん)とか心(こころ)の葛藤(かっとう)が無(な)いんですーっと光(ひかり)が入(いり)ってきやすい場合(ばあい)があるんですね。それも一(ひと)つの方法(ほうほう)ですね。それぞれに必要(ひつよう)な人(ひと)が必要(ひつよう)な方法(ほうほう)を使(つか)って、より神様(かみさま)の大(おお)きい助(たす)けを受(う)けるっていうのが軸(じく)になってるんだと思(おも)うんですけどね。

 お祈(おいの)りについて

質問(しつもん)者(しゃ): (お祈(おいの)りは)過去(かこ)形(けい)でも現在(げんざい)形(けい)でも、その時(とき)の自分(じぶん)の気持(きも)ちに沿(そ)った言い方(いいかた)ですればよいのでしょうか?

「ありがとうございます」: 「世界(せかい)人類(じんるい)が平和(へいわ)でありますように」っていう祈(いの)り言葉(ことば)も浅(あさ)い祈(いの)り方(がた)と深(ふか)い祈(いの)り方(がた)と両方(りょうほう)兼ね備(かねそな)えてるんです。「世界(せかい)人類(じんるい)が平和(へいわ)であります」っていう断定(だんてい)の世界(せかい)にまず自分(じぶん)が飛び込(とびこ)んでつかんだら、それは断定(だんてい)の祈(いの)りなんです。後(あと)に「ように」っていう言葉(ことば)が付(つ)いてたとしても。全部(ぜんぶ)に通用(つうよう)するようにつくってる言葉(ことば)なんです。断定(だんてい)できない人(ひと)には「ように」が大(おお)きく働(はたら)くんです。断定(だんてい)的(てき)に祈(いの)れる人(ひと)には「世界(せかい)人類(じんるい)が平和(へいわ)であります」っていう断定(だんてい)の世界(せかい)を先(さき)に心(こころ)にとらえてしまうんです。そしたら「ように」は要(い)らないですよね。無(な)くてもそのままでさっと実現(じつげん)するんですね。断定(だんてい)の祈(いの)りを先(さき)に奥(おく)でつかまえない人(ひと)は現実(げんじつ)を先(さき)に見(み)てるんですね。現実(げんじつ)には断定(だんてい)の世界(せかい)なんか無(な)いんですよね。まだ平和(へいわ)じゃない状態(じょうたい)っていうのが現実(げんじつ)にはあるんでね。祈(いの)り言葉(ことば)も色(いろ)んな活用(かつよう)の仕方(がた)があるんですけどね。神様(かみさま)から来(きた)る祈(いの)り言葉(ことば)は行(い)く通(どお)りにも解釈(かいしゃく)できるんです。誰(だれ)にでも通用(つうよう)する言葉(ことば)なんです。

質問(しつもん)者(しゃ): 「ありがとうございます」先生(せんせい)は以前(いぜん)病気(びょうき)の方(がた)を治療(ちりょう)されていたと聞(き)きましたが、もう今(いま)はやってらっしゃらないんですよね?

「ありがとうございます」: そうですね。もう今(いま)は病気(びょうき)の人(ひと)が目の前(めのまえ)に現(あらわ)れなくなった(笑)。

質問(しつもん)者(しゃ): その時(とき)の癒しの方法(ほうほう)と言(い)うのは?

「ありがとうございます」: 私(わたくし)は小(ちい)さい時(とき)からお医者(いしゃ)さんになって病気(びょうき)の人(ひと)を全部(ぜんぶ)治(なお)してあげたいって思(おも)ってたんですね。ところがそれは病気(びょうき)をつかんでる心(こころ)が多分(たぶん)にあったと思(おも)うんですよね。だから、病気(びょうき)の人(ひと)が目(め)に付(つ)いて仕方(がた)がなかった。それで一生懸命(いっしょうけんめい)治(なお)してあげたいと思(おも)って祈(いの)ってたんです。祈(いの)るのは病気(びょうき)を見(み)つめるんじゃなく、無限(むげん)に無限(むげん)に完全(かんぜん)健康(けんこう)を見(み)つめて置き換(おきか)えてもらうっていう祈(いの)りなんですね。皆(みな)が神様(かみさま)で完全(かんぜん)健康(けんこう)なんだっていうね。光り輝(ひかりかがや)いてる健康(けんこう)な姿(すがた)を、心(こころ)にイメージじゃなく感(かん)じるまで祈(いの)りごとを唱(とな)えるんですね。そうすると目の前(めのまえ)にいる人(ひと)全員(ぜんいん)が(かみのみちからみいのちみひかりって感(かん)じる内容(ないよう)不明瞭(ふめいりょう)?)。病気(びょうき)の人(ひと)が情報(じょうほう)として入(いり)ってこなくなる、見(み)なくなる。だから人(ひと)の病気(びょうき)を治(なお)したっていうよりも、自分(じぶん)の心(こころ)の中(なか)の病気(びょうき)を健康(けんこう)に置き換(おきか)えてもらったって言(い)った方(がた)が正(ただ)しいかもしれないね。自分(じぶん)が選(えら)んだ番組(ばんぐみ)だったかもしれないね。本当(ほんとう)は健康(けんこう)ばっかり見(み)てるのが幸(しあわ)せですよね。

質問(しつもん)者(しゃ): それは例(たと)えば病気(びょうき)の人(ひと)が目の前(めのまえ)に現(あらわ)れたとしても、もうその人(ひと)は健康(けんこう)だっていう・・・?

「ありがとうございます」: そうですね。今(いま)だったらもう無限(むげん)に無限(むげん)に輝(かがや)いてるっていう見方(みかた)でしか見(み)ないですから。だから病気(びょうき)を治(なお)してあげたいとも思(おも)わないし、お祈(おいの)りできるようにしてあげたいとも思(おも)わないですね。もう皆(みな)が無限(むげん)に健康(けんこう)で無限(むげん)に幸(しあわ)せにお祈(おいの)りできてる、皆(みな)がアマテラスの大身(おおみ)神様(かみさま)なんだっていう風(ふう)な感謝(かんしゃ)の仕方(しかた)をずっと続(つづ)けさせてもらってるんで。一番(いちばん)得(とく)な役目(やくめ)を与(あた)えてもらってる(笑)。

 人間(にんげん)の構造(こうぞう)・意識(いしき)のレベル

質問(しつもん)者(しゃ): (人間(にんげん)の寿命(じゅみょう)の長短(ちょうたん)について)

「ありがとうございます」 寿命(じゅみょう)も必要(ひつよう)があってそういう寿命(じゅみょう)になってるんですね。(地球(ちきゅう)上(じょう)の)人口(じんこう)が百(ひゃく)倍(ばい)にもなったら食べ物(たべもの)も無(な)くなるし、生(い)きていけませんね。だからほどほどの人口(じんこう)に整(ととの)えてバランスをとってくださるのね。それは地球(ちきゅう)という一(ひと)つの、まあ一(ひと)つか二(ふた)つか三(みっ)つかのチャンネルの幅(はば)の中(なか)での動(うご)きですよね。だから日本(にほん)でもそうですよね。食料(しょくりょう)が少(すく)ない時(とき)は(人口(じんこう)が)三(さん)千万(まん)四千万(まん)くらいでしょう。外国(がいこく)からたくさん食料(しょくりょう)が入(いり)ってくるようになると一(いち)億超(こ)えてもいいんですもんね。

質問(しつもん)者(しゃ): 寿命(じゅみょう)は神様(かみさま)が決(き)めるのでしょうか?

「ありがとうございます」: いえ、本人(ほんにん)が選(えら)ぶんです。どの番組(ばんぐみ)のどういう姿(すがた)をとるかというのを一人一人(ひとりひとり)の責任(せきにん)で選(えら)んで決(き)めてるんです。(寿命(じゅみょう)の)理想(りそう)が百(ひゃく)二十歳(さい)とかいいますけどもうちょっと高(たか)い番組(ばんぐみ)になるともう何(なに)千歳(さい)なんです。肉体(にくたい)を持(も)ちながら。もっと高(たか)いともっと延(の)びるんでしょうね。そして、年(とし)を取(と)れば取(と)るほど若(わか)くなる。老化(ろうか)が無(な)いんですよね。だから番組(ばんぐみ)によっては全然(ぜんぜん)違(ちが)う寿命(じゅみょう)の表現(ひょうげん)があるんですよね。
寿命(じゅみょう)の長(なが)い短(みじか)いは必要(ひつよう)性(せい)で決(き)まるんですね。長(なが)く生(い)きたからいいんじゃないんですね。勉強(べんきょう)し残(のこ)してる人(ひと)はもうちょっと長生(ながい)きして、っていうのもあるんですね。早死(はやじ)にしても悪(わる)いとは言(い)えない。この一生(いっしょう)の分(ふん)は終(お)わったから早(はや)くもっといい所(ところ)へ行(い)きなさいっていうね。

質問(しつもん)者(しゃ): 色(いろ)んな課題(かだい)を持(も)ってこの世(よ)に生(う)まれ、生(い)きている間(あいだ)にそれらを学(まな)び、そして死(し)という卒業(そつぎょう)式(しき)を迎(むか)えるのだと思(おも)うのですが。

「ありがとうございます」: そうですね。それも一(ひと)つの考え方(かんがえかた)なんですよね。卒業(そつぎょう)式(しき)っていうね。でも、卒業(そつぎょう)式(しき)じゃなくて早(はや)くもっといい勉強(べんきょう)の場(ば)へ移(うつ)る人(ひと)もいるんですね。途中(とちゅう)でもっといい場所(ばしょ)へ移動(いどう)させてもらうと卒業(そつぎょう)式(しき)じゃないんですよね。色々(いろいろ)あるんですね。一番(いちばん)いい所(ところ)へ、必要(ひつよう)なところへ行(い)くんですね。だから卒業(そつぎょう)じゃなくても転業(てんぎょう)でもいいんですよね。落第(らくだい)しても留年(りゅうねん)してもいいんです。一番(いちばん)いいように計(はか)らってもらってるっていう位(くらい)の気持(きも)ちで。(物事(ものごと)は)自分(じぶん)一人(かずと)で決(き)めてるんではなく神様(かみさま)や周(まわ)りが全部(ぜんぶ)自分(じぶん)のことを詳(くわ)しく見(み)ていて一番(いちばん)いい方法(ほうほう)を与(あた)え続(つづ)けて下(くだ)さってるんですね。

質問(しつもん)者: この世(よ)は色(いろ)んな次元(じげん)の世界(せかい)(天国(てんごく)の世界(せかい)・地獄(じごく)の世界(せかい)など)が同時(どうじ)進行(しんこう)しているといいます。個人(こじん)の思(おも)いがそれらの世界(せかい)をつくっているのでしょうか?

「ありがとうございます」: 全員(ぜんいん)が「ありがとうございます」を唱(とな)えたとしても地獄(じごく)は地獄(じごく)で永遠(えいえん)に存在(そんざい)し続(しつづ)けるんです。ただ「ありがとうございます」を唱(とな)えてる人(ひと)にとっては地獄(じごく)の番組(ばんぐみ)も神様(かみさま)の最高(さいこう)傑作(けっさく)の一(ひと)つとして味(あじ)わえるんですね。必要(ひつよう)な番組(ばんぐみ)って分(わ)かるんです。ただ巻き込(まきこ)まれて苦(くる)しいばっかりっていう見方(みかた)をしなくなるんです。地獄(じごく)の石(いし)ころも輝(かがや)いてるっていうね。どんな悪役(あくやく)の姿(すがた)も名演技(めいえんぎ)なんだっていう見(み)方(がた)ができるんですね。こういうのを演(えん)じてくれる俳優(はいゆう)さんも名優(めいゆう)だなっていうね(笑)。

質問(しつもん): 地球(ちきゅう)を良(よ)くするための情報(じょうほう)について(?)

「ありがとうございます」: みんな、多分(たぶん)に一(ひと)つの番組(ばんぐみ)にはまり込(はまりこ)んでますよね。はまり込(はまりこ)んだ人(ひと)をいかに番組(ばんぐみ)の外(ほか)へ引き出(ひきだ)してより良(よ)い番組(ばんぐみ)の方(ほう)へ心(こころ)を向(む)けさせるかっていう方法(ほうほう)は、色(いろ)んなのがあるんでしょうね。

質問(しつもん): みんな、案外(あんがい)怖(こわ)い物(もの)見(み)たさがあるのではないでしょうか?

「ありがとうございます」: それもあるでしょうね。それぞれに色(いろ)んな生き方(いきかた)があっていいんだと思(おも)いますけどね。みんな必要(ひつよう)があってそういう方法(ほうほう)がそこにあるんで。必要(ひつよう)な体験(たいけん)も勉強(べんきょう)もしながら、本当(ほんとう)に自分(じぶん)に必要(ひつよう)なものを的確(てっかく)に与(あた)え続(つづ)けてもらってね。もし必要(ひつよう)だったらもう少(もうすこ)し番組(ばんぐみ)が上(のぼ)るようにとかね。一(ひと)つだけの方法(ほうほう)って無(な)いんですよね。

質問(しつもん)者(しゃ): (人生(じんせい)で)起(おこ)る様々(さまざま)な問題(もんだい)は神様(かみさま)が与(あた)えているのか、それとも自分(じぶん)で選(えら)んだ番組(ばんぐみ)なんでしょうか?

「ありがとうございます」: 神様(かみさま)が与(あた)えてるっていえば全(すべ)てのチャンネルの番組(ばんぐみ)をつくって与(あた)えてるって受(う)けた方(がた)がいいでしょう。神様(かみさま)は強制的(きょうせいてき)にこの番組(ばんぐみ)を見(み)なさいとは言(い)われてないよね。どれを選(えら)んで見(み)るかは人(ひと)の側(がわ)なのね。自分(じぶん)の好(す)きなものを選(えら)んで見(み)てるのね。だから神様(かみさま)がどうのこうのって言(い)えないのね。神様(かみさま)がつくり損(つくりそこ)ないをしてるかっていうと、絶対(ぜったい)無(な)いんですね。もう全(すべ)てをつくった表現(ひょうげん)ですから、無(な)いものは一(ひと)つとして無(な)いんですね。全部(ぜんぶ)揃(そろ)ってるんですね。まだこれがありませんなんていうことは絶対(ぜったい)無(な)いんですね。無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルっていう言葉(ことば)通(とお)り全部(ぜんぶ)揃(そろ)ってますから。全部(ぜんぶ)揃(そろ)えて与(あた)えてるっていう限(かぎ)りはそれを受(う)けて味(あじ)わう人間(にんげん)の側(がわ)の全(ぜん)責任(せきにん)になってくるんですね。だから病気(びょうき)になって治(なお)るように色(いろ)んな(味(あじ)わい方(がた)をしてしまう内容(ないよう)不明瞭(ふめいりょう))。やっぱり違(ちが)うんですよね。本当(ほんとう)の神様(かみさま)の導(みちび)きっていうよりもその番組(ばんぐみ)の中(なか)のストーリーを自分(じぶん)がそういう番組(ばんぐみ)として見(み)てるっていう位(くらい)でね。

質問(しつもん)者(しゃ): 暗(くら)い番組(ばんぐみ)というのは人間(にんげん)の意識(いしき)がつくっている様(よう)に思(おも)います。そして、我々(われわれ)一人一人(ひとりひとり)の中(なか)に神(かみ)があって、人間(にんげん)の意識(いしき)のレベルでは暗(くら)い番組(ばんぐみ)を選(えら)ぶけれども神(がみ)の部分(ぶぶん)では一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)を輝(かがや)きにかえているのだと思(おも)うのですが、どうでしょうか?

「ありがとうございます」: 番組(ばんぐみ)というのは本当(ほんとう)は限身(カギリミ)の、輝(かがや)いた神通(じんづう)自在(じざい)のものを限定(げんてい)して一(ひと)つの形(かたち)に表(あらわ)した姿(すがた)なのね。だから無限(むげん)のチャンネルの番組(ばんぐみ)の全(すべ)てが限身なんです。もう決(き)まってしまってるんですね。永遠(えいえん)の未来(みらい)まで全部(ぜんぶ)決(き)まってしまって形(かたち)も用意(ようい)されてしまってるって言(い)えるんですよ。ただ同(おな)じ形(かたち)を受(う)けても受け方(うけかた)は人(ひと)によって色々(いろいろ)ですね。地獄(じごく)をも輝(かがや)いて見(み)る人(ひと)もいれば、苦(くる)しいばっかりの思(おも)いで見(み)る人(ひと)もいるしね。見方(みかた)は色々(いろいろ)ですけど形(かたち)は変(かわ)ってないのね。地獄(じごく)は地獄(じごく)の形(かたち)がありますよね。

 見(み)方(ほう)によって自由(じゆう)自在(じざい)

質問(しつもん)者(しゃ): 神(かみ)は地獄(じごく)にあっても光(ひかり)の部分(ぶぶん)を見(み)せようとしていると私(わたくし)は理解(りかい)しているのですが、人間(にんげん)の意識(いしき)、エゴが闇(やみ)の部分(ぶぶん)を見(み)ようとしているのではないのでしょうか?

「ありがとうございます」: 神様(かみさま)の方(ほう)は、一番(いちばん)輝(かがや)いた番組(ばんぐみ)もあるし下(した)へ行(い)くほど光(ひかり)の少(すく)ない番組(ばんぐみ)もあるでしょう。上(うえ)と下(した)とを比(くら)べたら上(うえ)は無限(むげん)に無限(むげん)に輝(かがや)いてるし、下(した)は無限(むげん)の無限(むげん)の闇(やみ)なんですよ。その違(ちが)いが絶対(ぜったい)あるんですよね。一番下(いちばんした)の闇(やみ)の方(がた)を神様(かみさま)は輝(かがや)かせようとする必要(ひつよう)は無(な)いんです。そこはもう闇(やみ)としての役割(やくわり)という形(かたち)なんですね。ただ見(み)る人(ひと)によったら、地獄(じごく)にも無限(むげん)のプラスの役割(やくわり)の姿(すがた)として見(み)ることは出来(く)るんですね。相対(あいたい)の両極(りょうきょく)というのは悪(わる)いばっかりがマイナスにあるんじゃないんですね。双方(がた)がお互(おたが)いから見(み)る立場(たちば)なんでしょうね。与(あた)える側(がわ)があったら受(う)ける側(がわ)がいる訳(わけ)でしょう。受(う)けるっていうのが悪(わる)いかっていうと違(ちが)いますね。受(う)けるから与(あた)える側(がわ)がいるんですね。空間(くうかん)というのは相対(あいたい)でいうとどっちもいいですよね。プラスマイナスっていうよりもね。時間(じかん)っていう要素(ようそ)も素晴(すば)らしい、空間(くうかん)って言(い)う要素(ようそ)も素晴(すば)らしい、褒め讃(ほめたた)え合(あ)うだけですよね。人間(にんげん)の霊(れい)と体(からだ)も同(おな)じですね。プラスとマイナスに分(わ)かれる状態(じょうたい)もあるし、色々(いろいろ)な要素(ようそ)があるんでね。極楽(ごくらく)と地獄(じごく)も、場合(ばあい)によったら地獄(じごく)が愛(あい)の極地(きょくち)っていう風(ふう)に見(み)ると、地獄(じごく)にも無限(むげん)に輝(かがや)いた状態(じょうたい)がありますよね。そういう意味(いみ)だったら大(おお)きいプラスに見(み)える番組(ばんぐみ)に逆転(ぎゃくてん)するね。見(み)方(ほう)によって自由(じゆう)自在(じざい)に変化(か)するのも、いいかもしれませんね。

質問(しつもん)者(しゃ): 「ありがとうございます」先生(せんせい)は人前(ひとまえ)にお出(おで)になりませんが、もし全国(ぜんこく)をまわられたら「ありがとうございます」の素晴(すば)らしさに気付(きづ)く人(ひと)が増(ふ)えるのでは、と思(おも)いますが?

「ありがとうございます」: 「ありがとうございます」は神様(かみさま)が前面(ぜんめん)に出(で)てみんなを仲良(なかよ)くさせていくみたいですね。だから私(わたくし)は「ありがとうございます」で幸(しあわ)せにしてもらった小(ちい)さい実例(じつれい)というだけです(笑)。これからは皆(みな)さんが「ありがとうございます」で、謙虚(けんきょ)に単(たん)なる小(ちい)さい実例(じつれい)なんだという位(くらい)の感(かん)じで、神様(かみさま)を表(ひょう)に出(だ)せばいいんじゃないかと思(おも)うんですけどね。そしたらもう宗教(しゅうきょう)争(あらそ)いも何(なに)も無(な)くなるんですね。これから、そういう一体化(いったいか)する時代(じだい)が来(く)るんですよね。私(わたくし)はどんどん奥(おく)へ隠(かく)れます(笑)。

質問(しつもん)者(しゃ): 外国(がいこく)にも様々(さまざま)な神様(かみさま)がおられます。その中(そのなか)でアマテラスの大御神(おおみかみ)に匹敵(ひってき)する神様(かみさま)はおられないのでしょうか?

「ありがとうございます」: ちょっと言葉(ことば)が足(た)りないですね。(例(たと)えば)アラーの神(かみ)だったら、似(に)てるんですけどちょっと足(た)りないですね。アマテラスの方(がた)が意味(いみ)がたくさんあるんですね。整(ととの)ってるんですね。一番(いちばん)分(わ)かりやすい、感(かん)じやすい言葉(ことば)が日本(にほん)には多(おお)いですね。

質問(しつもん)者(しゃ): 日本人(にほんじん)じゃないと感(かん)じられないのですか?

「ありがとうございます」: 時期(じき)的(てき)に早(はや)く感じ取(かんじと)れる人(ひと)は日本(にほん)に生(う)まれてきてるみたいですね。皆(みな)本当(ほんとう)は同(おな)じなんだと思(おも)います。外国(がいこく)に住(す)んでる人(ひと)はまず部分的(ぶぶんてき)に勉強(べんきょう)して、最後(さいご)に全体(ぜんたい)を総括(そうかつ)する勉強(べんきょう)に入(はい)るっていう風(ふう)に見(み)ると、日本人(にほんじん)は先輩(せんぱい)になるんでしょうね(笑)。上級生(じょうきゅうせい)っていう感(かん)じね。順番(じゅんばん)にまた日本(にほん)っていう学校(がっこう)に入学(にゅうがく)してくる。外国(がいこく)にいて色(いろ)んな役割(やくわり)を果(は)たす人(ひと)は日本(にほん)に生(う)まれてもいいのに外国(がいこく)に生(う)まれて指導(しどう)者(しゃ)としての役割(やくわり)を果(は)たしてるとも言(い)えるんですよね。

質問(しつもん)者(しゃ): 今(いま)は日本(にほん)が「上級生(じょうきゅうせい)」ですが、時代(じだい)によって「上級生(じょうきゅうせい)」になる地域(ちいき)は違(ちが)っていたのでしょうか?

「ありがとうございます」: 違(ちが)うんでしょうね。でも本当(ほんとう)はこの島国(しまぐに)日本(にほん)のことじゃないんですね。日の本の国(ひのもとのくに)っていうと、絶対(ぜったい)なんですね。神様(かみさま)の一番(いちばん)奥(おく)の最高(さいこう)表現(ひょうげん)っていう風(ふう)に見(み)た方(がた)がいいんですね。そこからいつも全体(ぜんたい)に必要(ひつよう)なものを送り込(おくりこ)んで来(く)るっていうね。島国(しまぐに)日本(にほん)の場合(ばあい)時代(じだい)で変化(か)するとしたら、日本(にほん)から世界(せかい)に広(ひろ)がる時(とき)もあれば世界(せかい)から日本(にほん)に入(はい)る時(とき)もある筈(はず)なんです。その両方(りょうほう)を繰り返(くりかえ)してるかもしれないしね。だから、いつも日本(にほん)が上(うえ)なんだって言(い)えないのね。逆(ぎゃく)に世界(せかい)の方(がた)が上(うえ)で子供(こども)を育(そだ)てるように日本(にほん)を育(そだ)ててくれた時期(じき)もある筈(はず)なのね。でも、絶対(ぜったい)っていう根本(こんぽん)は日(ひ)の本(ほん)はいつも光(こう)を与(あた)える側(がわ)なんでそれは変(か)わらないと思(おも)いますけど。

 皇(すめら)っていう言葉(ことば)も「皇高天原命(すめたかあまはらのみこと)」で、宇宙(うちゅう)の絶対(ぜったい)神(がみ)の全(すべ)てっていう、「ありがとうございます」と同(おな)じ意味(いみ)なんですね。天皇(てんのう)陛下(へいか)を皇みことって呼(よ)ぶ言葉(ことば)も、一部(いちぶ)として宇宙(うちゅう)絶対(ぜったい)神(しん)の御心(みこころ)をそこに大(おお)きく体現(たいげん)した人(ひと)っていう意味(いみ)で皇(すめ)みことっていうね。だから、宇宙(うちゅう)絶対(ぜったい)神(しん)の心(こころ)をしっかりと把握(はあく)して、言(い)ってる人(ひと)はみんな皇(すめ)みことなんですね。絶対(ぜったい)神(しん)のことは「皇高天原命(すめたかあまはらのみこと)」っていう、全体(ぜんたい)を指(さ)す言葉(ことば)として使(つか)うんですけど。皇(すめ)っていうだけではちょっと足(た)りないんですね。ただ長(なが)いと不便(ふべん)なんで皇(すめ)って言(い)います。軽(かる)く、簡単(かんたん)な言葉(ことば)っていう意味(いみ)でね。

質問(しつもん): (人(ひと)からの)頼まれごとをする時(とき)に、自分(じぶん)を必要(ひつよう)として欲(ほ)しいという想念(そうねん)が働(はたら)いてしまうことがあると思(おも)うのですが?

「ありがとうございます」: 自分(じぶん)の命(いのち)を神様(かみさま)にお返(おかえ)しするまでは、自我(じが)や思(おも)いが出(で)るんでしょうね。(自分(じぶん)の)全部(ぜんぶ)を神様(かみさま)に捧(ささ)げます、お使(おつか)いくださいという全(ぜん)託(たく)の行(ぎょう)をかなり積み重(つみかさ)ねていかないと、自分(じぶん)の願(ねが)いや思(おも)いが残(のこ)ってるんですよね。神様(かみさま)は自分(じぶん)をどういう風(ふう)に使(つか)いたいかっていうのは一番(いちばん)必要(ひつよう)なところで使(つか)って下(くだ)さる筈(はず)なんですけど、自我(じが)があると自分(じぶん)の願(ねが)い通(どお)りのところで使(つか)ってもらいたいっていう気持(きも)ちが先(さき)に出(で)てくる。大(おお)きく使(つか)いたいのに小(ちい)さな気持(きも)ちでいると神様(かみさま)は使(つか)いにくいですよね。何(なん)でも神様(かみさま)の御心(みこころ)のままにっていう風(ふう)になってるんでしょうね。自我(じが)の思(おも)いのままにだと行き詰(いきづ)まるんです。

質問(しつもん)者: 実(じつ)は今(いま)あるところから頼まれごとをしているのですが、(自分(じぶん)の中(なか)にそういう気持(きも)ちがあるのかどうか)ちょっと心(こころ)に引っ掛(ひっか)かったもので・・・。

「ありがとうございます」: 「ありがとうございます」をこれだけしっかり唱(とな)えてる限(かぎ)りは神(かみ)計(はか)らいで必要(ひつよう)なことしか来(こ)ないですね。最高(さいこう)じゃないですか(笑)。

質問(しつもん)者: 「ありがとうございます」が根本(こんぽん)ですが、日常(にちじょう)生活(せいかつ)の中(なか)で気(き)を付(つ)けることについでアドバイスをお願(おねが)いします。

「ありがとうございます」: もう、そのままでいいですよ。大丈夫(だいじょうぶ)(笑)。神様(かみさま)の護(まも)りは無限(むげん)に無限(むげん)に大(おお)きいですからね。「ありがとうございます」をお祈(おいの)りできない時(とき)は神様(かみさま)がかわりにして下(くだ)さってるっていう位(くらい)に開き直(ひらきなお)っていいですね。

 人間(にんげん)の構造(こうぞう)について

質問(しつもん)者): 人間(にんげん)の構造(こうぞう)を教(おし)えて頂(いただ)きたいのですが。

「ありがとうございます」: どの部分(ふん)の自分(じぶん)でもいいんですけど、まず今(いま)の自分(じぶん)を全体(ぜんたい)の中心(ちゅうしん)に置(お)くんですね。必要(ひつよう)な神様(かみさま)の働(はたら)きが無限(むげん)に無限(むげん)にどこまでも広(ひろ)がってるっていう風(ふう)にね。一番(いちばん)外側(そとがわ)が絶対(ぜったい)っていう風(ふう)に見(み)るんですね。絶対(ぜったい)っていう大(だい)光源(こうげん)の中心(ちゅうしん)に今(いま)の自分(じぶん)があるんですよね。他(た)の人(ひと)もそれぞれにね。中心(ちゅうしん)はどれだけあっても大丈夫(だいじょうぶ)なんですね。皆(みな)がそれぞれ絶対(ぜったい)の中心(ちゅうしん)に置(お)かれて護(まも)られてるっていう見(み)方(がた)がいいんですね。その働(はたら)きっていうのは言葉(ことば)で表(あらわ)すのは不可能(ふかのう)ですよね。無限(むげん)の無限(むげん)の働(はたら)きが複雑(ふくざつ)に組(く)み合(あ)わさって、中心(ちゅうしん)にいる今(いま)の自分(じぶん)をありとあらゆるところから護(まも)って下(くだ)さってるのね。銀河系(ぎんがけい)の遠(とお)いところからの宇宙(うちゅう)の光(ひかり)にも入(いり)ってくるんですね。ただ、それがどういう風(ふう)に入(いり)ってきてるのかっていうのは考(かんが)えても分(わ)からないですよね。でも宇宙(うちゅう)の全部(ぜんぶ)から直接的(ちょくせつてき)にも間接的(かんせつてき)にもありとあらゆる働(はたら)きが入(いり)ってきてますね。
 また、この肉体(にくたい)が小宇宙(しょううちゅう)っていう風(ふう)に見(み)ると大宇宙(だいうちゅう)とは相似形(そうじけい)なんでお互(おたが)いに影響(えいきょう)しあってますよね。複雑(ふくざつ)な構造(こうぞう)が無限(むげん)の無限(むげん)の構造(こうぞう)としてあるんですね。ちょっと分(わ)かり辛(づら)いですけど。あまり単純化(か)するとまた余計(よけい)に分(わ)かり辛(づら)いのでね。

質問(しつもん)): 説明(せつめい)する時(とき)に・・・?

「ありがとうございます」: 説明(せつめい)する時(とき)にね。分(わ)かる人(ひと)には分(わ)かるし、分(わ)からない人(ひと)には分(わ)からないんで、説明(せつめい)してもあまり・・・。でも感謝(かんしゃ)の心(こころ)で感(かん)じたのは変(か)わらないんですよね。理解(りかい)して納得(なっとく)してるんですね。ある時(あるとき)忘(わす)れてもまた思い出(おもいだ)すんです。だから、本当(ほんとう)は皆(みな)最初(さいしょ)から知(し)ってるって言(い)う大前提(だいぜんてい)のもとに、必要(ひつよう)な時(とき)に自覚(じかく)がよみがえって来(き)たらいいんだっていう位(くらい)でいいんですよね。

質問(しつもん)): 動物(どうぶつ)を殺(ころ)すこと、また肉食(にくしょく)することの善悪(ぜんあく)は?

「ありがとうございます」: 生き物(いきもの)を殺(ころ)す必要(ひつよう)の無(な)い番組(ばんぐみ)があってもいいですけど、殺し合(ころしあ)う番組(ばんぐみ)があってもいいんですよね。それは単(たん)に殺(ころ)すということではなく、命(いのち)を捧(ささ)げ合(あ)うという意味(いみ)でね。肉食(にくしょく)でも、牛(うし)がその命(いのち)を人間(にんげん)に捧(ささ)げて自(みずか)ら願(ねがい)って食(た)べて欲(ほ)しいって言(い)ったとしたら、それはものすごい愛(あい)の心(こころ)ですね。神様(かみさま)に全(ぜん)託(たく)の心(こころ)ですね。そうしたら牛(うし)の魂(たましい)が次第(しだい)に進化(しんか)を遂(と)げて、人間(にんげん)を飛び越(とびこ)えて神様(かみさま)になるかもしれない(笑)。そういう番組(ばんぐみ)だったら牛(うし)の捧(ささ)げてくれる肉(にく)を食(た)べるのも素晴(すば)らしい生き方(いきかた)なんですね。でも、嫌(いや)がるのを殺(ころ)して無理矢理(むりやり)食(た)べて、恨(うら)みの思(おも)いを受(う)けるという番組(ばんぐみ)もある。色(いろ)んな番組(ばんぐみ)に応(おう)じての必要(ひつよう)性(せい)だと思(おも)うんですけど。形(かたち)にとらわれなくてもいいと思(おも)います。

(しばし場内(じょうない)のやりとり。中略(ちゅうりゃく))

質問(しつもん)): 悟(さと)りというのはどういう状態(じょうたい)のことなのでしょうか?

「ありがとうございます」: 神様(かみさま)との一体感(いったいかん)なんですよね。離(はな)れてるっていうのが差(さ)がある状態(じょうたい)で、離(はな)れてるっていう感覚(かんかく)が無(な)くなる状態(じょうたい)が悟(さと)り、つまり神様(かみさま)と一体(いったい)であるという意味(いみ)なんですね。全(すべ)てが一体(いったい)だったら、生き物(いきもの)を殺(ころ)しても自分(じぶん)で自分(じぶん)の命(いのち)を必要(ひつよう)ないから神様(かみさま)の世界(せかい)へ戻(もど)しますっていう感覚(かんかく)と同(おな)じですよ。

(しばし場内(じょうない)のやりとり。中略(ちゅうりゃく))

質問(しつもん)): 人間(にんげん)・動物(どうぶつ)・植物(しょくぶつ)・鉱物(こうぶつ)、それぞれに意識(いしき)を持(も)っているのでしょうが、その(意識(いしき)の)レベルの差(さ)はどうなっているのでしょうか?

「ありがとうございます」: やっぱりランクがあるんですね。どれだけ神様(かみさま)の大(おお)きい意識(いしき)に近(ちか)いかっていうね。人間(にんげん)は万物(ばんぶつ)の霊長(れいちょう)っていう位(くらい)で一番(いちばん)神様(かみさま)の意識(いしき)に近(ちか)いんでしょうね。動物(どうぶつ)よりは昆虫(こんちゅう)の方(がた)がレベルは低(ひく)いと思(おも)います。低(ひく)い意識(いしき)を高(たか)める方法(ほうほう)も色々(いろいろ)でしょうけど、命(いのち)を捧(ささ)げることによって大(おお)きく進化(か)するっていう一面(いちめん)もありますね。

質問(しつもん)者(しゃ): 鉱物(こうぶつ)の中(なか)には人間(にんげん)と同(おな)じ位(くらい)の意識(いしき)を持(も)つ物(もの)もあるといいますが?

「ありがとうございます」: 石(いし)ころのほう)が人間(にんげん)よりもはるかに高(たか)い意識(いしき)を持(も)ってる場合(ばあい)もありますしね。
・・・ありがとうございます。








ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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