0カウンター.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.3940.41.42.43.44.45.
46.47.48.49.50.51.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.67.68.69.70.71.72.73.74.75.76.77.78.7980.81.82.83.84.85.86.
87.88.89.90.91.92.93.94.95.96.97.98.99.100.101.102.103.104.105.106.107.108.109.110.112.113.114.115.116.117.118.119.110.
111
.112.113.114.115.116.117.118.119.120.121.122.123.124.125.126.127.128.129.130.131.132.133.134.135.136.137.138.139.
140.141142.143.144.145.146147.148.149.150.151.152.153.154.155.156.157.158.159.160.161.162.163.164.165.166.

けんきょ姿すがた

              
 ありがとうございます- ほんとうけんきょ姿すがたとはどういう姿すがたでしょうか?

 ありがとうございます: いちばんしたからいちばんうえあおこころなのです。けんきょというのはすべてをプラスになおせるこころなのです。ごくのどんぞこからながめたらどんなものもプラスにえるでしょう。はちだいごく姿すがたぜんプラスにえたら、ごくのもっとしたのどんぞこぶんいているのです。そういうたちいちばんけんきょなのです。そこからだともううえしかることがないのです。したないのです。かみさまのほうこころつづけるだけでしょう。そのときかみさまのさいこうひょうげんなおしているのです。さいこうのものをいつもなおせるこころです。それがけんきょです。
 だからけんきょというのはすべてをプラスにこころなのです。つうはマイナスのたいけんをして、どんどんマイナスをかえしているうちけんきょになれるかとおもうのですけど、でもまだしたがあるのです。までいってもしたがあるからごくのどんぞこでもまだしたがあるから、こころきをマイナスにけているかぎけんきょになれない。けんきょつねげんのプラスをなおせるかみさまの御心みこころだから、ほんとうけんきょさはかんしゃをしているうちに、「ありがとうございます」をっているうちかみさまのげんげんけんきょさをいただくのです。「ありがとうございます」のなかげんげんけんきょふくまれているのです。そうしたらろうせずにけんきょさをもらってごくのどんぞこてもプラスにえるようになるのです。そこまでえてもらえるのです。

ar75瞑想は空になること2001.4.14

質問者:
 瞑想はまだ一度もしたことがないんですが、瞑想とはどんなものですか?

ありがとうございます:
 いろんな言葉で表現しているんですね、瞑想だとか座禅だとか、禅定とか、お祈りとか、統一とかね。いろんな言葉で表現されるんですけど。瞑想は何のためにするのでしょうか、目を閉じて心の奥を見つめて自分の本当の姿を感じ取るというのが瞑想なんですね。人間の心の一番奥に神さまの実在する姿が存在しています、それを実感するための心を静める行が瞑想ですね。でも、あまり堅苦しく考えないほうが良いですね、自然体が瞑想に一番ふさわしい姿です、気楽な状態でね。
 目を閉じなくても目をあけていても瞑想は出来るんです。無念無想になるのがいいのかこれもまた問題なんですね、何も思わないのが本当じゃないんです、やはり、神さまを思うのが大事なんでね。最高のいい言葉を使って神様さま言葉で思うというのが、神さまを直感で捉えやすいですね。無念無想じゃ何もない状態でしょう、それは、雑念を払うという意味ではチョッといいんですけど。その後そこから神さまがスーッと湧き出てくるような感じで感じ取れないといけない。何もないのと神さまがいるのとではチョッと違います、
仏教でも無と空との区別ははっきりされているんです。無というのは何もない状態ね、空というのは無限の無限のプラスがある状態です。だから空にならないといけない。

自力・他力・絶対力

質問者:
 「ありがとうございます」と唱えるのと「南無阿弥陀仏」と唱えるのとは同じですか?

ありがとうございます:
 だいぶ根本は違うんです、悟りを求めて・悟りを開くための修行方法はいろいろあるんです。最初は自力的に行を積むんですね、自分の努力で自力でね。ところがこの悟りを開くというのはかなり難しいんですね、次第に力の限界というのが来るんですね。そこで、先に悟った人の助けを受けるために他力行が生まれてきます。だから、「南無阿弥陀仏(ありがとうございます はナンマンダブツと言われます)」の阿弥陀様も修行に修行を重ねてやっと悟ったんでしょう。阿弥陀様が自力で悟るのは大変だからというので、「南無阿弥陀仏」と唱えたら応援しますよという形なんですね。
 でも助けてもらう三つの条件があるんですね、しじょうしん・じんしん・えこうほつがんしん(至誠心・深心・回向発願心)、の三つを守りなさいというところがあります、難しいんですねやっぱりね。 至誠心というのは命がけの真剣な心という意味ですね、じんしん(深心)とは深い心で阿弥陀様の慈愛を信じなさいということですね、回向発願心は、ひたすら阿弥陀様を思い続けなさいということです。南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏とね、南無というのは命を捧げますと言う意味ですね、阿弥陀様に私の命を捧げますと言う意味の南無阿弥陀仏ですね。
 なぜ命を捧げないといけないかと言うと、人間というのはだいたい過去を掴んでいますよね。古い自分を掴んでいるので、その(古い)命を阿弥陀様に預けて、マイナスをプラスに置き換えてもらうんです。そういう意味で、阿弥陀様の力を受けるだけではだめなんですね、命を捧げて古いマイナスを同時に渡さないといけない。そういう意味で、南無阿弥陀仏・南無阿弥陀仏 命を捧げますという言葉は大事なんです。 この場合にも、自力と他力ともう一つ絶対力があるんですけど、他力の場合でも、救う側と救われる側とが離れているんですね。
 三つの条件を満たして助けてもらうにしても、凡夫の自分がどれだけ阿弥陀様に近づけるかというと、なかなか難しいんですね。
 「ありがとうございます」というのは、自力でも他力でもないんです、絶対力です。絶対力というのは対立がありません分かれていないんです。最初から宇宙絶対神と自分とは一体なんだと・切っても切れない間柄なんだという、そこから出発するんですね。みんなすでに悟っているんだということが大前提になります、神さまと一体なんだとね。
 だから、下から上がるんじゃなしに、神さまから・天から舞い降りて来るような感じで悟りの境地を与えてもらうんです。それは、難行苦行何も必要ありません。「ありがとうございます」を唱えて受けるだけという簡単な行で、すでに悟っている自分に気付かせてもらうんです。だから、「ありがとうございます」には全てが含まれています、他力のありとあらゆる神仏の名前も働きも中にあります、命を捧げる全托の心もあるし、与えてもらって受け取る心もあります。全部ふくまれているのが「ありがとうございます」です。だから「ありがとうございます」は神さまの究極の名前です。これさえ唱えたら誰でも、どんな状態でも必要な助けを与えて、必ず悟りへ導いて助けますよということです。
 だから、「なむあみだぶつ」も良いんですよ、自力よりははるかにいいんです。それよりも何万倍も「ありがとうございます」の絶対力の本当の救われ道のほうが良いんですね。ただね、この「ありがとうございます」という神さまは、無限に無限に謙虚過ぎて、ほかの方法を選んでそれをしますというときは引っ込んでしまいます。どんな神さま・どんな仏様にすがってもいいんです、そっちを最優先してがんばりなさいというわけです。
 でも最後にねどうしても満足できなくて行き詰まる時があります。どんな方法をとっても究極の悟りではないからね、そういう時にやっぱり、最後に戻るところが「ありがとうございます」の神さまです。楽にスッと悟りに導いてもらうんです。

・・・・親鸞上人がいらした当時には、「南無阿弥陀仏」と唱える事は画期的なことだったんですか?

 そうですね、画期的なことだったんですね、自力で難行苦行して悟ろうと努力したんですね、ところがみんな頭を打って行き詰まるんですね。

・・・・在家で信仰を広めようとした事も画期的なことですか?

 そうですね、画期的ですね、まず法然さんが自力で修行に修行を重ねて悟ろうとされたんですね、ところが、自分にはこれは無理だと気付いたんですね。あの当時、日本一ぐらいの立派な方ですよね、ありとあらゆる自力の修行をして、傍目から見たらこんな立派な人はいないというくらいです。ところが、法然さん、心では満足できなかったんですね。自分には悟れない・あきらめの境地に陥って、そして、この自分が救われる道はないかと、お経を全部・大蔵経なんかもお堂にこもって読み漁るんですね。最後に見つけるんです、あっ!!これだと閃いたのが「南無阿弥陀仏」。
 法然さんですら自力は不可能だと思っているんです。それで、ひたすら「南無阿弥陀仏」を1日五万返位唱えたんです。ほかの事を何も思わないというのはすごい事ですね、五万返くらい唱えないとほかの事を思ってしまうんでしょうね。それで、過去の全てを捨て切ったというのもすごい事ですね。あれだけの博識を全部捨ててさらりと忘れてしまうわけでしょう、人から何を質問されてももう答えない、知りませんってね。私はもう「南無阿弥陀仏」しか知りませんという感じですよね。そこまで絞り込んだんですね、だから他力の行で「南無阿弥陀仏」で心境まで引き上げてもらったんです。すごいことだと思うね。
 専門のお坊さんでもね、悟りというのが無理なんです、ましてや在家で「南無阿弥陀仏」を唱えたぐらいでは難しいですね。まず、仕事をしながらというのは難しいでしょう、念仏申しながら仕事してというなら、まだ救われる道はあるんですけど。浅い救われ・深い救われといろいろあるんですけど、浅い救われでもなかなか難しいですね。そしたら、救われる道がどこにあるかとなってくるんですね、でも、他力で諦めが生まれても良いんですよね。もう一つ切り札が残っていたと、最後の切り札として究極の神様が「ありがとうございます」として自ら出てくるんです。

・・・・「ありがとうございます」と唱えた悟りの境地というのは、お釈迦様が悟りを開いた境地と同じですか?

 肉体を持って生まれて修行して悟った心境というのは低いんですね、小さいですね。だからお釈迦さんも最初の小さい悟りを捨ててね、神さまの中へ溶け込んで、神さまの側から新たに出てくる自分を、本当の自分を気づいたときには、無限の昔から悟っている自分・修行して悟ったんじゃない自分ですよね、魂の自分と肉体の自分は無関係、無限の無限の昔から悟っている自分に気付いたときが、本当の、神さまとの一体の自覚がありますね。 それだったら、みんな最初から持っているはずですよね。
 道元さんでも相当悩んだんでしょう、本来悟っている自分がなぜ修行して悟ろうとするのかとね。やはり大きい問題だったんだと思います。何で悟っている自分が悟ろうとするのかとね、悟ろうとしなくても悟っているのにね。でも、悟った自分に気付いた時には良くわかるんですけどね。悟ろうとする自分を小さく掴んでいるときは、両方の考えが生まれてくるんですね。
 すべての思いを断ち切る方法は「ありがとうございます」で一つになっていかないとだめなんですね。「ありがとうございます」は神さまの全てを知るための言葉です、だから、対立がなくなる・つないでしまう・一体化するんです。肉眼で見ている宇宙も神さまの一部として捉えてしまいます、この世と離れて神さまがあるとか、別に見ていく考えが消えていく、全部愛の一体感で見ていくようになる。人間のこの体も同じですよね、頭もあり・手足もあり、中には爪の垢もあるわけでしょう、これが一つのものとして見えたときは全体的に捉えて、相対的な考えには陥らないですね。「ありがとうございます」は究極の神さまの全体像を捉えて一切の迷いが消えていく行き方なんです。
 「ありがとうございます」をたくさん唱えるほうが良いですね、ほかのことを思わなくなるし、「ありがとうございます」という神さまの働きが必要に応じて・順番に降りてきてそれを感じさせてもらう・実感していきます。そしたら、矛盾点がドンドン消えていきます、今まではいろいろ矛盾を持っているでしょう、矛盾がドンドン消されていって心がスッキリしてきます。目から鱗もドンドン剥がれていって見える感じる世界が広がります。



守護霊さんは大神さまの延長線上

質問者:
 生身の自分の力を1とすると、守護霊さんの力はどれくらいなんですか?

ありがとうございます:
 守護霊さんという言葉もいろんな意味で使われるんですね、定義の仕方はいろいろなんです。守護霊さんを、修行して悟って立派になった神さま・守護神様の一人と見ると、いったん悟ると無限の力があります、それで肉体人間に付き添って悟りを助けるために守っているんです。だから、必要に応じての力を振るってきます、必要なだけを順番に与えてくれるので、必要以上の干渉はしてこないですね。小さい助けでいい時は小さい助けでとどめるんです、大きい助けが要るときは大きい助けを与えてくるからね。表面だけを見て、この守護霊さんは低いのかな・力ないのかなと言うのは間違いですね。やはり、無限の力があるというふうに見たほうが良いですね。ただ必要なだけの力を振るってくるから、必ず自由自在にいろんな力を発揮してくれます。
 浅く表面で働いている姿だけを眺めていると、この守護霊さんはこの程度の働きしか出来ないかなと錯覚します。大体あの世が見える霊能者はそういうふうに見てしまうから、そう見てしまいますね。でも、その時はその時に必要なだけの働きを姿を現してするだけだから、もっと大きい力が必要なときにはもっと大きな力を振るいますので、限定した見方をするのは間違いです。
 だから、本当は宇宙の大神様の代わりに、専属として守るために降りてくるんです。本当は宇宙の大神様の力を受け直して自分と宇宙絶対神との受け渡しをされている神さまと観たほうが良いですね。小さく見ないほうが良いですね。
 だから、守護霊さん「ありがとうございます」と最後につけている限りは、
守護霊さんは宇宙の大神さまと一体なんです。守護霊さんを通して必要な助けが折りやすくなっています、そういう形で見たほうが良いですね。

必要な事は神様がバックアップします

質問者:
 最近朝起きて、仕事に行きたくないんです。それは、仕事を辞めなさいよという事でしょうか、それとも、気持ちを変えなさいよという事でしょうか?

ありがとうございます:
 仕事も必要な事と本当にしたい事とを区別すると、必要な事はしたほうが良いですね、だから、結局させてもらえるはずです必ずね。でも、自分の好きな事・したい事はしてもしなくてもどっちでも良いんですね、適当で、程々で、したい時にしてね。
 
本当に必要な事だったらね、必ずさせてくださるんです、仕事でもなんでもね。その時に自分が本当に必要なものは何・会社行くこと?違うでしょうたぶん。本当に必要な事は必ずさせてくださるから、嫌だと言ってもしてしまうんです。
 例えばね、呼吸は必要でしょう、止まらないでしょう、チャンと動いているでしょう、ご飯も必要なだけ食べるでしょう、絶対に必要な事は必ず神さまのほうがバックアップしているから、自然にさせてもらっているんですね。後はあんまり必要ないことは何しても勝手なんです。してもしなくても良いと言う形で自由にさせてもらうから。


・・・・じゃあ、仕事はしてもしなくても良い?

本当は、そんなもんじゃないのかな<笑い>どんな場合でもね、「ありがとうございます」と受け直せば感激が新たになるでしょう、過去を掴んでその連続で見ているとどうしてもマンネリ化してくるでしょう。飽きてしまっているんですね、過去を掴みすぎてるんですね、その過去を掴む心を消してもらうには「ありがとうございます」をチョッと回数多く唱えると消えてしまいます。そうすると新たに、何かしてみたい・何かさせて欲しいという気持ちになります、何しても有り難い有り難いになります。
 初心に返って、新たに新たに受け直す気持ちは大事ですね、そういう意味で、マンネリ化の状態に置かれて、もう一回初心に返って喜ぶための勉強かもしれないですね。形は関係ないんです、心の持ち方一つです。どんな仕事しても良いですよ、人の十倍ぐらい楽しんで楽しんで。



区切りをつける能力

質問者:
 過去を掴むと飽きるという事ですが、普段は何を掴めばいいんですか?

ありがとうございます:
 今の一瞬ね、新たに受け直してね、一瞬だけを掴めばいいんです。だから本当は、神さまが宇宙を創造するというのは一瞬一瞬に新しいものを生み出していくので、それを受けて味わうというのが大事ですね。一瞬一瞬新たに受け直すことですね。
 仕事をしてるというのもね、仕事をしている姿を一瞬受け直すんです。次に何をさせてもらうにも新たに一瞬受け直す、そうすると神さまが自分を通して大きく働いている姿が出てきます。仕事だけじゃなくてほかの事も全部ね、家族と過ごすときも、一瞬だけ神さまが家族の姿で現れたということです。一瞬だけと思うとありがたいですね、次の一瞬全て消えたら何もないでしょう、宇宙の全てが真っ暗闇で何も存在しないと思うと、石ころ一個もありがたいと思うでしょう。ほかのものも無限の価値のあるものと見えてくるんです。
 一瞬一瞬と絞り込むのが大変なので、今日一日だけでも良いし、今年一年でも良い、心新たにするそういう生き方だと感謝も感激も深くなりますね。感謝が深くなると一瞬というのがドンドン時間が短くなっていきます、無限億万分の一秒まで進みます。そして新しい宇宙を受けなおすようになっていきます。

・・・・そのへんがサッパリわからないんです、一瞬一瞬というのが、僕らは連続に見えていますから。

時間と空間の関係が、時間と空間というのは相対の両極に振り分けられてその組み合わせで、時間空間の組み合わさった宇宙・世界が生まれるんです。時間が限りなく短くなるほど良いんです、ゼロの近づくほど無限に広がります、それだけ素晴らしい世界を味わえます。だから、仕事していてもマンネリ化してくると時間をダラダラ長く感じて、そうすると見ている世界がつまらない世界ですね。嫌な仕事をしているときはそうでしょう、空間が狭まって嫌な状態がいっぱいという状態のときは時間が長く長く感じますね。でも、楽しくてたまらないときは時間のたつのを忘れてしまいますね、時間は関係ないですね。時計の時間と心で感じる時間はチョッと違うんです、心では一瞬というものを無に近くまで絞り込むほど、自分の心の広がる世界は無限に無限に大きくなって素晴らしい幸せな状態を感知してるんですね。
 この世の人は一瞬というのを、瞬きする時間というぐらいに見るんですけど。この一瞬という時間をドンドン短く出来るのが良いですね、そうすると、神さまの宇宙創造の仕組みがわかってきます、本当に一瞬に宇宙の全てが置き換わります。無限億万分の一秒という短い時間に置き換わるから、普通は連続してしか見えないんです、普通は区切りをつける能力がないんです。
 映画のフイルムがそうでしょう、24こまを一秒間に回したら動きが連続して見えますね、そうすると、ばらばらに見えないから(連続しているように)錯覚するでしょう。でも、24枚別々にしたらよくわかりますね、バラバラというのがね。
 そういう仕組みと似ていると言えば似ているからね、無限のコマを一瞬にして流してしまうから、連続しているようにしか見えないというだけです。



「ありがとうございます」だけで押し通す

質問者:
 必要な事、やらなければならないことというのは、「ありがとうございます」を唱えていると自然にそうなってくるんでしょうか?それとも、今の時点で選ぼうとする事は無駄な事なんでしょうか?

ありがとうございます:
 「ありがとうございます」と唱えたときに神さまが降りてきて、必要な事を与えてくるんです。そしてそれを受け取れる状態に必ずなるんです。必要な事・本当にしなければならないことは、自然にさせてもらって結果が出てきます。だから、「ありがとうございます」と唱える事が今一番必要な事だったら、「ありがとうございます」と唱える事だけで終わります。
 「ありがとうございます」を唱えるだけでもね、本当はものすごい働きになっているんです。言ってみれば、過去の心にためた物を消し去る事が必要だったら、消すための働きが絶対に必要になるでしょう。「ありがとうございます」を唱ええるだけでマイナスのものを消す大きい働きをしてしまいます。心のチャンネルを高いチャンネルに切り替えるために、心の中をプラスに置き換えることが必要だったら、「ありがとうございます」だけを唱えて無限のプラスを心に加えてくるんです。その後又チャンネルが変わって、そこの姿形に出るのが必要だったらスッと変わっていろんなプラスの働きの大きく出来てる自分に変わって出てきます。
 全てが、必要なものがドンドン神さまの方から与えてきて、それを受けてる結果が生まれてきます。あれこれ自分で考えても、まだわからないですね、あれしたらいいかどうか迷ってしまうだけ、神さまの助けを受け損なってしまいます。だから、「ありがとうございます」それだけで押し通したほうが考えないで済むし、結果がチャンと出てきますね。



「ありがとうございます」シール

質問者:
 初めてお伺いするんですけど、あちこちに「ありがとうございます」というシールがたくさん貼ってあるんですけれど、目に触れるだけで効果があるというのでそうしてあるんですか?

ありがとうございます:
 そうです、心で唱えたら必要に応じて大きい神さまの働きが入ってきます。こうして貼っていると、ここから神さまが光を放射するんです、灯台みたいに光を放射するんです。いつでも強い光を放射するかというとそうとは限らないですね、必要な人が通ると光が強くなります。不思議ですね、光の量まで加減してきます。

・・・・このシールは特別なものですか?自分で書いてもいいですか?

いいえいいえ、特別じゃありません、自分で書いてそれでいいんです。こうして、目で見るのもいいしね、テープに録音して聞くのも良いですね。ほかに、「ありがとうございます」を心に取り込む方法があれば何でもいいですね。



能力開発

質問者:
 右脳と悟りとは関係ないですか?能力の訓練の仕方はありますか?

ありがとうございます:
 いろんな能力は、自分の自我の心で開発したものはマイナスになりがちですね。いろんな能力というのは自然に出てくるのが普通なんです。ところが、それを途中でふたをしてしまうと言うのは必要なかったんですね。必要ないから蓋をしてしまうんですね、本当に必要なものだったら又自然に出てくるはずなんです。無理やりしなくてもいいでしょう、いろんな能力が出てきたら本当の幸せかというとそうじゃないかもしれないですね、本当に必要だったらそれが役に立つんですけど。
 いろんな能力を人間はたくさん奥にもっているんです、無限の能力を持っていてそれを自由に出せるようになっているんですけど。例えば、人の未来を全部予知できる能力が出てくるとするでしょう、みんなの死ぬときが全部わかったとしても意味ないものね必要ないものね、逆に自分の心も苦しいし心を痛めるでしょう、人に教えても心痛めるし悩むでしょう、わかったって役に立たないですね。逆にわかることが自分にとってマイナス・不幸になりますね、ほかの能力も全部同じですね、本当に必要な能力がそのときだけ出てくればいいでしょう。
 この加減が普通は自分では出来ませんね、それを神さまにおまかせするのが良いですね、「ありがとうございますと唱えていてね、神さまが必要としてその助けが降りてきて自然に出てくる能力だったら、どんな能力も生きてきます。
 だから、「ありがとうございます」と唱えていて、本当に未来を予知する能力が必要だったら、必要なだけの能力がかならず出てきます。閃くようにわかるんです。



個性は神様の働きです

質問者:
 地球にはいろんな人種がありますが、日本人が特殊というのはありますか?

ありがとうございます:
 役割の違い・働きの違いというのはあるんですけど、それを言うと全部違うんですね、日本人も一人一人全部違います。神さまの作り上げるものは同じ物は一つもないんです、同じ事は二度と繰り返さない、これは鉄則みたいなものです。皆が一人一人、小さいところまで違うんだというのがわかるのが正しいですね。だから、人種の違いも、大雑把な違いがわかっただけでね、もっと細かく一人一人の違いまでもはっきりわかるほうが良いですね。一人一人違いがある働きが神さまにとって必要なんです。本当に必要な働きは一人一人の個性です、それで全体が大調和の姿をとります。
 日本民族は、日本民族に役割が大きく見たらあります。日本人一人一人に役割が違ってあります。でもどれが良い悪いじゃないですね、尊いとかどうこうとかね、全部必要な働きです。全体にとって、日本民族も必要だし、ほかの民族も絶対必要です。だからその価値は同じですね、平等の価値があります。
 ちょうどお芝居をするのがそうですね、ストーリーが決まったら役割を決めるでしょう、良い役をしている人が価値があるかというとそうじゃないですね、どんな役も悪役もお芝居には絶対必要な要素ですね、同じ平等の価値があります。
 そういう意味で、神さまの宇宙創造もそういう仕組みになっているので、石ころ一個も太陽一つも平等の価値があります。石ころもね、お前は小さいからだめだと言われたら、悔しかったら太陽お前も小さくなってみろ<笑い>なれませんね。神さまの前に立ったときには皆平等の価値がありますね、無限に価値のある絶対のものがあります。
 個性というのは、「ありがとうございます」を唱えていると本当の個性が出てきます。全体者と一体化しないと個性は生まれないですね。この手でも、全体者と一体になっているから親指でしょう、人差し指中指というように決まるんですね。指を切り落として並べたらどれが親指か決まらないですね、一本の指があるだけでしょう。これは個性が消えてしまっていてもうないですね、
個性は全体者(神さま)と繋がっているときだけが個性が生まれるんです。
 神さまと一体のときだけが個性を発揮できるんです、「ありがとうございます」と唱えて神さまと一体化しているときが、一人一人の個性を発揮して大きい働きをさせていただくんです。個性は癖とは違います、個性は神さまの働きです。



いろんな「ありがとうございます」
 
質問者:
 「ありがとうございます」というのは、響きが大事なんですか?
 
ありがとうございます:
 そうです、言霊としての響きが大事です。これで神さまを呼んでいる働きです。究極の神さまを呼び出している働きになります。


質問者:
 状況によって、「ありがとう」・「ありがとうございました」・「ありがとうございます」使い分けていますが、言葉の持つ力としては「ありがとうございます」が一番ですか?

ありがとうございます: 
 これも、神さまの名前というふうにみたら、「ありがとうございました」は神さまの名前を呼ぶのではなく、神さまの働きがあったというぐらいの意味です。神さまの名前を呼ぶほうがスッと出てきて必要な働きをサッとして助けてくださる、だから「ありがとうございます」が基本です。
 「ありがとう」でも別に悪くはないんですけど、神さまというのと、神と言うのと、そういっても出てきてくださると思うんですけど、でも、神さまと言ったほうがね、呼ばれたと思って出てくるよね<笑い>

質問者:
 言霊学は日本にだけあるんですか?

ありがとうございます:
 外国にもあるんですよ、ただ日本には言霊に裏打ちされた言葉が多い。外国にも言霊に裏打ちされた言葉はあるんです、言葉というのは皆そうだけど、足りないのね。
 漢字の場合は言霊の意味とチョッと違いますね、形で神さまの働きをあらわすんです。だから言霊的な意味はチョッとずれますね。ひらがなの「ありがとうございます」でいろんな意味で使ったほうがいいと思います。



質問者:
 心の中で「ありがとうございます」というのと、言葉に出して「ありがとうございます」というのとでは、言葉の重みとしては同じなんですか?

ありがとうございます:
 そのときの状況で変わります。心で唱えると言うのは、自分の心に深く入るでしょう、奥深くに入って唱えるほど力が大きくなります。そういう意味では心で奥深くに祈る・唱えるというのも良いですね。でも、口に出して言うのも大事ですね。それを誰かが聞いていたら、その人に「ありがとうございます」と唱えてもらったのと同じで、それが全部自分に返ってきます、自分の祈りと一つになります。そのときその時に両方使い分けて、自由自在でいいと思います。



質問者:
 「ありがとうございます」と唱えるときと、「無限の無限のありがとうございます」と唱えるときと、「神さまありがとうございます」と唱えるときがあります。どれでも良いんですか?

ありがとうございます:
 それもね、マンネリ化しないという意味ではね変えても良いんですね、「無限の無限のありがとうございます」と時々言うとね、「無限の無限のありがとうございます」を中に持ってる大きい「ありがとうございますを唱えやすくなってきます。「無限の無限のありがとうございます」を中に持っている大きい「ありがとうございます」に変わってきます。そういう意味では「無限の無限のありがとうございます」と唱えたほうが良いですね。
 ちいさい「ありがとうございます」から大きい「ありがとうございます」までいっぱいあります。浅いのから深いのまでね、それがすべて備わっているんです「ありがとうございます」の中にね。
 あるときは無限に無限に大きくなります、あるときは無限に小さくなるかもしれないですね。原子の中に入って小さい中の核を求める「ありがとうございます」になるかもしれないですね。そうやって全体を同時に見るかもしれないですね。楽しめば良いです、一回一回「ありがとうございます」を楽しませてもらうんです。


本来の日本の姿

質問者:
 日本という国が、経済的に衰退し政治的にも心の問題も含めて、いい方向に進んでいるように思えないんですけれど、先生はどう思われますか?

ありがとうございます:
 日本の本当の姿は、太陽が輝くようにいつも輝いています。表面だけ雲がかかって太陽が見えない、雲があるから邪魔しているだけですね。今の日本の姿も同じですね、本当の姿を隠している何かがあるわけでしょう、それをドンドン消してもらったら良いわけですね。バブルの崩壊なんていうのは、空にかかっている雲を雨でざっと消してもらったような姿ですね。それぞれ皆邪魔しているものを消してもらうほど日本の本来の姿・太陽がざっと出てきます。だから太陽は絶対に消えない、ただ表面に見えるかどうかでしょう、見えるようにスッキリすればいい、心をスッキリさせたら良いね。心に溜めた過去を掴む思いとか・マイナスの重いとかを全部消し去ってしまったらいいんでしょう。
 だから今、いろいろマイナスの面があるというのもね、あるというふうに見ても消えないですね、「ありがとうございます」と言うふうに感謝したら消してもらえるでしょう。「ありがとうございます」と唱えてくれる人が増えてきたら邪魔するもの全部消えてしまうから、本来の日本の姿・幸せな状態がサッと出てきます。
 これを、表面だけ取り繕ってもだめなんですね、奥の姿を出さないといけない。いくらペンキを塗ってもいけない、ダイヤモンドの輝きを磨き出さないといけないでしょう。ペンキ塗って綺麗に飾ったって本当のダイヤモンドの輝きは出てこないものね。日本の素晴らしい状態も、人の幸せな状態も、外からペンキを塗って作るのとは違う、邪魔するものを全部削ぎ落として磨きだせば良いですね。
 だからシンプルなのが良いですねすべてがね、今までは日本は物が多すぎたでしょう、必要でないものが多すぎるのはシンプルじゃないですね、本当に必要なだけがあったほうがスッキリしていると思います。だから、ごみがいっぱいになってしまってね。景気が良くなるといっても、ごみがいっぱいになるような景気の良くなり方じゃ困りますね。景気か良くなるためのものを、必要なだけ作って、必要なところに的確に行き渡ればいいんでしょう。それが一番ゆとりのあるスッキリした幸せな状態ですね。
 だから、経済成長率何パーセントなんてそんなのは要りませんね、ゼロで良いと思います、必要なだけを的確に作って与えて満足できたら良いんでしょう。今までのがチョッと間違ってたんじゃないかな。お金を儲けて、必要のないものまでいっぱい買い集めて、家をごみだめにして、それで押しつぶされて、苦しい苦しいと言っている。それが又ズーッと持続できないからもっと苦しいと言うんでしょう。だから、もう一回ゼロに戻ったほうがスッキリしますね、それで必要なものだけをしっかり受け止めてね。そうしたらみんなすむ家もちゃんとあって、着る物もあって、食べ物も豊かに与えてもらっていますね。あと何が必要か?感謝で無限のプラスを発見すれば良いだけですね。
 お金がいっぱいあっても、物がいっぱいあっても幸せじゃないから。今までは会社が大きくなって、お金が儲かったら成功と言っていたんですね。逆ですね、あれはがん細胞のはびこる姿ですね。全体を生かす働きじゃなかったんですね。だから、バブルで倒産していくのも、スッキリするための・ごみを削ぎ落とすための働きですね。でも皆幸せなんですよ、放したらスッと楽になります、しかも、感謝したらもう一つスッキリなります。


どんな状態で唱えても大丈夫です

質問者:
 小さいときから「ありがとうございます」は感謝の気持ちを込めるように言われてきましたが、どうしても「ありがとうございます」がいえない、むしろ憎しみのときがあります。そんな時どうしたら良いですか?

ありがとうございます:
 「ありがとうございます」というのは神さまを呼んでいるというふうに思うとね、必要なときに必要な助けがあるほうが良いんでしょう。ハラがたってどうしようもないという心の状態のときにね、自分が何を必要とするかでしょう。腹立つ状態で良いんだったらね、「ありがとうございます」を唱えなくてもいいんです。でも、それを消し去って安らかな心に戻してもらいたい、その必要性を感じた人は「ありがとうございます」を唱えたらそこにスッと安らぐんです。
 どんな状態でも本当に必要なものを神さまが的確に与えてくるんです。すごい力があるんです。小さい助けだったら小さい助けをそれだけを与えてくれるし、本当に無限に大きい助けでも必要だったらサッと与えてきます。この加減を神さまがきちっとしてくれます。
 だから、「ありがとうございます」はどんな状態で唱えても大丈夫なんです。怒鳴るように唱えても、小さい言葉で唱えても何でもいいんです。必ず必要な助けを与えてくれます。だから、信仰している人していない人は関係ないんですね。無神論者だと自分は言っていてもいいんです。「ありがとうございます」を唱えたら関係なく助けてくれます。


似たような砂の塊

質問者:
 クローン人間(の実験研究)が始まっていますが、同じ物は二つとないということに反すると思うのですが?

ありがとうございます:
 神さまの御心は、全てに個性を与えて、全体を最高の表現に変えていこうとすることです。それが純白の光だったらそれが七色の光に分かれて個性を与えているわけです。その光がお互いに交流しあう事によって、いろんな光の色合いが生まれるんです。だからそういう形で、無限の人がいたら無限の個性を与えて、それを無限に発揮させようとするのが神さまの御心なんです。だから同じものを作っても神さまが喜ぶはずないんです、また同じ事を繰り返しても喜ばないですね。それは神さまの御心から外れた行き方になりますね。
 本当は、クローン人間は創りようがないですね。全部中身が違いますね、原子一個が全部顔が違うようにね、似たものを作って錯覚してるだけですね。本当はクローンは作れないですね。神さまが生み出したものは全部個性があって全部違うものでしょう、それをどれだけ人間が組み合わせて、似たようなものに作ろうとしても本当は無理ですね。個性の一個一個違うもの・砂の一個一個が違うものとするでしょう、たくさん砂を寄せ集めて塊を作ったら、似たような塊がたくさんできるようなものです。似たように見えるだけ・錯覚ですね。
 人間というのは、単なる肉体じゃないから、肉体より魂のほうが遥に価値があるものでしょう、その魂が違えば同じ肉体という道具を使ってもガラッと変わってきますね。肉体は道具だから、ちょうど上着みたいなものでしょう、どんな上着を着ようが中身が大事ですね、魂という中身がね。魂も本当は下着みたいなものです、本当は命の自分・本体の自分が大事なんです。その自分が神さまから個性を与えられているんですね、だから同じ個性のある人は一人もいないですね。だから絶対同じ物は作れないです。

・・・・そしたら、魂も別なものが入るんですか?

そう、魂も別なものが入るしね、肉体自体が同じ物じゃないですね。絶対同じ物じゃない、ただ、区別がつかないんです。人間が猿の顔を見て区別つけにくいのと同じですね、本当は細かいところまで全部違うのにね。

・・・・それは、レベルが下がるということですか?

ある意味ではそうですね、神さまの御心から遠ざかっている姿ですね。神さまの最高表現というのは、あくまでも個性がはっきりしています、個性がぼんやりしてしまったら程度が低くなっていますね。個性を最大限に発揮する生き方が、正しい生き方ですよね。どころが、誰か一人リーダーがいて、その人に従うというのは個性を無くしていくでしょう、だから一つの集団が生まれますね、一人のリーダーを元にしたね。ぼんやりとボケてくるわけですね、それでは進歩じゃないですね、逆に退行しているような感じですね。



天皇陛下は中心の役割
質問者:
 天皇家のカレンダーが飾ってあるんですけど、天皇陛下がお好きなんですか?

ありがとうございます:
 そうですね、みんな好きなんですけど。天皇陛下も役割として、何事にも中心は大事ですね、中心がないとまとまらないですね、調和しない。ただ、中心というのは上に立って押さえつけるというのではないですね、上に立つというのは中心じゃないですね。中心というのは一番下に立って、皆を生かし切ることです。神さまの御心は、自分を出さずに皆を表面に出して個性豊かに発揮させるわけでしょう、そういうのが中心です。個性が鮮やかに出てくるんですね、国民一人一人が最高の個性を発揮して、全体が助け合いの姿をとったときに、全体が調和します。そういう意味の中心です。中心の役割は日本だったら天皇陛下の役割です。だから、外国の風習とはチョッと違いますね、上から支配するんじゃないんですね。


神様の真似事

質問者:
 感謝の心は、ギブ&テイクじゃなく、見返りを求めない心だと思うのですが、なかなか難しいですね?

ありがとうございます:
 そうですね、喜んで欲しいという求める心があるんですね。でも、純粋な、まったく求めない心というのが神さまの心・最高の心です。与えて与えて与え尽くして、一切報いを求めない、与えたものを受けてくれなくても良いわけね、それによって、感謝したり喜んでくれなくても良いんですね。ただひたすら必要なものを与え続ける・尽くすだけ、それが本当の自由を縛らない喜びです。
 だから、人がそういう神さまの真似事をすることによって人は何が得られるかというと、神さまが自分の中に入ってくるんですね。神さまと一体化できるんですね。人の喜びは、神さまにどれだけ近づけるかですね、神さまとどれだけ一体化できるかで幸せが決まります。

・・・・シール(ありがとうございますシール)とか、人に渡すときは、喜んでもらおうとか思わないで、ただ良いですよという感じで渡しているんですが?

それが一番良いですね、そうするとね、また自分に必要なことは求めずとも自然に与えてもらえます、それも相手から縛られる事が絶対にないんです。自由を保障してもらって必要なものを与えてもらえるようになるんです。自分のした通りに帰ってくるみたいですね、それが、自由と波長が合うと言うんですね。
 本当に与え尽くす世界は、極楽世界ですね。求めるとお互いに縛りあうから地獄になっていきます。肉体が自分だと思うと、力がいろんな面で不足して足りないんですね、また、必要なものが不足すると、求める心を起こしがちですよね。でも、魂の自分というように掴むとチョッと自由になりますね、でも、もう一つ、命の自分というように掴んだほうが、無限のものがいっぱいというように満ち足りた心になっていくでしょう、永遠に生きているんだとね。
 豊かに全てが整っている・満たされているという気持ちになると、もう、与えるしかないでしょう、だから自然に与える生き方がとれていくんです。だから、進化というのは、小さい自分から大きくなっていくことですね。蝶々でもね、芋虫の間は一生懸命に食い荒らすばっかりですよね、さなぎになって脱皮して蝶々になって飛び回ると与えるばっかりでしょう、蜜をチョッと吸うぐらいですね。
 だから、人も、肉体の自覚から魂の自覚へ、さらに、命の自分に戻って行くんです。そうすると、自由自在に与える心が自然に湧きあがるように出てきて、与える生き方が自然にとれるようになります。だから、物質文明・精神文明・霊的文明とこの三つが大調和の姿をとって全部生かされてくると思います。どれか一つになると偏ります、霊的文明だけで良いんだったら魂も肉体も消えてしまいます。でも、肉体もあって、魂もあって、霊性も発揮されて、三つがちょうどバランスよく調和して最高に輝くのが、神さまの願いだと思います。そうでなかったら最初から肉体を作らなくてもいいものね、魂も要らなかったものね、命だけで良いという感覚ですね。
 
今までは、物質文明も、精神文明もある程度進んでいるんですねもう、後はそれを際立たせる働き・命の自覚を・神さまと一体の自覚があったら全部が生かされてくるんです、輝いていくんだと思います。だから、神さまと一体の自覚というのはね、感謝行だけでいいんです、感謝しているうちに自然に、神さまと一体の自覚が湧き上がってきます。
 だから、自分というのを出さないほうが良いみたいですね。自分を拡大してというとまだまだ小さい状態で終わってしまう、どれだけ拡大しても自分というものがある間は自分が宇宙なんだといったって、自分を元にした宇宙ですね。自分はすべての人になっているんだといっても、小さいですね。自分を神さまの中に投げ入れて、神さまが全てなんだという方が良いですね。神さまが自分として現れている、神さまがすべての人に現れているんですね。そういうふうに見ると、神さまが中心になると無限に無限に大きく・無限に深くなっていきます。

 今までは、自分を拡大していこうとしたんですね、でも、それは今までのやり方ですね。今度は、自分を拡大するのではなく、自分を神さまの中に投げ入れて消してしまうんです、そして、神さまが大きく広がるという感覚ですね。神さまが天から舞い降りて降ってくるという感じです。そういう時代になってきます。そのほうが楽ですよ、自分から何もしなくて済みます、ただ受けるだけです、それも小さい受け方じゃないですね、全体を大きく受けて・無限に無限に輝いたというふうに受けていけるから。


感謝行は命の呼吸

質問者:
 どんな状況でもプラスにみていきなさい、どんなマイナスの極地でも感謝しなさい、それがプラス思考ですということですか?

ありがとうございます:
 マイナスのときにもプラスに仰ぎ見ていけるというけど、これも自分というものがあると、自分の立場が生まれるでしょう、その立場からみた姿で、それより下はマイナスですね、それから上がプラスに見えるんですね。自分の立場がある間は本当に自由自在な姿は難しいですね。自分というものを掴む習性というものがどうしてもあるでしょう、習慣性がね。自分というものを掴んだら、幸せな自分というものを掴んだら、マイナスのほうへ降りにくいでしょう、地獄のどん底の亡者になれるかというとなれないよね。そうするとどうしても、上から下を見てしまいます。
 だから、自分というものを消してもらうほうが良いでしょう、自分を神さまへ投げ入れて消してもらうと、神さまはいつも全てを与え尽くして・全部与え尽くして与え尽くして全部なくなって、さらに与え尽くしてなくなってマイナス極に立てるんです。神さまの宇宙創造の働きがそうですね、イザナギの神様・イザナミの神様という両神が対の極に立って、与え尽くしあいで組み合わさった姿が宇宙の姿ですね。イザナギの神様がプラスの極に立って、イザナミの神様がマイナスの極にまず立つわけね、そして、イザナギの神様が自分の全てをイザナミの神様に与え尽くします。そしたら全部なくなるわけよね、ゼロになるんじゃなく、なおかつ与え尽くしてマイナスの極まで与え尽くすんですね。受けたほうはプラスの極に立つわけですね、それを交互にくり返すんです。だから、イザナギの神様・イザナミの神様は一体の神様ですね、一体で創造神なんですね。
 神さまのあり方がそうなんですね、神さまの御心に自分の心を合わせてもらうためには、自分を神さまの中に投げ入れて、自分を消してもらって、神さまと一体化すればいいね。そうするといつもマイナスの極に立てるんです。マイナスの極に立ったときにはいつも、最高のプラスの極を受けられます。受けた時にすぐにそれを与え尽くす立場に立って、与えて与えて与え尽くすんです、自然にできるんです、与え尽くしたらまたマイナスの極に自然と立てて、そこでまた無限のプラスを受けます。その交互の繰り返しによって、いつも神さまと交流されて一体化が深まります。それも、いつも新たに新たにと、いつも感動を覚えるような生き方が採れるようになってきます。
 自分を神さまの中に投げ入れるのが一番大事なんです、その方法が「ありがとうございます」なんです、全托です。「ありがとうございます」を唱える事が全托なんです、自分の命も全てを神さまに捧げ尽くしてお返しして、そして即新たに、新しいプラスを受けているんです。だから、感謝行は、命の呼吸です。言ってみれば、宇宙創造の仕組みをこの身をもって行じているんです。


強い・大きい光に成る

質問者:
 神様は最初の最初からいるんですか?

ありがとうございます:
 
初めもない、終わりもない、常にあり続けている。ただその存在に人が気付くか気付かないかだけでしょう、それもどういう気付き方をするかどうかだけだもんね。この世も神さまの全体からすると一部なんです、ところが人間が勝手に作り上げた神さまというのは、いろんな神さまがあるわけでしょう。本物じゃなしに人間が作り上げた虚像みたいなものですね、偽物なんです。だから、人間の言葉で・観念で作り上げたものは本物じゃないんです、本物は厳然とあり続ける。
 皆は、本物に気付きたい・本物に出会いたいわけでしょう、どこにあるかと探し回っているけれど、外にあるのか心の中にあるのかとね、探し回っても見つからないね。でも、「ありがとうございます」を唱えたときに、外にも中にも神さまが現れて感謝させてくださるんです。不思議な言葉なんですよこの「ありがとうございます」というのはね、「ありがとうございます」と唱えたところに本物の神さまが現れて実感できるようにしてくださるんですね。 神さまは心の中にだけあるのかというとそうじゃないですね、回り全部そうなんです、中にもあるし外にもあるしね、上にも下にもどこにでもある。
 本当の神さまは、無限の無限の輝きがいっぱいがさらに、無限に無限にいっぱいという感じでどこまでも無限に輝きます。それが頂点・中心にあるんです。「ありがとうございます」と言うと無限に無限に輝いてきます、だから、この世で見ている感覚じゃないですね。眩しくて眩しくて目を開けられないという程度ではまだだめなんです、もっともっと輝いて輝いています。
 本当は、自分が輝けば強い光にも負けない感覚が生まれるでしょう、強い光に成れたら見てもはっきり見通せるんです。感謝すると自分も大きい・強い光になっていくんです、そうすると、神さまの強い光・大きい光が平気で見れるようになります。ドンドン神さまに合わせてもらうんです、どこまで強い光・大きい光になるかは自分でもわからないですね、神ざまは行き止まりがないから、ここまで来たらお終いじゃないもんね。



大きい自覚を持った宇宙人

質問者:
 宇宙人はいますか?

ありがとうございます:
 宇宙人と言う言葉も定義の仕方がいろいろなんですね、地球人以外を宇宙人と言うのかね、自分は宇宙なんだという大きい自覚を持った人を宇宙人というのかとね。地球のほかの星の人たちは異星人・他星人といたほうが良いかもしれないね。

・・・・いますか?

いますね。<笑い>宇宙が自分という自覚に立った人もいますね。

・・・・その人たちにとっても共通の神様なんですか?

神さまは唯一つですね、皆その神さまの中に神さまと一体化して存在しているんです。神さまと離れてはなにも存在できません、神さまの分身ですね。


灰は山に撒く

質問者:
 私が死んだら灰にして、その辺に撒いてくださいと子供たちには言っているんですけど、これでいいですか?

ありがとうございます:
 正しいですよ、私の父もだいぶ前に亡くなっているんですけど、灰にしたら山に撒いてくださいと言って・・・・撒いてあげました<笑い>。だから、肉体という感覚じゃないからねもう、亡くなったら魂か本当の自分に戻るんだから、残ったぶんも花や木の肥料にしてあげたら生きてくるでしょう、美しい花が開くんじゃない。

・・・・一般的には変人じゃないけど、世間の手前、子供たちが困りはしないかと

今までの考えが小さく・間違っているからね、正しい自由な生き方をとれる人が増えてくれば、考え方が正反対に変わるので、正しい生き方をとれる人はこれからは勇気をもって、その魁として生きないと、後の時代はその勇気のある人についてきます。
 亡くなって、焼き場で焼いてお骨をお墓に納めるでしょう、でも、お墓に納めてもらって本当に喜ぶのかというと、幸せにしているかどうかわからないね。不自由でしょうね、そんな中に入り込んだと思うとね。お墓で眠っているんだと思ったら、余計、幸せがなくなるでしょう、じっと石の中で眠ってなければならない感じでね。
 でも、本当はそんなもんじゃないものね、魂の自分ですら自由自在にあの世のいいところへ行きたいでしょう、自由にね。そしたらお墓なんかに絶対入らないね。この世の人がご先祖様を思うための目印ぐらいのものですね。だから、石で作るという意味も本当は、石のように永遠に砕けない素晴らしい世界で、幸せいっぱい暮らしているんだというように、石を使って思うようならいいと思いますね。でも、その石の下に入っているなんて絶対に思わないほううがいね、失礼に当たる。そんな失礼な思いを出すとご先祖様も悲しむかもしれないね。


魂の姿

質問者:
 魂の自分と本心の自分と言われたんですが、死んだら魂の自分はどうなっているんですか?

ありがとうございます:
 普通、思いとか心にいろんなものがあるじゃないですか、想念・感情とかそういうね、そうすると魂の姿が残ります。想念・感情を全部消しきったら魂はないですね。そしたら、本心の自分・命の自分だけにないます、そうしたら、神さまの心そのままに生きるようになるから、小さい形がなくなるんですね、殻がなくなるんです。そしたら、宇宙と言ったら宇宙になるし、自由自在になります。変身自在になってしまいます、変身自在になったら、これがあの人と掴めないじゃないですか、名前付けてこの人がああだこうだと言えないですね。あるときは太陽になり、あるときは風や雲になり、あるときは人間になりあるときは動物になり、自由に変身したら掴み所がないでしょう。どこに魂があるのだと、魂はないですね。
 命の・本心の自分に戻ってしまったら、自由自在に変身自在だから、そういう自分が本当の自分ですね。魂の自分を残している間はまだいろんな想念・感情がありますね。それを感謝行で徹底して消してしまったら、自由自在な自分に戻っていきます、本来の自分に戻っていきます。

・・・・ 幽霊とか霊とかしばらくは形として残っているというのは事実なんですか?

 事実ですね。思いをね想念・感情を持っている人はみんな、それをよりどころにあの世へ行っているんです。それからまだ抜けられないんですね、だから姿形を持っています。だから、感謝してない人はそうですね、魂が残っていますね。マイナスの思いが多いほど低い世界に、プラスが多いほど高い世界に。

・・・・私らなんかは、肉体の自分と魂の自分と本心の自分とで、三層になっているみたいな感じですが?
 
だから、霊・魂・魄(ぱく)、と言うふうにね三つにね、<霊>が命の自分、<魂>が心とか思いの世界、<魄(ぱく)>が肉体という感じでね、霊・魂・魄 三つをまとめて人間なんです。「ありがとうございます」で神さまと一体化すれば全部に光が通ってきます。肉体も輝いて見えてくるようになります。



不思議な事がいっぱい

質問者:
 仕事をしている身だと、「ありがとうございます」を唱えてばかりはいられないですよね?

ありがとうございます:
 そうですね、ただね、「ありがとうございます」を最優先するとね仕事が楽にスムーズに行きますね。本当に逆になってくるのね、「ありがとうございます」と言っていると神さまが降りてくるでしょう、神さまの応援が・後押しがいっぱいになるでしょう、能力が伸びるし、セールスしててもね神さまがまとめるとね、お茶でも飲もうかと喫茶店に入っていったらね、そこで商談が全部まとまるような感じですね。必要な人を全部集めてくるね、そこで世間話をしながら商談をまとめてしまう、神さまはそんなものです。無駄がなくなりますね、「ありがとうございます」をたくさん唱えているほど不思議な事がいっぱい出てきますね。

・・・・「ありがとうございます」を唱えながら仕事をしていく感じですか?

そう、「ありがとうございます」と仕事をしていくと、疲れもすぐ取れるし疲れなくなったりね、本当に楽になりますね。


食べる

質問者:
 水とか健康に良いような物を使うとき、好転反応と言って一時期良くなる事がありますが、そうゆうことって起こりえますか?

ありがとうございます:
 それは信念が問題なんです、人の思いがね。薬でも効く時は薬を発見した人の思いですね、信念が効くんです。この薬は効くという信念が効果をあらわします。でも、この薬は効かないという信念が強くなってきたら、その薬はだめになります、効かなくなってきます。信念と信念の戦いなんですね。
 だから、そういうものを使うときに、どういう信念が使われているか、その信念を排除するんだったら自分の思い通りになります。人類の信念と自分の信念と合わさったもので影響を受けます。だから、最初からプラスプラスに見ていったら、そういうマイナス面には一切ならないかもしれない。



質問者:
 食べ物が悪いから病気になるとか、食べ物で体が出来ていると思っていますが、先生のお話を聞いていると何を食べても病気にはなりそうにない感じです。それって、先生だからそうなのでしょうか、私たちもそうでしょうか?

ありがとうございます:
 まず、食べ物をなんと見るかでしょう。毒と見たり薬と見たりいろいろするでしょう。薬になる食べ物ばかりを食べていても、やっぱりチョッと毒があるかもしれないと受けると、その毒に影響を受けますね。でも、それは全部神さまの命なんだと受けるとね、食べれば食べるほど命が輝きますね、病気になりようがない。

・・・・添加物がいっぱい入っているから病気になるとかよく言われますけど?

添加物の入ったものを心で食べているわけね、それも過去を掴んで古いものを・マイナスをいっぱい取り込んでいる姿なんです。でも、今の一瞬、神さまの命が食べ物として現れて、今一瞬いただくんだと言うんだたら、光り輝いた命以外は受けてないわけでしょう。だから、物質を頂いていない、命をいただいているんだという感覚になると、なにを食べても大丈夫ですね。絶対健康を保てます。
 空気を吸うだけで、霞を食べるだけで、水を飲むだけで大丈夫かもしれない、本当にそこまで信念が強くなったときは!!でも今の地球では、何か食べなければという逆の信念もあるんでね、まったく霞だけでは辛いところがあるかもしれない。
 
・・・・なにを食べるかよりも、どんな気持ちで食べるかが大事?

感謝しながらお料理してもらったものを食べると、絶対病気も治るし健康に成るでしょう、美味しいしね。でも、コンチクショウと呪いながら作った食べ物はね、絶対に腹を下したり健康を害するのね。やっぱり、プラスが多いか・マイナスが多いかですね。



感動の連続

質問者:
 先生はいつも楽しんでいらっしゃるようですが、最近一番楽しかったのは何ですか?

ありがとうございます:
 優劣つけると悪いじゃない!!<笑い>皆、無限に無限に感動与えてくれているのに、これだけと言うと。チョッと天皇陛下の真似をしないとね、天皇陛下はどの番組が好きですかと言われると、この番組が好きと言うと、そのテレビ局は喜ぶけど他の局が悲しむらしいですね。
 何もかも感動の連続で<場内から拍手>


あるがまま

質問者:
 あるがままに受け入れて感謝すると言うと、何もしないで感謝だけしているというように思ってしまいますが、現実的なことはちゃんとしなければなりませんよね?

ありがとうございます:
 今の一瞬に新たに生まれてくる神さまの最高表現の宇宙を、「ありがとうございます」と感じ取るんです、それを根本にして自然に必要な事をさせてもらうのが良いですね。
 だから、現実のあるがままじゃないですね、あるがままというのは、無限に無限に輝いたあるがままです。それを心に受け入れて、それを実現するために自然に全てが動くんです。全てがそういう物質化現象として必要な働きが全部出てきます。だから、排気ガスの問題一つでも、排気ガスの出ない良い車が生まれてくるかもしれないし、排気ガスのない状態へ全体がいろんな仕組みをもって動きだしていきます。「ありがとうございます」と無限に輝いた状態を心に受け入れるとそれがスッと出てきます。
 だから、現実はあんまり掴まないほうがいいでしょうね、一瞬一瞬良くなると眺めているぐらいがいいと思います。マイナスに掴むとそれを離せないから、そのとき新しいものを受け損ないますね。神さまが全体を通して良くしてくださいます。その一つの働きは自分を通してしてくださるというぐらいで良いですね。

・・・・それくらいで良いんですか?いろんな環境保護活動とかありますけど?

それも、神さまがしてくださるという感覚が良いですね、全体を良くするためにね。
 だから、
これからの情報は、情報というのも神さまの愛の働きと捉えると、神さまの愛に働きに報いるというね、神さまの運動とか、神さまの物質化現象とかいう大きい捉え方が、これから必要になってくるんじゃないかと思います。自然に必要な事をさせていただくようになっていくんですね、ドンドンプラスのものがいっぱいになってくるんです。
 いろんな発明発見も、神さまのほうからの物質化現象ですね、良い姿が出てくるね。ドンドンそういうものは早く発明発見させてくれる、一年ぐらいしたら排気ガスをパッと消すものが出てくるかもしれないね。


神様の感謝が自分の感謝

質問者:
 自分の感謝がどれほど深まったのか掴めないんですが、表情が明るく楽しくなったら深まったということなのかなと思いますが?

ありがとうございます:
 形はあまり関係ないかもしれないですね、自分というものを掴まないほうがいいものね。神さまの感謝を頂いていると思えば、確認の意味で神さまから自分が受け取っているという意味で、「ありがとうございます」と唱えていたら、神さまの感謝が自分の感謝ですね。みんなの感謝も自分の感謝と思えば、深めるも大きくするもないものね、最初から全部もらえばいいじゃない。
 私も、この世で何億回唱えた感謝とは思っていないですね。無限億万回唱え続けてくれた感謝と思って頂いています。
 最初は自分の感謝でも良いですね、それが早く大きくなったほうが良いですね。だから、みんなの感謝が自分の感謝になって、神さまの感謝が自分の感謝になれば、早くたくさん唱えたことになります。



心はどこにある

質問者:
 心というのは、頭にあるんですか胸にあるんですか?

ありがとうございます:
 頭は理屈が湧いてくるんですね、胸は感情が湧いてくるでしょう。丹田という下腹のほうからは奥の心が湧き上がってきます。でも、湧きあがってくるけど心はどこにあるのか、肉体の中にあるのか外にあるのか、肉体の中にもないし外にもないし、次元が変わるわけよね、次元が変わって心があります。その心もいろんな次元があるでしょう。場所は関係ないですね。



ありがとうございます のようになる

質問者:
 もし、生まれてから、言葉がしゃべれるようになったらすぐに、「ありがとうございます」をずっと言い続けていたら、先生のようになりますか?

ありがとうございます:
 年齢関係なしにね、大人でも子供でもないんですね。私以上に・・・私以上になったらいかんね、謙虚にならないとね<笑い>私以下になります<笑い>
 皆平等なんです、神さまは一番出来の悪い子から先に育て上げるんです<笑い>だから常に皆おんなじだよね。


記憶と情報

質問者:
 記憶は脳にあるんですか?

ありがとうございます:
 脳にあると言うより、脳を通して出てくるだけよね。違う次元に溜まるんです、出てくるところが脳を通して出てくる感覚かもしれないですね。これも形じゃないし場所じゃない。
 これからは形に囚われなくなるのがいいんでしょうね、天からいっぱい出すという感覚が本当の情報の世界かもしれないですね。


自分の他には神様しかいない

質問者:
 嫌いな人が自分の前に現れたとき、自分の姿が鏡の働きで現れたと見るべきですか?

ありがとうございます:
 いろんな見方が出来るでしょう、一番良いのはね、自分の他には神様しかいないと思うでしょう、それが一番良いね。その神さまが自分を幸せにするためにいろんな姿をとってくださっています、根本にそれがあると、もし自分の心の中にマイナスがあったとしたら、神さまが身代わりにそれを引き受けて、それを気付かせて消してくださる。
 知らぬ間に消されたら嫌でしょう、チョッと確認とって消してもらうほうが良いよね。周りにマイナスが見えたら自分の心のマイナスを神さまが確認をとって、こういうのがあるから消してもいいですかと念を押して、消してくださるとというふうに感謝したほうが良い。だからマイナスを見たときには「ありがとうございます」と言えば神さまに対して自分が神さまどうぞ消してください”OK”を出したことになります。      


マイナスは謙虚・感謝のために

質問者:
 職場に皆に嫌われている人がいます、それは皆に気付かせるために神さまがその人を置かれているというふうに見るんですか、他の捉えかたでもいいですか?

ありがとうございます:
 いろんな見方が自由に出来るんですね、どういう見方をする人がいても良いんですね。それはその時に必要な姿で働いてくださいます。自分もそういう姿を見てドンドン変化するでしょう、受け方見方全部が変化しますね。本当に一番上になってしまったら見えなくなります。

・・・・見えなくなるんですか?

見えなくなります。眩しくて見えなくなります。消えてしまいます。一瞬一瞬受け直すのが早くなるとそういう感じ方しかない、一瞬見ているときにはマイナスはありません。

・・・・その人が良くなるという消え方もありますか?

本当の消え方は、大きいプラスになって現れます。でも、必要だったら、一つぐらいマイナスを残しといて良いんだったら、残していても良いですよ、謙虚に成る勉強にもなるしね、感謝する勉強になるのでね。病気でも、一つ病気持っていると一病息災で健康ですね。ぜんぜん病気をしない人は健康に対する感謝も何もないから、健康のありがたさがわからないね、一つの病気があることによって健康とはこういうものだと良くわかります。大きい健康に対する感謝が生まれますね。一つ・チョッとマイナスを残しておくのが良いですね。
 人は、いい環境に慣れてしまうと、感謝も感激も忘れてしまう場合が多いので、だから、プラスのものを掴んだものを離さないといけない。放してマイナスのほうへ身を投じたほうがいい、ゼロではまだチョッと足りないですね、マイナスは降りるための手助けになるからチョッと掴んだほうが良いです。マイナスを掴んだら、自分の心は(その場へ来易い)()内は不正確、その場からプラスを受け直します。
 マイナスを掴んでも掴みっぱなしじゃ損するからね、立場をそこへ置くためにチョッと掴んで、後はプラスを受け直す。

・・・・今のお話をもっと具体的に話してください

具体的にね<笑い>。感謝しだしたらマイナスがなくなるでしょう、まったくなくなりますね、困る事はないですね。それで、感謝がぐんぐん深まる間はまだ良いんですね、常に神さまに命をお返しして新たに最高に受け直してという気持ちがしっかりしているうちは、謙虚になって感謝が深めていけるんですね。
 それで、大きい感激・感謝がいつも湧き上がるんですけど、どうしても表面の浅い状態に囚われていくと、ご飯でも毎日ご馳走がいっぱいあると当たり前と思ってしまいますね。どうしても感謝がふさいできますね当たり前になるとね。それで、チョッとまずいものが出てくると、こんなもの食欲が湧かない食べられんとなってきますね。マイナスに見る心が出てくるんですね、そういうときは必ずね、まずいものを食べないといけない。それか、おなかを徹底して減らしてしまうかね、肉体労働しておなかを減らさなければいけない。そうすると、どんなものでも美味しいと、神さまの命を頂いてありがたいと感謝の心を起こせるんですね。
 だから、神さまはとても優しいですね。感謝が深まるように深まるようにありとあらゆる方法を駆使して助けてくれます。この世の災害でも、地震でも台風でもそうです、大きい神さまの計らいですね。大地震があって、ものすごい大きいプラスになっているんですね、表面だけ小さく捉えていると大きいマイナスがあったと思うんですね。でも、神さまの考えるスケールがぜんぜん違うのね。大地震があって、表面の小さいマイナスがガラッと変わってしまいます、これで大きいマイナスを消したいんだ!無限の大きいプラスを与えたんだ!という感覚ですね神さまのほうはね。
 実際そうですね、大地震で大災害があった人ほど運命が良くしてもらえます。感謝が深く大きくなるように変えてくれます。そして、与える心を強く起こしてもらえます。平凡に一生を終わっても、ほんのチョッとしか進歩しないですね、何百回と生きたぐらいの進歩を遂げます。
 だから
、マイナスは大事です、マイナスがあるから大きく成長できると言うのは本当ですね。木や草の根の働きと同じです、根は必ずマイナスに向かいます、汚いものの中に根を伸ばしていきます。それによって本当に必要なものを吸収して、全体が大きく成長していきます。人も同じです、マイナスの体さまがものすごく生きてきます。マイナスに負けるのは肥やしに負けるようなものです、根も枯れて全体も枯れてしまいます。負けたらだめなんだけどね、マイナスを背負って命を働かせる事さえ出来たら本当の苦労です、苦に負けたら労はないですね。苦を背負って働くから苦労でしょう、苦労はいくらしても自分を大きく成長させてくれます。


この世と寿命


質問者:
 寿命は神様が決めているんですか?

ありがとうございます:
 神さまというのはどの神さまかということでしょう、肉体が自分と思う感覚では、神さまは守護霊さんですね。でも、魂の自分とか命の自分というふうに考えてみると、魂の自分も決めてくるかもしれない、命の自分だったら全権を握って全部決めてきます。

・・・・肉体的な死はあまり考えなくていいということですか?

それもあるけど、この世に生まれてくるのは何か大きい目的があるんでしょう。この世は大体あの世の縮図と見たほうが良いです、あの世を小さく縮めて見せてくれる世界です。この世に生まれてきた目的は、なにを選択して心に取り込むかという勉強なんです。だから、心にプラスを取り込んだらドンドン進歩するんです、大きくなって高くなっていきます。この世でそれをすると、そのまま向こうに戻すと、あの世で低い世界から高い世界へ上がるのはなかなか大変でしょう、一つ上がるだけでも大変なんです。ところがこの世だと、チョッと上がっただけであの世では大きく上がった事になります。この世で大きく進歩するとあの世ではものすごい進歩ですね。
 だから、どのくらいの縮図かというと、万分の一の縮図だったら万倍の進歩になりますね。だから、この世でお祈りが・感謝ができるようになったら、低いところから高いところへいっぺんに上がってしまいます。それで、限られた時間でチャンスを与えてもらうんですね、

これが何万年だったら困りますね、ダラダラと生きてチャンスがなくなるかもしれないですね。この世に生まれ変わってくるだけでも競争率が激しい、東大へ入るより難しい。

・・・・それは、魂レベルの話ですか?

そう、魂のね。命の自分だったら問題ないもんね。


これぐらいにしておこうね、後は、一杯呑んで?<笑い>
ありがとうございます

(会場から)ありがとうございます