ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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以下(いか)のコラムは宗教(しゅうきょう)サイトではありません。古神道(こしんとう)研究(けんきゅう)ノ−トです。またその内容(ないよう)に責任(せきにん)を保持(ほじ)していません。さらに著作権(ちょさくけん)も行使(こうし)しません。どうぞ自由(じゆう)に使(つか)いまわしてください。できればちょっとアレンジしていい感(かん)じになったよというのをどんどん、是非(ぜひ)メールでお知(し)らせください。


4人目の孫が3月12日に産まれました。4人の孫みんな可愛いんですが、4人目の孫がとってもいとおしいのです。何かあるのでしょうか?


 そういう時もあります。それは深い深い縁のある人が産まれて来る時はそうです。そういう時が必ずあります。深い深い縁があるんです。

 輪廻転生

 輪廻転生について教えて下さい。


 この世の人の感覚と神様の感覚はちょっと違うんです。この世で永遠に生きてるというと絶対に死なない感じでズーっと続くような感じです。でも神様の永遠不死というのは一瞬一瞬新しい命が出て来て変化し続けているのです。それが永遠に止まらない不死なんです。無限の無限の変化を遂げてるので一瞬一瞬、1秒ないのです。無限億万分の1秒で大きい変化を遂げ続けているのです。それが永遠に出て来るのです。それが永遠不死なんです。1人1人の命がそういう形で出て来ているのです。永遠にズーっと出るんです。命の自分は神様から一瞬一瞬新たに出て来て、それがズーっと続くので永遠不死なんです。変化してるのです。この世の変化以上に無限の変化をズーっとし続けて出て来てるのです。


 輪廻転生は生まれて死に、生まれては死にを繰り返していて、ある時期ご縁があると生まれてくるのですか?


 もっともっと複雑で違う生き方が沢山あります。普通、輪廻転生の世界の番組も余り沢山ないです。全てに輪廻転生がある訳ではないです。この世に近い低いところに多いのです。その輪廻転生も色んな輪廻転生があります。本当にこれは複雑です。この世を1つの教室と見た時に、あの世にも色んな教室が一杯あるんです。だから1つの番組の中に教室が沢山あるんです。そこに順番に生まれ変わって行くと、その1つのあの世の番組でも輪廻転生があるんです。この世だけが輪廻転生の世界ではないです。その魂という段階で掴んだ時はかなり低い番組の中での姿、移り変わりの姿です。もっと高い番組だと本当の命の自分という感じです。魂じゃなしに思いを全部脱ぎ捨てた状態の光り輝いた命の自分です。それは感謝の心と直感の心を持った自分です。もう1つ自由な生き方で輝いて一瞬で出て来る様な感じです。色んな世界があります。


 輪廻転生をして魂の成長をはかって行くと道元さんとかお釈迦さんキリストさんの様になれて輪廻転生がなくなるのですか?


 下から成長して行くと言うと輪廻転生をまだ体験すると思います。天から降って来るのが良いです。舞い降りて来るのが良いです。この世の繋がり過去との繋がり全部断ち切った時に新たに新たに出て来る自分は輪廻転生がない自分です。


 生まれて来る子供で非常に賢い子供とそうではない様に見える子供がいます。環境も大きく影響してると思いますが才能に恵まれてる子供が居ます。徳が高い低いで、そうなるのですか?


 魂的に磨かれた人が能力を発揮します。もう1つ上に行くと生まれ変わりじゃなしに直接神なる自分、命の自分が出て来て輝くと赤ん坊が天才を発揮するんです。赤ん坊が何でも知ってるんです。そういう事もあります。


 何事も有り難いと全て「ありがとうございます」と受けるべきですか?


 「ありがとうございます」で本体の本心の神様なる自分を引き出します。順調に行ってる時はみんな感謝を忘れるんです。それに慣れて仕舞って感謝を忘れるので、忘れた時にマイナスにスッと降ろして貰うのです。それで謙虚に感謝出来る様に変えて下さります。そこで感謝し始めるとまたプラスが一杯増えて来ます。その繰り返しで幸せを大きくして下さる感じです。

病気は本来、病気じゃないをもう少し詳しく教えて下さい。


 病気と健康とを比較した時、健康の方は調和しています。病気の方は乱れています。調和が乱れて病気の姿をとっています。そこに健康がない状態が病気です。神様の作っているものは健康の表現なんです。その健康の表現も無限に無限に輝いた健康、それ1つだけではちょっと味気ないので、段階を追って無限の無限の段階の健康の表現を、そこへ現して下さります。最初に無限の病を1回体験しておくと無限の健康が物凄く有り難いです。だから万病を抱えた状態は物凄く有り難いと思います。そしてまた健康をしっかり捉えるようになったらどんな小さい健康も無限の価値が出て来ます。この肉体の全身の細胞1個1個も本当は物凄い価値のあるものです。1個1個が本当に無限の健康を輝かして現してると物凄いです。肉体1個与えて貰った事が無限の無限の絶対価値が産まれます。どんな神様の表現も幸せを大きくする為に与えて下さります。健康という1つの要素からも色んな幸せを色んな角度から与え続けて貰えます。健康があって病気がない意味は神様はプラスの表現ばっかしをとって下さるからです。プラス1元の表現なんです。マイナスの方はあくまでもプラスを浮かび上がらせる補助の働きです。脇役なんです。神様の御心にそった生き方は神様の表現をしっかり味わうことです。神様の御心をしっかりと捉えて、幸せをしっかりと受け取る、そういう生き方の為に色んな表現を段階を追って学んで受けとめて行くのです。1つの健康という要素からも物凄い幸せを味わえると思います。そういう意味で健康だけがあるんだ、本当は病気じゃないんだという意味です。


 成長の家の本を読むと「病気はない、貧乏はない、不幸もない」と書いています。ある信者の方が、それを探求して行った時に「潜在意識の中に病気があって、無限に無限に輝いた本体には病気はない」と気付いたそうです。


 色んな意味合いがあると思います。病気を掴んでる人に対して心の一喝を与えて方向転換させる意味で「病気は無いんだ」と言うと健康に心が向くのです。そうすると心変わりが出来て健康に心の波長が合って健康を引っ張り出せます。それが直ぐにパッと出来たら素晴らしいのですが、出来ない場合もあります。如何しても病気を掴んで仕舞って中々心の置き換え・転換が出来ない時は逆に矛盾を感じて仕舞います。「病気があるのに何で無いと言うのだろう」と思います。これも1つの立場に囚われ過ぎています。例えばマイナス無限大からプラス無限大まで大きい広がりを見るのなら分かるのですが、普通その中間点ぐらいでゼロから上を見てプラス、下を見てマイナスと見ます。上が健康、下が病気と見ます。ゼロから上を見ている時は健康ばっかし見えます。下を見た時は必ず病気はあると見ます。そのゼロと言う立場を外してマイナス無限大まで自分の立場を降ろしたら、今度健康1元に見えるのです。その時に初めて本当の意味の病気はないになります。病気ではないのです。健康の表現だったと気付くのです。マイナス無限大の立場から見ると神様の表現はあくまでも小さい健康から大きい健康までの健康の表現なんです。神様の表現は健康だけ、病気ではないんだ、病気はないんだと1元に見るとそう見えます。ところが1つの立場に囚われたら何でも2元的に見ます。病気と健康もそうですし、善と悪もそうです。色んな2元的に見る見方は1つの立場に囚われた時に必ずそうなります。その時は1方だけ否定して無理です。矛盾を感じます。1元に見る見方になった時に初めて病気はないと言っても良いと思います。

 宗教


 私の娘の病気で10年程前、病気は人間的なものから来ていて、4代前のご先祖様と関係があると、ある人から言われました。それでお詫びをする為に毎月通っている所があります。10年間、間違っていたと思います。


 言葉の縛りに合うとその言葉通りの番組が先ず用意されています。神様が人に対して与えているのは無限の無限のチャンネルの番組なんです。その1つ1つに宇宙があります。その中に色んな人生の運命は定まっています。その言葉通りの番組は全部用意されています。だから言葉で波長を合わせて引っ張り出すんです。マイナスの言葉をそのままスッと受け入れたとします。マイナスの番組に合います。そこから抜けられたら良いのですが、中々抜け難いです。これがさも最高の教えであり言葉であると受け取ると如何してもその中にはまり込んで選択肢がないと如何しても縛られます。先ず心の自由を大事にしないといけないと思います。神様は無限の無限のチャンネルを与えて選択の自由を与えています。絶対縛っていません。それが1番大事だと思います。無限の選択肢があって1つ選んで幸せを味わうのです。それだったら自由で囚われがないです。何時でもどの番組へでも心を移せるので自由自在に自分の好きなものを選べます。だから健康でも、先ず病気のような姿を小さい健康を先ず味わって、それから大きい健康を味わうのも良いです。そういう意味だったら病気と見えてる小さい健康も味わう方が大事なんです。でも選択肢は無限にあるので今度健康を味わいたい時はサッと健康の方へ心移せば良いのです。その時は無限健康とプラスの言葉を使って本当の健康を引っ張り出せば良いのです。そうすると健康が更に価値があるものとして味わえます。だから言葉の縛りに余り合わない方が良いみたいです。もっともっと自由な言葉の使い方をされたら、どんどん自由になると思います。

 


 昨年亡くなった次女は脳腫瘍でした。最初は神様の世界に直ぐに行かなくて、現代医学で出来る限りの選択肢の中で抗がん剤・放射線と治療をしました。その抗がん剤はガン促進剤でもあり、白血球を潰して仕舞います。その抗がん剤の点滴をすると、その副作用で吐き気などが本当にひどいのです。最善と思って選んでした物によって子供の体が更に悪くなるを見ると、その抗がん剤が悪い物に私は見えました。実際悪い物だと思います。けれど別の先生から何でもこの子の体に入って行く物は、良い物だと思う事で悪い物でも良い効果が現れるから、良い物だと思いなさい。このポタポタ落ちて体に入って行って良い物に変換されて行く、そんなイメージで捉えなさいと言われました。それでなるほどと思いました。その悪い物を良い物と思うのはどうなんでしょうか?


 同じ物をプラスに見る事もマイナスに見る事もどちらも出来ます。マイナスに見ると自分の立場が闇へ暗い方へ向いています。その時はプラスが入って来ないです。でもプラスに見る立場に自分を移せば大きいプラスの神様の方へ向きます。そうすると助けを自然に受け易くなるのです。だからプラスの言葉を使うと心がプラスに向いて来てプラスに受け易くなります。それも効果が大きいです。同じ薬飲まれるのでも、マイナスに見るよりはプラスに見て明るくプラスに感謝して受けると薬以外の力も加わります。


 病気を治療する為に薬を飲んで「ありがとうございます」と感謝するのと、薬を飲まずにただ「ありがとうございます」と感謝するのでは、どちらが良いのでしょうか?


 病気になって健康に戻る場合、何にすがるかです。本当は健康を与え続けてくれてる神様にすがれば一瞬に無限健康になります。健康な肉体を作り続けて与えてるのは神様です。勝手に出来たのではないです。だから神様に任せたら神様が最高の名医なんです。全部完璧に置き換えて作り上げてくれます。でも中々そこへ最初から心を向けないです。無限の選択肢があると色んな生き方・やり方を1回試して見るのです。でもお医者さんに頼っても治らない・薬に頼っても治らない・何に頼っても治らないという時に最後にすがるところが神様です。その時に本当に真剣に神様にすがったら奇跡的に治ります。どんな難病・奇病でも治ります。本当に神様ってすがれば治して下さる・置き換えて下さります。そういう治す方法もあります。だから治す方法一杯あって良いです。無限にあって良いのです。色んな学びの中でそれを体験して行けば、また治し方を色々体験出来て最後に神様の凄い治し方に出会ったら有り難いです。
 これしかないというと縛られて選択肢がない時は苦しく落ち込みます。だから無限の方法があって、どんな治し方でも出来ると選択肢を広げとくと、今楽しんでそれを勉強して受けたら良いと思います。また次にそれが駄目だったら次のへ行って余裕が出来て来ます。本当は薬もマイナスばっかしじゃないのです。神様の愛念がそこに加わってくるのです。この人の病気を治したい・和らげたいと神様の愛念が人を通して伝わって来るのです。その愛念だけで治るのです。物質の薬が治すとは限りません。お釈迦さんが病気の人を直すのでも本当にお釈迦さんを信じて何も無くても治して貰える信があれば治ります。その信の浅い時はないから延ばすのです。水でも小麦粉でも何でも良いのです。薬じゃなくても良いのです。これ飲んだら治ると言われたら、それが媒介になって愛念を受けて心の切り換えがスっと出来て奇跡的な治り方もあるのです。色んな治し方・治り方があるので1つに縛られないのが1番楽です。

 神様にすがる


 精神的な病気、疑い・不満・不安などでも神様にすがって置き換えて貰えば良いのです?


 そうです。精神的な面でも神様にすがったら無限の楽しさとか無限の喜びとか無限の安らぎとか一瞬に与えて下さります。一変にパッと心が変わります。一瞬に奇跡的に変わります。


 「すがる」は、どういうことですか?思いを持たない事ですか?


 「ありがとうございます」が1番良いです。本当の神様の究極の名前が「ありがとうございます」なんです。神様の働きの全体を指し示す言葉です。最後に呼ぶ名前なんです。「ありがとうございます」と心に唱えたら神様を呼んだ事になります。そうすると神様が全権を振って力を添えてきます。どんな奇跡でも起こせるのです。ただ呼ばないと来ません。まだお呼びじゃないので出番がないのです。


 本当に心から思わないと駄目ですか?


 呼べば良いだけです。一心に「ありがとうございます」と呼び続けたら今必要なことを奇跡的に与えて下さります。必ずそうなります。


 本当に苦しくて辛い状態でもそうなりますか?


 本当に苦しくて辛いから、すがるのです。それ消してからすがっても必要ないのです。苦しい時に思いが一杯ある時に「ありがとうございます」と唱える事によって神様を呼んで消して貰うのです。


 有り難いと思えないのですが‥‥。


 そんなん別に思わんで良いです。有り難いと思えないから「ありがとうございます」と神様呼んで助けて貰うのです。それで有り難いという気持ちを中から湧き上がらせて貰うのです。だから、どういうマイナスの状態でも良いのです。神様を呼んだら全部マイナスをプラスに置き換えてくれます。全てが良くなります。


 周りの状態も良くなりますか?


 先ず自分から周りから全部変えてくれます。TVでも見る時、幸せ番組ばっかり見てても飽きてくるんです。ちょっとはマイナスの方の番組をのぞいてみたいと思うのです。そればっかし見続けるとちょっと苦しくなって来るから、またプラスに戻ります。

 無限の選択肢がある


 苦しい事があって、方向転換する事は逃げる事になるのですか?


 選択肢が狭いと逃げるような感じです。ところが無限の選択肢があったら選ぶだけです。自由に好きなのを選ぶだけで良いのです。今幸せが良かったら幸せを選べば良いです。もう自由自在に無限の中から1つ選ぶのです。そのぐらい自由に与えて貰っています。選択肢が無限にあると思えば、選び方が縛られずに自分の好きなのを選べます。それで喜びがズッと続きます。「ありがとうございます」唱えながら選ぶと的確に正しいのを選んで行けます。選び方も神様の助けを受けて選ぶのです。心を自由に無限に広げて貰って無限に良いものがあるのを気付かせて貰って、その中から1番自分に必要なものを1つ選ばして貰うのです。これ全部神様が力を添えてしてくれるのです。「ありがとうございます」でただ神様を呼べば良いのです。


 思った通り生きるより神様から使命を頂いて動く方が本当の幸せに繋がりますか?


 そんな小さいものじゃないです。神様が幸せの本体です。神様自体が無限の無限の更に無限の幸せを持っています。神様が自分の中にスッと降りて来たら幸せを感じます。最初はみんな自分の思い通りになってちょっと小さい満足を得て幸せと言います。でもそれは偽物です。人と比較して自分の方が上だから幸せというのはウソです。本当の幸せは神様が自分の中にスッと助けに入ってくれた時に幸せを感じます。その時に気付きが増えるのです。必要なもん一杯与えられてるのに気付きます。その気付きがどんどん増えると幸せが大きくなって行くのです。この世でも無限の宇宙を自分1人の為に与えて貰っていると無限の気付きがあったら無限の幸せがあります。本当はそうなんです。みんなそうなんです。自分1人の為に宇宙があるのです。地球もそうです。自分の為の地球です。地球上にぽつんと1人置かれたら寂しいだろうから大勢の六十億の仲間を置いてくれてます。嫌な人も居てるかも知れないけど、でもやっぱり喧嘩友達も欲しいし、だから存在するもの全部自分1人の為の神様からの愛のプレゼントです。


 その選択が自分の思いでして仕舞います。


 最初はそうです。みんな感謝をしない時は思い通りしたいのです。思いが優先されるのです。でも、それでは必ず行き詰ります。頭を打つからそれに気付いた時から感謝に生きるように方向転換して来ます。「いつも神様と一緒に生き様・神様の持っている全てを頂こう」という感じです。それで神様を呼び始めると今度は神様が力を振って幸せをどんどん大きくして下さります。


 困難なことをする方が良いような気がします。


 それはないです。それは順番に階段を昇るように上まで上がるのも良いけど、一足飛びにパッと上がるのも良いです。これは自由なんです。選び方は自由です。


 嫌なんだけど、これを乗り越えないといけないと凄く思って悩んでます。それを外したら逃げてるような気がします。


 そうじゃないです。1つの数学の計算問題があったとします。物凄く細かい所を順番に計算して自分で答え出すのも良いけど公式1つ当てはめたらパッと答えが出ます。答えの出し方は無限の選択肢があります。だからどんなに難しい計算問題でも出された時に直ぐに解決したかったら「ありがとうございます」言ったら先に答えがスッと飛んで来ます。瞬間移動です。ただそれでは味気ない人は色々回り道します。それも楽しむ為です。無限の無限のチャンネルは人を幸せにする為に楽しませる為に与えて下さっています。どんな番組・人生を生きてても、それを楽しむ為に・そこに幸せを発見する為に与えて下さっています。どんな番組も幸せをそこから見出す為・楽しむ為にあります。それを忘れると縛られた苦しい状態になります。だから感謝して神様の最初の心を汲み取る・気付くのが大事です。神様の無限の無限のチャンネルを与えた目的はみんなを幸せにし楽しませる為です。感謝してると気付きます。神様の心に気付くから「ありがとうございます」と神様を呼ぶ方が良いです。


 今の話からすると自己矛盾とか葛藤とか世間ではよく言われます。それは逃げると同じで勝手に自分で選択肢を勝手に狭くして、勝手に自分で矛盾を起こしていると思います。もう少し感謝を深める事によって実は思いもよらない選択肢が他にもある事に気付くと思います。


 みんな迷路遊びを楽しむのです。本当は神様だけを相手に1元に見た時は矛盾は何もないのです。スーっと1本通っているから矛盾は何もないけど、神様を無視して迷路にはまり込むと色んな矛盾が出て来ます。でもそれも楽しいです。

 知恵遅れ


 私には知恵遅れの兄弟がいます。今まで私は凄く負担に感じて生きて来ました。


 今のこの人生という1つの番組、与えて貰って今受けて味わっています。それ本当はみんなプラスに見るのが1番必要なんです。全部プラスに見るのが良いんです。マイナスに見える時はちょっと謙虚な勉強をする必要があります。そのマイナスを見る事によって、こんな姿もあるんだと気付くと自分の立場がマイナスの立場に戻れます。謙虚な立場に戻れます。その立場から見ると他がプラスに見えます。地球に六十億人います。全部知恵遅れだったら如何でしょう?当たり前なんです。比較しないからマイナスに見ません。そこに1人素晴らしい人が出て来たら、この人はなんて素晴らしい奇跡的な才能の持ち主なんだろうと思います。凄くプラスに見ます。(途中不明)
 マイナスを広い集める人は普通上から見ます。逆にすれば良いです。1番下の立場からプラスを拾い集めたらプラスばっかし幸せばっかしと感じさせて貰えます。その勉強をみんなするのです。


 多くの事を気付かせて貰ったし、学ばせて貰いました。でも小さい時から伸び伸び生きてない自分を感じます。


 それ全部後で良かったと思えるのです。苦労が大きい程、後で幸せ喜びが大きく出て来ます。それがやっぱり生きてくるのです。謙虚になる為の大きい勉強だし、そこから色んな学びがあるのです。1回大きく縛られると今度縛りが解けた時、本当の自由な開放感に無限の価値を見出します。全て無駄はないです。みんな幸せを大きくする為の途中の過程の姿です。その苦労が大きく生きて来ます。

 家族


 私の主人とか子供とかは心の問題に興味がありません。話し合いたいのですが、出来ません。仕方ないのでしょうか?


 自分の家族だけを相手にすると選択肢が無限に小さく絞り込まれます。そこでちょっと苦しみが生ずるのです。家族でも地球上の人間全部自分の家族と見ると今度は人を縛らなくなります。精神的な勉強してる人一杯います。その人達はそれで良いし、他の事に心向けて勉強する人もあっても良いです。人の自由縛らなくなります。丁度バランスとって全部そろっています。
 花を植えるのでも1つの種類の花だけだと、それを見つめ過ぎて欠点ばっかし探すかも知れません。でも無限の種類の花が一杯咲いてて、それも種蒔かれた状態から色んな成長段階、全部取り揃えられていたら、今種蒔いて芽が出ただけの掴んで、「まだ双葉じゃない」と言わんです。みんな素晴らしい素晴らしい喜べるようになります。花の咲く時期も全部違って良いですし、成長段階も全部違っても良いですし、人も同じです。みんな生き方違った方が良いです。それを選択肢広げた大きい立場から見たら自分に出来ない事をみんな変わりにしてくれてると見えます。無限の楽しみ方を自分がさして貰えます。その方が楽です。

 道徳


 現代社会の道徳と神様の道徳の違いを教えて下さい。


 例えば理性でも神様の働きと見た時、神様の働きの無限の無限の段階に別れて出てくるのです。どの部分を掴むかによって理性の働き姿ぜんぶ異なります。道徳も同じです。最高道徳から最低道徳まで全部そろっています。それはそれぞれ必要なんです。ただ1つに縛られたらその中にはまり込んで苦しいです。これしかないでは苦しいです。道徳も無限にあって良いです。理性も無限の種類があって良いです。


 何やっても良いのですか?


 神様から何を受けるかだけです。受けた分、そこに全てが備わっています。理性が欲しかったら神様から理性を受けます。理性もピンからキリまであります。どの理性を受けるかは自分が選んで行くのです。だから最高の理性を受ける為に「ありがとうございます」を繰り返さないとちょっと受けにくいかも知れません。


 昔、余りにも腹がへって目が回って死にそうな時に、美味しそうな果実があって食べたいと思いました。それで勝手に食べたんですが、それが今でも心に引っ掛かっています。


 始めに全て神様のものなのに、これは自分のもん、これは人のもんと言葉で縛っています。例えばお腹空いた時に柿の木があって柿がなってるとします。その時に柿の実が神様から自分へのプレゼントと見たら、しっかり頂く方が正しいのです。自分が勝手にこれはよその人の分と言葉の縛りの中にはまり込んでその低い番組を掴んでるから勝手に採ったら泥棒みたいに錯覚して仕舞うのです。この地球上の全部自分ひとりに与えられたプレゼントと思えば良いのです。「ありがとうございます」と感謝してたら隣の人もみんな自分の従業員か召使です。「よくなってるね、よく育ててくれたね、1個貰うよ、ありがとう」となります。色んな生き方があります。だから高い番組を選べば神様からプレゼント一杯受けられます。

 空念仏


 苦労や困難や地獄を見たり病気になったりして「痛い、苦しい」と言って苦しむと思いを溜めることになりますか?


 自分の使う言葉を点検してみると言葉通りになって行きます。マイナスの言葉をプラスにどんどん置き換えて行くとどんどん変化します。だから苦しい時は「楽しい」と言えば良いです。「楽しい」を連発すれば良いです。調子悪かったら「絶好調」と言えば良いです。必ずそれに心が従って来て波長がプラスのところに合って来ます。簡単にプラスに置き換わって行きます。


 心の中では「苦しい」と思ってても、言葉では「楽しい」と言ったとします。その場合はどうなりますか?


 心は言葉に付いて来ます。言葉が先です。心を変えるのは難しいです。コロコロ変わるから変化するから中々掴み所がないのです。心だけでは変えられないので、言葉を掴んで言葉を選択して言葉で心を変化させるのです。言葉は選べます。


 全然心になくても良いのですか?


 良いです。感謝の心が出て来ないでも「ありがとうございます」と感謝の言葉を言えば良いのです。「ありがとうございます」と言えば感謝が出来るようになって来ます。言葉通りに変えてくれます。必ずそうなります。


 回数が多ければ多い程良いのですか?


 そうです。神様の助けが一杯降りて来ます。

 ありがとう


 「ございます」を省いても良いですか?


 「ありがとう」と軽く言うと軽く助けに来ます。本当は「ありがとうございます」は丁寧な頼み方・呼び方です。そしたら神様の方も丁寧に助けに来ます。


 「ありがとう」でも回数を一杯言うとどうなりますか?


 機関銃の弾をバババと撃つのも良いけど、大砲をボーンと撃つのも良いのです。色んな方法があります。

 お金持ち


 お金が1円もない状況で「沢山お金があって、ありがとうございます」と唱えて良いのですか?


 お金を余計に儲けて成功した人みんなスカンピンから始まっています。「自分は無限のお金持ち富者なんだ」と何時も心で言葉を使っているのです。ある時歩いてると宝くじ拾ったり、それが何億円当たるかも知れないし、掘ってみたら金鉱が見つかるかも知れません。何かそういうきっかけがフッと出て来て必ず億万長者になります。だからみんな言葉通りになっています。


 例えば、「私は今スカンピンだけど1億円入る」と書いて読み続けても良いのですか?


 良いです。億万長者・億万長者と書けば良いです。でもスカンピンと書いたら駄目です。「今スカンピンだけど億万長者」と書いたら両方出て来るかも知れません。プラスの言葉だけを使えば良いです。病気の人でも病気を治そうと思うと先に病気を掴んでいます。だから健康健康が良いです。


 「健康ありがとうございます」ですか?


 そうです。みんな自分の願いを叶えたい時に逆に使って仕舞います。マイナスの祈り方をして仕舞います。戦争でも同じです。平和にして欲しいと言っても駄目です。戦争だから平和にして欲しいと言葉を使います。「して欲しい」はマイナスになります。

 思いを被る


 人の思いを被って腰が痛くなった事が何回かあります。

 みんな助け合いなんです。助け合いになっています。光が入って来る時は助けて貰っています。プラスを貰ってる時は光を貰っています。自分の中からマイナスをとって貰って軽くして貰う時もあります。両方の助け合いが何時も起こっています。助け合いです。自分にとってマイナスじゃないです。人助けです。恩返しです。力が付いたらもっとマイナスとって上げたら良いです。人助けです。大勢の人助けです。「ありがとうございます」言えるからマイナス引き受けても直ぐに消せます。


 人の愚痴をよく聞かされます。元気な時は平気なんですが、元気じゃない時に愚痴を聞かされると、愚痴を言った本人は元気になるけど、私は元気じゃなくなります。それでも「ありがとうございます」と唱え続けるべきですか?


 マイナスに見てしまう時は如何しても謙虚さがないのです。感謝忘れてる時はもう1回謙虚な感謝の出来る自分に戻して貰うのです。一旦受けて仕舞うと良いです。しっかり受けとめて見ようと思うと楽になります。逃げない方が良いです。直ぐに楽にして貰えます。一旦どん底に落ちたら上を見るしかないです。直ぐにプラス思考になります。感謝一筋になって来ます。そしたらスッとプラスに置き換えて貰えます。みんなその繰り返しです。プラスへばっかし昇ってたら有頂天になるだけで謙虚さもかけて感謝も浅くなります。必ず螺旋状に交互に昇るような感じです。螺旋状というのは光の面と陰の面、両方交互に昇って行くのです。必ず昇って行くのは確かです。両方の働き必要なんです。

 小難


 例えば物を無くすとか、つまづいてこけたとか、角でぶつけて仕舞ったとか、そういう時も全てプラスが来てるんだと思って「ありがとうございます」を唱えてれば全部プラスに変わりますか?


 本当は無限の災難に遭うところを殆ど無難に近い小難に変えて貰ったと思うと物凄い得した事になります。

 マイナスの言葉


 自分が鬱の時に使うマイナスの言葉は波長が合う人に影響がありますか?


 あります。ただみんな助け合いになってるので、必ずハイになった人から応援が行きます。必ず助けが行きます。みんな助け合いで必ず良くなります。その鬱になるのでも時期がどのくらいかも人によって全部違います。必要なだけ勉強するだけになります。


 ある知人にだけは言って仕舞います。私がその事ばっかし話すので嫌になったようで、「私の前ではもう言わないで」「全ての運やツキが逃げて行くので言わないで」と言われました。


 でもその人が鬱になる勉強をしなければいけない時です。聞かせて貰うのが必要な時に聞かせて貰うのです。しっかり聞いて鬱になれば良いかも知れません。それがまた大きい幸せとセットになってて良くなります。


 でもその人に合うと言って仕舞います。


 溺れてる時は何にでもすがり付きます。藁にもすがる感じです。それを止めなさいと言ったら可愛そうです。本当は何しても良いのです。許されています。ただ神様の方は無限の力で深い愛の心で助けに付いてるから必要な助けをいつも与え続けます。みんな助け合いになっています。

質問者:
 人からマイナスの言葉を聞かされると「ありがとうございます」と唱えてます。それで良いでしょうか?

ありがとうございます:

 そうです。「ありがとうございます」唱えてるとプラスに受ける心に変わって来ます。全部マイナスをプラスに翻訳出来ます。大難を無難にして貰った感じになります。

 心の中が基本


 言葉で「ありがとうございます」を言うのと、心の中で「ありがとうございます」を唱えるのでは違いがありますか?


 心の中が基本なんです。心の中で唱えるだけで本当は良いのです。形の方は自由自在で良いです。必要な時に口に出しても良いし、自由で良いです。

 選び方


 自分で判断したり、決断したり、決定する時のコツを教えて下さい。


 先ず自分で判断するのなら必要なものを選ぶと良いです。何かしたいとか欲しいではなく必要なもの、これは絶対必要というものを選ぶと正しいです。それも判断付かない時は「ありがとうございます」を唱えてると神様の知恵がスッと入って来て1番必要なものを選ばしてくれます。それも自然にです。「ありがとうございます」を心で唱えるだけで良いです。その時は迷わずに1つだけ出て来るかも知れません。必要なものを与えて貰います。


 迷うとは何ですか?


 例えば2つ3つ出て来てどれ選んだら自分が得するかと思うのです。でも無限のもんがあっても、みんな良いんだと思えばどれ選んでも良いんです。神様の方はよく知ってて1番良いものを身近に持って来てくれるから目の前にあるものを掴めば良いです。


 私の友人で獣医になろうとして勉強している友人がいます。「ありがとうございます」を唱えてるけど、何故かネットワークビジネスの話がよく来ます。何故なんでしょうか?


 神様は無限のものを与えたいのです。良いものどんどん送り込んで来ます。一生で1つだけしか出来ないはつまらんです。何でも沢山させて貰う方が幸せを大きくして貰えます。時期が来たら自然に必要なものをどんどん送り込んで来ます。その時受けられたら受けた方が良いです。どんどん受けたら良いです。遠慮は要りません。必要なかったら他をすれば良いです。


 選択肢が多くて困っています。全部受けると体が持ちません。如何したら良いですか?


 「ありがとうございます」唱えてたら必要ないものは勝手に離れて仕舞います。邪魔しないように自分の前から逃げて行ってくれます。スッと消えるような感じです。必要なかったらよそに行って仕舞います。必要なだけを出してくれます。例えば仕事でも色んな人から頼まれるとします。必要な仕事だけが残って必要ない仕事は全部向こうから断って来ます。必ずそういうふうにしてくれます。「ありがとうございます」さえ唱え続けたら絶対に間違わないです。仕事でも沢山した方が楽しいです。色んな種類の仕事をした方が楽しいのです。楽しめたらその方が幸せが大きいです。だから暇を持て余すよりする事一杯ある方が楽しいです。ただそれに縛られたら駄目です。その仕事をしなければじゃなしに、あくまでも楽しむ為に沢山するのです。TVの1つのチャンネルしかなくて、ある一定の時間しか放送してなかったら楽しみが無いです。でも沢山の番組があってズーっと二十四時間放送してくれたらどれでも選んで楽しめます。仕事でも本当はそうです。今する事は1つだけで良いのです。順番に楽しみ続けたら良いのです。1番良いのを選んでそれをしっかり楽しんだら良いです。そこまで自分を自由にしとく方が良いです。縛られたら損します。この仕事をしなければでは損します。だから余り人と約束しない方が良いです。縛られるような約束は出来るだけ控え目にした方が良いです。でも仕事は沢山持ってる方が楽しいです。

 成功哲学

 顕在意識、潜在意識、神意識、お祈りをどう捉えていますか?

 全ての与え手は神様だけです。人は神様のプレゼントを受けるだけで良いのです。無限の無限のチャンネル全部受けられたらそれも良いのです。それは凄い事です。でもこの世に生まれた人は1つのチャンネルを受けています。全体を受けて1つのチャンネルを受けた事になります。それでも普通1部しか受けていません。宇宙全部受けてないです。自分の欲しいもの都合の良いのをちょっと感じて受けてるような感じです。物凄く小さいです。その受け方も自分で努力して受ける人もいるし、何も努力せんでも全体をパッと受ける人もいます。1番受け易い方法はワンセットで受ける方が良いです。無限の無限のチャンネルをワンセットで受けるのが良いです。その中に全て含まれています。行動・結果まで全部含まれています。1番受け易いです。それを部分的に別けて、これをして、これをして、これをしてと順番を追ってするのも悪くないけど、神様の方はワンセットにして受け易くしています。「ありがとうございます」で必要なものをパッと受けたら良いです。答えを先に貰って仕舞うのです。途中は抜きにしても良いくらいです。

 実践しないと結果が出ないと思います。

 いえいえ。瞬間に移動するようなものです。今マラソンは2時間かけて42キロ走ります。それが神様だったら一瞬に瞬間移動して出発点からゴールまで行きます。全てがそうです。何でも問題が起こった時に問題を解決しようと思って色んな方法を講じて行きます。でも神様の方は先に既に完成された結果をさっと出して来ます。途中は本当はどっちでも良いのです。回り道したい人はクルクル回れば良いです。


 人間向上しよう思ったら、精神的にも肉体的にも無理します。そして向上して行くと思います。それも必要ないのですか?


 そうです。下から梯子かけて天まで昇ろうと思ったら大変です。天に居てる自分が下へ舞い降りるのは簡単です。サッと降りれます。


 祈りと感謝だけで良いのですか?


 そうです。本当の感謝が出来たら天にある完成されたものがスッと降りて来ます。それもワンセットで降りて来ます。

 そこにあるマイクを人に渡そうとします。でも感謝感謝と幾ら思っていても渡せないと思います。

 そうじゃないです。感謝してる人はワンセットで受けるから、ちゃんと運ぶ人もワンセットで入っています。必要な所へちゃんとマイクが行って既に使えるようになっています。全体をワンセットで受けるのです。感謝してる人は必要なものが先に手に入っています。

 以前、私は成功哲学を広めている会社に勤めていました。その時思ったのは、自分の願望を成功させようと思って、それだけに集中して全体を見てない感じがしました。ありがとうおじさんが仰るワンセットは周りの協力が必要だと思います。自分だけが成功したいだから周りを応援しません。お金を儲けたいと思ってるから、お金を儲けたい人ばっかしが集まる。終いには精神をおかしくする人も居る感じでした。ありがとうおじさんの言う感謝の方が良いと思います。


 「ありがとうございます」


 話を戻します。マイクを取ろうとする事が大事だと思います。


 ワンセットで受ける意味は、感謝してると全部必要なものワンセットでスッと入って来ます。マイクが必要だったらマイクが自然にスッと目の前に来るのです。これは人が持って来る時もあるし、自分が取る時もあります。自然にスッと結果が出て来ます。ところが欲しいと思っても掴めない人がいます。体が動かんかったら掴めません。また人のマイクだったら触るなと言われたら掴めません。色んな障害一杯出て来ます。自分の思い通りに絶対になりません。でも感謝だと必要なものサッと全体が自分の為に協力する姿で出て来ます。マイクが必要だったら全体からマイクがスっと回ってきます。感謝の働きです。全体の動きがワンセットであるのです。自分のたんなる思いとか願いとは違います。そんな、ちっぽけなもんでは宇宙全体を動かせないです。感謝は宇宙全体を神様が動かしてくれます。それで必要なものを的確に与えてくれる姿をとります。神様の大きい働きがそこに自然に現れて来ます。それで感謝は良いのです。


 愛と意思はバランスを持たないといけないと思います。


 神様はバランスを持っています。全部持ってるから神様の働きだけがスッと降ります。人の場合はバラバラです。バラバラを組み合わせも中々上手く行きません。神様が全てをワンセットで持ってるから自由自在にそれを使いこなしてスッと結果を持って来ます。1番自然で楽です。全部神様の働きにして受けるのです。自分の働きなんて絶対にそこに入れません。神様の働きだけがあるというふうに受ける方が良いです。神様は人が「自分でする」と言う時は引っ込んで仕舞います。全部お任せが良いです。神様の力全部振ってでも必要なものスッと与えてくれます。


 家を買う場合、普通なら月々三十万貯金して三年で一千万貯まって、家を買う頭金にしようとします。1年2年3年後の計画があって始めて家が建てられます。でもありがとうございますは常識では考えられない経緯で出来ました。普通では理解出来ません。もう少し詳しく教えて下さい。


 私は別に何も願っていません。家が無くても別に良いのです。青空天井で良いのです。自分の願いは何もないけど、「ありがとうございます」とズーっと感謝しています。神様が必要だったら必要なもんサッと降ろして来ます。不思議です。神様は全体を上手に使いこなせます。普通はお金なかったら建ちません。ここはお金なしで建ちました。

 願いがないは目標がないのですか?

 いえいえ。神様の与えてくれるものを素直に喜んで受けますというだけです。自分から求めません。既に無限の無限の幸せ一杯与えて頂いてる確認のお祈りをしています。今更、願う求める心なんか起こりません。今は、もう大満足の状態です。

 人の役にたちたい思いもないのですか?


 ないです。それよりも神様は人の役にたつ事をさして下さってるのを受けるだけです。自分の願い出す必要ないです。全てが神様から与えられたプレゼントばっかしです。


 何時からそんな気持ちになったんですか?


 小さい時からこんな感じです。二十くらいからその通りです。みんなお任せです。「ありがとうございます」だけです。全部神様がしてくれてます。

成長してないのですか?


 受け方はどんどん上手になります。肉体人間が受ける受け方なんてたかが知れてます。有限の小さいものです。神様から受け直すのは、無限の無限の更に無限の無限のと何所までも奥深いです。その受け方は肉体レベルじゃないです。奥の意識がどんどん大きくなっているのです。こんなんは成長と言えません。成長というより神様からの受け直しが上手になった程度です。受けなかったら何もないです。


 魂は絶えず成長してるのですか?


 そういうレベルもあります。低い番組です。高い番組は一瞬一瞬どれだけ受け直すかだけの世界です。私魂ないのです。無くなって仕舞ったのです。過去を全然引きずってないから過去がないのです。


 覚えてないのですか?


 今、新しいのを受けるのだけで精一杯です。無限の無限の輝きが無限に無限に一杯と物凄いスピードで飛び込んで来ます。それを受けるのに忙しいです。

 神からメッセージが来るのですか?


 メッセージというより宇宙全体が飛び込んで来ます。そしたら過去なんて相手に出来ません。


 飛び込んできたら何て言ってるのですか?


 「ありがとうございます」で受け続けるだけです。言葉も使う暇がないです。圧倒され続けるだけです。「ありがとうございます」って時間がかかります。1秒かかったとして、その間にどれだけ変化して飛び込んでくるか想像もつきません。


 目つぶって瞑想してる間にそれが入ってくるのですか?(目を開いてても入って来ます。)何の為に目をつぶって瞑想してるのですか?普段の生活しながらやってても良いのですか?


 良いです。普通みんな私の真似します。目を開けてたらみんな目を開けたまましようとするから出来ないです。


 別に目をつぶらんで、こんなかっこせんでも良い別けですか?(うん)日常生活で普通に過ごしてて、たえずメッセージを受けてたら、それでOKですか?


 一瞬一瞬物凄い変化を遂げて現れてくるのを受けてたら良いだけなんです。


 おじさんは新聞配達でもしようと思ったら出来る訳ですね?(何でも出来ます)別に瞑想なんかせんでも良いのですね?(うん)普通のおじさんになって新聞配達したり、自転車屋さんになってたりしても、それでOKなんですか?(うん。だから何でもします)ちょっと考えて見たら悟っている人一杯居るかも知れないですね?(うん。そうです)



 神様の中へ飛び込む

 神様の中へ飛び込むをもう少し詳しく教えて下さい。


 自分が肉体とか魂と言うと器があります。器の中に神様の働きを入れようとしても1筋か2筋の光です。それで一杯になって仕舞います。だから先ず自分を消さないとあかんです。自分の命を全て神様に捧げる気持ちで感謝行をしてると全部消してくれます。その神様の中へ飛び込む事によってどんどん神様と一体化してきます。だから意識だけがあります。先ず透明人間になります。その透明人間が神様の意識の中心に置かれたら神様の働きが、どんどんどんどん飛び込んでくるし中からも放射される姿を取るし、神様の働きだけが感じられる状態になります。これも言葉で表現出来ないです。

質問者:
 全然分かりません。(全然表現出来ません)自分を消すとはどういう意味ですか?


 消えないと分かりません。神様だけになります。自分が無くなります。

質問者:
 それを言葉にしたら我即神也、神即我也ですか?


 もう我がないのです。我というのはなくなります。神様だけになります。

質問者:
 無の感覚とも違うのですか?


 無じゃなく、神だけです。神様の存在が余りにも大き過ぎて圧倒されて自分が消えて無くなるのです。

質問者:
 それが神我ですか?


 そうです。追い求める事を止めたら即1つになります。

質問者:
 私は無限に成長して行こうと思います。


 成長しよう言うと未熟な自分を掴んでいるから、飛び込めないです。逆になります。神様から遠ざかって仕舞います。成長しようとするのを止めたら良いのです。神様だけを受け入れるのが良いです。受けるだけが良いです。神様の存在の凄さに圧倒されて自分が消えて仕舞うのが良いです。


 魂
質問者:
 魂が消えるをもう少し詳しく教えて下さい。


 普通、魂は奥の命の一筋がスーっと降りて、そこに色んな想念感情がまとわり付いて魂的な姿をとるのです。その、まとわり付く思いがどういう状態かによって魂が高い低いと言います。でも思いが全部消されて命だけになったら魂のレベルは消えるのです。光だけだから命だけだから無いのです。感謝行をし始めたら、みんなそこまで直ぐに行きます。そのうち命の自分がどんどん大きく広がって行くのです。そのうち命の自分の感覚も消えて神様だけを受け入れるようになります。神様が無限に無限に輝いた姿を何時もズーっととり続けて、それを無限に無限に与え続けて来るから、もう受けるのだけで精一杯です。受けきれないです。そしたら神様しかない感覚に入って仕舞います。全て神様です。神様以外何も無い状態になります。

質問者:
 ありがとうおじさんは器が大きいから、神様の光がどんと大きく入ってくるのですか?


 もう器がないのです。器があったら困るのです。神様の光を受け取るだけです。今の一瞬受けたらここに神様が輝いているだけです。受けなかったら何もないのです。ブラックホールの闇です。受けた時だけが神様が輝いてる姿をとって感じさせてくれるだけです。それで「ありがとうございます」がズーっと続くのです。


 深いお祈り
質問者:
 先ほどのお祈りの時間に心の中で「ありがとうございます」の言葉を繰り返していました。途中から唱えるのを止め聞くような感じで、自分の心の奥で「ありがとうございます」が鳴り響いていました。


 そうです。本当は神様のお祈りを受けるのがより深いお祈りです。最初に「ありがとうございます」唱えるのは呼び水みたいなもんです。引っ張り出してるのです。そのうち奥から湧き上がる感謝に置き換えられます。感謝もお祈りも全部神様から受けるだけです。祈り言葉を受けるだけじゃなく、全体を受けるような感覚です。全てという感じです。


 世界平和
質問者:
 世界平和の為の具体的な実践方法はありますか?


 現実の低い番組を掴んで、戦争状態を掴んで平和にしようとしても永遠に不可能です。番組置き換えないと無理です。日本だけが立派で世界がまだ未熟なんで日本がリーダーシップをとって変えて行くのも低い番組です。これも永遠に変わりません。同じ番組が続きます。本当の日本人が世界を平和にしよう思ったら既に世界は平和なんだと言ってその番組を引き出さないと駄目です。外国が全て輝いて平和なんだ、日本以上に輝いてるぐらいの見方で謙虚に受け入れないといけないです。それは無限の無限のチャンネルの中の高い方にあります。その番組を順番に、より高いものを引き降ろして来ると具体的にパッと出て来ます。その感謝行がどれだけ出来るかによる訳です。神様からどれだけ高い番組を受け取れるかなのです。受け取ったらスッと出て来ます。日本人が現実を掴んでるようだったら全然世界を変えられません。絶対に変わりません。だから武器持って平和を守るんだと言っても、そんなの無理です。武器のある世界は絶対に平和になりません。神様の力だけで平和を守り通して貰わないといけないです。

質問者:
 そこに日本の使命はないのですか?


 日本だけの使命はないです。1人1人の問題です。

質問者:
 神国日本と言われています。


 そういうふうに言うと外国を下に見ています。日本だけが神の国だったら他の国は神の国ではなくなります。これは物凄い差別の言葉です。外国から反発されて当然です。日本は1番下で外国はもっと立派なんだと言うと良いです。世界が神の国でないと駄目です。そういうふうに言えばみんなが日本の国を大事に守り通してくれます。自分の国だけが最高で良いんだは大きな間違いです。ほんと傲慢です。

質問者:
 誰かがリーダーシップをとって、その情報を発信するべきだと思います。


 それは逆なんです。リーダーシップとって人が動かそう思っても人が全然動かんのです。謙虚に神様のお陰と受けてる人、感謝してる人は、その人が何もせんでも神様が全体を動かすからどんどん良いものが広がります。

質問者:
 サイバーネットワークをされてるYさんは事業を立ち上げてインターネットで世界に情報を発信しています。それはリーダーシップだと思います。


 逆なんです。リーダーシップとって人が動かそう思っても人が全然動かんのです。謙虚に神様のお陰と受けてる人、感謝してる人は、その人が何もせんでも神様が全体を動かすからどんどん良いものが広がります。

質問者:
 Yさんは実際してると思います。


 何もしてない。してない。してない。「ありがとうございます」で受けてるだけです。

質問者:
 物凄い行動を起こしてます。


 いや。いや。神様が動いてるだけです。

質問者:
 どうですか?Yさん。(Y:自分では動いてないです)そうでしょ。


 自分では動いてない感覚です。神様が動いてる感じです。自分の予測を越えて良いものがどんどん広がります。自分の行いだけで絶対に良くなりません。

質問者:
 自分の意思で動いてないのですか?

Y:
 はい。自分の計画もないし、意思もないし、何もないです。ただ毎日感謝してるだけです。


 感謝してるだけで神様が全てを動かすのです。

質問者:
 企画したのではないのですか?(Y:してないです。)


 してないです。自然に神様が必要なものを降ろして来てるだけです。それも色んな良い人集めては、その人を使って降ろして来てるだけです。これがどんどん大きく広がるのも神様がする事です。

質問者:
 リーダーは要らないのですか?


 要らない。神様がリーダーです。自分がリーダーと言ったら、リーダー争いになります。権力争いで戦いになります。神様だけがリーダーだったら全体が助け合いの調和した姿をとります。
だから私達は全然対抗心を持ってないです。神様のお陰を頂くだけで、感謝して受けるだけで良いのです。1番楽な方法を選んでます。

質問者:
 めちゃ、楽です。私は絶えずプレッシャーがあります。ちっちゃい時から絶えずリーダーシップをとっていかなあかんと、ズーっとお山の大将でやって来ました。それも必要ないのですか?(それしない方が良くなります)でも結構感謝されます。


 「ありがとうございます」と神様に感謝してたらもっと良くなります。もっと感謝されます。


 目標
質問者:
 目標は持たなくて良いのですか?(うん)感謝してたら自然と導かれて行くのですか?


 人の目標は余りにも小さ過ぎます。浅過ぎます。低いです。本当の神様の目標に合わせて貰うのが良いです。神様の目標が1番大きくて高いです。


 こうしたい
質問者:
 自分がしたいと神様がさせたいの違いは?


 したいは一旦消して貰う方が良いです。したいを消して貰って神様の心がスッと移ってくると自然に良い結果だけが順番に出て来ます。今の一瞬一瞬喜び続けるのが良いです。「こうしたい」と言うと未来を時間的に延ばして掴んで仕舞います。過去を掴むと同じ事になります。一瞬を捉えるのが1番良いです。一瞬捉えて一瞬で直ぐに離すのが良いです。掴んだ途端に縛られて仕舞うので不自由になって来ます。神様の方は一瞬一瞬新しく置き換えて与えて来ます。それを受け続けるのが良いです。自由自在に全然、縛られてない状態になります。

質問者:
 神様に全てお任せするという事ですか?


 そうです。それが1番楽に良いものをどんどん受けて行けます。「ありがとうございます」を唱え続けてると助け続けて貰えます。


 使命・天命
質問者:
 生まれてくる前に使命・天命は決められていると聞いたことがあります。でも「ありがとうございます」を唱えていると、それを越える使命・天命が自然と出来るようになりますか?


 自分が決めるのは小さいです。まだ間違っているかも知れません。神様の立場に立たないと、全体の立場に立たないと本当に必要な役割は分からないです。神様にお任せが1番良いです。神様に動かして頂いて、必要な力・知恵も全部与えて貰って、自分の個性を発揮させて貰ったら天命が出て来ます。1番楽で1番早いのです。神様の方は今の一瞬1番必要な事をさせ続けようとします。一瞬一瞬大きく変化します。人間の方は1回決めたらズーっと惰性で動いて仕舞います。その間の時間のロスは大きいです。一瞬一瞬変化するぐらいの大きい働きにして貰えます。やっぱりお任せです。


 仕事の選び方
質問者:
 仕事選びのコツを教えて下さい。


 1番良いのが自分の思いや願いを出さない事です。思い通りするのは自分を縛るし回りの人も縛って仕舞います。それが溜まってくると体壊したり、気持ちもイライラしたりおかしくなり易いです。それ全部神様に消して貰って神様の方から必要な所へスッと置いて貰って必要な事をさして貰うのが1番理想です。みんな神様のお手伝いという形になると良いです。楽です。それは「ありがとうございます」と唱えてるだけで必ずそういうふうにしてくれるから、必ず必要な仕事を、自分のしたい仕事じゃなく、必要な仕事がすっと目の前に出て来ます。神様が必要とする仕事をさして貰うと神様が自分の中に降りて来てくれるから神様が力を振るってくれます。そして自分を輝かせてくれます。それが1番自分にとって得なんです。自分で思い出して願い出して動かん方が良いです。「ありがとうございます」だけで待ってたら勝手に動き出します。神様が動かしてくれます。これからは1番楽な生き方が良いです。

質問者:
 やろうと思っても今までのように体がついて来ません。


 それはまだまだ過去を掴んでいます。神様が入って力振ったら人の持てんもんでも持てます。神様が力添えて来たら何でも出来ます。それは「ありがとうございます」で神様だけを相手にしてたら、スッと必要な力を添えてくれます。過去は思わない方が良いです。過去を思うと自己限定が出て来ます。


 世界維新
質問者:
 世界維新の根本は個人維新だと思います。


 根本は1人1人が高い番組、完成された世界を一瞬一瞬新たに新たに受け直す意味です。世界の受け直し、これが世界維新です。今までは過去の古い低い番組にしがみ付いて離してないのです。受け直しも全然してないです。古い番組にしがみ付いてるだけです。どんどん番組を下げて行くくらいしか出来ません。神様から新しいのを受け直せば良いです。良いものをどんどん受け直すだけが良いです。それも世界規模で受け直すのです。大きく世界全体を新たに新たに受け直す気持ちになると番組全体がガラッと変わります。今までは小さく受け直しています。周りの狭い範囲を受け直そうとしていました。今は世界全体を一瞬一瞬新たに受け直す気持ちが大事です。大きく受け直すのです。これは世界維新になります。そしたら世界全体が良いものに置き換わります。みんな1人1人良い番組を引っ張り出せば、全体から見て良い番組ばっかしになります。それで世界全体も良くなります。1人だけ良い番組引っ張り出しても他の人が低い番組だったら相殺されて、良いのもあるけど、悪いものもある状態になります。良い番組だけを引っ張り出す人が増えれば良いのです。そんな人が増えれば大きく全体を変えて仕舞います。これからは世界規模で大きく受け直すのが良いです。だから地球全体が自分の番組ぐらいに見て、その全体を置き換えて貰う受け直しです。

 お釈迦様
質問者:
 その事と、お釈迦さんが言われた天上天下唯我独尊と関係ありますか?


 天上天下唯我独尊と言ったら、もう無限の無限のチャンネルを越えて、その外に居てる自分を言うのです。番組の中に入ってないです。全ての番組を越えて、その番組を楽しんでいる自分です。自由自在な本当に神様と一体の自覚の自分です。早くみんな、そこに行けば自由になります。唯我独尊は自分しかいない意味です。自分しかないは神様しかない意味です。本当は我は要らないのです。神なる我、神様だけが存在する意味の唯我独尊です。

質問者:
 お釈迦様が悟られた時に全ては仏性の現れと言いました。


 周り全部全てが仏様で無限に無限に輝いた姿をとっていて、石ころ1個も、原子1個も、ありとあらゆるもの全部、輝いて見えた時が悟りです。それは神様だけが無限に無限に輝いている感覚です。

 祖国
質問者:
 祖国とは?


 捉え方は、みんな無限の無限のチャンネルがあったら番組ごとに全部違います。本当の祖国は神様だけです。過去を掴んで祖国と言うのも正しいか分かりません。人間には輪廻転生があって何所の国に生まれてるか想像もつかないぐらい色んな所に生まれ変わっています。1つの家系に生まれてないです。それを無理やり繋ごうとするだけです。

 お墓なんか要らん
質問者:
 おじさんのご両親のお墓はあるのですか?


 私はお墓は作りません。仏壇も作ってないです。そんな物要らないです。

質問者:
 遺骨は如何したのですか?


 まだ母は和歌山にいます。まだ元気です。父は亡くなって、役場で焼いて貰って山の畑にまいて仕舞いました。それがまた願いだったんです。花咲かじいさんです。「お墓なんか要らん」って言ってました。

質問者:
 巷の宗教団体で「あなたの家庭は病気が多くて災難続きなのは、先祖の供養がちゃんと出来てない」と言うパターンが多いです。「お墓があっても方位が悪かったり、仏壇があっても様式が違うから、それじゃ先祖が浮かばれない」とか言われます。低い番組にはそういうのがあるのですか?


 あります。その使われている言葉通りの番組があります。その使っている言葉が低いから、マイナスが多いから、そういう番組にはまり込んだらマイナスが多くなります。私はお墓も仏壇も何もなくても幸せ一杯です。でもお墓ちゃんとした人でも幸せかどうか分かりません。逆に悪い状態になった人も大勢います。大体、お墓で幸せになろうとするのがマイナスの心です。お墓のせいにする事じたい間違いです。それで良いお墓作ったから幸せになれるもんじゃないです。先ずマイナスを掴み過ぎています。幸せな人はお墓を作っても作らなくても幸せです。そんなんに囚われない方が良いです。

質問者:
 ありがとうございますのお父さんのお葬式をしたのですか?


 しなかったです。お葬式しなかったです。誰も呼ばなかったです。身内だけ家族だけちょっと集まりました。

質問者:
 お坊さんも呼ばなかったのですか?


 私が居るじゃない。「ありがとうございます」と感謝するだけで良いじゃない。「ありがとうございます」と感謝して送り出すだけです。

 みんな既に悟っている
質問者:
 先生は悟っているのですか?


 私は何にもないのです。何もないから必要に応じて神様が使ってくれるだけです。神様が必要な時に必要な助けをスッと与えてくれます。今の私の使って貰っている役目は、過去の教えの縛りを消す役目だと思います。みんな教えに縛られているから神様が使ってくれてると思います。
 私の感覚はみんな悟ってるです。既に悟ってるから直ぐなんです。「ありがとうございます」で受け入れたら直ぐなんです。みんな拒絶して来ただけなんです。マイナスの演技をお芝居としてして来ただけです。素直に地で行けば直ぐです。地を現すのは簡単なんです。良い役は簡単なんです。そのまま地で生きれば良いのです。でもマイナスの演技は演技力が要るのです。
 「ありがとうございます」と言った時はもう悟っています。神様が降りて悟りの姿を現しているのです。表現が自由自在に色んな役割として色んな姿をとってくれます。だから1人1人同じ姿とらんで良いです。だから元々みんな悟ってると見た方が良いです。石ころもじっとして動かんけど悟っているのです。人間は自分と主張し過ぎます。

質問者:
 「ありがとうございます」と言ってる時は一瞬一瞬悟ってると考えて良いのですか?


 そうです。神様が降りて働いていることが輝いて悟ってる姿をとるのです。何も心配ないです。

質問者:
 ありがとうございますは何歳の時に悟られたのですか?


 私には過去がないのです。過去を忘れて仕舞ったのです。

 チャンネル

質問者:
 生きてる親とかおばあちゃんとかを大事にしないと今度自分の子供の代がぐれて来ると言う人が居ます。それもチャンネルが低いのでしょうか?


 そうです。その言葉通りのチャンネルを引き出します。何しても大丈夫が良いです。

質問者:
 ありがとうございますはお祈り以外したら駄目と言われてるそうですが、みんなの為に時間を割いてくれてるのは、ありがとうございますの自由意思なんでしょうか?また別の意思が働いているのでしょうか?


 これもチャンネルごとに対応の仕方が全部違います。私の意思がないから神様の意思が働きます。必要に応じて必要な事をさしてくれるだけです。

質問者:
 お祈りだけのチャンネルもあって、お祈りだけされてるおじさんも居て、時間を割いてくれてるチャンネルもあるという事ですか?


 それも自由自在に番組ごとに対応してくれます。お祈りだけしてる私がちゃんと居ます。みんな本当はそうなんです。気付けば良いだけです。人は気付きの連続で気付いた分、幸せになります。

 物質化現象

質問者:
 人間は長い進化の歴史があってミミズがパクッと食われたら今の自分がいないかも知れないと思います。だから人間1人1人に使命があると思います。「ありがとうございます」と感謝してるとそれに気付きますか?


 下からの積み上げじゃないです。全部、天からの物質化現象です。神様の物質化現象です。だから過去は関係ないです。神様は自由自在に今必要な事をスッと現して来ます。

質問者:
 ミミズがパクッと食われたら僕と言う存在はないと思います。


 違う違う。そんなん連続してないです。人間は人間として物質化して出て来ます。動物、猿から進化してないのです。猿は猿で物質化して出て来るし、人間は人間で物質化して出て来ます。全部物質化現象で出て来るのです。思いの方は過去を掴んでるから過去を繋ごうとします。単細胞生物から順番に高等になって来ていると繋いで見ようとします。これは思いの心の習性です。過去を掴む心の習性です。

質問者:
 遺伝子には全部記憶が入っていると思います。


 神様の物質化現象の働きは、そんな遺伝子どころの話じゃないです。その無限億万倍複雑なんです。最初の原子1個すら全部、形・顔が違うんです。原子のレベルでそうですから、もっともっと細かい素粒子でもっともっと違います。1個の原子の中身が全部違うのです。同じ水素原子1個取っても全部違うのです。

質問者:
 それが個性となって出て来るのですか?(そうです。)過去の記憶を引きずって‥‥。


 過去の記憶じゃないです。神様の中の絶対から生まれて来ないとそこまで区別が付きません。

質問者:
 元の原子が同じならみんな同じものが生まれると思います。


 ならない、ならない。神様の1番もと絶対は「無限の無限の更に無限の無限の」と、これが無限に続きます。そこが絶対です。同じもの何1つないのです。最初の組み合わせる要素1つ1つが全部違うのです。それが無限に無限に無限に無限に何所までもあるのです。違うもんを出して組み合わせて来ます。だから組み合わせて大きくなって来たもんは全部違います。そうじゃないと神様は同じものを創って仕舞う可能性があります。

質問者:
 両親の遺伝子によって自分の個性が決まるのではないのですか?


 それは思いの人間が見る見方です。それは過去を掴んだ見方です。神様の心で感謝の心で見る見方とは正反対です。思いで見る人は人間って同じように見えます。猿の顔なんか見たら大体同じように見えます。

質問者:
 現実で話すのが大事だと思います。


 感謝で見る人の現実はみんな神様の輝いた姿に見えます。輝いてるのが現実です。1つ1つ全部違うのが現実です。本当は同じもん何もないのが現実です。感謝の心で見るか思いの心で見るかの違いです。

質問者:
 私は両親に「産んでくれてありがとう」と言っています。


 それは感謝じゃないです。まだ思いの方です。思いのレベルでちょっと「ありがとうございます」を加えているだけです。感謝は神様を直接見るのです。神様の働きを具体的に系統だって見て行って現実を見て行くのです。過去を引きずった姿とは違います。今の一瞬新たに出て来ています。一瞬一瞬出て来ているのが今の現実になっています。

質問者:
 人間は何故、過去の遺伝子の記憶によって苦しむのですか?


 思いが苦しむのです。過去を掴む思いが苦しむ姿をとってるだけで感謝の心には一切苦しみがないのです。

質問者:
 人間は業とかカルマによって苦しんでると思います。


 それは全部思いの世界の話です。思いの世界ではカルマも業もあります。潜在意識もある顕在意識もある感じです。でも感謝の世界はそれが全部ないのです。一瞬一瞬新たに出て来るだけの姿を受けるだけの世界だから、それがないのです。

質問者:
 顕在意識、潜在意識で言ったら、それのある位置は何所ですか?


 全然見方がガラッと正反対に変わります。思いと感謝では見方が正反対です。全て正反対に見えます。感謝は全部神様からの物質化現象として受けます。思いは過去の連続として見ます。だから正反対に見ます。感謝し続けて感謝の心引っ張り出して貰った時にそれがスッと分かります。だから「ありがとうございます」言い続けるのが良いです。神様の心がスーっと入って来てその時に気付きが増えて、スッと分かるようになります。だから本物にならないと本物と偽物の区別が付きません。思いの世界にいる限り本物を知らないから、絶対思いの世界が正しいと思います。感謝がある程度深まって神様の心が分かって来たら本物と偽物の世界の区別がつきます。これが本物の世界と気付いたら偽物を消せます。だから理屈の世界じゃないです。感謝の世界は気付きの世界だから、「ありがとうございます」で気付かせて貰うのが良いです。

質問者:
 そのぐらいになるには、どのくらいの時間がかかるのですか?


 本当は時間はかからないのです。時間を越えるから本当は一瞬です。感謝は過去・現在・未来全部に働きます。過去から働いたら早いです。一瞬に悟るかも知れません。

質問者:
 その悟りを掴みたくて色々やるんですが、中々悟れなくて、みんな苦しんでると思います。悟る為のテクニックを教えて下さい。


 思いの自分はテクニックを駆使しようと思います。感謝の心は、それ全部捨てるのです。お任せになるから「ありがとうございます」だけになります。そしたら神様が力を振えるから、過去・現在・未来を同時に清めてサッと一瞬に気付きを与えて来ます。サッと気付くだけです。今でも色んな気付きがあります。その気付きが大きく出て来ます。

質問者:
 赤ちゃんが子供から大人になってるように見えます。でも本当は一瞬一瞬の物質化現象の連続で成長してるのですか?


 そうです。一瞬で赤ん坊が大人になったり、大人が一瞬で赤ん坊になったら、みんなビックリします。でも本当はそうなんです。本当はそうなんだけど、それを今はしないだけです。みんなをビックリさせるからです。でも高い番組の世界はそれを自由自在にします。自分の体を自由自在に変身させるから、ある時はひげをはやしたおじいちゃんになったり、ある時は赤ん坊の姿になったりします。自由自在に出来ます。高い番組はそうです。だから物質化現象しかないです。

質問者:
 一瞬一瞬の置き換えだから、骨折しても直ぐに治ったり、ありがとうございますを建てようと思ったら直ぐに建ったりするのですか?


 先に結果がスッと降りるから途中の経過は余り問題じゃないのです。

 5つの神様の働き

質問者:
 太陽の光には5つの神様、絶対神・統一神・創造神・自在神・限定神が含まれてると思います。太陽の形を借りて宇宙創造と全ての神様のエネルギーを与えているのですか?


 そうです。だから大きいの小さいのみんな縮図的に小さいだけです。みんな全部あるのです。模型的に小さくあるだけで全部備わっています。

質問者:
 それは偶々、太陽のエネルギーが見易いから見せて頂いているだけで、(そうです)他の所からもエネルギーが来ているのですか?


 そうです。例えば石ころ1個あったら、そこから全部あるはずです。

質問者:
 ただ気付きのレベルがそこに達してないだけですか?


 そうです。だから人間の体も同じだと思います。体からも同じ働きが全部出ます。

質問者:
 全ての細胞から5つの神様の働きのエネルギーが出ているのですか?


そうです。そうじゃなかったら、部分は大したことないのです。どの部分も無限に無限に輝いてるのが本当の姿です。無限の無限の輝きは神様の働き全部を中に持っている意味で、凄いです。

 宇宙の縮図

質問者:
 細胞とか遺伝子は宇宙の縮図と聞いたことがあります。正しいのでしょうか?


 そうです。みんな大宇宙の縮図と見た方が良いです。

 集中力

質問者:
 私はゴルフが好きです。集中力を高める方法はありますか?


 武道は1点集中の力が出ます。それと同時に全体に気を配ります。1対1だと1点集中です。大勢を相手にする時は周りに気を配らないと出来ないです。全体を見る訓練です。短い時間で練習出来ます。どんな仕事でも、それを応用出来ます。仲間と仕事してる時でも、いつも全体に気を配りながら自分の仕事一生懸命出来るのが1番最高の働きをします。1点集中は一生懸命そこに気持ちを込めないとあかんです。全精神を集中するような感じです。それだけに囚われると周りがおろそかになります。同時に全体に気を配る必要があります。これも「ありがとうございます」で両方させて貰うのです。神様の意識は両方出来ます。1点に集中しながら全体に気を配れます。「ありがとうございます」唱えてると自然に必要に応じてスッとなります。人間の力だけだとどちらかに片寄ります。ゴルフしながら「ありがとうございます」を唱えましょう。

 感謝の謝

質問者:
 感謝の謝は「言偏に射る」と書きます。言葉に照準を合わせて感じる事だと思います。


 感謝の謝の言偏は言霊・神様の命の働きと見て良いです。太陽が光を放射するような感じで見て良いです。「無限の無限の輝きが一杯」というふうに謝を捉えたら良いです。感じ取る・受け取ると見て、感謝は神様を感じ取る・受け取るのが良いです。

 目立つとは?

質問者:
 かみさまなるべく目立ちたくないと思っています。でも自分は目立ちたいと思っています。本当はどっちの方が良いのですか?


 自分が目立とうとすると神様が引っ込んで仕舞うから輝きが消えて仕舞います。だから世界を明るく輝かしたい時は自分が無くなって目立たない方が神様が出て来てくれて輝いてくれるから世界が明るく輝くのです。

質問者:
 その人が光輝くという事は、その人が目立って輝いて、周りが明るく楽しくなる事だと思います。


 これは逆なんです。神様は無限に無限に謙虚だから人間が目立とうとした時には出て来てくれないのです。そうするとなんぼ自分で輝かそうと思っても何も出来なくなります。やっぱり神様が出て来てくれないと何も出来ないから、自分が目立たないように謙虚に謙虚に置いて自分を隠して仕舞うと神様が飛び出して来てくれます。神様が目立ってくれたら良いのです。神様の方が個性豊かな姿で目立ってくれます。人間の個性じゃなく、神様の個性が出て来ます。その時その時、必要な場へ必要な姿を取って出て来てくれるのが1番良いです。だから人間の姿は消える方が良いのです。

質問者:
 でも、かみさまの存在は今、めちゃめちゃ目立ってます。


 私目立ったら困るから、神様が目立ってくれるだけが良いです。神様が目立つのです。私が目立っても人は集まりません。神様が目立ってるから、みんなが集まって来るだけです。そして私は口をパクパク動かされているだけです。神様が何か喋るのです。

質問者:
 でも  あなたはめちゃめちゃ目立って情報が流れたから、大勢の人が来てると思います。


 私がありがとうおじさんと名前を使って目立とうとしたら誰も寄って来ません。直ぐにみんな反発して毛嫌いして、「あんなん偽者や」と言って絶対近寄って来ません。神様が目立ってるだけです。

質問者B:
 人間は灯台みたいなもので、光が人間か神様の違いと思います。


 光は神様だけです。灯台は光が無かったら目立ちません。光消したら目立ちません。灯台が目立とうとしても無理です。

 脳

質問者:
 お祈りする時に左脳と右脳のバランスに気を付けた方が良いのですか?


 右脳・左脳も必要あってあります。必要あってあるから必要に応じて使い別けたら良いだけです。余り囚われるとちょっと困ります。思いの自分がこの肉体を使いこなそうとすると、ちょっと無理です。神様に使いこなして貰うのが良いです。神様は全身を必要に応じて自由自在に使いこなしてくれます。必要に応じてちゃんと使います。それが1番バランスが取れて良い使い方をしてくれます。だから自分で使いこなそうと思わんで良いです。左脳より右脳を使った方が良いと言っても実際使い切れるかどうか分かりません。1番自然にバランス取ってちゃんと正しく使いこなしてくれるのは神様だけだから「ありがとうございます」と感謝してたら1番良いように使ってくれます。
 人間が心臓を上手に使いこなそうと思って、どういうふに動かそうかと考えても無駄です。全身の細胞全部同じなんです。自分の力で使いこなせないです。

 どう伝えたら良いですか?

質問者:
 友人の子供さんが学校に通ってなくて、苦しんでいます。ありがとうおじさんや「ありがとうございます」の事を伝えたいのですが、要らんお世話かなとも思います。どうなんでしょうか?


 これも自然が1番良いです。人間って比較して優劣決めて、どっちが良い悪いと言います。悪い方責める心があります。これが自分を苦しめています。全ての存在が神様にとって必要なんです。だからみんな平等の価値があります。誰にでも全てに無限の絶対価値があります。この世に子供さんが産まれて来て、この産まれて来てくれただけで有り難いと思ったら無限の絶対価値があります。何も出来なくても良いのです。存在するだけで有り難いと思えたら良いのです。それが五体満足じゃなくても良いのです。生きてるだけで有り難いと思えたら、凄い幸せなんです。それでまた五体満足であり、色々な事をさせて貰っている姿をとってくれたらまたまた有り難いになります。お人形みたいに動けなくても有り難いのです。それが動き出してくれるのです。1つ1つの動きが有り難い有り難いの連続である筈です。人と比較してこうでなかったら駄目と優劣を決めるから、1つ1つの仕草が幸せを与えてくれる材料です。1つ1つ喜べば無限の幸せで一杯の筈なんです。感謝の心はそう受け取って行きます。思いの方は過去を掴んで比較して自分を雁字搦めに縛って苦しむのです。思いから感謝に切り換えるとプラスが一杯発見出来て気付きが増えて幸せな自分になります。

質問者:
 それは伝えて良いのですか?


 それも自然が良いです。自然に必要だと伝わります。無理にと言うとまた反発されます。

 外出すると娘が寂しがります

質問者:
 私には中学生になる娘がいます。最近、外に出て家を空けることが多くなって来ました。そうすると娘が寂しがります。


 先ず、自分の心の状態を思いから感謝へ切り換えて行くと良いです。思いの方は自分の思い通り願い通りして欲しいというのが先に立ちます。求める心が先に出てるから他から求められます。こうして欲しい、ああして欲しいと求められます。感謝の心は、みんな神様の現れと見て、自分に必要な姿を必ずとってくれます。神様の方が自分に合わせてくれます。必要なものをズーっと的確に与え続けてくれるから、自分に誰も求めないのです。だから自由になります。縛られなくなります。

質問者:
 感謝の気持ちを持って行動したら良いのですか?


 行動より先に感謝をズーっと徹底するのです。そうすると子供さんは自分を助けるだけの姿で出て来てくれます。子供さんに合わすのじゃなしに、周り全部自分に合わせてくれるようになります。感謝だけして行けば神様の方から必要な姿を与え続けます。そしたら楽になって来ます。

 自然体

質問者:
 川の流れに逆らって泳ぐ方が力が付きます。自然体というのは、その流れにそのままのってズーっと行くことですか?


 いや、いや。本当の意味の自然体は、例えばライオンやトラがいます。物凄い力があります。小さい時から力の付くような動きを自然にとっています。役割として逞しい姿をとるようになっています。だからそれが自然なんです。ウサギだったら別に鍛えぬかんです。強くなりません。でもそのような姿の動きをとり続けます。それも自然です。泳いで力つけるのは、限界があります。ウサギがなんぼ鍛えぬいても強くなりません。役割が違います。ハチドリは1秒間に瞬きを60回から70回します。カラスがなんぼ鍛えても出来ません。

質問者:
 人間は感謝だけしてたら、何も鍛えなくて良いのですか?


 役割に応じて自然な姿をとって、鍛える人は鍛えます。スポーツ選手もそうです。スポーツの種類ごとに鍛え方が違います。役割としての鍛え方があります。その人にとったら、それが自然です。水泳選手になる為に逆流を泳いで鍛えてたらオリンピックで優勝するぐらいになるかも知れないです。水泳選手で逆流を泳いで訓練する人はそれが楽しいのです。それが1番自然で楽なんです。逆に止めたら苦しいのです。

質問者:
 あなたが100日間食事を断ったのも楽しかったのですか?


 楽しかったのです。食べる時間使わんで良かったです。物凄く楽しかったです。自然なんです。

質問者:
 思いのままに生きたら良いのですか?


 いえ。感謝のままが良いのです。

質問者:
 感謝しつつ自分の思い通り生きたら良いのですか?


 思いは必要ないです。感謝してたら自然に良いようになって来ます。思いを出すとちょっと崩れて来ます。感謝だけが良いです。感謝だけだと自然になります。大きい意味の自然になります。感謝してると大きい意味の行動に自然になって来ます。

質問者:
 感謝し続けて直感で生きたら良いのですか?


 そうです。それが1番です。

 はしご酒

質問者:
 はしご酒をして、なんぼ飲んでも酔わない時は酒場の霊が飲んでいるそうですが、理屈がよく分かりません。教えて下さい。


 この世でも何か食べてると思います。本当は食べられないのです。理屈で考えたら良いのです。禅宗の話でも、こういう考案があります。ある修行僧がお婆さんに出会って「大福をあげる」と言われます。「いつ食べるんだ」と言って追いかけられます。「いつ食べるんだ」「答えよ」と言う訳です。過去は過ぎ去っているから食べられません。未来は来てないから食べられません。今を無限億万分の1秒に絞り込んでも過去は過去、未来は未来です。無限億万分の1秒で食べられるかと考えても食べられません。不可能です。絶対食べられません。その大福を口に運ぶのでも、ウサギと亀の追いかける話を考えたら良いです。ウサギが早くて亀は遅いと考えます。先ずウサギが亀の居る所まで追い付こうと思います。その間にちょっとは時間がかかります。その間に亀は必ず前に出ます。次また追い付きます。必ずちょっとは時間がかかります。また亀は前に出ます。何所まで行っても必ず時間がかかるから、追い付けないのです。だから大福をここへ運べるかと言っても運べません。持ってこようと思っても中々、空間的に無理なんです。
 今の科学でも全部波動と見ると波動のすれ違いが起こります。原子の段階で原子核の回りを電子が飛んでいます。ピンポン玉を原子核にすると電子は2、3キロ先を回っています。原子同士がぶつかり合った時に絶対に当らんのです。必ず、すれ違います。電子同士当らんし、原子核同士当らんです。空間ばっかりだからすれ違って、たぶん物を持って来て口に入れてもすれ違って消えて仕舞います。何で食べてるのかと言うと、これも映画の24コマのフイルムを連続してズーっとすると繋がって見えます。今食べてない状態、今食べ終わった状態、これ連続させると丁度上手く動いて食べてるように錯覚するのです。

質問者:
 食べた瞬間はないのですか?


 食べた瞬間の画像もあります。食べ終わったのもあります。それを沢山ズーっと連続して映したら食べ始めて食べ終わった姿が出て来ます。でも1枚1枚のフイルム全部違います。繋がってないです。繋がっていると見るのが錯覚なんです。過去の残像を繋ぎ合わせた錯覚です。そういうふうに見たらこの世の姿ぜんぶ繋がってないのを無理に繋げてる感覚です。一瞬一瞬の置き換えを繋げて見てるだけのように見えます。色んな理屈をこねたら、この世は不思議です。物質化現象、置き換えが1番スッキリする見方です。みんな置き換えて貰っています。それも一瞬一瞬無限億万分の1秒ぐらいの速さで置き換えてくれてます。その理屈が全部成り立ちます。神様からの贈り物・プレゼントの形で全部受けて行けたら良いのです。だから結果を受けるのです。最初の出発点を受けたら出発点が続きます。ゴールの結果を受けたらゴールがスッと出て来ます。その間を繋ぐ方法を色々してる訳です。感謝は即、出発からゴールまで同時にスッと受けるのです。だから実現が早いです。「ごちそうさま」と言ったら良いだけです。そしたらもう食べ終わった状態です。これは理屈ですが、神様の方は神様の働き全部、理路整然としています。矛盾がないです。

 泥棒
質問者:
 お金を盗まれたりしても、神様のプレゼントですか?


 神様と見た時は神様は愛の働きだけです。過去に大きい借金があって借金取りに来てくれたのです。その時は利息付けてお礼言って返さなあかんです。或いは自分の方から持って行かんとあかんです。それを手間を省いて取りに来てくれたと思えば良いのです。プラスにプラスに受けて行けたら神様を認めているのです。それは感謝です。

質問者:
 人に裏切られても同じですか?


 そうです。人に裏切られるのは過去に裏切った事があるのです。過去に裏切ったら必ず反動で裏切られた姿取らないと消えないです。それを軽く消して貰うのです。例えば100人裏切ったとします。今度は1人ぐらいから裏切られないと、帳消しになりません。もし裏切られたら自分が過去に裏切った事があったと思って「今消して貰って有り難いなあ」と見ると良いです。神様は絶対裏切りません。やっぱり自分の方から神様を裏切るのです。でも神様は優しいから万分の1で済ますのです。1万回裏切っても1回で帳消しです。そんな感じです。そうすると裏切られた時も有り難いなと思います。「神様ありがとうございます」が良いです。

 一瞬一瞬
質問者:
 一瞬一瞬生きたら、過去はないという事ですか?


 過去を掴んだ番組では、そういうふうに受けると神様を感じ易いです。でも一瞬一瞬新たに受けるのなら過去は関係ないから良いもんばっかし受けたら良いです。番組ごとに受け方が違うから、それを自由自在に使いこなせたら良いのです。

 過去生
質問者:
 ある人に聞いたのですが、私は前世で凄い修行をして来たそうです。それで今生ではエネルギーが漲っているみたいです。お祈りをしている時に過去生の遺伝子がオンになたのか分かりませんが、エネルギーを感じました。そんな事があるのでしょうか?


 それもそういう言葉に縛られたら、そういう世界にはまって、そういう番組を引っ張り出したら、そうです。でも別な言葉があったら別な番組を引っ張り出せます。色んな生まれ変わりが沢山あります。番組ごとに違います。別にお坊さんでなくても良いです。キリスト教の牧師でも良いです。また色んな職業で神様を感じる生き方をとったかも知れません。「それだけしかない」と言うと縛られて仕舞います。だから「無限の選択肢がある」と言うのです。その中の1つとしてそんなのがあったんだなと思って、もしそれからプラスを感じるのならプラスに活きて来ます。マイナスに見るのなら相手にしない方が良いです。


菜食主義者について
質問者B:私たちは菜食主義であるべきか、またそうでないのか? またどんな食べ物を食べたらいいのか教えてください。

ありがとうございます
人は根本は神さまに抱かれているのですね。だから、神さまの命をいただくと気持であれば、何もいただいても本当はいいのですね。動物を殺して食べるという気持であれば、神さまの命をいただくという気持ではないのですね。神さまが動物の姿をとって、命を捧げて、食べていただき、私たちを生かしていただくという愛の姿であれば、感謝していただくというのが正しい。 だから、動物も植物も全部、神さまの命をいただいて生きているのですね。ただ、命を殺すという意味では、植物をとって殺すのも同じことなんですね。ただ、動物は逃げ回るという一面はあるのですけれどね。ただ神さまが生かしてくださるという意味で、命をいただくということだったら、捧げものの命をいただいてもいいのですね。そのかわり、自分はその動物の死を無駄にしなければいいのです。動物が本当の命をまっとうできるという、だから、人が命をいただき、それを糧として、もっと大きな働きをさせてもらったらいいのですね。そうしたら動物も大きく生きるということ。だから菜食主義にあまりこだわらなくていいと思うのですね。
 感謝していただくものは全部神さまの命なのですから。

質問者A:
先生は昔、菜食主義者であったということですが、肉を食べてもいいとなるまで、どのような変化があったのですか?

ありがとうございます
私が小さいときは、食べ物をあまり与えてもらえなかったんです。1日1食くらいですね。それも何もなかったら、粘土でも食べなさいと言われたのですから。冬の寒いときなんかは野菜くずがないとき、生きるために、魚を採りに行ったんです。凍った土の中を掘ってどじょうを採ったりして、いろいろと食べさせてもらったんです。
でも、余裕があったらわざわざ動物食を食べなくてもいいかもしれないですけれどね
私はもう二十歳代からずーと断食ばっかりしてたんです。本当は植物も食べたくないくらいです。一粒丸薬があって生きていけるならそれでよかったんですね。でも、そうはいかないですね。そうして断食して、断食というものはどういうものか勉強させていただいたんですね。だから、ものを食べているという感覚であれば、本当はだめなんですね。神さまの命をいただいていると変わったら、単なる物質を食べているのではなく、断食になるのですね。それがたとえ動物食、肉を食べたとしても、変わらないですね。
 弘法大師が友達の僧侶と歩いていてね、犬の肉を供養されたんですね。空海さんが肉を食べたんですね。はたで見ていたお坊さんが「おまえ、坊主のくせに肉食ったのか?」
ところが弘法大師さんが「私は肉を食べてはいない」と言い切ったのです。やっぱり大したもんだね。神さまの命をいただいたんですね。 そこで、「本当か嘘か?吐き出してみよ」と言うのですね。弘法大師が吐き出したところに、肉はないのですね。「ではおまえ吐き出してみよ」と言ったら、せめた僧侶が吐き出した方から、犬の肉が出てきたんですね。だから、本当に神さまの命を食べていたら、物質を食べていないのですね。やはり受け方が大事だと思うんですね。

質問者A:先生は1日何食で、どのようなメニューを食べるのですか?

ありがとうございます
まあ、なんでも食べていますよね。(笑いながら)まあ人を食って・・何でもいただいていますよね。何でも食べるといっても、そんな食べられないですよね。
−−−質問者A:朝・昼・晩?−−
だから、自然に与えられて、その中を選んでちょっとですね。
質問者A:動物食も毎日食べられるのですね。
ありがとうございます
あまり食べないですね、今は。まあ、果物が一番大好きなんですね。でも、与えられたら、何でも食べますよ。
−−−質問者A:好んで食べないですね−−
私は自分から食べたいと絶対言わない。作って欲しいとも絶対言わない。与えられたら食べる。だから、あれ食べたい、これ食べたいというものがない。
大体の食事の時間になかったら食べない。だいたい昔から忙しかったんですね。その食事する時間も少なかったくらいだから、時間の合間をぬってちょこちょこっと食べていたんですね。今も似ていますね。もし忙しかったら食べない。
お祈りについて

質問者A:普段お祈りの時間は長いのですか?

ありがとうございます
お祈りはいつも、ずーと今も同じです。ただ人と対談しているときは長くなりますね。だから、お祈りだけに徹底した方が深くできますね。

結婚について
質問者A:先生は結婚していらしゃるということですが?

ありがとうございます
独身にみえますか?

質問者A:結婚とはどういうことだと思いますか?

ありがとうございます
結婚もいろいろな考え方があると思うのですけれでね。まあ、魂の磨きあいとか、それはまだ低い次元かもしれないのですけれど、結婚に限らずですが、本当は与え、つくしあいというのがいいでしょうね。人は与え尽くして、幸せを感じるですね。ただ本当の目的は神になるのに、すべてのすべてのなるものに与え尽くすのを最終目標にするのですけれど、その与え尽くす練習ですよね。一人に対して与え尽くして喜ぶ練習やね。だから、一人の人の心をくみとるのは難しいでしょう。その人が本当に何を必要とし、何を本当に願っているのか、くみとる練習をかねて、必要なものを的確に与えつくす練習やね。
質問者A:もし片方が成長して、波動が違ってきて、離婚するというようなことを書いてあって、離婚するのは当然というのを、どう思いますか?
ありがとうございます
段階がいろいろあってね。そういうのもあるでしょうね。
ただ与え尽くすんだったら別に問題ないですよね。

サイババについて

質問者S:インドのサイババさんについてどう感じていますか?

ありがとうございます
やっぱりすばらしい方ですね。ただ、すばらしいといって比較するのはいいことではないと思うのですね。この人はすばらしいというと他の人はだめなんでしょ。
それよりも、人の本当の姿、神さまと一体の姿は無限に無限にすばらしいですね。
この世に出てきている姿は神さまの与えてくれる無限の無限のチャンネルの放送番組の一部なんですね。だから程度がかなり落ちると思うのですね。いろいろな役割のこの姿が出てきても、それ見て比較するのはあまりよいことではないですね。みんなその番組からいいものを学び、楽しんで、幸せを感じるためにやるものですから。だから、一番の本質は無限の無限のすばらしい神そのものなんだという前提において、そのひとがいろいろな役割を演じて、いろんな姿を与えて、一人一人を幸せにしようとしているとうことでいいと思うのですね。

質問者S:それでは先生において、サイババさんはどんな役割を担っていると思いますか?

ありがとうございます
だから、みんな合わすチャンネルが一人一人みんな違うんですね。同じチャンネルに合わしていないのですね。だから、一人一人自分の姿が出てくるのを見て、いろんなプラスのものを見ていると思うのですね。一人一人受け方が違うと思うよ。この世にあってもチャンネルが無限に分かれると思うよ。受け方が違っていいし、違わないと嘘だしね。

質問者S:役割や受け方はそれぞれあっていいと思うのですけれど、例えば、先ほどの菜食については、サイババさんにおいては、何でも食べていいとは限らない。もし、それが体の毒であったら、困るでしょう。体はゴミ箱ではないから、いいものだけを食べるという考え方ですね。そういう考え方についてどう思われますか?

ありがとうございます
神さまの与えてくれる無限の無限のチャンネルの見方と、またこれを全体を一つというテーブルという見方と、これを説明すると全部変わってくる。ただ、無限の無限のチャンネルの中の一つを選んでいるというならば、もう一人一人自由なんですね。ただ選ぶだけなんですね。本人が何を選んでもいいですね。ただ、いい番組を選んだら、理想的な姿があるわけでしょ。菜食でなく、霞を食べて生きていくかもしれないし、それていて、無限健康を与えてもらってね。命輝くという番組があるんでね。どの番組を選ぶかとなると、一人一人自由なんで、低い番組を選んだからといって、その人がだめというわけでもないでね。ただ全体を一つにまとめてみると、いろんな姿があって、この世も選ぶ勉強の場なんで、どういう生き方をしたらいいのか、何を選びたいのかとうう場なんだ。だからいろいろなものを参考にして選んでいくんだ。その意味で、肉食していた人が菜食がいいとなればそれを選んでいくし、そういういろいろな生き方があっていいと思うのですねれど、ただ道元さんの話だと、弟子が肉食をしているのを攻めなかったということがある。なぜかというと、ある因縁があるという見方で、もし、そこで肉食を止めてしまったら、逆に他で殺生するという。そういう場合は肉食をすることで、殺生を軽くするという。だから、それを止めない。そういう一面もある。だから、いろいろな意味合いがあって、はじめてみんな幸せになればいいでね。それが悪いと決めたらだめだと本当に思う。だから、言い悪いを決めるのは「思いの心」で決めるわけ。でも感謝というのは全部そのままプラスに向けていく。すべて神さまのいろいろな無限の段階の表現というふうに、プラス、プラスに受けていくのが感謝で生きる生き方ですね。その思いが自分に合わないと、プラスにしたりマイナスにしたりしてしまう。やっぱり「思い」は「とらわれ」がおこると思う。
だから本当はすべてを光一元に拝みあげて、小さいプラスから、その奥の無限無限に輝いた最高の本体があるという 拝みあげる生き方が感謝の生き方なんです。
だからどの番組もすばらしいというふうになっていくんです。それをごっちゃにしてしまうと、とらわれがちになると思う。言い悪いを決めてしまうと、分別知が起こってしまいますから。すべてがプラスに見える方がいいですよね。何もかもすべてが無限の価値があるというのがいいですね。何をみても幸せになれるんです。

地球村の高木さんの生き方について
質問者S:地球村の高木さんの生き方について、ありがとうございますにはどんなふうに見えますか?
ありがとうございます
そうですね、一人一人の心がプラスプラスに向いて来たら、そのプラスの番組にあっていくんですね。そういう過程ではいろいろと移り変わりがあるのですね。マイナスを消す働きや、これから起こるかもしれないマイナスのこともプラスに変わるかもしれないこと。そういういろんな変化があってプラスの番組ができる。

質問者S:占いなどで、世紀末がくるぞ、とかいう人たちについてどう思いますか?
ありがとうございます
予言というのは何のために予言するかと、マイナスなことを断定的に言うだけだったら、、予言しない方がいいですね。人の心を暗くするだけですから。ただ、それをプラスに置き換えるための助言だったら、予言も生きてくる。マイナスをつかんでとらわれるのではなく、プラスに置き換えるならいいのです。マイナスを取り組んで、マイマスを変えることは本当はできないはずなんです。番組としては決まっているのですから。だから、自分の心をプラスに向けて、言葉をプラスに使って、明るいプラスの番組に波長を合わせていけばいいのです。そうすると、置き換わってくるのです。


池田小学校の事件について、
質問者S:今問題となっている、池田小学校の事件に対して、どうプラス思考したらいいのでしょうか?
ありがとうございます
要はみんながより幸せになればいいのでしょう。犯人も、被害者も、それにはどうしたらいいか。その方法はいっぱいあると思うけれど。私はもう一番いいのは無限の無限の輝きいっぱいという奥の本質を拝み合うのがいいと思う。低い番組合わせた心を高い番組に合わせるようになれば、・・
質問者A:その合わせ方は?
ありがとうございます:合わせ方? それは感謝行です。
犯人も、攻められたら、心暗くして、低い地獄に堕ちるかもしれない。

質問者 S: もし、ありがとうございますの娘さんが、同じように殺されたとしたら、どう父親として考えたらいいのでしょうか?
ありがとうございます
それはいろんな見方ができるでしょうね。ただ私の場合は自分の子供はいても、持ってないから。自分のものは何も持ってないから。そういう意味では別に何もない。ただ、仮に自分の娘と感じた時は、本当は地獄に堕ちるのをこんなに軽くしてもらったとか、
過去世の因縁もこれで消してもらったとか、誰かの身代わりに、人助けをしたとか、そういうプラスの見方をいっぱいできる。
 そういう全体だと、マイナスはいない。犯人の方も、人類の罪を背負って、マイナスを演じて、大きな世界戦争の原因を消してくださっただという見方もできる。ですから、絶対人を攻めたりしない。まだいろいろな見方ができるし、まだいっぱい出てくるとと思うけど、その時プラスプラスと見て、みんなが幸せになれればいいと思う。
もし、不治の病に犯されたら
質問者 A:自分が癌となって、不治の病に犯されたら、どんな思いにしたらいいでしょうか?ありがとうおじさんだったら、どういう心の持ち方をするのでしょうか?

ありがとうございます
一番根本の生き方というのは、もし私が病気であったら、病気の番組の波長に合わしている。それを無限健康いっぱいという最高の番組に合わしてしまえば、番組さえ変わったら瞬間に消えてしまう。

質問者A:
番組の合わせ方を教えてください。

ありがとうございます
人って過去にいろんな番組を見て、番組からいろんな情報を得て、マイナスの情報があったらマイナスの心を取り込むでしょう。そこで、プラスの言葉やマイナスの言葉を使ったりする。思いに生きるというのは、その思いというのは執着なんですね。つかんでしまうのです。つかんだものは、心に残るのです。だから、番組を合わせ方というのは、言葉で合わしている。言葉通りになっていく。その言葉がいろいろな思いに変化している。
その番組の予約というのを、人は、しすぎるのです。心にため込んだ言葉や思いが全部番組の予約になるのです。そうすると、今いいことを思っても、即座にプラスの番組に置き換わらないのです。先に予約したものが優先される。だから、まずその予約をいかに取り消すかが大事なのです。今、プラスに、ありがとうございますと思っても、すぐにプラスの番組に変わらない原因が、過去の予約なのです。
 もし、過去の予約が全部取り消されていたら、今、ありがとうございますと言えば、すぐにプラスの番組に変わるのです。いい番組に次々と変わっていくのです。

質問者A:その「ありがとうございます」というのは「感謝の気持ち」なのか、それとも、それがなることが判っているから、「ありがとうございます」なのでしょうか。

ありがとうございます
いろんな意味あいがあるのです。「ありがとうございます」を唱えるのは、何のためかというと、その過去の予約を神さまの力で消してもらいたいからです。神さまの助けを受けたいからなのです。
 最初、神さまと一体なのに、どうしてマイナスの世界に落ち込むかというと、根本の原因は、神さまに背を向けて、出てきているのです。無限の無限のチャンネルをどれでも自由に楽しみなさいと言われて出てくるのです。ですから、神さまに背を向けて出てきているのです。そして、自由に適当な番組を味わって行き詰まるのです。だから、マイナスほど「思い」のでる世界ですね。感謝じゃないから。マイナスがいっぱいたまってくると、マイナスの予約がいっぱいなのです。それが大きな不幸の原因になっているのです。そのマイナスの予約をもう自分の力で消せなくなるのです。マイナスを番組をみているかぎりでは。環境の影響を受けて、マイナスの言葉を出すし、「思い」もいっぱい出すし、次から次へと、予約を立て続けにしていく感じです。
 だからもう、自分ではどうしようもない。その時に、自分が自由意志を与えられて、選択しているのは確かですから、自分に全責任があるのですけれど、まず、自分が神さまの助けを受けたいというそういう心を起こさないといけない。必要性を感じないといけない。 神さまは自由にしていることには干渉しない。好き勝手に何してもかまわない。ところが、神さまを必要としたときには、さっと飛んできて助けてくれる。だから、自我の心に生きる、思いどおりに生きると言うときには、神さまは奥に引っ込むしかない。ところが、神さまの御心のままに生きたいという心を起こせたら、神さまは助けてくれる。神さまはいつも人の心を見ている。神さまの御心のままに生きたいのか、本当に神さまと一緒に生きたいのか? それとも、自分の好き勝手に生きたいのか、どっちを選ぶかと、いつも見てくれている。
 自分勝手に生きているときは必ず行き詰まることになっているんですね。ひどくなったら、地獄のどん底におちるのは決まっている。それで、頭を打って気づくわけです。ああ、神さまの元にもどりたいと。だから、神さまの方に早くもどって最高の番組を味わってほしいのです、神さまの願いは。いつでも助けようと待機しているのです。

質問者A: それでは、いつも神さまの方に目を向けているにはどうしたらいいのでしょう。
ありがとうございます
それは、自分の好き勝手にいっても、必ず頭を打つ。順調にいっても、それは一時的なのです。それがある程度体験され、あきるくらいにまでなり、未練がなくなったら、神さまの方に向く。だから、強制的に神さまの方に向き変えさせても、またもとの方にもどっていく。だから、とことん納得するくらいに体験し、未練をなくすくらいが一番いいのです。 その時期をみて神さまはすっと手を差し伸べてくださる。だから、神さまは助けない、何もしないのではなく、いつでも助けようと待機している。一番必要な時に、的確に助けを与えてくれる。その助けを与えてもらった結果が「ありがとうございます」と唱えさせてもらう姿になったり、プラスに向く心になるのです。だから、何かしたら助けてくれるのではないのです。神さまの方は全部見通しているから、本当に助けた方がいいという時に助けてくれる。そのときに、「ありがとうございます」と、唱えさせてもらえるのです。
2001年から名を明かしてきたのは?
質問者A:ありがとうございますは、2000年までは名を隠して、お祈りを続けていたのですが、どうして2001年から名を明かすようにしたのですか?

ありがとうございます
まだ明かしていませんよ。
(会場は笑いに包まれる)
質問者A: それは神さまから、「ありがとうございます」を、みんなにというようなことがあるのですか?
ありがとうございます
そんなおおげさなものではないよ。ただ、恩返しの心は起こさないとだめなんです。
自分を幸せにもらったのは、いろんな人のおかげですよね。必要になったら、恩返しさせてもらわないと。
 でも本当は神さまが助けてくださるだけなんです。神さまの力がなかったら、マイナス無限大の力しかないのですから。だから、いつも無限の空っぽの状態にならなくてはいけない。神さまがいうなれば、自分を使ってくださるのです。空っぽになっていたらですね。
そして、神さまが一人一人見ているわけです。必要だったら、自分を使って、神さまが何かを与えようとしているのです。ただ、一人一人が神さまを相手にしないと、本物はつかめない。本当は直接につかまないといけない。だから、神さまはどこにいてるかというと、どこにでもいてるのです。神さまは全体ですから、すべてにわたっているから、どこからでも受けられるのです。ただ、神さまが現れてくれないといけない。どこからでも。
それが必要だったら、現れて、感じさせてくださる。
 まあ、「ありがとうございます」と唱えさせてもらったということが一つの神さまの助けを受けて、神さまと対面していく表面の結果として現れてくる。
 だから、だんだんと「ありがとうございます」と唱える人は、神さまとの対面が深くなっていく。
神さまに100%おまかせするにはどうしたらいいか
質問者 S: 普通、神さまにすべてを捧げたいと思っても、なかなかできません。やはり経済的な問題がついてまわり、30%は衣食住を得るために働き、70%を神さまのために働くというようになってしまいますが、100%神さまのために働きたいと願うのですが、どうもうまくできません。その悩みがどうしてもとれません。その悩みをとるためにはどういう考え方をすれば、その悩みがとれるかなのです。
ありがとうございます
それは、どんな考え方をしてもとれないのです。
(会場は大きな笑いでいっぱいになる)
それは神さまに助けてもらってとれていくのです。神さまの方が上手なんです。というのはすべて神さまはすべて見抜き、見通しているのです。必要なときに助けつづけて、どんな悩みも何もかも、とれるように助けつづけるのです。だから、必ず時期が来るのです。

質問者 S:では具体的にどうしたらいいのでしょうか?
ありがとうございます
だから、神さまにおまかせする、全託するには、最初から、100%するということはできない。最初は自分勝手に生きたいのです。思い通り生きたいのです。そういう時は神さまなど相手にしない。完全に拒絶して無視している。それがだんだんと神さまに心が向いてくること自体が、神さまの助けを受けているのです。神さまに助けをもらっているから、神さまに心を向けさせていただけるのです。そして、神さまにおまかせしよう、神さまためにお役にたちたいという気持を起こさせてくださるのです。それは神さまの助けが自分の中に入っているからなのです。感謝をさせてもらい、神さまのお手伝い、恩返しをさせてもらえるのです。ただ、最初から一足飛びにゼロから、100へとは行かないのです。
徐々に、でいいのです。だんだんとその割合が増えていくのです。それだけ神さまはずーと面倒見続けるのです。そうして、だんだんと本物に近づいてくるのです。100%に近づいてくるのです。だから、別にあせる必要はないのです。ああ、ここまで助けて続けてもらえたというふうに、プラスに見ていけたら、どんどんプラスに変化するからです。

質問者 S:そういうことですか。つまりもっと努力していけば・・
ありがとうございます
最初はゼロだったのですから、ゼロから1%、神さまにここまでプラスに助けられたと喜べばいいのです。2%だっらら、もっと喜び、3%だったらもっと喜び、そして、もう50%になったら、もう飛び上がって、転げ回って喜ばにゃああかん。そしてみんな神さまのおかげなんだ、神さまの大きな助けをいただいているのだということ。だから、神さまの助けをいただかないとそこまでいかないのです。

質問者 S:もし、100%神さまにまかした瞬間はどういう気持なのでしょうか?
ありがとうございます
それは、自分が消えてなくなるのです。神さまの働きだけ、神さまの喜びだけなのです。
質問者 S:それを経験したいのですが?
ありがとうございます
それはだんだんとそうなりますよ。
ありがとうございます
それは、太陽がぱっと自分の体の中に入ってきたらびっくりするでしょう。そんな小さなことではないのです。自分が吹っ飛ばされて消えてしまうでしょう。その連続です。
 だから、本当は太陽の無限の大光体が自分の中に飛び込んでくれて、自分なんか吹っ飛ばしてくれるのです。そこまで大きな幸せを与えてくれるのです、神さまは。
本人が生まれる両親を選ぶ
質問者 T:生まれた時に、やさしい両親で育てられた子供と、期待され、ひどく言われて両親に育てられた子供がいますが、それは、感謝しようと思ってもスタートラインが違うのですが、何か意味があるのでしょうか?
ありがとうございます
皆、本人が選ぶのです。順番に。だから、誰のせいではないのです。本人が選んで、波長が合うものが集まるのです。だから、自分が選ぶのを変えたら、必ず変わるのです。それをいわんや、攻めたらいけないのです。やさしい親に生まれたのは必要だったのですし、きびしい親に生まれたのも、それが一番良かったのです。みんな自分をどうしていくかということを、ひとり自分が選んで、その番組を合わせて体験し、順番に自分を高めていっているはずなのです。だから、根本は自分が選んでいるのです。
 その自由な選択を勝手に縛れないですね。だから、いろいろな人の姿を見せてもらって、それを参考にして、自分が本当に何を願い、何を必要としているか、それに気づいて選び直せばいいのです。いいものを、いいものをと。そういう意味で、まあいっぱいいろいろな姿を見せてもらっているのです。プラスもマイナスもですね。

質問者 T:今は生き方が、次ぎの生き方になり、もっと楽になるか、幸せになるという関係はあるのですか?
ありがとうございます
関係ないですね。もっと不幸になっていく人もあるし。選び方によってですね。幸せの方にいく人もあるし、それでも一時的です。最後は必ず最高の番組に合わしていくのです、みんな。途中ちょっとだけですね、好き勝手にさせてもらうのは。

一番下の地獄の底からながめてあげると、プラス思考ができる
質問者 K:動物のことですが、かわいがられる動物と、虐待される動物がいますが、動物には波動というものがないのに、どうしてそういう違いが生まれるのですか?
ありがとうございます
 それは浅い段階で、部分的にそういう見方もできるのですが、神さまと一体の自分というのは、何にでもなれるのです。石ころにも、植物にも、動物にも人間にもなれるのです。本当に自由自在なのです、本当の自分は。だから、動物に生まれたかったこともあるのです。人間は人間として生まれ変わるのです。
 動物は動物で生まれ変わるのですが、本当の自分は動物にも植物にも、何でもなれるのです。ある時期は鉱物になっていたかもしれない。ある時は植物、ある時は動物、今は人間、人間になったら、人間は人間の生まれ変わりなのです。だが、動物も自分を犠牲にして、人のためにつくしたりすることを勉強として考えることもあるのです。与えす尽くす勉強です。大犠牲を発揮する強です。そういう動物は大きく進化して人間に生まれ変わろうとするかもしれない。それは大きな転機になるのです。だから、一番奥から見てあげなければならないでしょうね。
 だから、石ころ一個でも、本当は、自在の神さまが石ころに変身しているのですね。人間に会いたい神さまが石ころになって、自由を限定してですね。。そしてじーと岩のままでいるかもしれないのです。すごーい忍耐力ですね。それは神さまだからできることかもしれないですよ。

質問者 K:虐待されている動物をみるとすごくつらいのですが、それをどうしたらいいのでしょう?
ありがとうございます
そうですね、それがかわいそうと見るのをもう一つ、奥へ奥へと入って、もっと下から見てあげるといいですね。一番下の地獄からながめてあげると、この世の姿なんて、マイナスを万分の1に軽くしてもらった姿でしかないと見れるのです。
だから、軽く苦しむことによって、大きな修行をさせてもらっているとか。もっとプラスに見れると思うけど。
だから、鉱物より、植物よりは、動物の方がいいでしょう。ここまで、進化さしてもらっているというふうに見てあげたら、いいことだし、また動物になっても、そういう苦しむことによって、大きい魂が、進化して、上がっていると見てあげたら、それは、大きく進歩する姿なんだと見れるでしょう。
 だからプラスにプラスという見方で、いろんな考え方をキャッチすればいいのです。
プラス思考の考え方は無限にインスピレーションとして降ってくるのです。そして、いろいろな見方ができるようになっている。だから、プラスの言葉をいっぱい使っていると、プラスの者と波長が合うから、無限の見方がでてくる。全部プラスに見れるように、翻訳できるように、なってくるのです。

スピード化を心がける
質問者 A:このプリントの中で、どんな仕事をするときでも、スピード化を心がけることは本心開発に大きく役立つことですと、ありますが・・・。それと、あたふたとやってしまうこととの違いは何ですか?

ありがとうございます
これも波長合わせの勉強です。今の番組で、一連で、動いていれば無理も何もないのです。
そのままでいいですね。仮にスピード化してても、番組の姿ですね。ただ今よりももっとスピード化すると、番組は上がります。必ず。

質問者 A:ただ、あれやこれやあたふたとすると、オーバーヒートしてしまうのではないでしょうか? 心が落ち着かないというか・・

ありがとうございます
ただ、それはやりすぎて、オーバーヒートするという見方もありますけれど、オーバーヒートしない番組もあるのです。やればやるほど心が安らいで落ち着いて、オーバーヒートがなくなる。どれだけ一生懸命働いても、逆に疲れがなくなって、疲れた分まで消えて、一つの活力がわきあがって、元気いっぱいになるのです。そういう番組もあるのです。

質問者 A:それはこれをやったら失敗するのではないかという怖れがあったりして・・
ありがとうございます
それはちょっとマイナスに思う一面が残っている。それをどんどんプラスに置き換えて、プラスの言葉を使いつづけると、番組自体がプラスの番組に置き換わると、なんぼ働いても やればやるほど疲れが消えて、元気いっぱいになるのです。

マイナスを選ぶのが悪いのではない
質問者 D:病気や苦しみを感謝で乗り越えできなくて、もし、逃げたとしますね、そうしたら、来世でもっと大きな苦しみに出会うのでしょうか?

ありがとうございます
別に、それは逃げたくてというより、本当はそれを選んできたのです。マイナスの方を。マイナスを選んで悪いのではなくて、マイナスを選ぶことによって研究にも、勉強にもなるのです。研究になると、感謝ももっと大きく深くなるのです。ゼロからプラスばかり行く人と、ゼロからマイナスに行き、大きなマイナスを体験して、もう一回プラスにもどる人と、どっちが幸せかというと、一回マイナスに行ってから、プラスの方にもどる人の方がもっと大きな幸せになるのです。それも本人が選ぶから、別に逃げているようでもそれは違います。マイナスよりも前に進んでいると見ればいいのです。勇気をもって。それが大きな意味でプラスになっていくと思います。

私にはみんな幸せいっぱいとしか見えない
質問者 C: 先生は怒ったことも、悲しんだこともないのですか?
ありがとうございます
ないですね。ありがたいから、悲しまないですね。別に家族の誰かが死んだとしても悲しまないですね。この世から、魂が抜けて、消えたとしても、別に悲しみに見えないですね。卒業ではないですか。いい世界に上がっていくだけ、幸せが大きくなるだけですから。

質問者 S: もし、そこに苦しんでいる人がいたら、そこで何と一言、言いますか?
ありがとうございます
神さまに心を向けて助けてもらいましょう。それでいいですね。
神さまの助けを受けたら、プラスに向いていくから。

質問者 S: でも、その人が神さまを信じていなかったら?
ありがとうございます
だから、信じてなかったから苦しんでいるのでしょう。
(会場は笑いに包まれる)

質問者 S: でも、その人が無神論者であったら、神さまを信じろといっても無理でしょう。
ありがとうございます
苦しみが中途半端だと、気づかないのです。だから、もうちょっと地獄に行ってもらったら・・・・
(会場はまた笑いに包まれる)

質問者 S: もし、その人が、「はい、さようなら」と自殺しようとしたらどうしますか?ありがとうおじさんだったら、どうしますか?
ありがとうございます
どうする?
(また、会場は大笑い)
それはみんな自分が選ぶのですね。本人の責任で選ぶのですね。

質問者 S: では、次ぎの場面です。ある悪い人が包丁をもって、逃げる子供を殺そうとしていました。その時、ありがとうおじさんはそこにいました。そして、二人に向かってどう言いますか?
ありがとうございます
そうですね。両方の因縁が二つになったら、どうぞ。
(またもや会場は大笑い)

質問者 S: 止めないのですか?
ありがとうございます
そりゃあ、わからないですね。止めた方がいいのだったら、止めるように走るかもしれないし。ただ、私の場合、お祈りばっかしなので、みんな無限に輝いて、生かしあっているというしかないのです。そういう番組に変えるだけなのです。殺そうとする人の心を変えるかもしれません。
質問者 S: でも、一瞬ですから、お祈りしてたら、もう終わってしまいますよ。
ありがとうございます
お祈りは一瞬の力があるのです。
たぶん、そういう場面に遭遇しないと思いますね。そういう場面を見ていないですから。

質問者 S:では、そういう場面を見るには、山を降りて、街に行くとか? 街にはそれがいっぱいありますよ。山奥にいたら、その場面は少ないですよ。
ありがとうございます
そうですね。こういう山奥に押し込められているということなんですね。
そういう世界に変わってしまったかもしれないですね。いつも無限のプラスいっぱいという世界をお祈りしているでしょう。マイナスはないのです。
 昔は、病気の人を直したい、直してあげたいと、病気直しを専門にお祈りしていた時期もあるのですけれど、それで、病気が健康に置き換わって、みんな無限の健康いっぱいというように変わってしまったら、最近、病気に人に出会えない。みんな、病気の人います? それに、私には健康としか見えないのですから。中には「私ここがいたい」と言いますが、私には無限健康としか見えないのですよ。みんな健康そのものとしか見えないですね。

質問者 S:街に行っても、山に行っても、同じようにしか見えないということですか?
ありがとうございます
そうですね。みんな幸せいっぱいとしか見えないのです。

神さまへの全託、極楽世界、それは与えあいの世界
質問者 A: 自分の努力と神さまへの全託とは、どこからが努力で、どこからが全託なのかよく判らないのですが。全託をすれば何もしなくていい、家の中でこもっていればいいというわけではないのでしょう。
ありがとうございます
そう、違う。本当に神さまにまかせる、全託というのは、神さまのすべての力の中から沸き上がってくるものです。無限の能力が出てくる、無限の力が湧いてくるから、何しても疲れることはないし、楽しいし、みんなに大きなプラスを、幸せを与えることができる。

質問者 A:例えば、リストラにあって、神さまに全託したとしますね。そこで、さらに就職活動をしなくていいということではないですよね。
ありがとうございます
本当に全託できたらですよ、本当に全託できたら、神さまの力を受けますから、ただで、世の中のためにいっぱい働くと思う。無限のプラスをいっぱい与えようとして、ボランティアに生きると思う。それで、みんなから、ただで必要なものを全部、いっぱい与えてもらって、幸せそのものになりきると思う。神さまは本当の奉仕です。神さまは無限のものをただで与えて、それを循環させるだけですね。
 たぶん、自分の思い通りに生きたいときは、なかなか全託できないですね。思いがある間は。感謝の心がでてきて、初めて全託への道を歩むのですね。だから、感謝させてもらえるということは、本当に全託の道を歩むようにしてもらっていることなのです。
 最初から一足飛びではないのです。だんだんと本物の全託に近づけてもらうので、その時は極楽世界に住む自分ですね。極楽世界というのは、与えあいの世界です。自分はもう、まわりに自分の全部を、与え尽くしてしまう。報いを求めずに。だから、まわりの人も全部同じようにして、自分の報いを求めずに与え尽くしてくるのです。その循環がどんどん早くなるのです。それが極楽の世界です。だから、自分が与えるものが1とすれば、周りが1万だとすれば、1万倍となって還ってくるのです。本当は。最高の番組というのは、極楽世界です。与え尽くす心になったときに、それをキャッチできる。だから、リストラなんかされたら、よろこばにゃあ、あかん。いいチャンスを与えてもらったと思って。


どのようにお祈りを
質問者 H:ありがとうおじさんは実際にどのようにお祈りをしているのでしょうか?
ありがとうございます
形は自由自在ですね。心の中で。

質問者 H:声に出したりとかは?
ありがとうございます
たまに声を出すことがあっても、ほとんど声を出さないですね。
心の中だけでありがとうございます。
綱引き道
質問者 L:綱引きをされていますね。どうして、綱引きをされるのですか?
ありがとうございます
そうですね。どれだけ力を出しても目立たない。ですから、個人技はない。一生懸命引いているつもりで演技しているのです。ほんとうに力を出ているかわからない。だから自分を出さずにすむのです。
 後ろに引っ張るのではなく、謙虚に後ろに下がるのです。それは勝ち負けではなく、引っ張り出し合いなのです、良さを。だから、引っぱり出させてもらって、「ありがとうございます」と感謝できるのです。しかも相手が強い程、自分の力を引っぱり出してもらえるのです。力が出てくるということは、神さまからいろいろなものをもらって、力が発揮できる。それで、神さまの助けを大きく受けたということになり、ますます感謝が深くなります。
 いろいろな意味があるのですね。

質問者 L:綱引き道ということですか?
ありがとうございます
そう。綱引き道という道がつくと、本当の悟り、神さまと一体化することを目的とするわけです。だから、みんなが「神さまと一体であると悟っている」という実感をえたいために、それを最終目標にして、一生懸命助け合って、良さを引っ張り出し合うわけです。


同時に「受け取り」「与え尽くす」言葉、それが「ありがとうございます」
質問者 S: 与え尽くすことと、「ありがとうございます」と受け取ることの流れがどうも今一つピンをしないのです。それを、同時にしたいのですが?
ありがとうございます
「ありがとうございます」という言葉の中に、受けることと、与えることとが同時に行われているのです。

質問者 S: 同時にですか? 普通、何かを受けて、喜びを感じますね。それが 「ありがとうございます」ですね。そして、自分の中にあるものを与え尽くす時には、何て言うのですか?
ありがとうございます
それは例えば太陽から、無限の光を受けたとするでしょう。受けた瞬間に自分が無限に光り輝くでしょう。それで輝いたら、全部それはもう与えているのですね。受けると同時に与えているのです。

質問者 S:で、与えた時に何て言うのですか?受けた時に「ありがとうございます」そして、与えた時に何て言えばいいのでしょうか?
ありがとうございます
だから、受けたと同時に「ありがとうございます」で、与えているのです。
次ぎの一瞬にまた、新しく無限のものを「ありがとうございます」で、受けて、同時にまた「ありがとうございます」で与え尽くしているのです。あくまで、自分はパイプ役ですね。空っぽのパイプのようなものですね。神さまから、どんどん光が入ってくるでしょう。入ってくると同時に、その光がどんどん外へと流れていくのです。即それが自分のものになって、それが全体に与え返しているのです。
 もうすぐ実感がきますよ。
マイナスに捕らわれている期間は、神さまからみればほんの一瞬です
質問者 M:私たちは、「自分が・・」という「我」を、どこで学んで来てしまったか?どこで体験したものなのか、どのへんでコントロールされてしまったものなのか? どこで迷ってしまったのでしょうか?
ありがとうございます
まず、神さまと一体の自分がなぜ、マイナスにとらわれるか、とらわれてしまったのか?ということですが、これは、「ありがとうございます」の御言葉を使って、一瞬一瞬、最高のプレゼントを受け直していったらいかがでしょうか。
 受け直しが終わったら、・・そう、神さまの最高の表現、その番組を一瞬一瞬受け直しでいる限りは、いつも無限の無限の幸せいっぱいという状態が続くのです。それはやっぱり深い感謝がいるのです。ところが、低い番組に心を向けたとたんに、神さまから遠ざかっている。
それはいろいろな面で神さまと離れているのです。時間的にも、空間的にも、内容的にも、いろいろと神さまから離れていくと、それだけ神さまの助けが来なくなるのです。助けを受けるのも少なくなるのです。その分だけマイナスにはまりこんでいく。
 ただ、マイナスにとらわれているその期間というのは、永遠からみれば、ほんの一瞬ぐらいなものなのです。本当は「ありがとうございます」が、本当の自分の命の呼吸なのですね。
 ただ、呼吸というものは、この世の呼吸もそうですが、ある一定期間は止めておけます。我慢して、無理やりできますね。だが、呼吸は吸うばかりでは止まってしまうでしょう。だから、求める心だけでは止まってしまうのです。求める心が生きている間は、呼吸が止まって、苦しくなる。苦しくなったら、我慢しきれなくなって吐き出すのです。その時に初めて感謝が生み出されてくるのです。
 その呼吸も、自分で無理やり、努力してするものではない。自然にさせてもらっている。その一瞬の呼吸を止めている期間が、神さまからすれば一瞬なのですが、低く(低い番組に)なるほど時間が長く感じるのです。それは、神さまの時間と空間の関係から見て、そうなんです。いい状態の時は、時間がたつのを忘れ、時間が短くなるのですけれど、マイナスの多い人は時間が長く感じられる。それで、この世で苦しんでいる期間が何億年と長く感ずる人もあるわけです。
 それを、もう一回神さまの方に心を振り向ける一つのチャンスというように見れば、そのマイナスの体験も大きく生きる。今度は、神さまから与えられるものの方が無限に無限にすばらしいものばっかしだと、感激が新たになってくる。そう言う意味で、そのマイナスの体験も無駄でなかったと言えるのです。
人を助けたい。でもできない。どうしたらいいのでしょう?
質問者 S: 私のまわりには、けっこう妄想にとりつかれている人がいるのですが、その人を助けたいと思っても、何もできない。そのときは一体どうしたらいいのでしょうか?
ありがとうございます
人には、完全な理由がある。これをまず前提におかないと。だから、いい番組だけを神さまは強制的に味わいなさいとは言わないのです。自由を尊重して、どの番組でも、好きな番組を見ていらっしゃい、そして、最後には最高の番組を味わってという感じです。一番下の地獄のどん底のマイナスの極の番組を見てても、神さまは止めようとはしない。それもいずれは、大きいプラスの働きに変わるはずですから。
 地獄のどん底を見ている人は、最高の番組を見たら、無限の無限のさらに幸せをと感じていくのです。

質問者 S: それはこちらが待てばいいということですか?
ありがとうございます: そうです。
質問者 S: 何もできないということでしょう。
ありがとうございます: そう、何もできない。
質問者 S: でも、一声かけたい。その場合は、どう言ったらいいのでしょうか?
ありがとうございます
そのときに必要な言葉は、「ありがとうございます」ですね。神さまをまず呼ぶのです。 自分がもしマイナスに見える世界の姿を見てたら、自分はマイナスの番組を眺めているのです。だから、その番組を変えてはいけない。絶対変わらない。もし、番組がマイナスがプラスに置き換わった番組を、自分が見たいと言うのでしたら、「ありがとうございます」と唱えることによって、番組自体を変えてもらえるのです。そうすると、病気の人は病気が治った姿で見せてもらえるのです。いい番組になればそうなのです。
質問者 S: では、「ありがとうございます」と、唱えなさいというのですか?
ありがとうございます
そうではないのです。
それは、自分がマイナスの番組に巻き込まれていると、自分と他人の関係がよくわからなくなってしまうのです。ちょうどテレビを今、見ているとするでしょう。テレビの番組でいろいろな姿が移り変わるでしょう。その中に病気の人がいて、そして、自分がそこにいるのです。そして、自分が何かいい言葉をかけたいと思っているのです。でも、ストリー通りしか動かないでしょう。その見ている番組で、また、もう一つテレビがあって、そのテレビにまた、また似たような姿が映っていたら、もう一つ、変えづらいでしょう。、
どんなに相手を変えたいと思っても、できないのです。神さまだって、できないのですから。
質問者 S: そうですか。何もできない(何も話せない)ことを認めてしまうのですか・・。
ありがとうございます
人は自由があるから、自分の好きな番組に合わしていくのですね。どんなマイナスの番組であっても、自分がその番組の主役なのです。神さまがつくる無限の無限のチャンネルというのは、すべてをつくしているのです。人がどんな番組を見たいといったら、全部そろっているのです。みんながみんな別々番組をみてても、まだまだ無限無限に余るのです。全部は見切れない。それだけのものを全部用意して作っているのです。だから、番組自体は神さまの完璧な最高表現なのです、全体をみると。
 地獄番組もそうです。地獄番組を作るのも大変なのです。極楽番組作るよりも難しい。また、妖怪ばかり、化け物ばかりの世界番組もあるのですね。ありとあらゆるものが全部そろっている。どんな番組もあるということが大前提になっている。
 その中から、言葉で、思いで、かけあわして、どんな番組でも味わえるようになっている。それも、一瞬一瞬の言葉の使い方が、チャンネル合わせになるわけです。ただ予約が先にあると、その予約が優先されるというだけのことなのです。だから、思いを出して生き続ける間は、ずーと予約をし続けるという感じですね。
 感謝によって、予約が全部消えていくのです、予約は必要ないということで。感謝できたら、思いが出なくなる。世界がどんどん拡がる感じで、番組がどんどん上がっていく。感謝に生きるようになったら、その原理がよくわかってくる。その番組からいつも抜け出せるのです。
 思いがプラスの思いだったら、いいと思うのですが、しかし、思いは一つのことをつかんでしまうのです、どんないい思いもですね。それが積み重なると、マイナスの暗い思いに変わってしまうのです。今日の空の雲と同じです。地上のものをつかんで、水蒸気がどんどん上がっていくのですね。最初は白雲、薄雲です。それが輝いているように見えるのです。ああ、いい思いだなと思っているの。でも、それがどんどんたまると、厚くなり、重なってくると、黒雲に変わる。
 思いはどんなものもやはりマイナスなのです。
恩とは何でしょうか
質問者 L: 恩とか、しがらみというものはどう考えたらいいのでしょうか?
ありがとうございます
それは、本当の恩とは何かを、考えたらいいでしょう。小さい恩もあれば、大きい恩もあり、また無限の無限の大きい恩もある。本当の恩は神さまからいただくものへの恩です。元の心という、一番奥の元の心が、神さまの御心です。そこから、無限の無限のすばらしさを、それも永遠にいただき続けるということで、それが本当の意味の恩にあたるわけです。それで、恩返しということで、何が必要かということになるのですが、恩返しといっても、返すわけにはいかないですね。受けてお返しするといっても、お返しした分というものは古いものですから、恩返しになりません。
 でも、神さまが一番喜んでいただけることというのは、新しいものをどんどん受け続けることです。神さまを喜ばせることがある意味で恩返しです。だから、最高のものを受け続ければいいのです。(受けるというのも、神さまの助けがあるからです)
 そして、感謝し続けば、本当の意味での恩返しにもなるし、大きいものを受けて、神さまを喜ばすことにもなるのです。

求める心はマイナスの闇の心になる
質問者 L: 人から求められたら、どうしたらいいのでしょうか?
ありがとうございます
まず、自分を変えてみたほうがいいですね。自分に求める心があるかないか、です。求める心と与える心は正反対の心ですね。与える心が光りの心、神さまと一体化する心です。求める心はマイナスの闇の心になるのです。求めるというのは、人の自由を縛り、奪うことになる。自分の思い通りにしたいというだけで、相手をがんじがらめに縛ってしまう。でも、感謝は違う。感謝は相手の自由を完全に尊重するのです。個性を尊重しているわけです。神さまはもともと同じものを二つと作らないし、同じことを繰り返さない、そこまで徹底している。だから、本当の自由自在性を認めた時に感謝になるのです。

質問者 L: もし、求められたときに、ありがとうございますと受けたくなかったら、どうしたらいいのでしょう。
ありがとうございます
もし、自分が求める心をしっかりと握っていたら、まわりから求められる。だから、自分が求める心を捨て、感謝できるようになったら、相手から求められることはなくなる。そして、縛られることは一切なくなる。
 まず感謝に生きようとし、感謝に生きていくうちに、自分の中から、求める心が減り、まわりからも求められることも少なくなっていき、求める心が、だんだんと無くなっていく。そして、自由を完全にまわりからも保証してもらえる。
神さまに子育てをおまかせする
質問者 M : 子供の育て方について、「ありがとうございます」の意識で育てるためにはどのような方法がいいのか教えてください。

ありがとうございます
「ありがとうございます」と唱えているだけで、もう子供に神さまはついているのです。守護霊を始め、本当の宇宙の神さままでもが、守り守っているのです。それにお任せすることになるのです。
 神さまに子育てをおまかせする。
そうすると、神さまが、もし必要だったら、自分にその必要な手助けをさせてくださる。もし、他の人が手助けしてくれたら、他の人を通して、神さまは子供を育てる。
 神さまは自由自在です。完璧に守ってくれる。 
ただ、人というのは、外から引っ張って、のばすものではないですね。中から命の働き、神さまの力が出てきて、すくすくと成長するものです。 だから、無理やり引っ張って、りっぱに変えようなんてできない。ちぎれてしまう。自然に中からのびのびと命が出てきて成長していくものだから。
 その成長は神さまがさせているのです。
 親が子供を育てることはできない。
だから、徹底するのがいいのです。子育ては神さまがする。
 親はその成長を見せてもらって、楽しませてもらって、幸せにしてもらうだけ。
そのくらいの気持で、感謝していたら、ほっといても大丈夫。
 ほっといても神さまが育ててくれる。もっと気楽に生きれるのです。
夫婦喧嘩
質問者 M : 夫婦げんかも「ありがとうございます」で、解消されるでしょうか?
(会場は笑いに包まれる)
ありがとうございます
 けんかするときに、相手に求めすぎるのです。こうして、ああして、というように願いが多すぎるのです。
自分の願い通りにならないときに、ちょっとあたりちらすわけでしょう。
 感謝というのは、求める心を一切消してしまう。
それを与える心に変えてくれるから、相手が幸せになるように、なるように必要なものを与え尽くす、そういう心が自然に湧いてくるから、けんかしなくなる。

どうしたら先生のようになれるのですか?
質問者 L:先生のようになるにはどうしたらいいのでしょうか? 形からでも、笑顔からとかで、入っていけばいいのでしょうか?

ありがとうございます
 形から入り、無理に努力しなくても、要は神さまを受け入れたらいいだけのことなのです。神さまは助けたくてたまらないのです。神さまは助けを受け入れてほしいと一生懸命待っているわけなのです。だから、神さまの助けを受け入れようという気持ちさえなったら、自然と、中から、「ありがとうございます」と湧いてくるし、中から、うれしい、楽しいという自我がわいてくる。そして、自然に自分を変えてくださる。
 ところが、自分の力で、努力でとなると、神さまはちょっと遠慮しなくてはならなくなる。努力もすばらしい、尊いとは言えるのですが、神さまの助けをいらないという努力だと、神さまは手を出せなくなる。だからまず、神さまの助けを受け入れるという気持をしっかりと、もった方がいい。神さまとともに生きる、神さまとともに努力する。そういう気持だと、神さまは助けやすい。応援がどんどん増えて、自然に無理なく、自分に必要なものが備わってくる。

質問者 L:常に神さまを意識するという意味ですか?

ありがとうございます
 そうですね。その意味で、神さまを呼ぶというのが「ありがとうございます」です。
呼ぶというのも、自分の力で呼ぶことではなく、その人が、神さまを必要とするということを見抜いて、神さまが先に助けにきてくれる。だから、「ありがとうございます」という感謝に変わってくる。「ありがとうございます」という言葉が出てくるということは、もうすでに神さまの助けを受け入れているのです。ところが、「ありがとうございます」が出てこない時は、やはり自分の我が強いのです。神さまの助けを拒絶している時です。それで、その我を棄てようとすれば、また神さまの助けを受け入れようとすれば、それだけ感謝しやすくなる。ですから、大丈夫です、自然と良くなっていく。

疑いが生まれたらどうしたらいいのでしょう
質問者 S: ある信じていた場合、突如として疑いがでてきた場合、その疑いの心をどう対処したらいいでしょうか?
ありがとうございます
 なんでもそうですが、自分で使う言葉が思いに必ず増幅されるのです。まわりから、波長あるものが集まってくるし、それが、どんどん増幅される姿をとるのです。疑ったら、疑いの波がどんどん集まってくる。どんどん大きく膨らんでくる。
 だから、疑いと正反対のものを持ってこなければいけない。神さまとして、信ずるとか、まずプラスの言葉を先行させなくてはいけない。心を一つに統制したり、支配することは難しいでしょう。疑いの心が出てきた時のように。その時は、「私はあの人を信じている」とか、「あの人は無限にすばらしい」とか、「完全なんだ」とかで、プラスの言葉を使うと、疑う心が消えていく。プラスの方が力がある。闇より光りの方が力があるのです。プラスの言葉を先行させたら、マイナスの言葉は自然と消されていく。プラスの言葉を使って、プラスの思いになれば、マイナスは全部消えていく。だから、疑いの気持が出てきたら、「私はあの人を信じています」と、言えばいい。だから、正反対のプラスの言葉をまず使うことです。

奇蹟についてどうとらえたらいいのでしょうか
質問者 S: 癌が治ったとか、いろいろな奇蹟がありますが、そうした奇蹟についてどう思いますか?

ありがとうございます
病気がぱっと治ったというのは、チャンネルがちょっと変わっただけですね。本当は一瞬一瞬が新しく生み出されて、最高のものから、最低のものまで、全部取りそろえて、一瞬一瞬移り変わるというのが、大大奇蹟でしょう。それは人間技ではないですね。

質問者 S: もし、一瞬一瞬ということでなく、オーバーにその奇蹟をとらえてしまったら、マイナスに働くことが多いと思うのですが、例えば、神がかりや超能力があるから、その人はすごいとかで・・

ありがとうございます
 そういう人はその人の自由なのです。それは、そういう狭い小さい範囲でとらえているから、そう捉えてしまうだけのことです。神さまの立場から見れば、病気がぱっと治るのは、手品も手品で、小さい手品ですね。神さまは無限の無限の健康を与え続けるでしょう。それは、病気に一切ならないくらいの、無限の健康を与え続けているわけでしょう。そっちの方がもっと大きな奇蹟ではないですか。万病が一瞬に消えたって、大したことはない。無限の無限の健康を与え続けているほうが、本当の意味で、もっと大きな力、大奇蹟なのです。神さまはずーとそれをし続けているのです。
 だから、本物の神さまの働きというのは、無限の無限のすばらしいものばかりだけではないのです。低い段階のどんな奇蹟といっても、手品みたいなものですね。そんなもので喜んでいたら、馬鹿みたいなものですね。

神さまは鏡の姿をとって、自分の姿を映してくださる


ありがとうございます
 そうですね。見方というのはいっぱいいろいろとできる。ほんとうは、一通りではありません。神さまが光り輝く姿と、その鏡(に写る姿)との両面を見せてくれる、という一つの見方、考え方です。それがすべてを表すわけではないのです。
 人は太陽の方に向いているとき、そこに一切の闇は感じない。光りを受けるだけ、輝きだけを感じるだけなのです。今度は、神さまに背を向けて、太陽に背を向けて、逆の闇の方を向くと、闇というのは、どこまでも闇で、吸い込まれてしまいます。闇だけではその人は幸せになれないし、救われないから、神さまは鏡に変身するのです。ちょうど窓ガラスを見て、外を見ると、外が明るい時・昼の時は、透けてみえる、そして明るく輝いてみえる。ところが、夜になると、外が暗いから、窓ガラスが鏡に変わるでしょう。
 だから、闇に向くと、常に神さまは鏡の姿をとって、自分の姿を映してくださるのです。逆に言うと、それは光りを与え返したいからなのです。自分は小さい光りを使わないで、(それをもって)闇の方を向いている。そういう者でも、その人に気付かせたい。自分が光りなんだと。そういう意味で、鏡に変身するのです。常に、神さまの方に向いて欲しい・向いてほしいなのです。その鏡というのは、本当は平面鏡一つではない。ほんとうはいろいろな鏡があるのです。自分を映す鏡というのは。神さまが変身する鏡はありとあらゆる種類の鏡があるのです。だから、どういう鏡で自分を見せてくれるか、そのいろいろな見せ方がある。その時その時、自分のまわり世界の姿全部を、(それは)いわば自分の心を神さまの方に振り向けるための勉強材料として与えてくださっていると受けられたら、すっと すぐに、(自分の心を)神さまの方に向けられる。
 だから、その鏡だけでも研究しだしたら、たくさんでてくると思う。
本当に、神さまのなかにはないものはない。全部取りそろえてある。だから、クローン人間と今騒いでいるけれど、同じものは何一つも作れない。 まず創造の原点で、どんな小さい素粒子でも、全部違う。最初の出発点から、全部違うものとして出てくる。それを組み合わせて、順番に大きいものを創っていくとしたら、違うものばっかりとして、次ぎの段階の大きいものができてくる。それをまた組み合わせて創るとしたら、まったく中味が違うものができてしまう。だから、神さまはすべてに個性を与えているし、また違う働きを与えているのです。

質問者 :臓器移植とか、骨髄移植とかは?

ありがとうございます :
それは途中で、ちょっとすり替えて、頼っているようなものです。ちょうど、足が悪くなってしまったから、松葉杖で歩くようなものです。

質問者 :別にいけないということではないのですか?

ありがとうございます
そうですね。それも自由な生き方ですね。そういう番組もあるから。
ただ、最高の番組に近づけば、一瞬に、悪くなった足も治るかもしれないし、また無くなった足も再生してくる。。
それは本当の意味で、個性ある姿となって出てくるはずです。
だから、自分の臓器は自分だけの臓器ですね。本当は、奥から出てくるものは全部そうなのです。わざわざよそから持ってこなければということはないのです。どっか合わないことが出てきます。自分の中から、全部作り出してもらった方が本当はいい。ただ一時的に頼れない時があると、中から、再生してもらう時に、時間的に待ってくれないとか、心の向け方がそこにいかない時は、他に頼ってもしかたがないのです。

神さまが使命を与えるというのは、実は自分の責任転化です
命を与えて生き返らせたと考えていいのでしょうか?

ありがとうございます
いや、神さまが人の自由を縛って、何かしてこないのです。本当にそうなのです。人の自由を完全に尊重してくれる。人が選んでいるだけなのです。自分の好きな番組を。

質問者:よく神さまが使命を与えるというのは、考え方としては違うのですか?

ありがとうございます
それは神さまの働きを全部見通していないのです。神さまにすりかえているときなのです。神さまのせいにすると、何か自分がいっぱいあるように感じる。それだったら、無限の無限の番組を全部、神さまから与えてもらっているという受け直しをした方がいい。その中から自分の好きな番組を選んでいるといった方がいいでしょう。どの番組を選んでも神さまからいただいたものだから、神さまからの助けかもしれない。一つの番組を選んで、それを全部受けるのも神さまからのプレゼントです。それから、必要なものが与えられるとしたら、神さまからの大きな助けなのです。だから、ちょっとした手品みたいな形で助けてもらうというのは、本当の神さまからの助けではない。

質問者: でしたら、どん底から、いただいたものの方が、神さまからのプレゼントととらえたらいいのでしょうか?

ありがとうございます
 いや、それはちょっと(違う)。どん底に降りた方が神さまの方に心を向けやすい。
どん底に降りたらもう下がないからね。神さまの方に向くしかないでしょう。
 それでも、神さまの最高の無限の無限のプラスを受け取れるかというと、すぐには受け取れないかもしれない。末端の方だと、小さい光りかもしれないからね。神さまに近づくほど大きなものに変わってくる。ただ、心の向きが神さまの方に向いているので、神さまからのプレゼントを受けているということなのです。それが大きいか、小さいかはみんな違う。その時その時の受け方がみんな違う。だから、本当の神さまの助けというのでしたら、最高の無限の大きいものを受けてこそ、そう言えるのです。神さまのものとね。
 ただ、人は神さまのせいにして、責任を神さまに転化するところがあるのです。神さまから、何々してもらったというと、やっぱり自分の責任がなくなるでしょう。責任のすり替えができる。何かマイナスが出てきても、神さまのせいにすると、神さまが与えてくださった、神さまが来ていただいた、と正当化できるのです。でも、本当の神さまはそんな小さなものは望んでいない。神さまの方は無限の無限の大きなもの・プラスを与え続けたいのです。そんな小さなものを与えて喜んでいない。だから、本当に無限の無限のプラスを受けているかどうかなのです。それだったら、神さまが与えてくれたものと言えるかもしれません。
 例えば結婚して子供が生まれる時でもそうです。神さまが与えてくれるから、生まれるという考え方がありますね。でも、それは一つの番組の中の一つのストーリーにすぎない。神さまはわざわざそんな細かいところまで干渉してこないですね。やっぱり自分がそのストーリーを選んでいるのです。もっと上の番組でしたら、子供が産まれない番組かもしれないのです。子どもが必要ないかもしれない。子どもの生まれ方自体にしても、親の体を通らずに、空中からぱっと出てくるかもしれない。いろいろな生まれ方があるから。
 人間て、男と女と別れているけれど、両性合体という人間がいるかもしれないね。

質問者:すると、自分が人生を選んで、神さまに託していると言っていいのですか?

ありがとうございます
う〜ん、だから、本当に神さまを信じて生きるのだったら、無限の無限のチャンネルをいつも神さまから与えてもらって、自分の好きな番組を選んで楽しませてもらっている、というのが原点です。それでも低い番組に留まってはだめです。より高い番組に心を向けて最後は最高の番組に心を向けて楽しまないと。それを神さまは待ち続けていると観た方がいいですね。本当の無限の無限の幸せがいっぱいという気持にならないと・・。そんな気持が湧いてこないといけないね。

質問者:というと、神さまに託すことで、より高い番組を選んでいく、そういう良い循環でぐるぐる廻るのが理想的なのですか?

ありがとうございます
そうですね。神さまへ全託することで、どんどん自分を変えてもらう、良い番組を見れるようにどんどん高めてもらう。それで最短コースにしてもらえるから、一番理想的な生き方です。だから、「ありがとうございます」と唱え続けることが本当の全託です。早く最高番組を味わえるように変わる。その番組を超えて、神さまとの一体の自覚が出てくる。本当は自分は番組の中にいないのです。最高表現の番組と言ったとしても、その番組の中には(自分は)いない。あくまでも、番組は表現なのです。本当の自分は神さまと一体です。本当の神さまの中に、そして絶対の中にいる。だから、神さまとは絶対切り離せない。表現ではないのですね、本当の自分は。 本当の自分というは神さまと全く一体で、絶対の中にあり、そこで、神さまの表現を眺める立場にあるのです。

本当のお祈りは24時間
質問者:「祈りを馬鹿にしてはいけない」と、言われた言葉にドキッとしたのですが、その点をもう少し話してほしいのです。こんな話があります。イスラム教徒がたくさん乗っていた船がまさに台風で沈没しそうになった時、みんないっせいに「アラー」と叫び、祈り始めました。そこにいた科学者が、何をしているのだ、もっと自分の頭で何かできることを考えたらどうなんだ。また、瞑想している人に対して、そこがとても汚れていました。何やっているんだ、瞑想するよりも、掃除でもした方が役にたつと言った方が正解のように思えるのですが?

ありがとうございます
そうですね。お祈りは何かあった時にするのではないですね。それも一つの道です。どうしようもなく、ぎりぎりになったところに、神さまにすがるというのもいいのだけれど、その時に真剣になったらすっと助けてくれる。それは確かにあるのです。でも本当のお祈りは祈り続けるのです。24時間。そうすると、普段にその祈りの中に自分をおいておくと、いつも必要な助けが神さまからどんどん出てくる。また必要な能力が出てくる。だから、どんな自然災害にしても、その防ぐ手だてを先にこうじてしまう。マイナスの状態にならないように準備万端整えて、完璧な状態に整えてしまう。大地震や少々の地震があっても、絶対平気、建物は絶対壊れないというように先に 仕上げてしまう。大雨降って洪水だといっても、その影響を全然ないようにしてしまう。場合によっては台風が来たといっても、その台風を全部消してしまうくらいの科学力を駆使するのです。
 だから、普段から、祈り続けている人は神さまの智恵も能力も全部出てくるのです。普段から、全部調和した姿に変えるだけの力を発揮するのです。それも何もせんと、困ったときだけ神さまというのではなかなか本物の祈りとはほど遠い。だから、本当の祈りというのは科学ともすべて調和するのです。正反対な生き方ではありません。
 本当の科学者も神さまの前で謙虚にならないと何の力も発揮できないと思う。一つの発明発見すら神さまからアイデアを受けないかぎりできない。第一線の本当の科学者は神さまの前に本当に謙虚と思う。神さまの智恵をいただいて、いろいろな発明発見をする。
だから本当は一つよね。
 洪水が来てからの対処では遅い。前もってちゃんと対処しておかないとね。本当のお祈りする人は。


時間と空間とは
質問者:時間とは何でしょうか?
ありがとうございます
宇宙という言葉、世界という言葉がありますね。宇宙の宇は空間、宙は時間です。世界の世が時間、界が空間です。だから、世界・宇宙というのは時間と空間の組み合わせで生まれます。それは相対の両極に分かれた一つの要素です。
 時間というのは時計で測る時間とはちょっと違うのです。時間にもいろいろな時間の種類がある。空間にもいろいろな空間の種類がある。
 この世とあの世と比べてみればいい。竜宮城というのをたとえていえばいいのです。浦島太郎が竜宮城に行って、楽しい幸せな時間を過ごすでしょう。ほんのちょっとそこで楽しんで生きたという感覚で、この世に戻されたとすると、長い年月がたっていた。それで、自分は年老いた姿として現れてしまうでしょう。だから、時間というのは、すばらしい空間の拡がった世界では時間が短くなる。逆にこの空間が狭まって、マイナスの多い空間では時間が長くなる。だから、極楽世界では時間がない。一瞬なの、一瞬一瞬が幸せいっぱいというのが極楽世界ですが、地獄は苦しみばっかしです。
 空間が無くなると時間が無限に拡がるのです。だから、地獄では穴の中に入りたい、天の針の穴の中にでも入りたいという感覚なのです。そうすると無限の時間が拡がるのです。地獄ほど苦しみの時間が長い、そういう感覚になってしまう。だから、この世の生活している人と、地獄で生活している人との時間の感覚は、この世で例えば1秒過ごしたという感覚でいてても、地獄では何億年もたち、何億年も苦しんでいるという感覚なのです。

質問者:空間が無くなったら?
ありがとうございます
それは、時間と空間で生まれているから、限りなくゼロに近づいても、ゼロはありません。空間というのはこの世的な三次元の空間だけではない。いろいろな空間がある。伸び縮みする空間とか、例えば、ちょっと上の次元でもそう、この部屋であったら、伸び縮みしない。でも、ちょっと上のあの世だったら、今日はお客さんが多いから、部屋を拡げようとすればスーと拡がる。自由自在に空間が変化する。また時間もそうです。タイムスリップというの? 自由自在にできる時間がある。もう過去だから済んだかというと、時間がまたずれたりする。
質問者:神さまにとっての時間・空間はどうなんでしょう?
ありがとうございます
神さまにとっての時間・空間は創造のすべてですね。全大宇宙のすべてのすべてという感じです。宇宙というのは無限に複雑な多重構造です。この宇宙があるでしょう。またこの中の原子の中にまた大きな宇宙がある。そのまたその宇宙の小さな原子の中に大きな宇宙があるという感覚です。それがどこまでも続くというから、もう想像を絶するのです。
 でも神さまはすべてをつくしているという限りは、ありとあらゆる宇宙・時間空間が全部あるのです。


神さまと自分
質問者:「ありがとうございます」という時に、「ここに天照大御神がおられます」と言う場合に、その存在ですね。その存在についてどういう感覚でとらえたらいいのでしょうか?
ありがとうございます
自分という小さい殻を持っていると、その中に神さまが入ってきても小さくしか感じない。逆に、自分を神さまの中に飛び込ます、溶けこます、融けると、自分が無くなると、神さまが大きくなって感じられる。自分を神さまの中に与え尽くしていくと、神さまの中に飛び込んだら、神さまと溶け合うわけです。 

ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.
19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.
35.36.37.38.39.40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.
51
.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.

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