ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

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 憑依AR133 2001.12.05.-1 AR114

質問者:
 おかしい憑依されたようでどうもおかしいということがあって、とれるものならお願いしますと言って憑依を取ってもらったのですが、そしたら変な話、すーと幸せ感が湧いてきたんです。いったい憑依というのはどういう構造になっているのか教えてください。

ありがとうございます:
 根本は波に合ったということなんです。波に合うといのは心を向けたということなんです。だから病人の姿やいろんな状態があるんです。もうそっくり肉体の中に魂が入り込むような感じのいろんな姿があります。入り込みというもの、だから癲癇(てんかん)症状をおこすなんてその例なんです。もともとは一人の魂が一人の肉体に入っているんだけど、なにかのショックで肉体から魂が抜ける時があるんです。そういう時に他の霊魂が入り込むんです。それも二人入ったり三人入ったりする場合もあるんです。
 またピタッと入り込むような要因もあるんですね、恨みなんかが強い場合そこに付きっ切りで入り込むとかなりきつい要因的な現象になって分裂的な心になりやすいんです。また軽いのだったらちょっと縁があって波があってそれがスッとかたよってまたスッと離れるような感じなんです。それに心を向けて心を受け入れて波にあたらせているわけです。なにかの意味で。たとえばホラー映画でもテレビで見ただけでもそういう世界に波が合うとすっと引き受けて憑依を受けるんです。敏感な人は顕著に形にでてくるんです。本当に顔つきまで変わってしまうんです、極端に変わってしまうんです。無限の無限チャンネルの何処から波を合わせてひっぱりだしてくるかなんです。
 だから妖怪だ化け物だといって、そういう番組にあわせていると出てくるんです。だから催眠術なんてかけられるでしょ、そうすると自分の立場が無防備になりますよね、まかせているでしょ、そうすると無防備で空白状態ですよね、スット入りやすくなる、ただ入るのを許しているわけです。その時はね、まかせている時はね普段の自分とは違う自分な訳です、空っぽで空白状態なです。
 だからふだんから自分はこういう者だとはっきり意思表示しておいたほうがいいんです。はっきりしておかないと余分な波を自分に持って帰ることになるんです。(質問者:いつも任せることばかり練習しているものですから・・・・)だから任せるところを何処で任せるのか神さまだけに任せるのがいいですね。それはもうありがとうございますで、無限の無限のプラスがいっぱいっていうので任せるのがいいですね。
(不思議な体験だったんですけれども、それは意味の無い事だったのでしょうか)ただ単に波が合っただけの事ですね。(ありがとうございます)ありがとうございます。

質問者:
 さっき憑依ということでお話がありましたが、お酒を飲んでいるときに突然人が変わるということがありますが、それは憑依されたということなのでしょうかそれとも、その人の中潜んでいるものなのが出てくるということなのでしょうか。

ありがとうございます:
 実際そういうことがあるんです。お酒を飲みに行ってはしご酒をする人がいるけれども、実際お酒を本人は飲んでいないです。たいていはお酒を飲む場所にあの世の霊魂でお酒を飲みたい霊魂がたくさんいて、たむろしているんです。それで、波の合うところくっついてその人の体を借りて飲むんです。ある意味では憑依現象なんです。そうすると本人はいくら飲んでも酔わない、はしご酒ができる、背後の霊魂が飲んでいるんです。
 憑依して飲んでいる状態の時には必ず、ピタッと憑依しているから人格が変わってくるんです。普段のその人と別の人格が現れてくるんです、あの世の霊魂がふっと形に出てくるような感じです。だから溜めた物だけが浮かんでというだけではないんです。そういう場合もありますけどね。(そういう人でも場所が変わると)今度は違うのがくっつくんです。ふだんその人のまわりに憑いているだけではなくて、場所場所で居てるのがついてくるのもあるから多重人格になるということもあるんです。楽しんでいるんですよね、いろんな体験ができますよね。

質問者:
 家の父がそういう状態で、普段はいい人なんですけど、お酒を飲むと、別人のようになって大声を出したり、暴力を振るったりするんですけどそれは本人が選んでやっているんでしょうか、それとも、もし助けることができるのなら助けたほうがいいんでしょうか。

ありがとうございます:
 まず本人がお酒をやめないとね。お酒をやめればお酒を通じての縁はないからそういうことは絶対におこらないでしょ。

質問者:
 私も昔はお酒を飲んで、あらぬことを口走ったりしたことがあるのですが、ヨガなどで、心や体のひずみを調整したら、お酒に飲まれるということがなくなった、それは鍛えることによって憑依されにくくなった、ということなのですか

ありがとうございます:
 いえ・・・それは単にお酒に強くなったというだけのことじゃないですか・・・(笑い声・・・)いや飲みすぎて自分の意識がなくなったような状態では憑依されることはあるけれども自分の意識をしっかり保っているような状態では大丈夫ですよ。単にお酒に強くなったということで、お酒に強くなる方法として、ヨガとかいろいろあるのかもしれないですね。お酒に負けない、強くなる方法に慣れただけでも強くなるし、精神的にはもっと強くなりますよね。

質問者:
 お酒を飲んで酔うといつもとぜんぜん違うことをしてしまうとか、まずいことをしてしまったなと記憶している場合がありますが、自分の心のなかにあるドクドクしたものつまり自分の心の一部が表面に現れてそうなるのと、勝手に誰かが入り込む憑依とは意味合いとして違うのではないでしょうか

ありがとうございます:
 自分の中の一部が出てくる場合でも憑依されると増幅されるんです。自分の中だけだと軽いんです。似たようなものが集まって強く増幅されるんです。増幅されると顕著にでますよね憑依現象のほうが増幅が強いんです。楽しい遊びなんですね・・・・

質問者:
 憑依されたようで眠くなっておかしくなったことがありますが、憑依されて眠くなるというのはどんな仕組みになっているんでしょうか

ありがとうございます:
 眠くなるというのは自分の意識=霊魂が肉体から追い出されている状態です。眠る時というのは肉体から魂が抜けるんです。睡眠の時守護霊さんが肉体を管理します。守護神さんの方は魂をひきつれて清めてくれてそれで与えます。魂が抜けて押し出されておかしい状態をあなたに見せただけではないのですか。本当だったら起きている時は自分がしっかり肉体を管理しなくてはいけないでしょ、だから憑依霊のほうが強かった、自分の方が負けたという気持ちになるわけですね。低い番組を見ている霊魂でも低いなりに強い、押しのける力が強いという場合があるんです。

質問者:
 霊が見えるとか憑依されたのを治してもらったという人たちばかりが集まっている集団があったのですが、そこと関わっていたら、自分はそのようなことはないにもかかわらず変な感じになってしまった。それを見かねた5人の人が自分を救いに来てくれて結果的には救われたのですが、自分の中では、その5人に救われたというよりも、守護霊さんに救われたのだという気持ちがするのですが、どうなんでしょうか

ありがとうございます:
 そうですよ、どんな救われ方も守護霊さんを通して助けてくれるんです。守護霊さんが働いて周りの人を使って助けてくれるんです。守護霊さんが働いて心を変えて向きを変えて、番組を変えてくれるんです。だからどんな番組でも自分が心を向けたらそれを受けてしまうんです。そういう体験も一つの番組の世界なんです。それで満足できなかったら別の番組に移っていくんです。そこで、いつまでも見てたらだめだったら、守護霊さんがむりやり引き剥がして別な番組に移してくれるんです。嵌まり込んだら抜けられない人があります。一生涯何十年繰り返しても抜けられない、そんな人もいますが、早めに早めに低い番組から抜けられるのがいいんだけど、これも体験で必要なんですねすね、いろんな番組があるんだな、ということが分かると、もうそういうところに心を傾けなくなるでしょう、一回懲りておけばね。

 感謝の祈りを始めたら本当の神さまの助けがすっと入ってくるでしょう。本当の神さまの助けは中から、本心の自分の力が出てくるんです。だから、自分がしっかり出てくるんです。神さまの助けが必要なくなるんです。中からの自分の力で全部切り開いていけるから、番組選びも自分が選んで螺旋階段を昇っていくんです。それに対して大きい力が宇宙全体から備わってくるんです。それが理想ですよね。自分が弱いと他から強い力で助けてもらってもまた、コロッと変わってしまうでしょう、だから自分を一番強くする方法が、「ありがとうございます」という感謝行なんですよね。

 正直に生きる

質問者:
 道元の禅と神道のめざすものとの違いはなくほとんど同じだが、神道には、方法論がない。と思っていましたが最近ありがとうございますとめぐり合って、神道の方法論は、「ありがとうございます」を唱えることだ、と確信しました。また末法といわれる世に親鸞の南無阿弥陀仏という他力が広まったように、今まさしく末法という時代に「ありがとうございます」が広がってきたように感じるのですがその点どうでしょうか。

ありがとうございます:
 仏教の座禅とかお釈迦様の説かれたものは、ある意味では自力的な一面もありますよね。本当は絶対力が来るのでしょうが、最初は自力ですね、座禅の仕方、お釈迦様の教え方は段階をおって、教えていますよね。最初はこの世の執着を絶つ意味で、白骨観という教え方です。この世は一皮剥けば肉体は血みどろだとか、腹の中をえぐったら、うんこで一杯だとか、いずれは、白骨になって消えてゆくとか執着を取る意味でいえば、こんな醜いつまらないものに執着していても意味はないんだ、というように。だから白骨観って大事ですよね。

 次は無常観です。この世はすべて移り変わってゆく「はかない」「むなしい」という。これも、この世の執着を取りますね。
 次の段階はいいことをえがかせるという段階です。プラスにプラスにという今で言うとイメージトレーニングですね。ただ太陽を見つめるとか水になりきるとかいろいろなプラスのイメージトレーニングをすることによって、今度は、プラスが奥にあるという感覚をよみがえらせていくんです。
 でも、それを一旦全部捨てなくてはいけないんです。イメージトレーニングを捨てて、今度は本物を感じ取る生き方になるんです。ただ単に思うだけではいけないんです。思いを捨てて、今度は感じ取る生き方というのを経て感謝にはいっていくんですけれど、無念無想になっていく生き方というのはまだ感謝とは言いません。そして段々と奥の番組の高い番組へと順番に感じ取りながら入って行こうと言う訳です。だから、ある意味では自力的な努力がいりますね。

 念仏などは本当の他力ですね、唱えるだけで阿弥陀様にすがって作り上げていただこうという感じですね。絶対力というのはもうひとつ上に来ます。最初からみんな救われているんだという立場から出発していて下から行くのではないです。「ありがとうございます」というのは「今新たに神さまから最高の素晴らしいものをいっぱい受けた」という自分から出発するんです。
 ありがとうございますの感謝行は現実から出発しません。天照大神さまからすべてを受けなおした自分。無限に無限に輝いた自分というのを、受けなおした自分から出発してありがとうございます、なんです。最初から救われている自分を前提に置くんです。その自分をすっとこの世に現実化するというありがとうございますが一番無理のない最初から悟っている自分という感覚で受け入れていくんです。

 絶対力ってそうですよね、最初からすでに救われている、悟っているという意味で神さまと一体、それを受け入れるだけのことです。自力・他力・絶対力とあったら、やっぱり絶対力でないと最後の締めくくりにはならないという、ありがとうございますという絶対力の生き方は常に天から降っているんです。誰かが始めたというのではないんです。もし、必要だったらいつの時代にもあったでしょう。ただ最初は自力・他力使うから最後に絶対力に戻る時期が来るまでは誰も感じないだけです。正直に生きていた人はいつの時代も感じていたはずです。自力を超えて他力に入り、他力も超えて絶対力にはいっていくんです、みんな。だから自力も他力も絶対力の中に小さく包み込まれているんです。だから本当は最初から自力も他力もなくって絶対力しかないはずなんです。ただ、絶対力があまりにも凄すぎるんでしょうね、その宇宙として自力他力を利用したという感じですね。

 悟った姿を現実化している途中の過程の姿

質問者:
 ありがとうございます
もそうですが、悟っている自分がなぜ修行をするのでしょうか

ありがとうございます:
 そうですよね。無限に輝く自分・悟っている自分を受けたらあとは、自然に自由自在に動くだけですよね。だから本来ならもう修行する必要はないんです。
 ただ、現実の自分にはちょっと思いが残っているんです。思いがあれこれ考えるんです。それで、あれこれ修行してみたなんて事になるわけですね。思いが動くんです。
 感謝一筋の自分だったら絶対右往左往しない。自由自在で囚われがないんです。だから悟った自分だから悟りの姿を自由自在に現す、ということで別に修行しているわけではないんです。修行して悟ろうとするのではなく悟った姿を現実化している途中の過程の姿なのに、現実を掴んだ人から見ると修行して悟ろうとするからそれが修行してるように見える訳です。だから逆に見るといいですね。悟った自分だからそれを現すために自然な姿でいろいろと形はむいてきているだけ、というように見るとすっきりしますね。

 自然は一番調和した姿として出てくる

質問者:
 海という自然も神の現れだとすると一瞬にして静かだった海がその姿を変えてしまうこともある。自然と神との関係はどうなっているのでしょうか

ありがとうございます:
 大自然とみているものも、番組ごとに全部違うんです。今見ているものの大自然それはその番組だけの自然なんです。低い番組では自然現象でも荒れる訳です。不調和な状態がでてくる訳です。高い番組ほど自然現象として調和した姿をとってくるんです。だから神さまが最高理想の姿として現す自然は一番調和した姿として出てくるんです。必要に応じてスッと調和した姿をとるんです。天気が必要だったら天気だけ現してくれるし、雨が降るのが必要なら雨をスッと降らしてくれるんです。必要に応じて自由自在に大宇宙が姿を現しますよね、高い番組ほどそうです。だから海をぱっと割るんだったら割れる訳です。そんなのはなんでもないことなんです。それが必要だったらすっと出てくるだけなんですから。だから必要性があったら何でもスっと出てくるのが高い番組なんです。低い番組もそれなりに必要なんですけどね。

 番組ごとにそれぞれ違う聞き方、受け方をしている

質問者:
 例えば「お釈迦様はこのように言われたという言葉」と「お釈迦様の言ったことを私はこう聞きました」。という言い方がありますが、個人の番組を見てるというのは、後者のことですよね?

ありがとうございます
 ほんとう、一人一人が一人の人の言葉を聞いても同じように受けていないですね。人によってはまったく正反対に翻訳して聞いている場合もあります。だから、「こう聞いた」と言うのがいいでしょう。お釈迦さんの説法でも、一つの番組に対して言っているのではないんです。この世の人にもあの世の人にもいろんな番組の人に同時に言っているんです。だからいろんな番組の人がそれぞれに聞いているんです。同じ言葉をスっと話されても番組ごとに聞き方が違っているだけなんです。みな番組ごとにそれぞれ違う聞き方、受け方をしている訳なんです。それはそれでいいんですね。それが番組ごとに必要なんです。だから録音でとっても、この録音はこの世の人のためだけですよね。別な番組では違う録音の仕方があるのかも知れない。
 だから、奥のお釈迦さんから見たら、低い番組だと正反対に受けているから「お釈迦さんがこう言った」といって録音を示してもあかんのです。「私はそんなこと言っていないその番組の録音テープが悪いんだ」という感じですよね。人の聞き方が悪いのかもしれないけど低い番組の録音テープが故障しているという感じです。

 置き換えて物事がスッと変わってしまう

質問者:
 ありがとうございますが脚立から落ちて足の骨を折ったことがありましたが、私としては祈りに専念している人が何故このような事になるのかとショックだった。それは誰かのために神の働きとしてそのような事が起こったのでしょうか、その深い意味を教えてください

ありがとうございます:
 これが、この世の人の為かあの世の人の為か、いろんな場合がありますけれど、どういう働きでそうなっているのかはわかりません。ただ、この世の人にとってはそう見ていることもありますし、あの世の人もそう見ている人もあるけれど、もっと高い番組では「落ちてない」という。(エッ、落ちてない番組もあるんですか?)そうです落ちていないんです。落ちてもふわっと降りるのもあるんです。ドサッと落ちて骨が折れるといのもあるんです。それはみんな振り替えです。番組ごとにあるんです。(ありがとうございますの番組では、それをどうとらえているんですか?)私の番組では何もないんです、一瞬一瞬新ただから。過去はもうないんですよ。いろんな番組ごとに表現が違うからそれなりの働きをして消えていくだけなんです。

質問者:
 その時骨が折れた時に、直らなかったらどうしようとかはまったくなかったのですか?

ありがとうございます:
 私はそれよりももっとひどいことを体験しているから骨が折れるなんてたいしたことではないんですハハハ。心臓が止まったり、呼吸が止まったり、そんなこと平気ね、必要があったら、続くだろうし必要があったら直るだろうし、それはもう自由自在。そこには何の疑念も疑惑もなく、「ありがとうございます」です。

 何があっても「ありがとうございます」だけ。
 痛みが来ても ありがとうございます

 激痛が来てもだいじょうぶなんですね ありがとうございます ですね
一瞬を楽しむんです。痛みがずーと続くなんて過去を掴まないんです。一瞬だけを楽しむから一瞬の激痛くらい平気でしょ、過去を全部放すから未来をズーと心配しないんです。今だけと思うから。何があっても今だけ。ありがとうございますと楽しむんです。だから必要だったらサッと治ってしまうんです。不思議ですね。ビックリしますね。(必要だから直ったり、必要だから落ちたりしたんだと思っていらっしゃいますか?) ん・・・いろんな番組を相手にしているからね・・・・

質問者:
 何故折れた骨がすぐに治ってしまうんですか?

ありがとうございます:
 そうね、番組の入れ替えですね。
「折れた」というのはかなり低い番組です。高い番組は絶対折れないんです。ちょっと番組を上へあげるだけでスッと現実化するんです。上からの番組は金剛不壊の体だから絶対に傷つかないんです。スッと変わるんです。ご心配ご無用です。

質問者:
 足が痛くて歩けないという女の子がここに来て、1日か2日したら、普通に歩けるようになって、今では山歩きもできるようになったという話を聞きました。痛みの原因が関節の骨がずれているということなら、それが正常な位置に戻らなければ痛みは消えないと思うのですが、それもその女の子が高い番組に移っていったということなのですか?

ありがとうございます:
 そうですね、応援して番組を切り替えてくれるんです。奇跡って一瞬です。(一瞬のうちに骨組みをスッと変えてしまったということなのですか?) いいえ、置き換えだから現実を変えるのとは違うんです。もともと健康だから置き換えて物事がスッと変わってしまうんです。病気が変化するわけではないんです。瞬間の置き換えだから何でも出来るんです。

 神さまのお手伝いというのが一番幸せ

質問者:
 今年になってありがとうございますのところに通わせてもらうようになって、自分の周囲が変わったと感じます。「おかげさま」と思うのですが、これも、全部ありがとうございますのお祈りのおかげなんでしょうか

ありがとうございます:
 「おかげさま」というのは、宇宙の大神さまの力、「ありがとうございます」の神さまの力なんです。いくら受けてもいいんです。修行せずお酒ばかり飲んでいると言いますが、受け方が上手になってきたんですね、お酒も「おみき」に変わってきたということなんですね。御神酒もいくらいただいてもいいですね、「うれしき」「楽しき」「ありがたき」って幸せ一杯になるだけですものね。
 ほんと、不思議不思議の連続でいいんですよね、あたりまえに解ってしまうとおかしいですよね。神さまは無限に無限に幸せ一杯を大きくして与えようとしていらっしゃるんで、どこまでも不思議ですよね。止まるところはない!幸せは無限に無限にふりそそいでくるんです。
 「ありがとうございます」の神さまがどんどん光をふりまいてみんなを幸せにしてくれるんです。究極はありがとうございますの感謝だと気がついた人はものすごく幸せだということですね。

 これからは、世界を変える世界維新の時代です。維新ということは、いいんですよね。これあらた ということです。世界のいろんな問題は全部過去を掴んでいることから始まっているでしょう。過去のマイナスを掴んで恨んで仕返しをしたりするでしょう、過去を放すという生き方は、これから絶対必要ですよ。惟れ、新た、維新ということはいい言葉ですね。世界がガラッと新しく置き換わって来ます。世界の置き換えがこれから始まってくるんです。その置き換えを神さまがズーッとしていてくれて、それを受けるだけ。だから「ありがとうございます」がどんどん広がっていきます。そして神さまの大きい働きをスッと受けいれするだけそして全部プラスに置き換わっていくという本当の意味の世界維新、明治維新もすばらしかったけれど、世界維新に比べればまだ小さいくらいで、世界維新は本当の最高番組との置き換えです。これからは、世界全体が光り輝くんです。

 これは、下からの努力で変わるんではないんです。神さまが全部一人一人の中に入ってくるんです。中からガラッと変えてくるんです。「最初から悟っているじゃないか」「最初から無限の幸せ一杯じゃないか」てね、神さまがスッと出てくるんです。それでガラっと変わるんです。これ以上の変わり方はないでしょうね。だから皆が幸せ一杯になるんです。
 これは「ありがとうございます」を唱えたから幸せになるのではなくて、神さまが中に入ってきて唱えてくれるんです、大きな声で「常に無限に無限に幸せ一杯だよ」ってね。それが「ありがとうございます」なんです。

質問者:
 ここに来た人たちがまた他の人を連れてきて感謝のの輪がひろまり、感謝が深まってゆくのを感じます。それぞれが、神さまの力を発揮する役割をもって役割を果たしていくんだと思うと単に自分一人の問題ではない気がして、楽しくなります

ありがとうございます:
 そうですね、神さまのお手伝いというのが一番幸せなんです。人の力でするのは限度がありますけど神さまが無限の力を振るってきた時のそのお手伝いだから、すごく楽ですよね。神さまが自分のなかに入って大きい力を振るってくれるんです。無限の可能性があるわけです。自分ひとりだけではなく、お手伝いしたい人を全部使ってくれるから、ものすごくいい働きになって、いいものがどんどん降ってくるんです。神さまのお手伝いをすると何倍もおかげを受けるんです。だから神さまのお手伝いに生きるという事が自分の持っているマイナスを全部引き受けてもらうことなんです。マイナスを全部早く消してもらえるんです。それと神さまのお手伝いということは、神さまが大きい力をふるって自分を使ってくれるから無限のプラスを一杯浴びるんです。両方の効果が出てくるんです。
 今までは自分のマイナスを消すのに自分の力だと思うと、これは例えると無限の借金、高利の借金と同じことです。いくら働いても借金を返せない、利息すら返せない状態と同じです。それで「他力にでもすがろうか」ということになるんですけど他力も全部いっぺんには取ってくれないです。他力で神さまが全部取ってあげようとしても力に限界があるんです一編にゴソッと取ってはくれないですね、すこしづつ取ってくれるから年月がかかるんです。
 でも本当の宇宙の大神さまなら無限の無限の力がいっぱいだから預けた分全部ゴソッと取って消してくれるんです。お手伝いということが自分の持っているマイナスを預ける事なんです。そうするとマイナスはどんどん減ってしまうし同時に大きい無限のプラスを浴びるように受けられるから努力も何も要らない、神さまに自分を使ってもらって、いい事させてもらって幸せ一杯にしてもらうんです。こういう得な生き方はないですよね。ありがとうございますだけが根本にあれば、あとは神さまが使ってくれるだけなんです。

 般若心経とありがとうございます

質問者:
 般若心経は262文字でありがとうございますは10文字だから般若心経を26年間唱えたのと「ありがとうございます」を1年間唱えたのと同じですよね、スピードが速まってきたということですか?

ありがとうございます:
 確かにスピードが速くなっていますね、もっと速いかも知れないですよ。すごい力ですね。

質問者:
 それでよろしんですか。

ありがとうございます:
 いいと思いますね、はい。

質問者:
 そういう人沢山いるんですよ、今まで般若心経と延命十句観音経を唱えて更にマントラを唱えて、という人が、それを止めて「ありがとうございます」変えたら、一気に変わって行った、という話です。

ありがとうございます:
 変わりますね、スピード化しますね。

質問者:
 そういう事例が沢山出てきてます。

ありがとうございます:
 出てきますね。本当にすごい力ですね。

質問者:
 本当なんですよ。

ありがとうございます:
 大祓いの言葉でも、神道の人は唱えるんですけど。もっと長いですね般若心経より。でも「ありがとうございます」でいいのよね、これもね。

 神さまが子供の姿をとって現われる

質問者:
 ご縁を頂いて家族が増えたわけですが、23日が予定なんですけど。生命を頂くということをわかりやすく教えていただければ。

ありがとうございます:
 子供を授かるというのも、自分に必要だから神さまが子供の姿をとって現われてくださるのね。
 自分の幸せを大きくする為に神さまが現われてくださるのね。根本はそうなのね。だから自分の子供じゃないのね、所有物じゃなしに、神さまが子供の姿をとって現われてくれるのね。「自分を幸せにするために」というのが本当なのね。だから感謝して「ありがとうございます」で幸せを大きくしてもらうのね。育っていく過程も見せてもらって素晴らしい移り変わりを見せてもらうんでしょう。
 大人をポッと前に出されても大したことないもんね、はははは。
 花を見るのでもそうよね、花を見るのでも楽しいけど、種から蒔いて途中をずーっと見せてもらうと、本当の花の素晴らしさをもう一つ深く味わえる。そういう意味で‘子供が授かる’というのは、その成長過程を見ることによって、人の本当の素晴らしさ、神さまの本当の変身の凄さを良く味合わせてもらうでしょう。そうすると周りの全ての人も「ああ、素晴らしいなあ」と受けやすくなる。「みんな神さまの現れ」という実感が深くなるほど幸せよね。

 だから、子供は自分が育てるんじゃないの、逆よね。子供にいろいろ素晴らしいプレゼントを与えてもらって、育ててもらってるような感じ。その働きの根本は守護霊さん、守護神さんから来るの。自分に一番相応しい姿で現われてくるのね。一番幸せを与えやすい姿で、必要な姿をとって現われてくれるね。もし、マイナスがちょっとでも見えたら、自分の方にマイナスが残ってるの。それをプラスに変えなさいと言う意味だし。プラスを一杯見せてもらったら、みんな自分のものよね。見ることによって全部自分の心に入ってくるから、ぜんぶ自分の幸せにつながるのね。幸せにしてもらうの、みんなね。

質問者:
 護摩木に赤ちゃんの名前を書いていいんですか。

ありがとうございます

 ありがとうございます 赤ちゃん、いいんじゃない。ははははは。

質問者:
 三女の方は、淡々とした子なんだけど、こんな子なんですけどスッとここへ来れた状態なんです。

ありがとうございます:
 本物がわかるのよね、はははは。本当はみんな模型の方に執われやすいのね。神棚でも仏壇でも本当はみんな模型よね。そこへ心を向ける対象としてはいいけど、それを通して本物へ心を向けるのが一番大事ですよね。本当の神棚・神殿・仏壇というのは、宇宙全体がそうなのね。そういう意味で本物をしっかりとらえる方が大事よね。「ねっ、本物わかるものね」。形にとらわれない。自由自在でいい。

 仲良くやって行く秘訣

質問者:
 家族が仲良くやって行くうえで、何か秘訣といいますか、アドバイス頂きたいと思いますが。(要約)

ありがとうございます:
 難しいこと何もない、一つだけ。心で「ありがとうございます」を唱えたらいいだけよね。
 すると神さまがスッと中から力を添えて湧き上がってくるように助けてくれるよね。そうするといろんな能力も湧き上がるし、いろんな素晴らしい働きをさせてくれるし、幸せもどんどん湧き上がるよね。
 中から幸せが湧き上がったら、何しても幸せになのね。転がっても幸せだし、殴られても幸せ、何があっても幸せに感じるのね。だから「幸せな心が湧き上がる」というのが大事よね。神さまが中から湧き上がらせてくれたら、幸せは絶対崩れない。それも「ありがとうございます」でどんどん呼び出せばいい、本当の神さまをね。
 「ありがとうございます」を唱えるのが神さまを呼んでるのね。呼ばれたらスッと中から湧き上がってくる。それで幸せ一杯にしてくれるのね。もう大丈夫よね「ありがとうございます」って唱えられるもんね。
 何があっても「ありがとうございます」を唱えられたら、全部問題を解決してくれるし、答えを先に持ってきてくれるね。
 計算でもそうよね。難しい何桁もある計算を時間を掛けてするのもいいけど、公式を当てはめたらスッと出るでしょう。もう一ついいのは「答えを持ってくるだけ」虎の巻じゃないけど、スッと答えを持ってくるだけでいいね、一番早いね。「ありがとうございます」と言うと、答えがスッと入ってくるのね。
 だから、いろいろ問題を抱えてても「ありがとうございます」をしばらく唱えたら、問題が問題でなくなって消えてしまうのね。スッと答えが出てくるのね。「既に幸せだった」という事に気付いていくのね。
 どんな問題でもそうよね。答えをスッと持ってきてくれるのが、この「ありがとうございます」の神さま。どんな問題が目の前に出てもすぐに解決できるね。無限の能力の持ち主やね。偶には問題に取り組んでもいいけどね。それに飽きたらすぐに答えを出せばいいよね。
 塾の生徒さんなんかに「ありがとうございます」を唱えさせたり、聞かせたりすると天才の能力がスッと出てくるよね。書かすのもいいよね「ありがとうございます」をね。小さい字でいいよ「何回書きましょうとか、何回唱えましょう」とか、そういうのはいいと思うね。定期的にずーっとすると、中の神さまがスッと現われると天才になるね、知恵が湧き出るのね。知識だけ詰め込むと知恵の通りが悪くなるけど「ありがとうございます」で知恵の通りを良くしておいたら、知識が道具として出せるのよね。詰め込み勉強よりも知恵が湧き出たら理解が早くなる。
 「理解する」というのは大事よね、なんでもね。するとそれは絶対忘れないね。応用がきいて何でもできるよね。だから「ありがとうございます」を唱えて知恵を引っ張り出すチャンスを与えてあげると、知識も生きてくるもんね。それはいろんな方便でいいよ、上手にいろんな方便を自由自在に使いこなして、上手に一回でも「ありがとうございます」を使わせたらいいよね。


 不思議なことが起こる

質問者:
 通信簿とかに書いてるんですけど。先生の言葉をちょっと使わせて頂いたり、○○さんとこの言葉をちょっと使わせていただいて、いいとこ取りして。この前シールを善意の方に配らせていただいたんですね。知恵の通りじゃないんですけども、おおよそ合格するとは思えない子供たちが四・五日前から、合格を頂いてたんですね。合格にしても、一人の子は大変な子で知的障害者で特A判定をもらった子なんですね。その子が大分県の学校の試験を受けに行ったんですが、出来が思わしくなかったんです。昨日合格の通知を頂いたんです。職業訓練もさせて頂けるし、五年間預かってくれるんです。おおよそご縁があるなんて思えない。大分県ですから。その前日には、中学校の時には家出少年で通ってた子なんですが。応用科学の難しいところに「えー?」とか言うぐらいの驚きで合格を頂いたり。来年渡米するのに全然勉強しなかった子でも英検でもフッと合格頂いたり。そのフッというところが「ありがとうございます」と思います。

ありがとうございます:
 誰か一人しっかり「ありがとうございます」を唱えてると、周りの人全部神さまの助けを大きく受けるのよね。(助けですねえ)神さまの助けが大きいねえ、やっぱりねえ。不思議なことが起こるね。


 幸せの輪がどんどん広がる

質問者:
 志願してるわけですから、嫌々じゃないわけですから。

ありがとうございます:
 幸せの輪がどんどん広がっていくもんね。

質問者:
 みなさん「ありがとうございます」というサークルとか、そういうのをやる人が出てます。
例えば、本式に言えばは座禅道みたいなところを作ってやってる人もいますけど。「ありがとうございます」のお祈りを、こちらみたいに五井先生のテープをかけたりしながら、朝、毎日出来なければ週に二回とかやるとか、或いは写経という「ありがとうございます」を書くことをやるとか。そういうことをもしやるという場合。例えば、ありがとうございますに何かお願いをしたら聞いていただけるかどうか。例えば、ありがとうございますに「ありがとうございます」の字を書いてもらうとかね。

ありがとうございます:
 あははは。別に、誰が書いてもいいの、大丈夫。

質問者:
 何か誰かに頼りたいというのが。

ありがとうございます:
 あるけど、別に自由自在でいいよ。だから「ありがとうございます」と心で唱えてスッと自由に書けばいいよね。神さまが書いてくれるよね。だから、「誰か人が…」という必要ないね。

質問者:
 というのは、やはり古神道の立場というのは、人を立てないということですから。ありがとうございますはあまり前面に出して写真なんか掛けてやると教団になってしまうような感じ。

ありがとうございます:
 本当や。そうね、宗教団体になったら困るね。だから、みんな「ありがとうおじさん・おねえさん」にならなあかんね。そのうちに「ありがとうおばさん」になるかも。あははは。かつらでも付けて。声もちょっと変えなあかんけど。はははは。でも、別に私に頼らんでもいいよね、私はいつも奥から助けてるから。誰が書いてもそこへちゃんとお祈りして光送るし。そのぐらいさせていただきます。ははは。
 私が書くと、恥をかく。ははは。


 過去の溜めたものを消していく時代

質問者:
 今の若い人達は道を求める、求道をするということをされてる方も結構いらっしゃるわけですけど。
 それも場所もよくわからないんで、宗教をあちこちかじってしながら、そして最終的に辿り着くところへ辿り着くんですけれども。人によっては必ずしも「ありがとうございます」ではなくて、違う宗教に辿り着く人もいるんですけども。それはそれでいいんでしょうかね。やっぱり本当は神さまの最高表現のところへ行った方が、今生での務めとして一番いいように思うんです。

ありがとうございます:
 これも神さまの助けがすーっと一人一人に入ってくるでしょう。一番自然な形で最短コースの道を歩むんですね。「ありがとうございます」を唱える人が世の中にだいぶ増えてきてますよね。そのお蔭でみんなに光が振り撒かれていくの、自然にね。そうすると過去の心の中に溜まったマイナス因縁というのね、それを消す必要があったら浮かび上がらせて消していくでしょう。その消し方がいろいろな消し方があるんでしょうけどね。いろんなところへまた入って消す働きをするかも知れないね。学び、というより消すほうよね。それですっきりした心になると、中から「ありがとうございます」が湧き出るようになるのね。
 今の時代は新たに「学ぶ」というより、逆に今度は過去の溜めたものを消していく、という時代やね。
 どこへ行ってもいいよね。消していく場としていろんな場を利用するだけよね。消す分は全部神さまが引き受けて消してくれるから。

質問者:
 「消す」ということは、確認なんですけども。普通には心の曇りを取るとか、浄化とかそのこと。

ありがとうございます:
 そうです。いろんな過去に宗教の勉強をしても、全部記憶に止めてるよね。それで教えの縛りにあってしまってるよね。
 特に宗教の縛りはそれが「最高」と思って入ってるからね。これが「絶対」と思ってしまうのね、どんな教えもね。その縛りはもの凄い強いものよね、なかなか抜けないのね。そういうのをぜんぶ心に定着して、しっかり心に縛り付けてるのね。その縛りを取ってもらう意味で「もう一回いろんなところを総復習」という形でさまようような姿をとって、その場でどんどん消しきってもらうのね。浮かび上がってくるという一面よねそれ、あちこちさまようのはね。そして「ありがとうございます」をお祈りする人を通して神さまの大きい光が降り注いで、浮かび出たのを順番に消しきっていくのね。
 新たにいろんな宗教を勉強していくことはないみたいね。「過去の溜め込んだものを消しきってもらう」そういう勉強の仕方やね。それで後は心を自由にして、自由自在の中で神さまを感じ取っていくと思うのね。

質問者:
 確かに今の方々は結構勉強されてて、心を浄化して自分の中のいろんなものを消していけば、おのずと光が入ってくる、ということがわかっているんですよね。その消し方が様々なことをやってるわけですけど。そこへ「ありがとうございます」を持ってくれば非常に…。

ありがとうございます:
 そうね。本人が「ありがとうございます」と言ったら消す側の役目ですね。消してもらう側じゃなしにね。先ず、消してからそこへ入って行くでしょう「ありがとうございます」を唱える自分になって、恩返しで消す側に入っていくよね。それは順番に自然になっていくでしょうね。


 自由自在ないろんな働きが生まれてる

質問者:
 この「ありがとうございます」ということでは、○○さんから入ってる方が多いわけですけれど。こちらから入った方はご商売をされてる方が多い関係で、それが現世利益的なものとか、或いは人に喜ばれるというようなことを言いながら、物質面の現象をとらえるわけですけれど。しかしそこから入ったとしても、一応「ありがとうございます」を唱えているとその人は、そう思わなくても結果的には消してもらってるということになってくるわけですね。それはそれでいいわけですね。

ありがとうございます:
 いいのね。「ありがとうございます」という本当の神さまの働きの中には、自由自在ないろんな働きが生まれてるから。「あ」だけでも働くのよね「ありがとう」でも働くの。丁寧に「ありがとうございます」と唱えるのも働くのよね。自由自在にどういうとこへでも働いてくれるね。でも、神さまを感じる段階に入ったら「ありがとうございます」を全員唱えてくるものね。だから、一人一人自然に変えてもらうの中から。


 「何にでもなれる」というのが本当の自分

金沢の山岸:
 昔修行をしている時に「神さま」というものを「光とか」もの凄い「至福とか」そういう直接体験として感じることが多かったんですけど。もう一つ非常に不思議だったのが、自分が見てた自然が自分になってしまって、自分が自然になっちゃって、自然が自分になっちゃって、というそれがすごく不思議ではあるんですけども。でも、そう不思議でもないという思いがあったけど誰にもいわなかったんですけど。
それって一体何なんでしょうか。

ありがとうございます:
 不思議ですねえ、はははは。元々本当の自分は神さまと一体で、神さまの全てを受け直してるね。
 宇宙の全てが自分でもあるのね。ただ、感謝の自分が「宇宙の全てが自分」と思えるのね、自然にスッとわかるのね。だから、どれが自分であってもいいのね。自然が自分になったり、この肉体が自分であっても、自由自在に入れ替わってもいいのね。ただ、思いのほうがとらわれるのね。思いの自分は「これが自分」と掴んでしまって「これだけが自分」になるのね。そうすると他が自分でなくなってしまう。
 だから「感謝の心」は全部自分でいいのね。それで自由自在に置き換わってもいいのね。「何にでもなれる」というのが本当の自分よね。ある時は「石ころ」になってもいいよね。ある時は「動物」になってもいいしね。

金沢の山岸:
 なんか、それが本当のような気がしたんです。

ありがとうございます:
 本当よね、それが本当よね。

金沢の山岸:
 自然な気がしたんです。

ありがとうございます:
 それが本当に自然な本当の自分よね。だから、思いがちょっと除けられたらそれを感じるね。
 思いの自分になると、また元へ逆戻りして掴んでしまうかも知れないけど。思いのない時は自然にそういうふうに感じるね。「神さま」という感じ方も全体が神さまだから、この世も神さまに感じるのね。あの世の全ても神さまに感じるね、光も神さまだし、幸せも神さまだし、ってね。何もかも神さまに感じられるといいね。
 だから、一通りや二通りの感じ方やないね、無限の感じ方があっていい。

質問者:
 痛みの中にも神がいる。

ありがとうございます:
 あるのね。心地よい痛み、はははは。


 これ、新た

金沢の山岸:
 何回もこだわってるんですけど。ありがとうございますがぐらぐらの脚立から落ちたことがね、僕にとってのメッセージだったんですよ。

ありがとうございます:
 良かったですね、あっはははは。

金沢の山岸:
 「一歩を進みなさい」というね。非常にそれがショックというかね。非常に大きな「愛」を感じたんですけど。神さまのね。

ありがとうございます:
 全てプラスになるね、あははは。いろんな物質化現象というのも、新たに新たにでしょう。現実を変えるためだけと違うもんね。全てが「これ、新た」というんでしょう。だから、どんなマイナスでも一瞬に大きいプラスに変えてくる、というのが本当の神さまの働きですね。これは既に起こっているのね。それを自然にスッと受け入れたらいいだけなのにね。「頑固に拒絶する」というところがあったのね、思いの自分はね。「絶対これは変わることはない」と掴んでしまうとね。

金沢の山岸:
 「一瞬一瞬が神の現れである」という認識に立ったときに、マイナスはないですね。

ありがとうございます
 今、地獄が現われても一瞬に極楽に変わるもんね、必要だったら自由自在に変化する。
 マイナスの姿が目の前に出た時は、心の向きがマイナスへ向いている時よね。それにストップをかけてくれるのね。「この辺で止まったらどう」というね。「止まれ」の看板よ、マイナスの姿という。それで神さまに向けばいい、「ありがとうございます」という向きに変えたらプラスばっかしになるね。
 鏡が大体そうやね。本当の神さまは光り輝く姿だから、神さまのほうへ向いたときは輝きだけが見えるのね。
 ところが逆に闇へ向くと、闇が鏡になるのね。それで自分の状態を「映・移・写」し出すのね。闇へ向いたときは方向が間違ってるから、必ずマイナスの姿が目の前に鏡として出てくるね。恐い姿で出てきたらストップがかかるでしょう。どんなマイナスも「ストップ」をかけてくれてるのね。「これ以上闇へ進みなさんな」という感じやね。だから、ありがたいね。

 私が小さい時、小学生の時に父に山へ連れて行かれて、度胸試しみたいに放ったらかしにされて、降りて行く途中にわき道がいっぱいあるでしょう。それで間違った道に入ると必ず蛇が出てきたの。同じよね、蛇が出てきてストップ掛けてくれた。必ず木の上からぶら下がってるの。それで正しい道へスッと導いてもらってるのよね。
 だからこの世のマイナスの姿は全部そうよね。「これ以上闇のほうへ進む必要はないよ」と、ストップかけてくれてるの。それでもなかなか止めん時は「大きいマイナス」が出てくるよね。悪魔が出てくる。閻魔大王が出てくる。だからプラスばっかしですね、本当にね。神さまの「愛」ばっかしやね。


 元々悟っている救われている

質問者:
 ありがとうございますは中学校の時に、人生の目的がわからなくて「もう生きててもしょうがないや」と思ったときに、そうじゃなくて「それを追求しなさい」ということで目的を持って感謝を深めていったわけですね。それは正に神さまと一体になることだったんでしょう。それが古神道なんでしょう。

ありがとうございます:
 神さまと一緒に歩まないとね。神さまから離れた自分を生きるのは目的も何もなくなるよね。神さまが本当の正しい目的を持ってるのね。神さまと共に歩めたら目的が定まるのね、幸せ一杯にしてもらえるのね。

質問者:
 非常にシンプルなんですが、今の宗教とか、批判をするわけじゃないんですけども。キリスト教にしても、何かの法を説くにしても、教えを言ってるだけで実践の中身というノウハウといいますか、こうやったらこうなるという、シンプルなことを言わずにぐちゃぐちゃとかえって迷いの中へ入れてしまうような、そういう側面がある、と思うんです。

ありがとうございます:
 いいですね、楽しいですね、迷路遊びよ、はははは。

質問者:
 それはやっぱり教団や組織を作ったからですね。

ありがとうございます:
 だから、縛りはいらないですね。

質問者:
 個々が教祖になればいいですね。

ありがとうございます:
 本当、一人一人が自主独立の生き方が大事なのね。「救って欲しい」という立場じゃ損するね。
 「救う側」に立てばいいね、常にね。自分の立場を神さまの側へ置けば、いつも救う側、与える側、助ける側に立っていけば、神さまと共に歩むよね。

質問者:
 元々悟ってるんですし、救われてるんですから。自分のことでそんな悩む必要ないんですよ。

ありがとうございます:
 ねえ、自分の持ち味をそのままスッと出せばいいのよね。

質問者:
 なのに、なのに何故悩むんでしょうか。

ありがとうございます:
 遊んでるんでしょう。はははは。迷路遊びを楽しんでるの。

質問者:
 思いの世界を?

ありがとうございます:
 目がはっきり見えるのに目隠しして遊んでるの。目が見えるというのも幸せだけどね。一回、目を、こうして塞いで生活を一日でもしてみると、本当にまた感謝が深まるもんね。見えることのありがたさってよくわかるよね。思いの世界に入ってしまう、というのは目隠しして歩いているのよね、ある意味ではね。それもやっぱり必要ですよね、一時的にはね。そして思いを捨てて、感謝に生きて目を開けて生きる状態が「幸せ一杯」というのに気付くのね。無駄はないですよ神さまには。至れり尽くせりで。


 不幸は名演技

金沢の山岸
 一部の人、半分ぐらいの人が随分悲観的に世の中を見てるんですけども、ここは逆に古神道の「自分自身が元々悟ってる」ということさえわかれば、全然心配ないですね。

ありがとうございます:
 本当よねえ。何も心配ないでしょう。心配する方がなかなか上手なお芝居ですね、と言われるね。
 幸せを演技するのはそのまま持ち味だから当たり前だけど、不幸な演技をするのは名演技でないとできないね、力が要る。「上手ですねえ」って褒めてあげないとあかん。

質問者:
 「本当に演じてくれてるのかなあ」と思う。難しい演技を。

ありがとうございます:
 「難しい演技を、上手ですねえ」と言わなあかん。本当に難しいことを止めたら、自然にスッといいものに戻るよね。難しくし過ぎてるよね。

質問者:
 難しく考えるような教育を受けたのか、昔からの方法・思いの集積があるのか、両方なんでしょうけど。簡単なことなんですけど。

ありがとうございます:
 「あなたは無限の借金を抱えているんですよ」と言われたら、働く意欲もなくなるよね。求めるばっかしの心になるけど。「あなたは億万長者です」と言われたら、与えるのが大好きになって働くようになってしまうわね。本当の自分は宇宙銀行総裁やね。無限億万長者やね。与える生き方をとって循環させたらどんどん大きくなるだけなのにね。

質問者:
 自分が与えるというよりも、全部任せて神さまが自分の中へ入ってくるわけですから。その時に勝手にやりたいようにやってれば、そのことが与えることに自動的になってる。

ありがとうございます:
 なってるよね。「ありがとうございます」が心になったら、後はもう自然に神さまが働くのね。神さまの働きがいい働きになってるのね、自然にね。何してもいいよね。

金沢の山岸:
 そうすると、また「感謝しかない」。

ありがとうございます:
 感謝しかないよね。


 「な〜んだ」という感じ

質問者:
 ありがとうございますは二十歳の時に、人生の目的をわかったとき「やったあ」というように思いませんでしたか。

ありがとうございます:
 はははは。
 「な〜んだ」という感じ。はははは。
 「な〜んだ、こんなことだったのか、今までバカみたい」はははは。
 「自然に戻ったらスッと気付いた」、というだけよね。つまらんもん掴んで悩んでるのよ、みんなね。

金沢の山岸:
 道元さんの「眼横鼻直(がんのうびちょく)」ですね。当たり前のものが…

ありがとうございます:
 もうそのままで全部いいのよね。

金沢の山岸:
 「な〜んだ」ですか。

質問者:
 御陵は行かれたんですか。

質問者:
 最初先生に会ったときに、行って下さいと言われてお掃除をさせてもらったんですよ。「ええっ! ここを上から下まで一人でするのかなあ」と思って。でも五時間ぐらいでしたかね、結構上からずーっと。

進行:
 ありがとうございます、また葉っぱ一杯落ちてます。

質問者:
 はははは。蛇が出て来えへんかな?と思いながら。もの凄い無知なもんで。先生に「光の柱の中に包まれてたでしょう」とおっしゃったんですよ。「ここに光の柱があるのか」って。

進行:
 それ見えたらおかしいよね。

質問者:
 馬鹿笑いされたんです先生に。

ありがとうございます:
 大きい光の中に自分が入ってしまったら見えないね、光はね。





AR114 2001.12.15.02

 神々の5つの働き

質問者:
 神さまは、拝むと助けてくださるけども、粗相にすると罰が当たるとか。先生の話では罰は当たらないといわれてますが。神さまにもいろいろあって、観音様から、人格神で怒りも喜びもある神さまもいて、お祈りをしていてもどの辺りの神さまにしたらいいのか。神々の世界の構造をお教え願えませんか。(要約)

ありがとうございます:
 神という名前でもピンからキリまでですよね、中身がね。
これは「神」というのを五つの意味にとらえるのが一番わかりやすいのですけど。
先ず「神」という言葉の元になるのが‥‥

 一つ、「隠身・カクリミ」をつづめて「神」になってるんですけど。「隠身」というのは「一番奥に隠れて存在する」という意味で「絶対」を現すのね「絶対神」をね。「絶対」というのは、対立の相対を超えてるので、そこに「無限の無限のプラスが一杯」という光でいうと「光源」で、命でいうと「命の本源」。そこから次にいろんな表現が生まれてくるのね。

 二つ、「仮凝身・カゴリミ」をつづめて「神」なんですけど。「カゴリミ」というのは、仮に凝り固まって形に現われる、という意味で「創造」を現すのね。創造の働きの神を「カゴリミ」というのね。
 「創造」というのは「絶対」から相対の両極に分かれて、それを組み合わせて生まれてくるのね。「絶対」の中には対立がなくてプラスばっかりの感じですけどね。「光と闇」があるとするでしょう「絶対」は光だけなんです。ところが、相対に分かれると、光の中に闇も含まれるんです、小さい闇がね。「光と闇」に振り分けられて、その「光と闇」をいろんな割合で組合すわけですね。そうすると、マイナスの一番極、ブラックホール的な闇があって、プラスの方は、無限の無限の大光源そのものの光がある。その無限の無限の段階の光の表現がすーっと生まれてくる。そういう形で相対の両極に分かれるのが全部組み合わされるんですね。その組み合わせの働きが「創造の働き」なんですね。そして、無限の無限のチャンネルという感じの放送番組がぜんぶ揃うわけ。それで上ほど光が強いのね、下へ行くほど光が乏しくなる世界ね。無限の無限のチャンネルという次元の番組の違いが生まれるわけね、先ず創造の段階でね。

 三つ、「耀身・カガリミ」をつづめて「神」なんですけど。全体を絶対統一する働きの神さまね「統一神」。
一番上に、無限に無限に輝いた光源があって、そこから無限の無限のチャンネルの光の表現がスーッと光一元に生み出されて、その全体を一つに統一した働きが「カガリミの神さま」。

 四つ、「駈身・カケリミ」をつづめて「神」。空を駈け巡るというような神通自在に、自由自在にいろんな働きをする神さまを「カケリミの神さま」。カケリミの神さまが八百万の神さまにあたるわけね。その神さまの働きによって、具体的にいろんな姿・形に物質化現象が起こるわけね。

 五つ、「限身・カギリミ」をつづめて「神」。限定して現してる身というその神通自在の神さまが愛の心でいろんな姿・形に変身するの。これはすべてがそうなのね、原子一個、石ころ一個、植物も動物も全部神さまの変身の姿というのね。それも無限の無限のチャンネルの放送番組に合わせた役割で演じきるわけよね。

 だから、この世の人から眺めると、先ず、チャンネルを変えるとそこに現われる姿・形は全部違うんですね。そのチャンネルを創りあげるのが、本当の意味の八百万の神さまの神通自在の働きなんでね。チャンネルに現われた姿は既に物質化されたカギリミなの、本当はね。無限の無限のチャンネルに既に物質化された姿が全部揃っている、その奥に働くのが八百万の神さまですけどね。

 ただ、この世から見るとちょっと上の次元のチャンネルだと、この世から見たら何か不思議な力を持ってるね。そうすると、上の方は「偉い神さまかな」と思うわけね。その一つの上のチャンネルにしても、無限のいろんな姿があるわけでしょう。人の霊魂の姿にしても、ちょっと上の段階だと、みんな神さまに見えるわけね。そうしたら、一つの番組に無限の神さまがいてるわけ、やっぱりね。この世から見たら「なんて素晴らしいんだろう」という感じね、力のある神さまだと見えるんでしょう。下を見るとやっぱりマイナスに見える神さまがあるわけよね「低級な神さま」と見えるわけよね。この世から見て霊能的に直感で何か感じる人というのは、番組の違う世界を見て感じてるわけよね。

 ちょっと番組が上がった世界が「素晴らしいな」と見てるわけね。それも波長の合った番組で、その中から一部ちょっと感じて「いろんな神さまや仏様が出てきた」と言うのね。
また、低い番組だと、いろんな化け物が出てきたり、妖怪が出て、そこまで行かなかっても、いろんな迷ってる人がいるわけよね。それはまだ本当の八百万の神さまを見てないね。八百万の神さまの変身の姿を見てる、役割の姿を眺めてるのね。本当の八百万の神さまは素晴らしい、全部ね、神通自在なのね。統一神の天照大御神さまの分身としての働きをしてるのね。だから、どんな役割でも自由自在に演じ切れるそういう神さまね。

 舞台に現れてないというと、本体は現われてないね、名優なの全部。番組に合わせてどんな番組にでも完璧に演じ切れるという神通自在の神さまやね。それが本当の八百万の神さまね。
低い番組に役割として現われた姿は、本当は素晴らしい名優なのに、最高の神さまなのに、どんなマイナスの姿でもとるわけでしょう。鬼の姿もとるし、亡者の姿もとるし、化け物や妖怪の姿もとれるというね。表面の姿に惑わされると、本当の意味の八百万の神さまをとらえてないね。

 「神さま」というのは全体が一つなの「ありがとうございます」という言葉は、全体を現す言葉なのね。これは唯一絶対の神さまを呼んでるのね。「絶対」も「創造の働き」も「統一の働き」も「神通自在のカケリミの働き」も「愛の心で限定して現れるすべての物質化された姿」も全部、全部をひっくるめて一つの神さまの働きの全体像になってる。
神さまは一つしかないの、本当の神さまはね。ただ、その働きが大きく五つに分かれて、それがまた細かく分かれると無限に分かれるのね。「神さま」という一つの言葉を使って、どれを自分が今とらえてるかでしょう。バラバラに見ると見方が部分に執われて低い方を眺めてるわけよね。

 無限の無限のチャンネルの姿でも、高い番組ほど一体化した姿に感じるわけね「みんな、一つなんだ」という。何故かというと、絶対が元々一つなのね、一番奥がひとつなのね。高い番組ほど一つに一体化した心で見れるのね。低くなるほどバラバラに見えてくるね、みんな分かれてるような感じに見えてくるね。低いほど小さくなって小さい自分を掴んで「他は自分でない」という感覚になるね。




 神さまは罰を与えるの

質問者:
 お参りして助けてくださるけども、ちょっと粗相をしたら罰を当てて病気にしたりする神さまもいる。

ありがとうございます:
 この世の人が、先ず、自分が「この世」というチャンネルにはまり込んでるのね。そういう一つのチャンネルの中のストーリーに振り回されてるといえばそうよね。ちょっと気持ちをプラスへ向けたら、ちょっと上の段階の番組から、ちょっと何かを感じるわけね。

 神社とかいろんな模型の中へは、本当の神さまは入ってこないよね。あくまでもひとつの番組の中のストーリーに合わせた姿なのね。ちょっと高い番組では模型は要らないから、神社・仏閣も何もないよね。「大自然・大宇宙そのものが神さまの神殿」というとらえ方の番組よね。

 この世はまだ模型に頼ってるところがあるね、模型が必要なんよね。本当の神さまはいないのに、そこを通して本物をとらえようとする生き方をとってる。神社を眺めてもそこに何を認めるかよね。一人一人全部同じ神社にお参りしても違うよね。何を対象にとらえようとしてるか、全部違うよね。

 それはその人の普段の言葉の使い方によって、言葉通りの番組に波長を合わせてるから、高い番組へ波長を合わせた人は、そこから大きい光を感じたりするのね。ところが普段マイナスの言葉を一杯使って低く小さく見てる人は、同じ神社でも低いものしか感じないの。

質問者:
 結論としては「自分たちは絶対の神さまに意識を向けてなさい」というふうにとらえていいんですね。

ありがとうございます:
 そうね。「ありがとうございます」という神さまは本物ですよね、全体が本物の神さまなのね。
だから「何もかもプラスばっかし!」という感覚になるね。

質問者:
 あえて苦しみを与える、人間には苦しみも与えるんですか、その素晴らしい神さまは。修行の過程としてでしょうか、それもあり得る?

ありがとうございます:
 それも受ける側の問題なのねみんな。どういう受け方をしていくかによって、移り変わる姿が体験として変化するわけね。本当は「ありがとうございます」に徹しきったら、全部プラスばっかしの無限の無限のプラスばっかし与えてもらうという感覚で、感謝だけになってくるよね。修行も何もいらないね「みんな神さま」と感じたら、修行はもう必要ないものね。でも、それを感じ取るまでの過程よね。

 いろんな気づき・学びを通じて本当の神さまを感じ取るように、どんどん変化させてもらってるというとそうよね。変化をさせる元の指導の力がどこから来るかというと、本当の神さまからきてる。「早く気づけよ、気づけよ」というような感じで、どんどんいいものを与えてきて、気づかせようと一生懸命働きかけてくるのね。それで最初は部分的にしかとらえてないのが、段々と大きくとらえるようになって、神さまの全体をとらえるわけね。そうすると「ありがとうございます」で全部わかってくるような感覚で、全部教えてもらうような感じで感じ取れるのね。それで「全てが神さま」という感覚になれば、一番幸せな状態においてもらえるのね。

 「一神教」とか「多神教」とかいろいろ説はあるよね。でも一つの神さまが無限に分かれるのね、それもいろんな段階にね。だから、言葉が違うという一面があるね、同じものを指してるのに人の使う言葉が違うだけとかね。「神さま」という言葉と「仏様」という言葉と同じものを指してるかも知れないね。
また、いろんなご本尊様を指し示す言葉は宗派によって全部違うね。それは同じものを指しながら言葉が違うだけというのが多いですね。




 不動明王

質問者:
 ちょっと、話がズレますが。滝行をやる場合に滝の不動明王さまがありますね。滝に打たれる時はその不動明王様にお参りしてからやるんですが。ある時、お参りするというのはなんだろうなと自問自答しながらやってたんです。不動明王じゃなしにその奥に鏡として、自分のはるか上の方に、その神さまに祈ったのかなあというふうな感じがしたんです。偶像というのではなしに、その奥のものにお参りした感じがしたんですが、この辺はいかがでしょうか。

ありがとうございます:
 最初は自分のとらえてる姿が小さいね、低いんですよね。それをどんどん本物の自分を発見する過程で、どんどんいろんな気づきや見方が変化して出てくるわけですね。最初は、物だけを見てる人もあるよね、不動明王なんて認めないよね。でも、不動明王の働きはやっぱりあるわけよね。これも個別の神さまというより、宇宙大の大きい働きを指すの、本当の意味はね。個別神にも小さく分身として出てくるけどね。

 本当は宇宙大の大きい働きを指してるわけ、不動明王というのもね。全てのマイナスを消して自由自在な本当の光り輝いた自分に戻してくれる働きよね。汚れを取ってきれいにしてくれるとかね、マイナスを消してプラスの置き換えるとかね、いろんなそういう働きを指してるのね。

 不動明王を認めるということは、そういう奥の本体の本当の自分の働きを認めてることでもあるのね。またその一番奥の絶対の神さま、本当の神を認めてることでもあるのよね。それを認めることによってそれが自分の中にスーッと入ってくるのね。それで本当の自分がどんどん出てきて、気づきが増えて本当の神さとの関係もよくわかってきて、自然にすーっと中から気づくような感じで変化させられるのね。本物の神さまを感じるのが一番いいのね、その本物の神さまが自然にすーっと出てきたときに、初めて全ての疑問もスッと消えるよね。最初は不動明王を通してかも知れないけどね。その不動明王をも消えて、もうひとつすっきりしたものがスーッと感じられてきたらね。




 本当の自分がスッと舞い降りる

質問者:
 すみません。今日ここに来るまでに、過去を振り返りますと、順番に階段を与えられてきたという気がするんです。今日はあまり来たくなかったんだけど、そんなような導きってあるんですか。

ありがとうございます:
 下から順番に上がる過程では、必ず上からいろんな縁あるところから引っ張り上げてくれるよね。

質問者:
 そうですよね。何か、次の階段、次の階段って、高飛びはできない感じで。過去を見ると順番に階段を上がってきた感じで、導かれてきたのかなあと不思議な感じ。
ありがとうございます:
 ただ、これも上から下へ降りる時期もあるのね。そういう時は自分勝手に自由自在に思い通りに生きてるんですけどね。その時は下へ下へ降りていく過程。その時はあまり人は干渉してこないね。上からも神さまは何も干渉しないね「自由にお楽しみ」という感じでね。ある程度下まで降りると、マイナスが大きくなるとやっぱり困るのね、適当なところでストップかけてくれるの。大きくマイナスが出ると逃げたくなるからね。

 いろんなマイナスは、もっともっと下へ降りようというときにストップをかける働きよね、地獄まで行ったら大変だからね。一番下の番組まで行かんでいいよ、もうね。適当にストップをかけてくれる姿がマイナスに出て、それにぶつかった時はある程度方向転換しますよね。その時からプラスの方へ向いていくのね。プラスへ向いて行くにしても、手助けはあった方がいいもんね、だから身近なところからくるよね、番組でもね。それでスピードがどんどんついてくると、早く上がる場合にはもっと高いところから応援が来るわけね。
 ただ、それも自分の自由意思に合わせてですね「早く上がりたい」という人には、大きい力がスッと入ってくるのね。本当に必要な働きだけがスッと的確に与えられてくるわけ。

 「早く悟りたい」という時は「下から上がってたら遅いから」って、今度は上から本当の自分がスッと舞い降りてくる。自覚が「ガラッと」変わってしまうわね。一歩一歩階段上ったらもう大変なんよ、はははは。下から順番に上げてもらうのもいいんですけどね、今度は上からスッと下へ降りてきたら時間がかからないの。いずれそうなっていくよね。

 だから「ありがとうございます」は、そういう生き方になった時よね。本当の神さまがスッと降りてくる、中から湧いてくるというような感じでね。「悟る」のでも時間は必要ないの、本当はね。「気づき」も時間は必要ないね「スッと」必要だったらわかるというような感覚で、ただ、順番にならせてくれるね、いっぺんにだと大変だからね。
気づきも順番にならせてくれるような感じですーっとわかるようにしてくれてるのね。




 7つのお祈り

質問者:
 いつも「ありがとうございます」をお祈りさせていただいています。その時どういうふうに思ってお祈りをさせてもらったらいいでしょうか。それとも無心で何も考えないで、となるとまた想念が出てきます。

ありがとうございます:
 「ありがとうございます」は、神さまの全体を感じる働きなんで、全体というのは凄く大きいですよね。神さまの働きの全部というのはね。それで、神さまから何を与えられてるか、と気づくための言葉だったら何でもいいんですけどね。神さまのプレゼントがあまりにも大きすぎるのね。無限の無限のプラスといっても足りないぐらいもっともっと大きいでしょう。それを感じて、それを自分として受け直して本当の自分よね。

 私はいつも「ありがとうございます」を言うのは、お礼の感謝が「無限の無限のありがとうございます」を言い続けても、足りない足りないで、まだまだ足りないので「ありがとうございます」を言ってるんですけど。その中身を先ず七つに分けて一応お礼を言ってるんですけどね。

一つ、「いつもいつも大難を無難にし、無限の無限のマイナスを免除してくださってありがとうございます」

二つ、「いつもいつも無限の無限のプラスを新たな全徳の無限の無限の輝きを与え続けてくださってありがとうございます」

三つ、「いつもいつも無限の無限の感謝を湧きあがらせて下さってありがとうございます」

四つ、「いつもいつも無限の無限のプラスを神さまの最高表現を感受させてくださってありがとうございます」

五つ、「いつもいつも無限の無限の感謝の真祈りをさせてくださってありがとうございます」

六つ、「いつもいつも無限の無限の神さまの最高のお手伝いをさせてくださってありがというございます」

七つ、「いつもいつも無限の無限の神さまと一体感を実感させてくださってありがとうございます」




神さまを本当に身近に感じられるまで祈る

ありがとうございます:
 この中身がどんどん変化するのね。それに対するお礼を、どこまでもお礼よね「ありがとうございます、ありがとうございます‥‥」って。無限の無限のありがとうございます、更に無限の無限のありがとうございます、というような感じね。感謝して確認していくという、感謝の心で神さまのプレゼントを確認してるわけね。

 だから、大難を無難にしてもらってるのも、無限に無限にあるのよね。小さい自分にとっても大きい自分にとっても。大難を小難にというだけでもありがたいでしょう。それでも、いつも大難を無難にしてもらってるというのが本当よね。それが無限に無限にいっぱいあるわけね、沢山ね。それをいちいち数えたら数え切れないよ。その上に、無限の無限のマイナスを全部免除してもらってるというね。

 だから、普通、借金でもね、高利の借金は、無限の高利の借金をしたら返せ切れないよね。「全体を自分」と見たら、みんなの無限の無限の借金を全部引き受けて自分が背負うとしたら、それはとても返しきれないもんね。でも、本当の神さまはそんなものは一瞬に消してくれるのね、すごい力でね。

 だから「無限の無限のマイナスをいつも免除し続けてくれてる」というような感じよね。
それに対する「お礼」というのは、なんぼお礼を言うても足りないね。また「無限の無限のプラスをいつも与え続けてくれてる」というのも凄いことよね。「新たな全徳の無限の無限の輝きが一杯」というこの姿が、奥に無限に無限に無限に‥‥続いているんです。ところてん式にズーーッとね、絶対まで続いてるのね。

 次から次に受け続けても、まだまだ無限に無限に無限に‥‥続いてるの、とても受け切れんけどね。それに対する「感謝、お礼」は、いくらしても足りないのね。また、それを与えてもらって受けるのでも、やっぱり自分の感謝って小さいね、浅いね。無限の無限の感謝を湧き上がらせてくれないと受け切れんよね。だから、神さまの力が無限の無限の感謝を湧き上がらせてくれるの。神さまから無限の無限の感謝をもらうわけよね。それを感じ取れる自分に変えてもらって受けるのね。だから、感謝の心が湧き上がって受ける状態になるのね。それでまた無限の無限のプラスを受けさせてもらうわけよね。これも神さまの力で受けさせてもらうのね。それも、神さまの最高表現をというとね、神さまの最高表現は一番上のチャンネルだけなのね。

 全体像よね、やっぱりね。一番下から一番上まで全部揃うから本当の最高表現よね。
一番上だけじゃあ、ちょっと足りないね。無限の無限のチャンネルぜんぶ受けないとあかんのよね。
良いチャンネルだけというのは小さい受け方やね。一番下から一番上までぜんぶ受けて、それを一番最高の表現、というふうに感じ取れて本物よね。そういう感じ方の最高表現の感受の仕方がいいね。

 次は、やっぱり「受ける」のと「本当のお祈り」とは違うのよね。本当のお祈りは「創造の働き」なの。
 無限の無限のチャンネルを生み出す働きが本当のお祈り、感謝の真祈りというのはね。神さまの創造の働きとひとつに融けあって同じ働きをさせてもらうのが感謝の真祈りを祈ることになるのね。

 言うたら、神さまの創造の働きに参加する、一緒に参加させてもらうというのがいいよね。そして、やっぱり神さまの最高のお手伝いというのが一番幸せなのね。いつも神さまと一緒、という感覚になれるのね。神さまの最高のお手伝いとはどういうことかでしょう。

 これはいっぱいあるね、お祈りもそうだし、いろんなこと全部そうよね。そのお手伝いをいろんな形でさせてもらって「ああ、幸せだな、神さまといつも一緒」という感覚よね。最後は神さまとの一体感がどこまでも深まった方がいいね。だからもう「全部自分なんだ」という感覚まで深まる方が神さまとの一体感が深いよね。そういう感覚で「ありがとうございます、ありがとうございます‥‥」を言い続けて、益々神さまを感じ取ろうとしていくのよね。

 だから、この世的にいろんな奇跡が起こって、良いものがどんどん出てくるというのはまだ小さい。何があってもプラスに思えるのは、まだちょっと上よね。それで、ぜんぶ感じ取れるようになってこないとね。それで、神さまを本当に身近に感じ取れたら、本物の感謝になってくるのね。そこまで全部与えてくれるのが「ありがとうございます」という言葉よね。奥深いね、凄い奥深い言葉よこれはね。だから、無限に無限に大きくなってもまだ小さいね。無限に無限に深い状態になってもまだ浅いという。




 一瞬一瞬受け直す謙虚さが本物

質問者:
 できるだけ下座に生きるという感謝の心を深めていったら、何もかもが嫌だと思うことも、それを感謝で受けられるという。

ありがとうございます:
 そうね、後はもう「ありがとうございます」を唱えるだけでいいね。心で唱えるだけでね、神さまの方から全部変えてくれるね。「ありがとうございます」の感謝の中に、神さまがスッと現われて降りて、神さまが持って全部与えてくるのね。そして感謝しているうちに無限に謙虚になる、自然に謙虚になるね。

 何かマイナスの体験をして下へ降りたから謙虚か、そうじゃないね。マイナスを掴んだら謙虚じゃなしに「卑下慢」よね「傲慢」になるね。「本当の謙虚さというのは感謝の中にある」ね。

 だから、神さまの助けでぜんぶ与えてもらうのね、だから「ありがとうございます」って、神さまを呼ぶような感じがいいよね。「神さまぁ〜」て感じで「ありがとうございます」と呼ぶだけでスッと下りてきてくれるのね。すると謙虚さがそのままスッと備わるね。それも一瞬だけの謙虚さでいいね、一瞬一瞬受け直す謙虚さが本物よね。

 神さまから与えてもらって「謙虚」で、もし受けなかったら謙虚さが消えるのね、そのぐらいが本当の謙虚よね。一瞬一瞬呼吸するように「ありがとうございます」と唱えてるうちに、神さまの全てを与えてもらって「ありがとういございます」ってなるのね。その中に必要なものは全部揃ってるのね。一番自然で楽よね。何も自分のものを持たなくて済むね。




 同じ神さまの別名

質問者:
 天照(天照大御神)と無限の無限の一番奥深い関係はどういうふうにとらえたらいいんですか。

ありがとうございます:
 天照大御神、という名前を使うときに、この本物の神さまのひとつの別名というふうにとらえたら、この神さまが全てになるのね「天照大御神」ってね。その神さまの働きの中に、絶対の働き、創造の働きが中にあって、分身の八百万の神さまの働きもあって、物質化された無限の無限のチャンネルの全ての世界があるというふうにみるのね。ただ「どこを中心にみるか」だけですよね。天照大御神さまという名前を出した時は、そこを中心にみてるね。全体を統一する働きとしてみてるのね。

質問者:
 神道の世界で、天之御中主神が宇宙創造神で、その下に天照大御神さまがあるというふうに分けてますけども。

:ありがとうございます
 あれは、働きを説明するために順番に出てくるのね。同じ神さまの別名なの、全部ね。だから、絶対の働きを指す時は「天之御中主神」が最初に出てくるのね。

 その「天之御中主神・あめのみなかぬしのかみ」の働きをもう一つ分けると「高御産巣日神・摩訶御産巣日神(神御産巣日神)」と二つに分かれて、また更に分かれてというね。絶対の働きを細分化して説明してるだけね。創造の働きになると、伊邪那岐の神さまと伊邪那美の神さまが出てくるね。

 それも細分化すると八系統の八神、8×8で64神の名前が出てくるのね。その働きを全部統一した働きを、無限に無限に輝いた姿をとるときに、天照大御神と出てくるのね。その中に月讀命と須佐之男命を中に持ってる大きい意味の天照大神さまが全体を統一するというような気持ちで出てきてるのね。

質問者:
 太陽崇拝とは違うんですね。

ありがとうございます
 これは、人間の方の勝手な思い込みよね。女神さまと言ったり、太陽神だと言ったり、皇室の先祖だと言ったり、そんなんつまらん小さい見方よね。これはもう本物の神さまの全体を指す神の別名、本物の神の別名ととらえたほうがいいね。働きに応じて神名は変わるというだけで、高い番組ほどそれをスッととらえてしまうんだけど。

 低い番組にいくほどバラバラに切ってしまうの、みんなね。それでつながりがないように錯覚するのね。だから、感謝をしてるうちに番組がどんどん上がるとみんなひとつにつながってくるのね。奥へ入れば入るほど、本当にひとつになってしまうのね、感覚がね。後はもう自然に変わりますよ「ありがとうございます」で「ああ、全部ひとつ」という感覚になっていくのね。ただ、働きは無限に分かれてるというのがわかっていいですね。




 世界人類が平和でありますように

質問者:
 テープで、五井先生が出てきます。私は知らないんですが、五井先生と先生は?

ありがとうございます
 「世界人類が平和でありますように」という祈り言葉を提唱されて、世界平和を一筋に祈り続けられた方よね。(あちこちに貼ってあるのが)はい、ありますね。

 本当は宗派を超えて、この「世界人類が平和でありますように」という言葉を「救済の神さまとの約束事」で生まれた言葉だから、この言葉さえ唱えたら大きい力を添えてもらうという言葉ですね。やっぱり、素晴らしい言葉ですよね。先ず、心がグンと広がるでしょう。小さい心がスッと広がって、それで、大きい救済の神さまの大きい光がスッと入ってくるから、気持ちがスーッと大きくなって安らいでくるね、光で一杯になってくるね、素晴らしい言葉なんですけどね。
それをずーっと祈り続けられたという祈りの本尊とも言われて、ものすごい素晴らしい方よね。

 ただ、肉体の五井先生というのと、奥の五井先生はぜんぜん違うのよね。やっぱり奥でないと駄目なのね。肉体はあくまでも受け場よね、光の受け場になってるのね。肉体は受け場としては、一番理想的な受け場は、我がなくなるのがいいよね、空っぽになる方がいいよね。そういう意味では自分の命を神さまに捧げ尽くして、そして無念無想、「空」になる修行をされたのね。五井先生は、やっぱり感謝の「ありがとうございます」を唱えて「空」の状態になってるよね。そうすると空っぽの状態になって、どんな神さまでも自由自在に器を使える場を使えるようになるのね。それで、一番奥の高い神さまも使えるし、段階に応じていろんな神さまも使える。

 だから、いろんな神々のマンション、この肉体がね。だから、五井先生は、その辺りのことが良くわかって、神通自在で本当に自由自在で、大きい神さまの光を受けて、大きい働きをされた方よね。

質問者:
 五井先生のテープ、口笛ですか。(いいでしょう)あれは、何故使われるんです。

ありがとうございます
 あの響きがいいでしょう、響きがいいですね、「浄・清」めの響きがね。

質問者:
 五井先生が瞑想のときに、ああいうふうに柏手を打ったり‥‥

ありがとうございます
 そうです。みんな一緒にこうやって集まってお祈りするときに、雑念が出やすいじゃない。
そうすると雑念に心が執われるものね、音がないとね。大抵、宗教の行法というのは、太鼓を叩くところまで行かなくても、いろんな音響効果を活用しますよね、心の向けどころというのでね。

 鈴の音もいいですしね。そういう意味でこの響き、自然な響きていいですよね。まあ、五井先生の場合は光がスーッと通るんでね。それが息吹が口笛に変化してやわらかい光がスーーッと流れるのね。それも高い段階の光がスーッと流れるからね。どんどん気持ちを高めてもらえるのね。ただ、マイナスを消すだけだったら、強い柏手みたいなのがいいよね、バン!バン!と消してもらうのね。でも、高い響きに合わしていく意味では、自分の気持ちをスーッと高いのに合わす意味なら口笛がいいよね。自然にスーッと上がっていくような感じでね。




 断定的なお祈りが番組を上げる

質問者:
 私も山蔭神道の祝詞(のりと)や禊(みそぎ)なんかをよくやるんですが。その時は、先ず、地球の全ての世界の幸せを先ず祈って、次に、皇尊(すめらみこと)を祈って、次に自分を祈るんですが。やはり、大きなところの幸せを祈っていくのが本物なんでしょうね。自分の家族や自分の幸せを祈るんじゃなしに。

ありがとうございます
 そうね、気持ちが小さくなると低い番組に落ちていくよね、大きく祈ると高くなっていくのね。本当にそうよね。気持ちを広げるほど番組は上がるんです、小さくなると低くなっていくんですね。

質問者:
 自分のことより先ず人のこと。

ありがとうございます
 そうですね、先ず、気持ちを広げる意味で大きくみた方がいいですね。
お祈りはやっぱり断定的なプラスのお祈りがいいですね。「みんなが幸せでありますように」にもいいですけどね。「みんな無限の無限の幸せで一杯!」というような断定ほど高い祈りになっていくのね、番組が上がるんですよね。「もう既にある」という感覚で、既に無限の無限のチャンネルが既に用意されてるから、その一番良いのを受けたらいいという感覚で、高い良いのを受けるほうが神さまは喜ばれるのね。

 「ああ、良くわかってくれたか」というような感じで、はははは。つまらんものを掴んでると「まだよくわかってくれないな」という感じよね。つめの先の垢ぐらいをみてたら「これぐらいじゃあ、まだ、あかんよ」というような感じで。

質問者:
 神さまを感じることはできても、神さまと面と向かって話したことがないから。
ありがとうございます
 面と向かって話してもらえるというのは、ある意味では低い番組の身近なところから出てきてるちょっとした感じよね。大きい意味じゃないですもんね。
本当の大きい神さまは、対立的には出てこないね。スッと自分の中に入ったら自分として出てくるね。自然にスッとわかるような感じで、神さまの心は自分の心として出てくるね。何でも全部そうよね。




 低い神さまほどペラペラ喋ってくる

質問者:
 「神との対話」というベストセラーになった本で、あんまりベラベラしゃべる神さまだな、ちょっとおかしいぞ。という感じだったんですけど。

ありがとうございます:
 そうねえ、低いほどペラペラしゃべってくるね、はははは。もっと低いと、強制的にしゃべってくる、はははは、強制的にいろいろ押し付けてくるね。だから、ちょっと高くなっただけでも、かすかに聞こえるような感じで、ひかえめにひかえめに話してくる。

 もっと高くなったら消えてしまうね、それで、一体化した姿で出てきてくれるのね。中から力を添えるような感じで、知恵を授けるような感じで、自然にスーッと出てくるのよね。無理が全然ないよね。面白いですね、いろんな変化があって。




 「ありがとうございます」の言霊の意味

質問者:
 初めてきて、基本的な質問なんですけど。「ありがとうございます」というのは、神さまの言葉なんですか、神さまなんですか。

ありがとうございます
 神さまの全体像ですね、神さまの働きを全部現す言葉ね。この一字一字に深い意味があって、言霊がバックについてるのね。神さまの働き全体を現す素晴らしい言葉になってるのね。簡単に言いますと‥‥

 「あ」が、絶対を現してるのね。「光源」「いのちの本源」「光」とあるのが「あ」。

 「り」が、ら行音で、らせん状に全てが組み合わさっていくという意味。相対に分かれる全部がらせん状に組み合わさって、相似形の姿で入れ子構造で宇宙が回って「り」で宇宙の創造の働きを指してるのね。

 「が」が「輝きに輝く」で無限に無限に輝く、というこれは「統一」の働きね。

 「とう」は「ありがたし」だと、た行音とさ行音と縦横に十字交差という意味で「とう」で、数字の「十」で、十字交差。相対に分かれたものを十字に組み合わせて大調和させるという意味ね。十字が卍に変わり、高速回転になって円に変わるのね。中心があって同心円的に無限に無限に大調和の姿をとってるのね。

 「ありがとう」で、神さまの最高表現という感じね。

 「ございます」の方では「ご」が凝り固まる。「凝り固まって、凝り固まって」と、無限の無限のチャンネルを生み出す働きで、次元が下がるのね。「物質化して物質化して」という感じでね。無限の無限のチャンネルが生まれるというのが「ご」ね。

 「ざ」は、「ざ」をダブらせて「サラサラ流れる」という感じで、移り変わりを指すのね。それも中から花が咲くような感じで、置き換えの移り変わりよね。変化無常と言うのは大事なのね。変化しないと死んでるのね。動かないよね。バックに無限の無限の輝いたものがあって移り変わるから、変化が「最高に素晴らしい」というふうに感じるよね。仏教の「無常観」は、バックに何もとらえないと「はかない・むなしい」となるのね。本当はバックが本当の無限の無限の輝きがあったら、変化無常ほどいいわけね、最高になるね。そういう意味の「ざ」よね。

 「い」が「命」の「い」で、一個一個の原子すら生きてる、石ころすら生きてる、命を輝かせて躍動して、という感じね。全部命を生きてるんだという意味でね。本当に神さまの命そのものだという意味で「い」がついてるのね。

 「ま」が「まったき・全」という「完全な・完璧な」という絶対から創造されたて、統一されて神通自在の働きのよって無限のチャンネルが生まれて、それが本当に変化して、素晴らしい命の輝きがあって、完璧極まりない、というんで「ま」がつくのね。

 「す」は、もうひとつ奥の一番奥の姿を「す・巣」というね。「あ」のもうひとつ奥よね。常に現われては絶対に戻り、現われては絶対に戻りっていうのを繰り返してるのね。その繰り返しをまた「ます」で、今現われて、また現われて、もっと「いやましにます」という意味で「増えて増えて」と「良いものが増えて」という感じで、それを順番に繰り返してる宇宙ね。

 だから、神さまの働きが、常にそうなのね。本当の神さまの働きの全体をこの「ありがとうございます」で現すわけね。そしたら何も対立がなくなるのね、全部ひとつにスッと取り入れるのね。だから、究極の神名というのね、最後の切り札になってるのね。

質問者:
 ということは、言葉で現した方がいいんですね。心で祈るのもいいけども、現すことも。

ありがとうございます
 別に、それはいいの、心で唱えるのが言葉を唱えてることになるのね。それで奥の神さまの働きが・言霊がスッと感応してくるのね。言霊の方は神さまそのもの、神さまの働きのそのものが言霊なのね。
神さまの働きを受けるのが人の使う言葉ね。心で唱えるのでいいの、基本はね。口に出してもいいですけど、まあ、紙に書いてもいいけど。それはなんでもいいんですけどね、心で唱えるのが基本になってるのね、それだけで充分ですね。
最後に「ありがとうございます」に辿り着くんですよ、みんなね。そうすると心がスッと安らいでくるね、全体がひとつになってしまうね。だから、本当の「安心立命」というのがこの「ありがとうございます」の中にあるみたいね。




 「ありがとう」から「ありがとうございます」へ

質問者:
 「ありがとうございます」を家族とか身近なものに紹介する場合に「神さま」というとまだ現代人にはアレルギーが相当ありますので。ただ、唱えるだけでいいんだよ「ありがとうございます」を言うだけですごいんだよというぐらいでいいですかね。

ありがとうございます
 最初はみんなそうよね「ありがとう」でいいよと言うね。「ありがとうを繰り返したらいい事が一杯起こるよ」って、これでいいのよ、最初はね。だから、最初は「ありがとう」から入っても、唱える回数が増えてくると、自然に「ありがとうございます」に変わるみたいね。それが段々と深くなると、神さまを直感して感じるような感じになるから、益々「ありがとうございます」が丁寧になってくる。

質問者:
 意味がわかってくると、自分のために言ってるような気がするんですが。人に対して、例えば、ささやかなことをしてくれて、それに素直に嬉しい気持ちを現すときに「ありがとう」と言ったほうが通りがいい場合と、その時に「ありがとうございます」と言うと「何を丁寧に言うか」と受け止めた方がびっくりするときがあるんで。

ありがとうございます
 そうよね。それは自由に使い分けよね。本当の神さまに向くときは、宇宙全体を受けるときよね。それで「ありがとうございます」よね。でも小さくちょっとした親切とか、子供に対してとかは「ありがとう」のほうが可愛いよね。まあ、子供さんも「宇宙の大神さまの現われ」と大きく見て拝み上げる時は、そりゃ「ありがとうございます」と言ってもいいけど。そこまでこの世ではしなくてもいいと思う。




 人として生まれてきた意味

質問者:
 人間として生まれてきた役割があると思うんですが、そこのところはまだ迷ってるんですけど、どういうふうに考えたらいいんでしょうね。

ありがとうございます
 自分の役割もピンからキリまで出てくるでしょう。本当の大きい役割は「神さまのプレゼントを全部受け直すこと」よね。神さまそのもの・神さまの全体を受け直さないといけないね。だから「ありがとうございます」で神さまを感じ取るのが一番の役割よね、これが最高の役割になるね。

 この無限の無限のチャンネルの中のひとつのチャンネルをとらえて、それを受けるだけじゃ小さいでしょう。その中のもう一つ小さい肉体の自分をとらえたらもっと小さいでしょう。その自分がどういう役割を演じて働いたって大したことないもんね。それもまあいいんですけどね。まだ役割は無限にピンからキリまであるものね。

 沢山大きく受ける方がいいですよ。だから「ありがとうございます」を回数多く唱えているうちに、大きく大きく受けられるようになってくるんで、既に役割を演じてるのよ、先に。それに気付いていけばいいね。無限の無限のチャンネルで自分が働いてるのね、それで奥では最高のものを全て受け直している自分があるの、本体としてね。それに気付いていくことが大きい役割を果たしてる、というふうに実感していくのね。今からじゃなしに、もうその役割を既に演じきってるのね。その気付きを目指すだけでいいですよね。




 「ありがとうございます」を唱えていたら正しい方へ導かれる

質問者:
 五十五歳になってきて、これから自分の人生を考え直すときに、その場合判断していくには、神さまからの受け取る役割が大きい方の道を選んだ方がいいということですかね。

ありがとうございます
 普通、人は「思い」に生きてるのね。「思い通りにしよう」という生き方ね、思いを積み重ねて生きてますよね。それは小さくなる生き方ね「思い」は、小さいものを掴んでしまうね。
「思う」ということは「一つを掴んでしまう」わね、それで小さくなってしまう。
でも「感謝」は、「掴み」がなくなるのね、広がるのね、掴みがなくなるのね、ぐんぐん広がるわけよね。それが無限に無限に広がったら本当の感謝になって行くのね。だから「ありがとうございます」を唱えているうちに、神さまを全体をとらえるようになってくるね。

質問者:
 わかりやすく右と左と道があるとして、どちらの方が感謝が深くなっていくか、広がっていくか、ということで選んでいったら間違いないということですか。

ありがとうございます
 「ありがとうございます」を唱えたら大きくなっていきますね、自然に良い方を掴んでいくのね。
「ありがとうございます」を忘れずに大事な時はそれを心で唱えるといいですね。迷うときもそうよね、迷ったら「ありがとうございます」を唱えると正しい方を掴んでいく。神さまの助けを受けてね、そして判断するのが一番いいんでね。「ありがとうございます」を唱えてたら正しい方へ導いてもらえるね、一番楽なのよ。

質問者:
 考えないでも導いてもらえるというのがね。

ありがとうございます
 考えて思っても迷うよね、考えるほど迷うよね。でも「ありがとうございます」は一番良いほうを選ばせてくれるね。幸せへの最短コースよね。神さまのほうは全部を見通してるよね、それで最短コースが良くわかるのね。だから、一番早く幸せが大きくなるようにって最短コースを選ばせて導いてくれるのね。
これはもう絶対間違いないね。




 本当の自分は神さま

質問者:
 「本当の自分」というのは、この体なのか、それとももう一人自分の体を動かしてる本当の自分というのがあるんですか。その辺が。

ありがとうございます
 一番「本当の自分というのは神さま」神さましかないでしょう、神さまだけがあるのね。神さまから離れた自分なんかないの、本当はね。神さまが本当の自分で、その部分を掴んだら小さくなってくる、どんどんどんどんね。肉体のこの自分も、本当の自分の一部よね。本当の自分でもあるんだけど、大きくとらえたら宇宙全体が自分でもあるし、神さまのすべてが自分でもある。だから、神さまと自分は切り離せないよ。

 この体一つ神さまとするでしょう、この指も神さまでしょう、根っこじゃないからね、これ「神である」と言えるの、ただ部分ではあるけどね。でもね全体でもあるのよね、切り離せないから。だからどれを自分ととらえるのも自由だけど、小さく部分を掴んでも大きく掴んでもいいわけね。だけど「本当の自分は神さま・絶対の神さま」。

質問者:
 どういったらわかりやすいかな。認識してる自分は我がままでどうしようもない心と、この体は仮の場で、それは神さまというか本当の自分の道具である、と。○○先生は、宇宙とのつながりを強化するように意識を持っていけ、修行をしろ、という言い方をされてますが。そういう見方でもよろしいですかね。

ありがとうございます
 ただ、分けたら損よね、神さまと別個に見るとちょっと離れてしまうわね。でも、あくまでも神さまやね、全体が神さまなのね。つながってる限りは常に全体からの護りがあるわけよね、どの部分もね。
ただ、必要があって役割や働きが違うだけよね。




上手にプラスに思い返してその人の役割を見る

質問者:
 自分が神さまならば相手も神さまで。相手も自分の好きないい人で、先生みたいにいい人じゃあ、そりゃあ神さまと思えるけど、会社の上司とかだと、憎らしいじゃないですか、あんな人が神さまだとね。この前も殴られたですけどね。なんであれが神さまかと思うんですけどね。神さまなんですかねえ。

ありがとうございます
 チャンネルごとにいろんな役割があるわけでしょう。プラスの役割目指してるけど両方必要よね。その受け方も受ける方法はいくらでもあるわね。自分の身代わりに演じてくれてると思うと、ありがたいしね。いっぱい見方がありますよね、プラスにみる見方がね。だから、上手にプラスに思い返したらいいね。

質問者:
 見方がね、そうすると「わざわざ演じてくださっている」そういうふうに?

ありがとうございます
 そうそう。ただ、自分が眺めるんだったら「名演技ね!」って言うて。プラスの自分はプラスの役割は演じやすいですけど、マイナスの演技は演じ難いよね。それを迫真に迫る演技を演じてくださってる人には「名演技ね!」って。

質問者:
 頭叩かれたら、瞬間いろんなことを思って。最終的には自分の中の弱々しい気持ちをしっかり叩いてくれた、と最後はわかったんですけど。




『感謝できる』という自分に気づく

質問者:
 よく守護霊様といいますよね。それは誰にでもあるんですか。

ありがとうございます
 みんなについてるのよね。ただ、それも本当の神さまの働きの一部を自分に合わせてとらえたときの呼び名よね。だから「自分を専属に護ってくれる宇宙の大神さま」というふうにとらえたらいいかも知れないですけどね。それも守護霊さんという言葉を使っても、その中身は全部定義の仕方が違うみたいね。
できるだけ大きくとらえた方がいいね。大きくとらえる方が正しいとらえ方になるね。

質問者:
 こういうところでこういうお話をさせてもらえるというのは、やっぱり神さまが選んでくれたわけですか。縁のない方は先生は会われないと聞いてますが。

ありがとうございます
 今の時期に本当に感謝する人が必要なんでしょう、今ね。感謝して神さまの働きを受け入れてくれる人が増えないと、この世を大きくいい姿に置き換えるのが難しいでしょう。神さまの働きを大きく受け入れる人をどんどん養成してるのね。それで、感謝のできる時期にきた人、そういう人をちょっとここへ寄こしては、確認させてるわけね。「感謝できる」という自分に気付くわけよね、ここでね

質問者:
 自分が確認、来た人が確認。

ありがとうございます
 そうそう。確認するというのは、既に自分がそれを持ってるわけね、わかる自分を持ってて確認するのと、ちょっと励ましてもらうのね、勇気づけてもらうというような感じね。もう既に宇宙の大神さまが中から現われて力を添えてきてるわけ、既にね。気付く時期になって、ちょっと外からの確認があった方がいい、という感じ。その為にここへスッと来るわけよね。




 「ありがとうございます」が一番最高の名前

質問者:
 先ほどから天風先生のお話しが出てますし、キリスト、孔子とかいろんな偉い人には、みんな書物でしか会えない。ですけど先生とこういうふうに対面してると、本当に僕初めてなんですけど。何か人格として入っていくような気がして、とても生きてて幸せだなあと思うんですけども。やっぱり本当は経典とかバイブルとかでは伝えられないことがあるんでしょうね。

ありがとうございます
 言葉で教えで説いても、それに縛られていくでしょう、みんなね。言葉の縛りにあっていくのね、自由を縛るのよね。でも、本当の神さまが人を通してでも働くと、その縛りを全部消してくれるね。言葉で縛るんじゃなしに、その縛りを全部解いてくれるからね、私がどうのこうのではなしに、神さまが働くわけね。
 「ありがとうございます」という神さまがね、私はあくまでも道具やね。(媒体ですか)媒体になって、必要に応じて神さまが光でスッとね、縛りを解いて気付かせてくれるというところがあるのね。
この世に生まれたどんな大聖者といえども大したことないよね、神さまと比べたらね。爪の垢ぐらいなもんよ、つまらんそんなんね。ましてや教えなんてもうひとつつまらんね。

質問者:
 ましてや宗教はそれを守って、そこから外れたら魔女裁判、人殺しとか戦争とか。

ありがとうございます
 ねえ、本当そうよね。そんなんねえ、どんぐりの背比べがいいとこなのにね。
本当の神さまから見たらそういうのはものすごいつまらんものに見えるよね。「そんなん早く消して良いものを受けなさい」という感覚よね、神さまから見たらね。そういう心の縛りを解いてくれるよね。
みなさんも同じなのよ「ありがとうございます」唱えたら、本当の神さまが働いてくれるからね。自分の心の縛りはもうないから、人の心の縛りをどんどん解く働きをどんどんお手伝いさせてもらうのね。もう縛りはないのよ、みんなもう。「ある」と思うほうがおかしいよね。(みんなというのは、ここにいる)そうよ。お祈りし初めた人は全部そうよ。「まだある、まだある」というのはおかしいのよ。みんな神さまの助けを大きく受けてるよね。

質問者:
 ということは、我々のお役目としては、自分のことならば一人でも言えばいいのですか、妻でも子供でも。さっきお話があった「ありがとうございます」を日常生活で言ってればいいということを伝える。

ありがとうございます
 
そうよ。だからみんな「ありがとうお兄様、お姉様」になって。最後にみんな「ありがとうございます」に名前が変わってしまう、あっははは。だから、番組でも高い番組、名前を名乗らないの誰もね。「ありがとうござします」だけになってしまう。神さまと一体化してしまうわね。一瞬一瞬、神通自在に働く神さまほど、名前を名乗らないね。一つの名前を名乗ると働きが限定されるでしょう「これしかできない」となってしまうんでね。もう、常に神通自在、何でもできる神さまね、言葉で縛られたくないんですね。だから、名前をつけないのね。「ありがとうございます」が一番最高の名前らしいですよ、はははは「ありがとうございますって呼んで欲しい」って、はははは。




 ありがとう護摩

質問者:
 初めていろんな質問するんですけど。後ろの掛け軸の「神」というのは先生が書いたのですか。

ありがとうございます
 いえ、いえ、五井先生の書体、これね。古い書体だけど、古いのよね。

質問者:
 ここに「ありがとうございます」と護摩木みたいに書いてあるのは。

ありがとうございます
 これね。護摩というのもいろんなマイナスを消す意味で、素晴らしいんですよ。火の働きでマイナスを消してね。偶々、これ「ありがとうございます」を書いて、護摩をやってみようというふうに言ってくださる人があったのね。それで一回やって見たの、試しにね。やっぱりすごいね。これでも眺めたらね、炎が喜んでるような、ねえ、喜びが炎になってるよね。だから、マイナスを消すんじゃなしに、喜びを現すような感じの護摩があってもいいよね、これね「ありがとう護摩」て言うの。流行りだすかも知れん、はははは。

ありがとうございます:
 書いて下さってもいいよ、来れない人ね。木は沢山なるよね。




 「水からの伝言」などの表面の言葉だけにとらわれない

質問者:
 この本ですが、江本勝さんが書いてる「水からの伝言」水の結晶写真で「愛」と「感謝」はどれも形が違うんですね。「天照大御神さま」の結晶は、中にまた神さまが現われてる。言葉はやっぱりそれだけ波動としてあるんですね。人間の体は70%水ですので、人間の体にも影響を与える言葉ですね。

ありがとうございます
 本当は神さまの働きは、もっともっと神通自在の素晴らしい働きなんで、それはほんの表面の一部分よね。あまり執われすぎない方がいいかも知れないですけどね。ただ、お祈りしていい事があったというとみんなプラスへ向いてお祈りをしたくなるね。水の結晶もデーターとして出て「ありがとうございます」とかプラスのいい言葉を使ったらいい姿になる、というのは励みになるでしょう。ところが逆の結果が出る時があるかも知れないよ、それね。逆の姿が出るかも知れないね、データー的にね、ひょっとしたらね。
そういう時に心が変化するものね、執われてしまうでしょう。

 だから「ありがとうございます」唱えたら必ずプラスの奇跡が起こるとは限らないね。病気の人が「ありがとうございます」唱えて治ったというでしょう。今度「ありがとうございます」唱え続けてて病気になる人があるかも知れないね。でも「ありがとうございます」を唱えることは神さまの助けは必ず降りるんですけどね。病気することが必要だったら病気になるよね。

 だから「ありがとうございます」のシールを貼っててもね、例えばご飯に「ありがとうございます」のシールを貼ったのと「バカヤロー」のシールを貼ったのと二つに分けてすると。普通は「ありがとうございます」は、白く発光していい匂いがするというね。「バカヤロー」の方は黒かびが生えて腐った臭いがするんでしょ。それが逆になる場合があるのね。それがどういう働きかってわからないよやっぱりね。

 黒かびも神さまは生かすかも知れないよ、ねっ。黒かびが人にとって都合が悪いからって言っても、神さまから見たら必要かも知れない、その時は神さまは黒かびを助けてるかも知れない。貴重な存在かも知れない、黒かびもね。そういう時は黒かびが立派になるかも知れないね。

 だから、形で見るマイナスが悪いとは限らないね。本当に必要だったら、マイナスに見える姿になるかも知れない。だから、あまりデーター的に「こうだ、こうだ」と言い切ると、違うのが出たときに「嘘じゃないか」となってしまうのね。
また、表面の言葉だけではわからないね。そこへどういう思いが加わるかによっても違うしね。
「バカヤロー」という言葉に、中身が「ありがとうございます」が入ってたら、表面の言葉がバカヤローでもね、思いが「ありがとうござします」が深く入ったら変わるよね。これだけでもね。可愛い子に「この馬鹿」と叩いても、本当の愛の心で叩いてる場合は愛しか感じないもんね。ところが、頭を撫でて「バカヤロー」と心で思ってたら、はははは。やっぱり「バカヤロー」を感じますよね。だから、表面の言葉だけでは、一概にそれで全てではないんでね、後にいろんな条件が加わってきますよね。

質問者:
 執われちゃあいけない、ということですね。

ありがとうございます
 そうですね。プラスにプラスに受けたらいいですよね。全てに、何が起こってもプラスに受ける生き方だったら間違わないですよね。




 龍神さんの働き

質問者:
 さっき奥さんに、この付近に白龍さんがおるということですが。白龍さんとはどういうあれなんですか。

ありがとうございます
 龍神さんは段階・役割に応じていろんな色合いとるでしょう。一番上が純白の白龍さんですよね。
 黄金の龍になったり、順番に色が付いてくるんですね。青い龍とかね、黒龍さんが一番下になりますよね。ただ、役割の違いね。下に降りるほど、下に合った役割が要るでしょう。白龍さんは「浄・清」めの働きが大きいですね。

 黒龍さんはこの世的な自然現象を起こす働きです。だからいろんなものを物質化するのは黒龍さんよね。雨を降らしたりするのも黒龍さんの方が大きい働きする。

質問者:
 そこで禊をするのはいいことなんですか。

ありがとうございます
 ここはちゃんとお祈りの場だしね。そういう意味では白龍さんが護ってるね。後、いろんな段階の龍神さんが全部付いてるの、ここね。不思議だけど。




 神道と古神道

質問者:
 先生は古神道なんですか

ありがとうございます
 あのね、古神道はね「これが古神道」というたらもう古神道でなくなるんですよ。
古神道を表号すると、看板に出すと、古神道から外れるんです、名乗ったら駄目なのね。
古神道は神さまの働きだけなんですね。教えを出したら、即、外れてしまうの。それに人が中心に立ったら、即、外れるのね、神さまだけが中心なの。神さまの働きだけが全てになるの、そして教えを超えてるの、それでいて全部中にあってもいいのね

質問者:
 今の神社庁の形式的な神道とは違うんでしょうか。

ありがとうございます:
 それは、本当は全体を包容できないですもんね。対立するでしょう、そういうのは小さいですね。全部を包容できるのが古神道よね。何から何まで全部、対立せずに全部中に納められるのが古神道ね。
だから宗派を超えていますよね。

質問者:
 表現がおかしいのかな、本来の日本の神道といったらいいのかなあ。

ありがとうございます
 だから、古い、という意味で使ってる人が多いですよね。‘過去の’というような‘昔’という意味でしょう。でも本当の古神道のほうは、言葉を超越したという「口」の上に「十」を書くでしょう。「言葉を超越した縦横無尽の働き」という意味で、いつも「天から降る・古」という意味がいいんですね。やっぱり言葉の定義が違うんですよね。神さまの言葉の定義と、人の言葉の定義とまた違うの。人の辞書は間違いよ、辞書になんぼいろんな意味を書いてあっても、神さまの辞書には違う意味がある。だから、神さまの解釈をとらえないと、やっぱりね。

質問者:
 神さまの解釈は人の知恵を超えるからとらえられないんじゃないですか。

ありがとうございます
 「ありがとうございます」で、神さまの知恵を受け入れたらちゃんとわからせてもらえるのね。




 言葉にとらわれないで

質問者:
 昔から神さまというと、「大学に受かりますように」とか「いい人にめぐり合えますように」とか、そういう我欲ですよね。あれは簡単に言えば大きな間違いですか。

ありがとうございます
 悪いとは言えないですけど、それなりの助けしかないですね。そういう助けは一番上からは降りてこないね。

質問者:
 大学受験にしても、「受からせてくれ」ではなしに「ありがとうございます」を言い続けて勉強すればいいと。

ありがとうございます
 良かったら通るし、すべった方がいい時はすべりますね、必ずね、はははは。そこは「神さまがいいと認めたものは与えてくれる」からね。そんなん、通ったから良いとは限らないですもんねえ、回り道かも知れないしね。

質問者:
 端的な例で、東大生を何人か知ってるのですが。とんでもない、勉強しか出来なくてですね「自転車のパンクは修理できるのですか」って聞き出すものですから。その時は、世間知らずで大丈夫かなと思ってね。ああいうのは本当に東大へ入るべきじゃないんだけど。

ありがとうございます
 それはやっぱり知識を詰め込みすぎて、知恵の通りが悪くなるのね。機転が利かないでしょう。
だから、知恵が湧かないと。神さまの知恵だったらどんな問題でも解決するのね。知恵を湧き出させるように通路をちゃんと空けとかないとね。それで知識はちょっと道具として使う意味で、ちょっとはいいんですけど。知恵を先に通さないと知識も利用できないですね。

質問者:
 知恵の通り道というのは、どこか場所があるんですか。

ありがとうございます
 いえ、「ありがとうございます」で太くなる。あっははは。

質問者:
 どこか特別なものがあるのかな、と思って。

ありがとうございます
 いいえ、そういう執われはないです。

質問者:
 ヨガで言えばチャクラとか言いますわね。

ありがとうございます
 それも執われになるかも知れないね。その言葉に縛られたら「ここかしら」となるでしょう、本当はそうじゃないよね。「ありがとうございます」だと、力は湧くし、空中からスッとしみ込むし、天から降ってくるし自由自在よね。




 病気直しは私のお祈りの練習だった

質問者:
 ちょっと話は変わりますが。先生は昔「生長の家」で一万人ぐらいの病を治してあげたと伺ってますけど。

ありがとうございます
 いや、別に「生長の家」だけじゃないですね。私は別に宗派を超えてるから、それはいろんな人との付き合いがあったし、それ以外からもいっぱい頼まれたりしてね、何万人て治ってるんですけど。

質問者:
 外気功とは違うんですか。

ありがとうございます
 私の場合はお祈りだけよね。手も当てないし、なにもしない。遠いところの人でもお祈りだけで治ったのね。

質問者:
 奥さんから聞いたんですけど。それはレベルが低くて、本当は先生はレベルが上がって生まれ変わったとさっきちょっと聞いたんですが。

ありがとうございます
 人の病気なんか治したらあかんらしいよ。人の勉強材料を奪ってしまう。私のお祈りの練習よね、あれは。

質問者:
 治してもらった方が、そのことに気が付いてそういう世界へ行けばいいんだけど「ありがとさん」で終わっちゃうということですか。

ありがとうございます
 そうよね。人に助けてもらってそれで喜んでるようでは、勉強材料を取られて喜んでるのと同じですもんね。

質問者:
 それも勉強材料を奪うから、ということで止めちゃったんですか。

ありがとうございます
 本当ね、そういうのはある程度したら卒業ですよね。




 世直しではなく、ちょっと恩返し

質問者:
 今はどういうことでやられてるんですか、世直しということですか。

ありがとうございます
 今は「この世を変えよう」なんてあまり思わないですよね。「無限の無限の輝きが一杯!」というのを「一瞬一瞬受け直す」のに忙しいですよね。本当のお祈りをするほうが忙しいですよね。神さまのを全部受けよう思ったら、忙しくってたまらん、はははは。あんまり幸せ一杯で良い目ばっかりしてたら困るからね。ちょっと恩返しにこういうふうにお話しさせてもらってるのね。恩返しよね。今までみんなに助けてもらってるからね、幸せにしてもらったからったから、恩返しにね。
本当はお祈りだけしてるほうがいいよね、一番幸せな状態で。

質問者:
 でも、先生の事を聞いた仲間がしゃべって、それを聞いた僕が「行きたい」って言うんで○○さんに頼んで「じゃあ、今日行きましょう」ということで。ここで恩返しといわれたことで、また帰ってかみさんとかにいろいろしゃべるとどんどん広がっていく気がするんですけどね。

ありがとうございます
 ただ、ここへ来れる人は限られると思うね。本当に必要な人だけが来るよね。別にここへ来なかってもお祈りできたらみんな幸せになるから。

質問者:
 正月とかは、神さまには日にちは関係ない。

ありがとうございます
 そうよ。だからうちはいつでも「盆と正月」だと言うてるんです、はははは、毎日が盆と正月。遊んでる、遊んでるというより喜んでる。ありがとうございます。
後は一杯飲んで、○○ちゃん飲めるの?ぜんぜん飲めないの?修行しないと、あっはははは。




 祈り方

質問者:
 お祈りは「ありがとうございます」をずっと言い続けるんですか。

ありがとうございます
 そうです。「ありがとうございます」で神さまを感じてるんですけど。そっちが楽しいですね。

質問者:
 さっきの七つの意味を込めて唱えるんですか。

ありがとうございます
 「ありがとうございます」は七つ全部感じるんですけどね。偶々七つも唱えるときもあるけど、もっと他の言葉も使うんですけどね。中身を大きく深くする意味で、確認の意味でそういう意味で唱えるんですけど。後は「ありがとうございます」の中に全部含まれるんですね。「ありがとうございます」言ったらいつも○○ちゃんの顔が大きくバッと出てくる、はははは、目がつぶれそうになる。全身の細胞が全部太陽のように輝いてくる。○○大神さまって。あっはははは。




 柏手の意味

質問者:
 神道の柏手(かしわで)では意味があるんですか、どんな。

ありがとうございます
 普通、神道とか古神道で二回打ちますよね。あれは一番下の「顕界と幽界」「光と闇」の世界に分けて、一番下からぱーっと開くんですよね。光一元に一番奥までスーッと通すんです光をね。それでぜんぶ受け直す意味で、天の「両界・領界」を開いて本当の意味の天岩戸開きをするの。それで天照大御神さまをスッと感じるのね。

 どの神社へお参りしてもパンパンと打って天照大御神さまを感じ取るためにするの。そこの小さい祭神を見るんじゃなしにね。そこの奥の天照大神さまを拝みだすのね。そうするとそこの祭神が天照大御神さまに変身するのね。パンパンと二回叩くのは、天照大御神さまを拝みだしてるの。それで本当の神さまと自分とつないでしまう、一体化してしまう。そういう意味で必要なんですね。「顕界」は光の世界を現すのね。「幽界」は闇の世界を指してる。

質問者:
 そうすると、出雲大社は四回叩くといわれてますが、あれはまた違うんですか。

ありがとうございます
 あれね。四方拝の感じですね。四方八方の四方を拝むという感じでね。意味ちょっと違うんですね。もっと叩くところもあるらしいね。八回叩くとことかね。八方ですね、はははは。

質問者:
 五井先生のテープのは。

ありがとうございます
 これは神社だったら無茶苦茶よね。(※本当は、オーケストラの指揮者が全体を統一して指揮しているいように、みんなの波を「浄・清」めているんですよ)




 無限の無限の深い意味

質問者:
 無限の無限の…、というのは時間、空間‥‥。

ありがとうございます
 無限の無限はもっと深い意味が一杯あるんです。時間と空間という意味ではないんですけどね。
 沢山の意味があるのね。奥深い意味ね。これ一回宿題にしときましょう。あっはははは。

質問者:
 例えば、それは教えて頂けるのですか。

ありがとうございます
 スッと気付くんですね。教えてもらったり、声で聞こえたり、そんなんじゃないね。スッと全体からフッと気付くんです、大きくなると。大きくなると「無限の無限の」がついてくる。それでも足りないからもっとついてくるんですけど。

 ただこの世でそれをあまり喋りすぎると、無限の無限の‥‥(無限だらけ)ねえ「なんとかかんとかジュゲムジュゲム‥‥とか」あっはははは。無限の無限の無限の‥‥と言い続けないとあかんよ「あの人、気が狂った」と言われるね、二つぐらいがいいですよね。




 何も無いところがいい

質問者:
 本当にそこら辺の宗教よりいいですわ。

ありがとうございます
 何も無いとこがいいでしょう。

質問者:
 道具も何も無いんですね。












AR144
2001.12.15.01

 憑依

質問者:
 おかしい憑依されたようでどうもおかしいということがあって、とれるものならお願いしますと言って憑依を取ってもらったのですが、そしたら変な話、すーと幸せ感が湧いてきたんです。いったい憑依というのはどういう構造になっているのか教えてください。

ありがとうございます:
 根本は波に合ったということなんです。波に合うといのは心を向けたということなんです。だから病人の姿やいろんな状態があるんです。もうそっくり肉体の中に魂が入り込むような感じのいろんな姿があります。入り込みというもの、だから癲癇(てんかん)症状をおこすなんてその例なんです。もともとは一人の魂が一人の肉体に入っているんだけど、なにかのショックで肉体から魂が抜ける時があるんです。そういう時に他の霊魂が入り込むんです。それも二人入ったり三人入ったりする場合もあるんです。
 またピタッと入り込むような要因もあるんですね、恨みなんかが強い場合そこに付きっ切りで入り込むとかなりきつい要因的な現象になって分裂的な心になりやすいんです。また軽いのだったらちょっと縁があって波があってそれがスッとかたよってまたスッと離れるような感じなんです。それに心を向けて心を受け入れて波にあたらせているわけです。なにかの意味で。たとえばホラー映画でもテレビで見ただけでもそういう世界に波が合うとすっと引き受けて憑依を受けるんです。敏感な人は顕著に形にでてくるんです。本当に顔つきまで変わってしまうんです、極端に変わってしまうんです。無限の無限チャンネルの何処から波を合わせてひっぱりだしてくるかなんです。
 だから妖怪だ化け物だといって、そういう番組にあわせていると出てくるんです。だから催眠術なんてかけられるでしょ、そうすると自分の立場が無防備になりますよね、まかせているでしょ、そうすると無防備で空白状態ですよね、スット入りやすくなる、ただ入るのを許しているわけです。その時はね、まかせている時はね普段の自分とは違う自分な訳です、空っぽで空白状態なです。
 だからふだんから自分はこういう者だとはっきり意思表示しておいたほうがいいんです。はっきりしておかないと余分な波を自分に持って帰ることになるんです。(質問者:いつも任せることばかり練習しているものですから・・・・)だから任せるところを何処で任せるのか神さまだけに任せるのがいいですね。それはもうありがとうございますで、無限の無限のプラスがいっぱいっていうので任せるのがいいですね。
(不思議な体験だったんですけれども、それは意味の無い事だったのでしょうか)ただ単に波が合っただけの事ですね。(ありがとうございます)ありがとうございます。

質問者:
 さっき憑依ということでお話がありましたが、お酒を飲んでいるときに突然人が変わるということがありますが、それは憑依されたということなのでしょうかそれとも、その人の中潜んでいるものなのが出てくるということなのでしょうか。

ありがとうございます:
 実際そういうことがあるんです。お酒を飲みに行ってはしご酒をする人がいるけれども、実際お酒を本人は飲んでいないです。たいていはお酒を飲む場所にあの世の霊魂でお酒を飲みたい霊魂がたくさんいて、たむろしているんです。それで、波の合うところくっついてその人の体を借りて飲むんです。ある意味では憑依現象なんです。そうすると本人はいくら飲んでも酔わない、はしご酒ができる、背後の霊魂が飲んでいるんです。
 憑依して飲んでいる状態の時には必ず、ピタッと憑依しているから人格が変わってくるんです。普段のその人と別の人格が現れてくるんです、あの世の霊魂がふっと形に出てくるような感じです。だから溜めた物だけが浮かんでというだけではないんです。そういう場合もありますけどね。(そういう人でも場所が変わると)今度は違うのがくっつくんです。ふだんその人のまわりに憑いているだけではなくて、場所場所で居てるのがついてくるのもあるから多重人格になるということもあるんです。楽しんでいるんですよね、いろんな体験ができますよね。

質問者:
 家の父がそういう状態で、普段はいい人なんですけど、お酒を飲むと、別人のようになって大声を出したり、暴力を振るったりするんですけどそれは本人が選んでやっているんでしょうか、それとも、もし助けることができるのなら助けたほうがいいんでしょうか。

ありがとうございます:
 まず本人がお酒をやめないとね。お酒をやめればお酒を通じての縁はないからそういうことは絶対におこらないでしょ。

質問者:
 私も昔はお酒を飲んで、あらぬことを口走ったりしたことがあるのですが、ヨガなどで、心や体のひずみを調整したら、お酒に飲まれるということがなくなった、それは鍛えることによって憑依されにくくなった、ということなのですか

ありがとうございます:
 いえ・・・それは単にお酒に強くなったというだけのことじゃないですか・・・(笑い声・・・)いや飲みすぎて自分の意識がなくなったような状態では憑依されることはあるけれども自分の意識をしっかり保っているような状態では大丈夫ですよ。単にお酒に強くなったということで、お酒に強くなる方法として、ヨガとかいろいろあるのかもしれないですね。お酒に負けない、強くなる方法に慣れただけでも強くなるし、精神的にはもっと強くなりますよね。

質問者:
 お酒を飲んで酔うといつもとぜんぜん違うことをしてしまうとか、まずいことをしてしまったなと記憶している場合がありますが、自分の心のなかにあるドクドクしたものつまり自分の心の一部が表面に現れてそうなるのと、勝手に誰かが入り込む憑依とは意味合いとして違うのではないでしょうか

ありがとうございます:
 自分の中の一部が出てくる場合でも憑依されると増幅されるんです。自分の中だけだと軽いんです。似たようなものが集まって強く増幅されるんです。増幅されると顕著にでますよね憑依現象のほうが増幅が強いんです。楽しい遊びなんですね・・・・

質問者:
 憑依されたようで眠くなっておかしくなったことがありますが、憑依されて眠くなるというのはどんな仕組みになっているんでしょうか

ありがとうございます:
 眠くなるというのは自分の意識=霊魂が肉体から追い出されている状態です。眠る時というのは肉体から魂が抜けるんです。睡眠の時守護霊さんが肉体を管理します。守護神さんの方は魂をひきつれて清めてくれてそれで与えます。魂が抜けて押し出されておかしい状態をあなたに見せただけではないのですか。本当だったら起きている時は自分がしっかり肉体を管理しなくてはいけないでしょ、だから憑依霊のほうが強かった、自分の方が負けたという気持ちになるわけですね。低い番組を見ている霊魂でも低いなりに強い、押しのける力が強いという場合があるんです。

質問者:
 霊が見えるとか憑依されたのを治してもらったという人たちばかりが集まっている集団があったのですが、そこと関わっていたら、自分はそのようなことはないにもかかわらず変な感じになってしまった。それを見かねた5人の人が自分を救いに来てくれて結果的には救われたのですが、自分の中では、その5人に救われたというよりも、守護霊さんに救われたのだという気持ちがするのですが、どうなんでしょうか

ありがとうございます:
 そうですよ、どんな救われ方も守護霊さんを通して助けてくれるんです。守護霊さんが働いて周りの人を使って助けてくれるんです。守護霊さんが働いて心を変えて向きを変えて、番組を変えてくれるんです。だからどんな番組でも自分が心を向けたらそれを受けてしまうんです。そういう体験も一つの番組の世界なんです。それで満足できなかったら別の番組に移っていくんです。そこで、いつまでも見てたらだめだったら、守護霊さんがむりやり引き剥がして別な番組に移してくれるんです。嵌まり込んだら抜けられない人があります。一生涯何十年繰り返しても抜けられない、そんな人もいますが、早めに早めに低い番組から抜けられるのがいいんだけど、これも体験で必要なんですねすね、いろんな番組があるんだな、ということが分かると、もうそういうところに心を傾けなくなるでしょう、一回懲りておけばね。

 感謝の祈りを始めたら本当の神さまの助けがすっと入ってくるでしょう。本当の神さまの助けは中から、本心の自分の力が出てくるんです。だから、自分がしっかり出てくるんです。神の助けが必要なくなるんです。中からの自分の力で全部切り開いていけるから、番組選びも自分が選んで螺旋階段を昇っていくんです。それに対して大きい力が宇宙全体から備わってくるんです。それが理想ですよね。自分が弱いと他から強い力で助けてもらってもまた、コロッと変わってしまうでしょう、だから自分を一番強くする方法が、「ありがとうございます」という感謝行なんですよね。

 正直に生きる

質問者:
 道元の禅と神道のめざすものとの違いはなくほとんど同じだが、神道には、方法論がない。と思っていましたが最近ありがとうございますとめぐり合って、神道の方法論は、「ありがとうございます」を唱えることだ、と確信しました。また末法といわれる世に親鸞の南無阿弥陀仏という他力が広まったように、今まさしく末法という時代に「ありがとうございます」が広がってきたように感じるのですがその点どうでしょうか。

ありがとうございます:
 仏教の座禅とかお釈迦様の説かれたものは、ある意味では自力的な一面もありますよね。本当は絶対力が来るのでしょうが、最初は自力ですね、座禅の仕方、お釈迦様の教え方は段階をおって、教えていますよね。最初はこの世の執着を絶つ意味で、白骨観という教え方です。この世は一皮剥けば肉体は血みどろだとか、腹の中をえぐったら、うんこで一杯だとか、いずれは、白骨になって消えてゆくとか執着を取る意味でいえば、こんな醜いつまらないものに執着していても意味はないんだ、というように。だから白骨観って大事ですよね。

 次は無常観です。この世はすべて移り変わってゆく「はかない」「むなしい」という。これも、この世の執着を取りますね。
 次の段階はいいことをえがかせるという段階です。プラスにプラスにという今で言うとイメージトレーニングですね。ただ太陽を見つめるとか水になりきるとかいろいろなプラスのイメージトレーニングをすることによって、今度は、プラスが奥にあるという感覚をよみがえらせていくんです。
 でも、それを一旦全部捨てなくてはいけないんです。イメージトレーニングを捨てて、今度は本物を感じ取る生き方になるんです。ただ単に思うだけではいけないんです。思いを捨てて、今度は感じ取る生き方というのを経て感謝にはいっていくんですけれど、無念無想になっていく生き方というのはまだ感謝とは言いません。そして段々と奥の番組の高い番組へと順番に感じ取りながら入って行こうと言う訳です。だから、ある意味では自力的な努力がいりますね。

 念仏などは本当の他力ですね、唱えるだけで阿弥陀様にすがって作り上げていただこうという感じですね。絶対力というのはもうひとつ上に来ます。最初からみんな救われているんだという立場から出発していて下から行くのではないです。「ありがとうございます」というのは「今新たに神さまから最高の素晴らしいものをいっぱい受けた」という自分から出発するんです。
 
ありがとうございますの感謝行は現実から出発しません。天照大神さまからすべてを受けなおした自分。無限に無限に輝いた自分というのを、受けなおした自分から出発してありがとうございます、なんです。最初から救われている自分を前提に置くんです。その自分をすっとこの世に現実化するというありがとうございますが一番無理のない最初から悟っている自分という感覚で受け入れていくんです。

 絶対力ってそうですよね、最初からすでに救われている、悟っているという意味で神さまと一体、それを受け入れるだけのことです。自力・他力・絶対力とあったら、やっぱり絶対力でないと最後の締めくくりにはならないという、ありがとうございますという絶対力の生き方は常に天から降っているんです。誰かが始めたというのではないんです。もし、必要だったらいつの時代にもあったでしょう。ただ最初は自力・他力使うから最後に絶対力に戻る時期が来るまでは誰も感じないだけです。正直に生きていた人はいつの時代も感じていたはずです。自力を超えて他力に入り、他力も超えて絶対力にはいっていくんです、みんな。だから自力も他力も絶対力の中に小さく包み込まれているんです。だから本当は最初から自力も他力もなくって絶対力しかないはずなんです。ただ、絶対力があまりにも凄すぎるんでしょうね、その宇宙として自力他力を利用したという感じですね。

 悟った姿を現実化している途中の過程の姿

質問者:
 ありがとうございます もそうですが、悟っている自分がなぜ修行をするのでしょうか

ありがとうございます:
 そうですよね。無限に輝く自分・悟っている自分を受けたらあとは、自然に自由自在に動くだけですよね。だから本来ならもう修行する必要はないんです。
 ただ、現実の自分にはちょっと思いが残っているんです。思いがあれこれ考えるんです。それで、あれこれ修行してみたなんて事になるわけですね。思いが動くんです。
 感謝一筋の自分だったら絶対右往左往しない。自由自在で囚われがないんです。だから悟った自分だから悟りの姿を自由自在に現す、ということで別に修行しているわけではないんです。修行して悟ろうとするのではなく悟った姿を現実化している途中の過程の姿なのに、現実を掴んだ人から見ると修行して悟ろうとするからそれが修行してるように見える訳です。だから逆に見るといいですね。悟った自分だからそれを現すために自然な姿でいろいろと形はむいてきているだけ、というように見るとすっきりしますね。

 自然は一番調和した姿として出てくる

質問者:
 海という自然も神の現れだとすると一瞬にして静かだった海がその姿を変えてしまうこともある。自然と神との関係はどうなっているのでしょうか

ありがとうございます:
 大自然とみているものも、番組ごとに全部違うんです。今見ているものの大自然それはその番組だけの自然なんです。低い番組では自然現象でも荒れる訳です。不調和な状態がでてくる訳です。高い番組ほど自然現象として調和した姿をとってくるんです。だから神さまが最高理想の姿として現す自然は一番調和した姿として出てくるんです。必要に応じてスッと調和した姿をとるんです。天気が必要だったら天気だけ現してくれるし、雨が降るのが必要なら雨をスッと降らしてくれるんです。必要に応じて自由自在に大宇宙が姿を現しますよね、高い番組ほどそうです。だから海をぱっと割るんだったら割れる訳です。そんなのはなんでもないことなんです。それが必要だったらすっと出てくるだけなんですから。だから必要性があったら何でもスっと出てくるのが高い番組なんです。低い番組もそれなりに必要なんですけどね。

 番組ごとにそれぞれ違う聞き方、受け方をしている

質問者:
 例えば「お釈迦様はこのように言われたという言葉」と「お釈迦様の言ったことを私はこう聞きました」。という言い方がありますが、個人の番組を見てるというのは、後者のことですよね?

ありがとうございます:
 ほんとう、一人一人が一人の人の言葉を聞いても同じように受けていないですね。人によってはまったく正反対に翻訳して聞いている場合もあります。だから、「こう聞いた」と言うのがいいでしょう。お釈迦さんの説法でも、一つの番組に対して言っているのではないんです。この世の人にもあの世の人にもいろんな番組の人に同時に言っているんです。だからいろんな番組の人がそれぞれに聞いているんです。同じ言葉をスっと話されても番組ごとに聞き方が違っているだけなんです。みな番組ごとにそれぞれ違う聞き方、受け方をしている訳なんです。それはそれでいいんですね。それが番組ごとに必要なんです。だから録音でとっても、この録音はこの世の人のためだけですよね。別な番組では違う録音の仕方があるのかも知れない。
 だから、奥のお釈迦さんから見たら、低い番組だと正反対に受けているから「お釈迦さんがこう言った」といって録音を示してもあかんのです。「私はそんなこと言っていないその番組の録音テープが悪いんだ」という感じですよね。人の聞き方が悪いのかもしれないけど低い番組の録音テープが故障しているという感じです。

 置き換えて物事がスッと変わってしまう

質問者:
 ありがとうございますが脚立から落ちて足の骨を折ったことがありましたが、私としては祈りに専念している人が何故このような事になるのかとショックだった。それは誰かのために神の働きとしてそのような事が起こったのでしょうか、その深い意味を教えてください

ありがとうございます:
 これが、この世の人の為かあの世の人の為か、いろんな場合がありますけれど、どういう働きでそうなっているのかはわかりません。ただ、この世の人にとってはそう見ていることもありますし、あの世の人もそう見ている人もあるけれど、もっと高い番組では「落ちてない」という。(エッ、落ちてない番組もあるんですか?)そうです落ちていないんです。落ちてもふわっと降りるのもあるんです。ドサッと落ちて骨が折れるといのもあるんです。それはみんな振り替えです。番組ごとにあるんです。(おじさんの番組では、それをどうとらえているんですか?)私の番組では何もないんです、一瞬一瞬新ただから。過去はもうないんですよ。いろんな番組ごとに表現が違うからそれなりの働きをして消えていくだけなんです。

質問者:
 その時骨が折れた時に、直らなかったらどうしようとかはまったくなかったのですか?

ありがとうございます:
 私はそれよりももっとひどいことを体験しているから骨が折れるなんてたいしたことではないんですハハハ。心臓が止まったり、呼吸が止まったり、そんなこと平気ね、必要があったら、続くだろうし必要があったら直るだろうし、それはもう自由自在。そこには何の疑念も疑惑もなく、「ありがとうございます」です。

 何があっても「ありがとうございます」だけ。
 痛みが来ても ありがとうございます

 激痛が来てもだいじょうぶなんですね ありがとうございます ですね
一瞬を楽しむんです。痛みがずーと続くなんて過去を掴まないんです。一瞬だけを楽しむから一瞬の激痛くらい平気でしょ、過去を全部放すから未来をズーと心配しないんです。今だけと思うから。何があっても今だけ。ありがとうございますと楽しむんです。だから必要だったらサッと治ってしまうんです。不思議ですね。ビックリしますね。(必要だから直ったり、必要だから落ちたりしたんだと思っていらっしゃいますか?) ん・・・いろんな番組を相手にしているからね・・・・

質問者:
 何故折れた骨がすぐに治ってしまうんですか?

ありがとうございます:
 そうね、番組の入れ替えですね。
「折れた」というのはかなり低い番組です。高い番組は絶対折れないんです。ちょっと番組を上へあげるだけでスッと現実化するんです。上からの番組は金剛不壊の体だから絶対に傷つかないんです。スッと変わるんです。ご心配ご無用です。

質問者:
 足が痛くて歩けないという女の子がここに来て、1日か2日したら、普通に歩けるようになって、今では山歩きもできるようになったという話を聞きました。痛みの原因が関節の骨がずれているということなら、それが正常な位置に戻らなければ痛みは消えないと思うのですが、それもその女の子が高い番組に移っていったということなのですか?

ありがとうございます:
 そうですね、応援して番組を切り替えてくれるんです。奇跡って一瞬です。(一瞬のうちに骨組みをスッと変えてしまったということなのですか?) いいえ、置き換えだから現実を変えるのとは違うんです。もともと健康だから置き換えて物事がスッと変わってしまうんです。病気が変化するわけではないんです。瞬間の置き換えだから何でも出来るんです。

 神さまのお手伝いというのが一番幸せ

質問者:
 今年になってありがとうございますのところに通わせてもらうようになって、自分の周囲が変わったと感じます。「おかげさま」と思うのですが、これも、全部ありがとうございますのお祈りのおかげなんでしょうか

ありがとうございます:
 「おかげさま」というのは、宇宙の大神さまの力、「ありがとうございます」の神さまの力なんです。いくら受けてもいいんです。修行せずお酒ばかり飲んでいると言いますが、受け方が上手になってきたんですね、お酒も「おみき」に変わってきたということなんですね。御神酒もいくらいただいてもいいですね、「うれしき」「楽しき」「ありがたき」って幸せ一杯になるだけですものね。
 ほんと、不思議不思議の連続でいいんですよね、あたりまえに解ってしまうとおかしいですよね。神さまは無限に無限に幸せ一杯を大きくして与えようとしていらっしゃるんで、どこまでも不思議ですよね。止まるところはない!幸せは無限に無限にふりそそいでくるんです。
 「ありがとうございます」の神さまがどんどん光をふりまいてみんなを幸せにしてくれるんです。究極はありがとうございますの感謝だと気がついた人はものすごく幸せだということですね。

 これからは、世界を変える世界維新の時代です。維新ということは、いいんですよね。これあらた ということです。世界のいろんな問題は全部過去を掴んでいることから始まっているでしょう。過去のマイナスを掴んで恨んで仕返しをしたりするでしょう、過去を放すという生き方は、これから絶対必要ですよ。惟れ、新た、維新ということはいい言葉ですね。世界がガラッと新しく置き換わって来ます。世界の置き換えがこれから始まってくるんです。その置き換えを神さまがズーッとしていてくれて、それを受けるだけ。だから「ありがとうございます」がどんどん広がっていきます。そして神さまの大きい働きをスッと受けいれするだけそして全部プラスに置き換わっていくという本当の意味の世界維新、明治維新もすばらしかったけれど、世界維新に比べればまだ小さいくらいで、世界維新は本当の最高番組との置き換えです。これからは、世界全体が光り輝くんです。

 これは、下からの努力で変わるんではないんです。神さまが全部一人一人の中に入ってくるんです。中からガラッと変えてくるんです。「最初から悟っているじゃないか」「最初から無限の幸せ一杯じゃないか」てね、神さまがスッと出てくるんです。それでガラっと変わるんです。これ以上の変わり方はないでしょうね。だから皆が幸せ一杯になるんです。
 これは「ありがとうございます」を唱えたから幸せになるのではなくて、神さまが中に入ってきて唱えてくれるんです、大きな声で「常に無限に無限に幸せ一杯だよ」ってね。それが「ありがとうございます」なんです。

質問者:
 ありがとうございます村に来た人たちがまた他の人を連れてきて感謝のの輪がひろまり、感謝が深まってゆくのを感じます。それぞれが、神さまの力を発揮する役割をもって役割を果たしていくんだと思うと単に自分一人の問題ではない気がして、楽しくなります

ありがとうございます:
 そうですね、神さまのお手伝いというのが一番幸せなんです。人の力でするのは限度がありますけど神さまが無限の力を振るってきた時のそのお手伝いだから、すごく楽ですよね。神さまが自分のなかに入って大きい力を振るってくれるんです。無限の可能性があるわけです。自分ひとりだけではなく、お手伝いしたい人を全部使ってくれるから、ものすごくいい働きになって、いいものがどんどん降ってくるんです。神さまのお手伝いをすると何倍もおかげを受けるんです。だから神さまのお手伝いに生きるという事が自分の持っているマイナスを全部引き受けてもらうことなんです。マイナスを全部早く消してもらえるんです。それと神さまのお手伝いということは、神さまが大きい力をふるって自分を使ってくれるから無限のプラスを一杯浴びるんです。両方の効果が出てくるんです。
 今までは自分のマイナスを消すのに自分の力だと思うと、これは例えると無限の借金、高利の借金と同じことです。いくら働いても借金を返せない、利息すら返せない状態と同じです。それで「他力にでもすがろうか」ということになるんですけど他力も全部いっぺんには取ってくれないです。他力で神さまが全部取ってあげようとしても力に限界があるんです一編にゴソッと取ってはくれないですね、すこしづつ取ってくれるから年月がかかるんです。
 でも本当の宇宙の大神さまなら無限の無限の力がいっぱいだから預けた分全部ゴソッと取って消してくれるんです。お手伝いということが自分の持っているマイナスを預ける事なんです。そうするとマイナスはどんどん減ってしまうし同時に大きい無限のプラスを浴びるように受けられるから努力も何も要らない、神さまに自分を使ってもらって、いい事させてもらって幸せ一杯にしてもらうんです。こういう得な生き方はないですよね。ありがとうございますだけが根本にあれば、あとは神さまが使ってくれるだけなんです。

質問者:
 般若心経は262文字でありがとうございますは10文字だから般若心経を26年間唱えたのと「ありがとうございます」を1年間唱えたのと同じですよね、スピードが速まってきたということですか?

ありがとうございます:
 確かにスピードが速くなっていますね、もっと速いかも知れないですよ。すごい力ですね。






 憑依(ひょうい)

質問者(しつもんしゃ):
 おかしい憑依(ひょうい)されたようでどうもおかしいということがあって、とれるものならお願(おねが)いしますと言(い)って憑依(ひょうい)を取(と)ってもらったのですが、そしたら変(へん)な話(はなし)、すーと幸(しあわ)せ感(かん)が湧(わ)いてきたんです。いったい憑依(ひょうい)というのはどういう構造(こうぞう)になっているのか教(おし)えてください。

ありがとうございます:
 根本(こんぽん)は波(なみ)に合(あ)ったということなんです。波(なみ)に合(あ)うといのは心(こころ)を向(む)けたということなんです。だから病人(びょうにん)の姿(すがた)やいろんな状態(じょうたい)があるんです。もうそっくり肉体(にくたい)の中(なか)に魂(たましい)が入り込(はいりこ)むような感(かん)じのいろんな姿(すがた)があります。入(い)り込(こ)みというもの、だから癲癇(てんかん)症状(しょうじょう)をおこすなんてその例(れい)なんです。もともとは一人(ひとり)の魂(たましい)が一人(ひとり)の肉体(にくたい)に入(はい)っているんだけど、なにかのショックで肉体(にくたい)から魂(たましい)が抜(ぬ)ける時(とき)があるんです。そういう時(とき)に他(た)の霊魂(れいこん)が入り込(はいりこ)むんです。それも二人(ふたり)入(はい)ったり三(さん)人(にん)入(はい)ったりする場合(ばあい)もあるんです。
 またピタッと入り込(はいりこ)むような要因(よういん)もあるんですね、恨(うら)みなんかが強(つよ)い場合(ばあい)そこに付きっ切(つきっき)りで入り込(はいりこ)むとかなりきつい要因(よういん)的(てき)な現象(げんしょう)になって分裂(ぶんれつ)的(てき)な心(こころ)になりやすいんです。また軽(かる)いのだったらちょっと縁(えん)があって波(なみ)があってそれがスッとかたよってまたスッと離(はな)れるような感(かん)じなんです。それに心(こころ)を向(む)けて心(こころ)を受け入(うけい)れて波(なみ)にあたらせているわけです。なにかの意味(いみ)で。たとえばホラー映画(えいが)でもテレビで見(み)ただけでもそういう世界(せかい)に波(なみ)が合(あ)うとすっと引き受(ひきう)けて憑依(ひょうい)を受(う)けるんです。敏感(びんかん)な人(にん)は顕著(けんちょ)に形(かたち)にでてくるんです。本当(ほんとう)に顔(かお)つきまで変(か)わってしまうんです、極端(きょくたん)に変(か)わってしまうんです。無限(むげん)の無限(むげん)チャンネルの何処(どこ)から波(なみ)を合(あ)わせてひっぱりだしてくるかなんです。
 だから妖怪(ようかい)だ化け物(ばけもの)だといって、そういう番組(ばんぐみ)にあわせていると出(で)てくるんです。だから催眠術(さいみんじゅつ)なんてかけられるでしょ、そうすると自分(じぶん)の立場(たちば)が無防備(むぼうび)になりますよね、まかせているでしょ、そうすると無防備(むぼうび)で空白(くうはく)状態(じょうたい)ですよね、スット入(はい)りやすくなる、ただ入(はい)るのを許(ゆる)しているわけです。その時(とき)はね、まかせている時(とき)はね普段(ふだん)の自分(じぶん)とは違(ちが)う自分(じぶん)な訳(わけ)です、空(から)っぽで空白(くうはく)状態(じょうたい)なです。
 だからふだんから自分(じぶん)はこういう者(しゃ)だとはっきり意思(いし)表示(ひょうじ)しておいたほうがいいんです。はっきりしておかないと余分(よぶん)な波(なみ)を自分(じぶん)に持(も)って帰(かえ)ることになるんです。(質問(しつもん)者(しゃ):いつも任(まか)せることばかり練習(れんしゅう)しているものですから・・・・)だから任(まか)せるところを何処(どこ)で任(まか)せるのか神さま(かみさま)だけに任(まか)せるのがいいですね。それはもうありがとうございますで、無限(むげん)の無限(むげん)のプラスがいっぱいっていうので任(まか)せるのがいいですね。
(不思議(ふしぎ)な体験(たいけん)だったんですけれども、それは意味(いみ)の無(な)い事(こと)だったのでしょうか)ただ単(たん)に波(なみ)が合(あ)っただけの事(こと)ですね。(ありがとうございます)ありがとうございます。

質問(しつもん):
 さっき憑依(ひょうい)ということでお話(おはなし)がありましたが、お酒(さけ)を飲(の)んでいるときに突然(とつぜん)人(ひと)が変(か)わるということがありますが、それは憑依(ひょうい)されたということなのでしょうかそれとも、その人(にん)の中(なか)潜(ひそ)んでいるものなのが出(で)てくるということなのでしょうか。

ありがとうございます:
 実際(じっさい)そういうことがあるんです。お酒(さけ)を飲(の)みに行(い)ってはしご酒(はしござけ)をする人(ひと)がいるけれども、実際(じっさい)お酒(さけ)を本人(ほんにん)は飲(の)んでいないです。たいていはお酒(さけ)を飲(の)む場所(ばしょ)にあの世(よ)の霊魂(れいこん)でお酒(さけ)を飲(の)みたい霊魂(れいこん)がたくさんいて、たむろしているんです。それで、波(なみ)の合(あ)うところくっついてその人(にん)の体(からだ)を借(か)りて飲(の)むんです。ある意味(いみ)では憑依(ひょうい)現象(げんしょう)なんです。そうすると本人(ほんにん)はいくら飲(の)んでも酔(よ)わない、はしご酒(はしござけ)ができる、背後(はいご)の霊魂(れいこん)が飲(の)んでいるんです。
 憑依(ひょうい)して飲(の)んでいる状態(じょうたい)の時(とき)には必(かなら)ず、ピタッと憑依(ひょうい)しているから人格(じんかく)が変(か)わってくるんです。普段(ふだん)のその人(ひと)と別(べつ)の人格(じんかく)が現(あらわ)れてくるんです、あの世(よ)の霊魂(れいこん)がふっと形(かたち)に出(で)てくるような感(かん)じです。だから溜(た)めた物(もの)だけが浮(う)かんでというだけではないんです。そういう場合(ばあい)もありますけどね。(そういう人(じと)でも場所(ばしょ)が変(か)わると)今度(こんど)は違(ちが)うのがくっつくんです。ふだんその人(ひと)のまわりに憑(つ)いているだけではなくて、場所(ばしょ)場所(ばしょ)で居(い)てるのがついてくるのもあるから多重(たじゅう)人格(じんかく)になるということもあるんです。楽(たの)しんでいるんですよね、いろんな体験(たいけん)ができますよね。

質問(しつもん):
 家(いえ)の父(ちち)がそういう状態(じょうたい)で、普段(ふだん)はいい人(ひと)なんですけど、お酒(さけ)を飲(の)むと、別人(べつじん)のようになって大声(おおごえ)を出(だ)したり、暴力(ぼうりょく)を振(ふ)るったりするんですけどそれは本人(ほんにん)が選(えら)んでやっているんでしょうか、それとも、もし助(たす)けることができるのなら助(たす)けたほうがいいんでしょうか。

ありがとうございます:
 まず本人(ほんにん)がお酒(さけ)をやめないとね。お酒(さけ)をやめればお酒(さけ)を通(つう)じての縁(えん)はないからそういうことは絶対(ぜったい)におこらないでしょ。

質問(しつもん):
 私(わたくし)も昔(むかし)はお酒(さけ)を飲(の)んで、あらぬことを口走(くちばし)ったりしたことがあるのですが、ヨガなどで、心(こころ)や体(からだ)のひずみを調整(ちょうせい)したら、お酒(さけ)に飲(の)まれるということがなくなった、それは鍛(きた)えることによって憑依(ひょうい)されにくくなった、ということなのですか

ありがとうございます:
 いえ・・・それは単(たん)にお酒(さけ)に強(つよ)くなったというだけのことじゃないですか・・・(笑い声(わらいごえ)・・・)いや飲(の)みすぎて自分(じぶん)の意識(いしき)がなくなったような状態(じょうたい)では憑依(ひょうい)されることはあるけれども自分(じぶん)の意識(いしき)をしっかり保(たも)っているような状態(じょうたい)では大丈夫(だいじょうぶ)ですよ。単(たん)にお酒(さけ)に強(つよ)くなったということで、お酒(さけ)に強(つよ)くなる方法(ほうほう)として、ヨガとかいろいろあるのかもしれないですね。お酒(さけ)に負(ま)けない、強(つよ)くなる方法(ほうほう)に慣(な)れただけでも強(つよ)くなるし、精神的(せいしんてき)にはもっと強(つよ)くなりますよね。

質問(しつもん):
 お酒(さけ)を飲(の)んで酔(よ)うといつもとぜんぜん違(ちが)うことをしてしまうとか、まずいことをしてしまったなと記憶(きおく)している場合(ばあい)がありますが、自分(じぶん)の心(こころ)のなかにあるドクドクしたものつまり自分(じぶん)の心(こころ)の一部(いちぶ)が表面(ひょうめん)に現(あらわ)れてそうなるのと、勝手(かって)に誰(だれ)かが入り込(はいりこ)む憑依(ひょうい)とは意味合(いみあ)いとして違(ちが)うのではないでしょうか

ありがとうございます:
 自分(じぶん)の中(なか)の一部(いちぶ)が出(で)てくる場合(ばあい)でも憑依(ひょうい)されると増幅(ぞうふく)されるんです。自分(じぶん)の中(なか)だけだと軽(かる)いんです。似(に)たようなものが集(あつ)まって強(つよ)く増幅(ぞうふく)されるんです。増幅(ぞうふく)されると顕著(けんちょ)にでますよね憑依(ひょうい)現象(げんしょう)のほうが増幅(ぞうふく)が強(つよ)いんです。楽(たの)しい遊(あそ)びなんですね・・・・

質問(しつもん):
 憑依(ひょうい)されたようで眠(ねむ)くなっておかしくなったことがありますが、憑依(ひょうい)されて眠(ねむ)くなるというのはどんな仕組(しく)みになっているんでしょうか

ありがとうございます:
 眠(ねむ)くなるというのは自分(じぶん)の意識(いしき)=霊魂(れいこん)が肉体(にくたい)から追い出(おいだ)されている状態(じょうたい)です。眠(ねむ)る時(とき)というのは肉体(にくたい)から魂(たましい)が抜(ぬ)けるんです。睡眠(すいみん)の時(とき)守護(しゅご)霊(れい)さんが肉体(にくたい)を管理(かんり)します。守護神(しゅごしん)さんの方(がた)は魂(たましい)をひきつれて清(きよ)めてくれてそれで与(あた)えます。魂(たましい)が抜(ぬ)けて押し出(おしだ)されておかしい状態(じょうたい)をあなたに見(み)せただけではないのですか。本当(ほんとう)だったら起(お)きている時(とき)は自分(じぶん)がしっかり肉体(にくたい)を管理(かんり)しなくてはいけないでしょ、だから憑依(ひょうい)霊(れい)のほうが強(つよ)かった、自分(じぶん)の方(ほう)が負(ま)けたという気持(きも)ちになるわけですね。低(ひく)い番組(ばんぐみ)を見(み)ている霊魂(れいこん)でも低(ひく)いなりに強(つよ)い、押(お)しのける力(ちから)が強(つよ)いという場合(ばあい)があるんです。

質問(しつもん):
 霊(れい)が見(み)えるとか憑依(ひょうい)されたのを治(なお)してもらったという人(ひと)たちばかりが集(あつ)まっている集団(しゅうだん)があったのですが、そこと関(かか)わっていたら、自分(じぶん)はそのようなことはないにもかかわらず変(へん)な感(かん)じになってしまった。それを見(み)かねた5人(にん)の人(にん)が自分(じぶん)を救(すく)いに来(き)てくれて結果(けっか)的(てき)には救(すく)われたのですが、自分(じぶん)の中(なか)では、その5人(にん)に救(すく)われたというよりも、守護(しゅご)霊(れい)さんに救(すく)われたのだという気持(きも)ちがするのですが、どうなんでしょうか

ありがとうございます:
 そうですよ、どんな救(すく)われ方(かた)も守護(しゅご)霊(れい)さんを通(とお)して助(たす)けてくれるんです。守護(しゅご)霊(れい)さんが働(はたら)いて周(まわ)りの人(ひと)を使(つか)って助(たす)けてくれるんです。守護(しゅご)霊(れい)さんが働(はたら)いて心(こころ)を変(か)えて向(む)きを変(か)えて、番組(ばんぐみ)を変(か)えてくれるんです。だからどんな番組(ばんぐみ)でも自分(じぶん)が心(こころ)を向(む)けたらそれを受(う)けてしまうんです。そういう体験(たいけん)も一(ひと)つの番組(ばんぐみ)の世界(せかい)なんです。それで満足(まんぞく)できなかったら別(べつ)の番組(ばんぐみ)に移(うつ)っていくんです。そこで、いつまでも見(み)てたらだめだったら、守護(しゅご)霊(れい)さんがむりやり引き剥(ひきは)がして別(べつ)な番組(ばんぐみ)に移(うつ)してくれるんです。嵌(は)まり込(こ)んだら抜(ぬ)けられない人(にん)があります。一生涯(いっしょうがい)何(なに)十年(ねん)繰り返(くりかえ)しても抜(ぬ)けられない、そんな人(にん)もいますが、早(はや)めに早(はや)めに低(ひく)い番組(ばんぐみ)から抜(ぬ)けられるのがいいんだけど、これも体験(たいけん)で必要(ひつよう)なんですねすね、いろんな番組(ばんぐみ)があるんだな、ということが分(わ)かると、もうそういうところに心(こころ)を傾(かたむ)けなくなるでしょう、一(いち)回(かい)懲(こ)りておけばね。

 感謝(かんしゃ)の祈(いの)りを始(はじ)めたら本当(ほんとう)の神さま(かみさま)の助(たす)けがすっと入(はい)ってくるでしょう。本当(ほんとう)の神さま(かみさま)の助(たす)けは中(なか)から、本心(ほんしん)の自分(じぶん)の力(ちから)が出(で)てくるんです。だから、自分(じぶん)がしっかり出(で)てくるんです。神(かみ)の助(たす)けが必要(ひつよう)なくなるんです。中(なか)からの自分(じぶん)の力(りょく)で全部(ぜんぶ)切り開(きりひら)いていけるから、番組(ばんぐみ)選(えら)びも自分(じぶん)が選(えら)んで螺旋(らせん)階段(かいだん)を昇(のぼ)っていくんです。それに対(にたい)して大(おお)きい力(ちから)が宇宙(うちゅう)全体(ぜんたい)から備(そな)わってくるんです。それが理想(りそう)ですよね。自分(じぶん)が弱(よわ)いと他(た)から強(つよ)い力(ちから)で助(たす)けてもらってもまた、コロッと変(か)わってしまうでしょう、だから自分(じぶん)を一番(いちばん)強(つよ)くする方法(ほうほう)が、「ありがとうございます」という感謝行(かんしゃぎょう)なんですよね。

 正直(しょうじき)に生(い)きる

質問(しつもん):
 道元(どうげん)の禅(ぜん)と神道(しんとう)のめざすものとの違(ちが)いはなくほとんど同(おな)じだが、神道(しんとう)には、方法論(ほうほうろん)がない。と思(おも)っていましたが最近(さいきん)ありがとうございますとめぐり合(めぐりあ)って、神道(しんとう)の方法論(ほうほうろん)は、「ありがとうございます」を唱(とな)えることだ、と確信(かくしん)しました。また末法(まっぽう)といわれる世(よ)に親鸞(しんらん)の南無(なむ)阿弥陀仏(あみだぶつ)という他力(たりき)が広(ひろ)まったように、今(いま)まさしく末法(まっぽう)という時代(じだい)に「ありがとうございます」が広(ひろ)がってきたように感(かん)じるのですがその点(てん)どうでしょうか。

ありがとうございます:
 仏教(ぶっきょう)の座禅(ざぜん)とかお釈迦様(おしゃかさま)の説(と)かれたものは、ある意味(いみ)では自力(じりき)的(てき)な一面(いちめん)もありますよね。本当(ほんとう)は絶対力(ぜったいりき)が来(く)るのでしょうが、最初(さいしょ)は自力(じりき)ですね、座禅(ざぜん)の仕方(しかた)、お釈迦様(おしゃかさま)の教(おし)え方(がた)は段階(だんかい)をおって、教(おし)えていますよね。最初(さいしょ)はこの世(よ)の執着(しゅうちゃく)を絶(た)つ意味(いみ)で、白骨(はっこつ)観(かん)という教(おし)え方(がた)です。この世(よ)は一皮剥(ひとかわむ)けば肉体(にくたい)は血(ち)みどろだとか、腹(はら)の中(なか)をえぐったら、うんこで一杯(いっぱい)だとか、いずれは、白骨(はっこつ)になって消(き)えてゆくとか執着(しゅうちゃく)を取(と)る意味(いみ)でいえば、こんな醜(みにく)いつまらないものに執着(しゅうちゃく)していても意味(いみ)はないんだ、というように。だから白骨(はっこつ)観(かん)って大事(だいじ)ですよね。

 次(つぎ)は無常観(むじょうかん)です。この世(よ)はすべて移り変(うつりか)わってゆく「はかない」「むなしい」という。これも、この世(よ)の執着(しゅうちゃく)を取(と)りますね。
 次(つぎ)の段階(だんかい)はいいことをえがかせるという段階(だんかい)です。プラスにプラスにという今(いま)で言(い)うとイメージトレーニングですね。ただ太陽(たいよう)を見(み)つめるとか水(みず)になりきるとかいろいろなプラスのイメージトレーニングをすることによって、今度(こんど)は、プラスが奥(おく)にあるという感覚(かんかく)をよみがえらせていくんです。
 でも、それを一旦(いったん)全部(ぜんぶ)捨(す)てなくてはいけないんです。イメージトレーニングを捨(す)てて、今度(こんど)は本物(ほんもの)を感じ取(かんじと)る生き方(いきかた)になるんです。ただ単(たん)に思(おも)うだけではいけないんです。思(おも)いを捨(す)てて、今度(こんど)は感じ取(かんじと)る生き方(いきかた)というのを経(へ)て感謝(かんしゃ)にはいっていくんですけれど、無念無想(むねんむそう)になっていく生き方(いきかた)というのはまだ感謝(かんしゃ)とは言(い)いません。そして段々(だんだん)と奥(おく)の番組(ばんぐみ)の高(たか)い番組(ばんぐみ)へと順番(じゅんばん)に感じ取(かんじと)りながら入(はい)って行(い)こうと言(とい)う訳(わけ)です。だから、ある意味(いみ)では自力(じりき)的(てき)な努力(りょく)がいりますね。

 念仏(ねんぶつ)などは本当(ほんとう)の他力(たりき)ですね、唱(とな)えるだけで阿弥陀(あみだ)様(さま)にすがって作り上(つくりあ)げていただこうという感(かん)じですね。絶対(ぜったい)力(りょく)というのはもうひとつ上(うえ)に来(き)ます。最初(さいしょ)からみんな救(すく)われているんだという立場(たちば)から出発(しゅっぱつ)していて下(した)から行(い)くのではないです。「ありがとうございます」というのは「今(いま)新(あら)たに神(かみ)様(さま)から最高(さいこう)の素晴(すば)らしいものをいっぱい受(う)けた」という自分(じぶん)から出発(しゅっぱつ)するんです。
 ありがとうございますの感謝(かんしゃ)行(いき)は現実(げんじつ)から出発(しゅっぱつ)しません。天照大神(あまてらすおおみかみ)様(さま)からすべてを受(う)けなおした自分(じぶん)。無限(むげん)に無限(むげん)に輝(かがや)いた自分(じぶん)というのを、受(う)けなおした自分(じぶん)から出発(しゅっぱつ)してありがとうございます、なんです。最初(さいしょ)から救(すく)われている自分(じぶん)を前提(ぜんてい)に置(お)くんです。その自分(じぶん)をすっとこの世(よ)に現実(げんじつ)化(か)するというありがとうございますが一番(いちばん)無理(むり)のない最初(さいしょ)から悟(さと)っている自分(じぶん)という感覚(かんかく)で受け入(うけい)れていくんです。

 絶対力(ぜったいりき)ってそうですよね、最初(さいしょ)からすでに救(すく)われている、悟(さと)っているという意味(いみ)で神さま(かみさま)と一体(いったい)、それを受け入(うけい)れるだけのことです。自力(じりき)・他力(たりき)・絶対力(ぜったいりき)とあったら、やっぱり絶対力(ぜったいりき)でないと最後(さいご)の締(し)めくくりにはならないという、ありがとうございますという絶対力(ぜったいりき)の生き方(いきかた)は常(つね)に天(てん)から降(ふ)っているんです。誰(だれ)かが始(はじ)めたというのではないんです。もし、必要(ひつよう)だったらいつの時代(じだい)にもあったでしょう。ただ最初(さいしょ)は自力(じりき)・他力(たりき)使(つか)うから最後(さいご)に絶対力(ぜったいりき)に戻(もど)る時期(じき)が来(く)るまでは誰(だれ)も感(かん)じないだけです。正直(しょうじき)に生(い)きていた人(にん)はいつの時代(じだい)も感(かん)じていたはずです。自力(じりき)を超(こ)えて他力(たりき)に入(い)り、他力(たりき)も超(こ)えて絶対力(ぜったいりき)にはいっていくんです、みんな。だから自力(じりき)も他力(たりき)も絶対力(ぜったいりき)の中(なか)に小(ちい)さく包み込(つつみこ)まれているんです。だから本当(ほんとう)は最初(さいしょ)から自力(じりき)も他力(たりき)もなくって絶対力(ぜったいりき)しかないはずなんです。ただ、絶対力(ぜったいりき)があまりにも凄(すご)すぎるんでしょうね、その宇宙(うちゅう)として自力(じりき)他力(たりき)を利用(りよう)したという感(かん)じですね。

 悟(さと)った姿(すがた)を現実(げんじつ)化(か)している途中(とちゅう)の過程(かてい)の姿(すがた)

質問(しつもん):
 ありがとうございます もそうですが、悟(さと)っている自分(じぶん)がなぜ修行(しゅぎょう)をするのでしょうか

ありがとうございます:
 そうですよね。無限(むげん)に輝(かがや)く自分(じぶん)・悟(さと)っている自分(じぶん)を受(う)けたらあとは、自然(しぜん)に自由(じゆう)自在(じざい)に動(うご)くだけですよね。だから本来(ほんらい)ならもう修行(しゅぎょう)する必要(ひつよう)はないんです。
 ただ、現実(げんじつ)の自分(じぶん)にはちょっと思(おも)いが残(のこ)っているんです。思(おも)いがあれこれ考(かんが)えるんです。それで、あれこれ修行(しゅぎょう)してみたなんて事(こと)になるわけですね。思(おも)いが動(うご)くんです。
 感謝(かんしゃ)一筋(ひとすじ)の自分(じぶん)だったら絶対(ぜったい)右往左往(うおうさおう)しない。自由(じゆう)自在(じざい)で囚(とら)われがないんです。だから悟(さと)った自分(じぶん)だから悟(さと)りの姿(すがた)を自由(じゆう)自在(じざい)に現(あらわ)す、ということで別(べつ)に修行(しゅぎょう)しているわけではないんです。修行(しゅぎょう)して悟(さと)ろうとするのではなく悟(さと)った姿(すがた)を現実(げんじつ)化(か)している途中(とちゅう)の過程(かてい)の姿(すがた)なのに、現実(げんじつ)を掴(つか)んだ人(にん)から見(み)ると修行(しゅぎょう)して悟(さと)ろうとするからそれが修行(しゅぎょう)してるように見(み)える訳(わけ)です。だから逆(ぎゃく)に見(み)るといいですね。悟(さと)った自分(じぶん)だからそれを現(あらわ)すために自然(しぜん)な姿(すがた)でいろいろと形(かたち)はむいてきているだけ、というように見(み)るとすっきりしますね。

 自然(しぜん)は一番(いちばん)調和(ちょうわ)した姿(すがた)として出(で)てくる

質問(しつもん):
 海(うみ)という自然(しぜん)も神(かみ)の現(あらわ)れだとすると一瞬(いっしゅん)にして静(しず)かだった海(うみ)がその姿(すがた)を変(か)えてしまうこともある。自然(しぜん)と神(かみ)との関係(かんけい)はどうなっているのでしょうか

ありがとうございます:
 大自然(だいしぜん)とみているものも、番組(ばんぐみ)ごとに全部(ぜんぶ)違(ちが)うんです。今(いま)見(み)ているものの大自然(だいしぜん)それはその番組(ばんぐみ)だけの自然(しぜん)なんです。低(ひく)い番組(ばんぐみ)では自然(しぜん)現象(げんしょう)でも荒(あ)れる訳(わけ)です。不調和(ふちょうわ)な状態(じょうたい)がでてくる訳(わけ)です。高(たか)い番組(ばんぐみ)ほど自然(しぜん)現象(げんしょう)として調和(ちょうわ)した姿(すがた)をとってくるんです。だから神さま(かみさま)が最高(さいこう)理想(りそう)の姿(すがた)として現(あらわ)す自然(しぜん)は一番(いちばん)調和(ちょうわ)した姿(すがた)として出(で)てくるんです。必要(ひつよう)に応(おう)じてスッと調和(ちょうわ)した姿(すがた)をとるんです。天気(てんき)が必要(ひつよう)だったら天気(てんき)だけ現(あらわ)してくれるし、雨(あめ)が降(ふ)るのが必要(ひつよう)なら雨(あめ)をスッと降(ふ)らしてくれるんです。必要(ひつよう)に応(おう)じて自由(じゆう)自在(じざい)に大宇宙(だいうちゅう)が姿(すがた)を現(あらわ)しますよね、高(たか)い番組(ばんぐみ)ほどそうです。だから海(うみ)をぱっと割(わ)るんだったら割(わ)れる訳(わけ)です。そんなのはなんでもないことなんです。それが必要(ひつよう)だったらすっと出(で)てくるだけなんですから。だから必要(ひつよう)性(せい)があったら何(なん)でもスっと出(で)てくるのが高(たか)い番組(ばんぐみ)なんです。低(ひく)い番組(ばんぐみ)もそれなりに必要(ひつよう)なんですけどね。

 番組(ばんぐみ)ごとにそれぞれ違(ちが)う聞き方(ききかた)、受け方(うけかた)をしている

質問(しつもん):
 例(たと)えば「お釈迦様(おしゃかさま)はこのように言(い)われたという言葉(ことば)」と「お釈迦様(おしゃかさま)の言(い)ったことを私(わたくし)はこう聞(き)きました」。という言い方(いいかた)がありますが、個人(にん)の番組(ばんぐみ)を見(み)てるというのは、後者(こうしゃ)のことですよね?

ありがとうございます:
 ほんとう、一人一人(ひとりひとり)が一人(ひとり)の人(ひと)の言葉(ことば)を聞(き)いても同(おな)じように受(う)けていないですね。人(ひと)によってはまったく正反対(せいはんたい)に翻訳(ほんやく)して聞(き)いている場合(ばあい)もあります。だから、「こう聞(き)いた」と言(とい)うのがいいでしょう。お釈迦(おしゃか)さんの説法(せっぽう)でも、一(ひと)つの番組(ばんぐみ)に対(たい)して言(い)っているのではないんです。この世(よ)の人(ひと)にもあの世(よ)の人(ひと)にもいろんな番組(ばんぐみ)の人(ひと)に同時(どうじ)に言(い)っているんです。だからいろんな番組(ばんぐみ)の人(ひと)がそれぞれに聞(き)いているんです。同(おな)じ言葉(ことば)をスっと話(はな)されても番組(ばんぐみ)ごとに聞き方(ききかた)が違(ちが)っているだけなんです。みな番組(ばんぐみ)ごとにそれぞれ違(ちが)う聞き方(ききかた)、受け方(うけかた)をしている訳(わけ)なんです。それはそれでいいんですね。それが番組(ばんぐみ)ごとに必要(ひつよう)なんです。だから録音(ろくおん)でとっても、この録音(ろくおん)はこの世(よ)の人(ひと)のためだけですよね。別(べつ)な番組(ばんぐみ)では違(ちが)う録音(ろくおん)の仕方(しかた)があるのかも知(し)れない。
 だから、奥(おく)のお釈迦(おしゃか)さんから見(み)たら、低(ひく)い番組(ばんぐみ)だと正反対(せいはんたい)に受(う)けているから「お釈迦(おしゃか)さんがこう言(こうい)った」といって録音(ろくおん)を示(しめ)してもあかんのです。「私(わたくし)はそんなこと言(い)っていないその番組(ばんぐみ)の録音(ろくおん)テープが悪(わる)いんだ」という感(かん)じですよね。人(ひと)の聞き方(ききかた)が悪(わる)いのかもしれないけど低(ひく)い番組(ばんぐみ)の録音(ろくおん)テープが故障(こしょう)しているという感(かん)じです。

 置き換(おきか)えて物事(ものごと)がスッと変(か)わってしまう

質問(しつもん)者(しゃ):
 ありがとうございますが脚立(きゃたつ)から落(お)ちて足(あし)の骨(ほね)を折(お)ったことがありましたが、私(わたくし)としては祈(いの)りに専念(せんねん)している人(ひと)が何故(なぜ)このような事(こと)になるのかとショックだった。それは誰(だれ)かのために神(かみ)の働(はたら)きとしてそのような事(こと)が起(お)こったのでしょうか、その深(ふか)い意味(いみ)を教(おし)えてください

ありがとうございます:
 これが、この世(よ)の人(ひと)の為(ため)かあの世(よ)の人(ひと)の為(ため)か、いろんな場合(ばあい)がありますけれど、どういう働(はたら)きでそうなっているのかはわかりません。ただ、この世(よ)の人(ひと)にとってはそう見(み)ていることもありますし、あの世(よ)の人(ひと)もそう見(み)ている人(ひと)もあるけれど、もっと高(たか)い番組(ばんぐみ)では「落(お)ちてない」という。(エッ、落(お)ちてない番組(ばんぐみ)もあるんですか?)そうです落(お)ちていないんです。落(お)ちてもふわっと降(お)りるのもあるんです。ドサッと落(お)ちて骨(ほね)が折(お)れるといのもあるんです。それはみんな振り替(ふりか)えです。番組(ばんぐみ)ごとにあるんです。(ありがとうございますの番組(ばんぐみ)では、それをどうとらえているんですか?)私(わたくし)の番組(ばんぐみ)では何(なに)もないんです、一瞬(いっしゅん)一瞬(いっしゅん)新(あら)ただから。過去(かこ)はもうないんですよ。いろんな番組(ばんぐみ)ごとに表現(ひょうげん)が違(ちが)うからそれなりの働(はたら)きをして消(き)えていくだけなんです。

質問(しつもん):
 その時(とき)骨(ほね)が折(お)れた時(とき)に、直(なお)らなかったらどうしようとかはまったくなかったのですか?

ありがとうございます:
 私(わたくし)はそれよりももっとひどいことを体験(たいけん)しているから骨(ほね)が折(お)れるなんてたいしたことではないんですハハハ。心臓(しんぞう)が止(と)まったり、呼吸(こきゅう)が止(と)まったり、そんなこと平気(へいき)ね、必要(ひつよう)があったら、続(つづ)くだろうし必要(ひつよう)があったら直(なお)るだろうし、それはもう自由(じゆう)自在(じざい)。そこには何(なん)の疑念(ぎねん)も疑惑(ぎわく)もなく、「ありがとうございます」です。

 何(なに)があっても「ありがとうございます」だけ。
 痛(いた)みが来(き)ても ありがとうございます

 激痛(げきつう)が来(き)てもだいじょうぶなんですね ありがとうございます ですね
一瞬(いっしゅん)を楽(たの)しむんです。痛(いた)みがずーと続(つづ)くなんて過去(かこ)を掴(つか)まないんです。一瞬(いっしゅん)だけを楽(たの)しむから一瞬(いっしゅん)の激痛(げきつう)くらい平気(へいき)でしょ、過去(かこ)を全部(ぜんぶ)放(はな)すから未来(みらい)をズーと心配(しんぱい)しないんです。今(いま)だけと思(おも)うから。何(なに)があっても今(いま)だけ。ありがとうございますと楽(たの)しむんです。だから必要(ひつよう)だったらサッと治(なお)ってしまうんです。不思議(ふしぎ)ですね。ビックリしますね。(必要(ひつよう)だから直(なお)ったり、必要(ひつよう)だから落(お)ちたりしたんだと思(おも)っていらっしゃいますか?) ん・・・いろんな番組(ばんぐみ)を相手(あいて)にしているからね・・・・

質問(しつもん):
 何故(なぜ)折(お)れた骨(ほね)がすぐに治(なお)ってしまうんですか?

ありがとうございます:
 そうね、番組(ばんぐみ)の入れ替(いれか)えですね。
「折(お)れた」というのはかなり低(ひく)い番組(ばんぐみ)です。高(たか)い番組(ばんぐみ)は絶対(ぜったい)折(お)れないんです。ちょっと番組(ばんぐみ)を上(うえ)へあげるだけでスッと現実(げんじつ)化(か)するんです。上(うえ)からの番組(ばんぐみ)は金剛(こんごう)不壊(ふえ)の体(からだ)だから絶対(ぜったい)に傷(きず)つかないんです。スッと変(か)わるんです。ご心配(しんぱい)ご無用(むよう)です。

質問(しつもん):
 足(あし)が痛(いた)くて歩(ある)けないという女の子(おんなのこ)がここに来(き)て、1日(いちにち)か2日(ふつか)したら、普通(ふつう)に歩(ある)けるようになって、今(いま)では山(やま)歩(ある)きもできるようになったという話(はなし)を聞(き)きました。痛(いた)みの原因(げんいん)が関節(かんせつ)の骨(ほね)がずれているということなら、それが正常(せいじょう)な位置(いち)に戻(もど)らなければ痛(いた)みは消(き)えないと思(おも)うのですが、それもその女の子(おんなのこ)が高(たか)い番組(ばんぐみ)に移(うつ)っていったということなのですか?

ありがとうございます:
 そうですね、応援(おうえん)して番組(ばんぐみ)を切り替(きりか)えてくれるんです。奇跡(きせき)って一瞬(いっしゅん)です。(一瞬(いっしゅん)のうちに骨組(ほねぐ)みをスッと変(か)えてしまったということなのですか?) いいえ、置き換(おきか)えだから現実(げんじつ)を変(か)えるのとは違(ちが)うんです。もともと健康(けんこう)だから置き換(おきか)えて物事(ものごと)がスッと変(か)わってしまうんです。病気(びょうき)が変(へん)化(か)するわけではないんです。瞬間(しゅんかん)の置き換(おきか)えだから何(なん)でも出来(でき)るんです。

 神さま(かみさま)のお手伝(てつだ)いというのが一番(いちばん)幸(しあわ)せ

質問(しつもん):
 今年(ことし)になってありがとうございますのところに通(かよ)わせてもらうようになって、自分(じぶん)の周囲(しゅうい)が変(か)わったと感(かん)じます。「おかげさま」と思(おも)うのですが、これも、全部(ぜんぶ)ありがとうございますのお祈(おいの)りのおかげなんでしょうか

ありがとうございます:
 「おかげさま」というのは、宇宙(うちゅう)の大神さま(かみさま)の力(ちから)、「ありがとうございます」の神さま(かみさま)の力(ちから)なんです。いくら受(う)けてもいいんです。修行(しゅぎょう)せずお酒(さけ)ばかり飲(の)んでいると言(い)いますが、受け方(うけかた)が上手(じょうず)になってきたんですね、お酒(さけ)も「おみき」に変(か)わってきたということなんですね。御神酒(おみき)もいくらいただいてもいいですね、「うれしき」「楽(たの)しき」「ありがたき」って幸(しあわ)せ一杯(いっぱい)になるだけですものね。
 ほんと、不思議(ふしぎ)不思議(ふしぎ)の連続(れんぞく)でいいんですよね、あたりまえに解(わか)ってしまうとおかしいですよね。神さま(かみさま)は無限(むげん)に無限(むげん)に幸(しあわ)せ一杯(いっぱい)を大(おお)きくして与(あた)えようとしていらっしゃるんで、どこまでも不思議(ふしぎ)ですよね。止(と)まるところはない!幸(しあわ)せは無限(むげん)に無限(むげん)にふりそそいでくるんです。
 「ありがとうございます」の神さま(かみさま)がどんどん光(ひかり)をふりまいてみんなを幸(しあわ)せにしてくれるんです。究極(きゅうきょく)はありがとうございますの感謝(かんしゃ)だと気(き)がついた人(ひと)はものすごく幸(しあわ)せだということですね。

 これからは、世界(せかい)を変(か)える世界(せかい)維新(いしん)の時代(じだい)です。維新(いしん)ということは、いいんですよね。これあらた ということです。世界(せかい)のいろんな問題(もんだい)は全部(ぜんぶ)過去(かこ)を掴(つか)んでいることから始(はじ)まっているでしょう。過去(かこ)のマイナスを掴(つか)んで恨(うら)んで仕返(しかえ)しをしたりするでしょう、過去(かこ)を放(はな)すという生き方(いきかた)は、これから絶対(ぜったい)必要(ひつよう)ですよ。惟(こ)れ、新(あら)た、維新(いしん)ということはいい言葉(ことば)ですね。世界(せかい)がガラッと新(あたら)しく置き換(おきか)わって来(き)ます。世界(せかい)の置き換(おきか)えがこれから始(はじ)まってくるんです。その置き換(おきか)えを神さま(かみさま)がズーッとしていてくれて、それを受(う)けるだけ。だから「ありがとうございます」がどんどん広(ひろ)がっていきます。そして神さま(かみさま)の大(おお)きい働(はたら)きをスッと受(う)けいれするだけそして全部(ぜんぶ)プラスに置き換(おきか)わっていくという本当(ほんとう)の意味(いみ)の世界(せかい)維新(いしん)、明治(めいじ)維新(いしん)もすばらしかったけれど、世界(せかい)維新(いしん)に比(くら)べればまだ小(ちい)さいくらいで、世界(せかい)維新(いしん)は本当(ほんとう)の最高(さいこう)番組(ばんぐみ)との置き換(おきか)えです。これからは、世界(せかい)全体(ぜんたい)が光り輝(ひかりかがや)くんです。

 これは、下(した)からの努力(どりょく)で変(か)わるんではないんです。神さま(かみさま)が全部(ぜんぶ)一人一人(ひとりひとり)の中(なか)に入(はい)ってくるんです。中(なか)からガラッと変(か)えてくるんです。「最初(さいしょ)から悟(さと)っているじゃないか」「最初(さいしょ)から無限(むげん)の幸(しあわ)せ一杯(いっぱい)じゃないか」てね、神さま(かみさま)がスッと出(で)てくるんです。それでガラっと変(か)わるんです。これ以上(いじょう)の変(か)わり方(がた)はないでしょうね。だから皆(みな)が幸(しあわ)せ一杯(いっぱい)になるんです。
 これは「ありがとうございます」を唱(とな)えたから幸(しあわ)せになるのではなくて、神さま(かみさま)が中(なか)に入(はい)ってきて唱(とな)えてくれるんです、大(おお)きな声(こえ)で「常(つね)に無限(むげん)に無限(むげん)に幸(しあわ)せ一杯(いっぱい)だよ」ってね。それが「ありがとうございます」なんです。

質問(しつもん)
 ありがとうございます村(むら)に来(き)た人(ひと)たちがまた他(た)の人(ひと)を連(つ)れてきて感謝(かんしゃ)のの輪(わ)がひろまり、感謝(かんしゃ)が深(ふか)まってゆくのを感(かん)じます。それぞれが、神さま(かみさま)の力(ちから)を発揮(はっき)する役割(やくわり)をもって役割(やくわり)を果(は)たしていくんだと思(おも)うと単(たん)に自分(じぶん)一人(ひとり)の問題(もんだい)ではない気(き)がして、楽(たの)しくなります

ありがとうございます:
 そうですね、神さま(かみさま)のお手伝(てつだ)いというのが一番(いちばん)幸(しあわ)せなんです。人(ひと)の力(ちから)でするのは限度(げんど)がありますけど神さま(かみさま)が無限(むげん)の力(ちから)を振(ふ)るってきた時(とき)のそのお手伝(てつだ)いだから、すごく楽(らく)ですよね。神さま(かみさま)が自分(じぶん)のなかに入(はい)って大(おお)きい力(ちから)を振(ふ)るってくれるんです。無限(むげん)の可能性(かのうせい)があるわけです。自分(じぶん)ひとりだけではなく、お手伝(てつだ)いしたい人(にん)を全部(ぜんぶ)使(つか)ってくれるから、ものすごくいい働(はたら)きになって、いいものがどんどん降(ふ)ってくるんです。神さま(かみさま)のお手伝(てつだ)いをすると何倍(なんばい)もおかげを受(う)けるんです。だから神さま(かみさま)のお手伝(てつだ)いに生(い)きるという事(こと)が自分(じぶん)の持(も)っているマイナスを全部(ぜんぶ)引き受(ひきう)けてもらうことなんです。マイナスを全部(ぜんぶ)早(はや)く消(け)してもらえるんです。それと神さま(かみさま)のお手伝(てつだ)いということは、神さま(かみさま)が大(おお)きい力(ちから)をふるって自分(じぶん)を使(つか)ってくれるから無限(むげん)のプラスを一杯(いっぱい)浴(あ)びるんです。両方(りょうほう)の効果(こうか)が出(で)てくるんです。
 今(いま)までは自分(じぶん)のマイナスを消(け)すのに自分(じぶん)の力(ちから)だと思(おも)うと、これは例(たと)えると無限(むげん)の借金(しゃっきん)、高利(こうり)の借金(しゃっきん)と同(おな)じことです。いくら働(はたら)いても借金(しゃっきん)を返(かえ)せない、利息(りそく)すら返(かえ)せない状態(じょうたい)と同(おな)じです。それで「他力(たりき)にでもすがろうか」ということになるんですけど他力(たりき)も全部(ぜんぶ)いっぺんには取(と)ってくれないです。他力(たりき)で神さま(かみさま)が全部(ぜんぶ)取(と)ってあげようとしても力(りょく)に限界(げんかい)があるんです一(いち)編(へん)にゴソッと取(と)ってはくれないですね、すこしづつ取(と)ってくれるから年月(ねんげつ)がかかるんです。
 でも本当(ほんとう)の宇宙(うちゅう)の大神(おおかみ)様(さま)なら無限(むげん)の無限(むげん)の力(りょく)がいっぱいだから預(あず)けた分(ぶん)全部(ぜんぶ)ゴソッと取(と)って消(け)してくれるんです。お手伝(てつだ)いということが自分(じぶん)の持(も)っているマイナスを預(あず)ける事(こと)なんです。そうするとマイナスはどんどん減(へ)ってしまうし同時(どうじ)に大(おお)きい無限(むげん)のプラスを浴(あ)びるように受(う)けられるから努力(どりょく)も何(なに)も要(い)らない、神さま(かみさま)に自分(じぶん)を使(つか)ってもらって、いい事(こと)させてもらって幸(しあわ)せ一杯(いっぱい)にしてもらうんです。こういう得(とく)な生き方(いきかた)はないですよね。ありがとうございますだけが根本(こんぽん)にあれば、あとは神さま(かみさま)が使(つか)ってくれるだけなんです。

質問(しつもん)者(しゃ):
 般若心経(はんにゃしんぎょう)は262文字(もじ)でありがとうございますは10文字(もじ)だから般若心経(はんにゃしんぎょう)を26年間(ねんかん)唱(とな)えたのと「ありがとうございます」を1年間(ねんかん)唱(とな)えたのと同(おな)じですよね、スピードが速(はや)まってきたということですか?

ありがとうございます:
 確(たし)かにスピードが速(はや)くなっていますね、もっと速(はや)いかも知(し)れないですよ。すごい力(ちから)ですね。






ありがとうございますおはなし集で使ったHTML等は菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます

0.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.
19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.
35.36.37.38.39.40.41.42.43.44.45.46.47.48.49.50.
51
.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.

67.68.69.70.71.72.73.74.75.76.77.78.79.80.81.82.
83
.84.85.86.87.88.89.90.91.92.93.94.95.96.97.98.99.
100.101.102.103.104.105.106.107.108.109.110.112.113.
114.115.116.117.118.119.110.111.112.113.114.115.116.
117.118.119.120.121.122.123.124.125.126.127.128.129.
130.131.132.133.134.135.136.137.138.139.140.141142.
143.144..