0カウンター.1.2.3.4.5.6.7.8.9.10.11.12.13.14.15.16.17.18.19.20.21.22.23.24.25.26.27.28.29.30.31.32.33.34.35.36.37.38.3940.41.42.43.44.45.
46.47.48.49.50.51.52.53.54.55.56.57.58.59.60.61.62.63.64.65.66.67.68.69.70.71.72.73.74.75.76.77.78.7980.81.82.83.84.85.86.
87.88.89.90.91.92.93.94.95.96.97.98.99.100.101.102.103.104.105.106.107.108.109.110.112.113.114.115.116.117.118.119.110.
111
.112.113.114.115.116.117.118.119.120.121.122.123.124.125.126.127.128.129.130.131.132.133.134.135.136.137.138.139.
140.141142.143.144.145.146147.148.149.150.151.152.153.154.155.156.157.158.159.160.161.162.163.164.165.166.

ar73運命2001.03.3.

質問:
 未来は決まっていると言う人もいますが、本当に決まっているのでしょうか?

ありがとうございます:
 時間の流れをどのように捉えるか、ということに関わってきます。先ず宇宙の絶対神が時間と空間を組み合わせて宇宙を創っています。その中に時間の要素もありますよね。その時間の中に過去、現在、未来も同時に全部含まれており、どんどんと新しいものを生み出しているのです。
 決まっていると言えば絶対神が宇宙を創造した時点で全て決まっているわけです。最高理想の宇宙が先ず表現されて、それが順番に光の流れのように流れて消えて行くわけです。
 だから時間を限りなくゼロに近づけた状態ほど空間が無限に素晴らしく感じることができます。時間が長く感じる程どんどん程度が落ちていきます。神様の表現の中でどのような表現があるか, という事に関してはね。
 だから最高表現の宇宙というのは限りなくゼロに近づいた時間で最高の輝いた状態に入って行くということです。それが、どんどん消え行くにつれて光が少なくなっていくわけです。そうすると時間が長く感じるようになる。
 我々の住んでいるこの世界がどのような世界なのか?と言うと最高理想の世界から見るとかなり低い世界なのです。今、感覚的にみている世界のことです。そうすると時間的な流れも長く感じます。そこで、過去、現在、未来をみて過去にこのような事があり、未来はこの様な事がないだろうか、など色々と考える。でも、その時間の流れというものも神様の表現の全体からみると(不明)。その最高理想の世界から順番に流れて来てどんどんと消えて行く過程で時間的な姿も、空間的な姿も全部あり、その途中で私たちは(不明)。
 本当は全てが最初から決まっているわけです。その決まっている中からどれだけ自分たちが感じているか?それが一人一人の運命として味わっている姿なのです。だから一人一人の運命は、本当は幾通りもあるのです。

 神様が一人一人を創り上げて、そして最高のものを与えている運命が最高の運命です。これが宇宙絶対神が創り上げてくれたものなのです。現実的には無限の無限のプラスばかりの世界ではないですけれどね。これはどうしてなのか?と言うと、最高の姿をまだ受けていない、という事です。
かなり少ししか受けていない。それを心に受け入れて現実の感覚の世界に表し、運命として味わっている。だから、神様が与えてくれている運命は決まっているわけです。本当の最高理想の運命というのは。ところが現実にはそれを受け切れていないという一面があります。それは、心の自由があって受け方に自由があるという事です。だから受け方さえ変えたら限りなく最高理想の運命に近づくことになります。
 人間のもっている自由というのは自分の運命を自由自在に変えて行けるはずなのです。だから決まっていると言ってもある意味では正しく、自由に変えて行けると言っても正しいのです。
 だから、どの時点で決まっているかというと最高理想は完璧に決まっていますよね。そして今受けている運命は心の受け方次第で決めているのです。だから過去、現在、未来は自分の受け方次第でその人の運命は決まっていることになります。ところが、心の自由があるので受け方を変えたら又別の運命として過去、現在、未来を決めて行けるのです。決まっていながら決まっていない。かなり複雑で幅広いのです。


私たちはどこに向かうのか
質問:
 それでも、地球で生きているし、宇宙もあるわけです。全部を見ると地球の中の我々はまた一つであるし、それは草や花やその他も全部一緒の筈ですね。そうすると今みたいに決められているとしたら、なんかつまらない、それであって目標が見えれば見えたで、現実の世界ですよね、そうすると、人類というか、我々はどこへ向かって行くのでしようか。

ありがとうございます:
 本当にそうです。

質問:
 それについて、我々は何をしたらいいでしょうか。人類は地球では今一番知恵があって何かを伝えなければいけないことが沢山あると思う。私たちはどこに向かって行ってるのですか。何が理想なのですか、先生から見ると・・。

ありがとうございます:
 だから「自分とは何か」というのが一番大事なのです。この肉体の人間が本当の自分なのか、また心とか魂の自分が本当なのか。またその奥にある命の自分が本当なのかどうか。
 また人聞以外の動物も植物も鉱物もみな自分ではないのだろうか。自分という捉え方がかなり幅広くいろんな見方があるのです。
 だから、本当の自分とは何かが一番難しいんです。自分探しが。
本当の自分というのは、神様から分かれて出てきた自分なのです。神様と一体の自分が本当の自分の筈なのですが、神様というのは全体ですから、全ての全てという全体が神様であるというふうに捉えた方がいいと思うのです。そこから分かれて出てきたのが自分なんです、本当は。だから、神様から出てきた自分は神様の全部をほんとうは受け直せる、神様と一つになれる筈なのです。
 「神様がわかったら本当に自分がわかった」と言えるのです。目的も、神様の目的と自分の目的が一致すると、正しい目的に到達できたと言えるのです。


感謝の自分になる
質問:
 そこが難しいんです。僕、今そこで猫見てて、じゃあ猫がここにいる、それは何なのだろう、でも多分猫は天命だとは思ってないでしょうけど、それが天命なんでしょうかね。

ありがとうございます:
 天命と言うのは、やはり神様に限りなく近づいて行くということ。神様の心がわかって初めて目的も天命も全てはっきりするんだと思う。本当は神様が宇宙を無限に無限に輝いたものとして、一瞬一瞬新しく生み出している。それを人間が、人聞がといったらおかしいですけれど。自分が全部受け直して、最高に輝くのが本当は人生の目的でもあり本当の生き甲斐でもある筈なんです。ところがそれを全部を受け直すのが、なかなか大変というたら大変なのです。「忘れてる」というところもあるんです。本当の自分はこの肉体の人間というのではないのです。魂もないし、命の自分というわけでもないと思う。
 宇宙全体が本当は分かる自分だと思うのです。動物のこともわかり、植物のこともわかり、鉱物のことも何もかもわかって、その自分だったら、本当は宇宙全体が自分というふうになる筈なんです。全く自分と別個のものだったら、絶対分からないと思うのです。だから神様のことも分かり、宇宙全体のことも分かるというのは、自分がそれと一体化そのものなんです。
 だから、幸せになりたいというのでも、幸せが奥にあって幸せを知ってるから幸せを求めたり、幸せになろうとするわけで、答えはみんな自分の中にある筈なんです。みんな知っている筈なんです。ただ、表面の部分を掴んでしまって全体を忘れてるというところがあるのです。
 自分探しというのも、やはり全体を学んで掴んで一体化していくと、自分がはっきり分かってくるのです。目的も、神さまの目的があるわけです。無限に無限に輝いた宇宙を間断なく生み出して、最高の輝いた状態をずーっと持続させるのでしょう。この世の人も本当は無限に無限に輝いた状態にずーっとなりたいのです。 人問が輝く為には、神様から新たに新たに受け直しをしないといけない。一回受けてそれで終わったら次の輝いたものを受けそこなうので、どんどん輝きを失われていくというところがあるのです。だから常に新しい受け直しをし、最高に輝いた自分になる為には、やはり「ありがとうございます」という感謝が大事になってくるのです。
 皆さんも、「人生の目的は何か」って考えたことあると思うのです。本当の人生とは何か。答えが出てきても、本当にその答えでいいのか、と考えて見たら、大変でしょう。だからこの世的な目的では、本当に納得できないのです。
 浅い目的・小さい目的では、絶対無理ですね、納得するにはどっか違うのです。この世だけで、どれだけ幸せがあっても、「ああ、これで満足」と、心は本当には納得してない・安らいでないと思います。やはり神様の本当の心と一つにならないと、ピタッと一つにならないと無理だと思うのです。
 
「神様の御心とは何か」ということは難しいようですけども、自分の中にそれを知っている自分がいる筈なのです。だから知っている自分はどうしたら出てくるのか。これは別に宗教の世界だけの話しじゃないのです。科学者でも芸術家でも全部本当の自分を見い出す為に、命をかけてそれに打ち込んでいるはずなのです。限りなく自分の心の奥深くへ心を向けて行かないといけないと思う。この五感とか六感の感覚の世界というのは、やはり心へ受け入れた世界を投影する世界なのです。その結果なのですね。受け入れたものの結果しか出て来ない。だからその心の奥には本物があるはずなのです。
 「神様」という本物が、最高の理想の宇宙が次から次ぎ生み出されて、本物の表現があるわけです。その本物の表現を如何に感じ取るか、それによって心がすっきりと納得するようになってくる。私も「ありがとうございます」という言葉を、小さい時から唱え続けてからもう何億回にもなっているのですけれど、「ありがとうございます」って、最初はやはりこの世的な幸せを願って唱えているのです。それで、病気が治ったら「ありがとうございます」でしょう。この世的なものがいっぱい生まれて必要なものを与えられて「ありがとうございます」ですね。
 でも、それはものすごい浅い段階なのです。段々と奥へ奥へ心が向いていき、「ありがとうございます」の心になった時はもう無条件で「ありがとうございます」なのです。「幸せ一杯」という感覚が出てくるのです。だから、病気でも「ありがとうございます」と、「幸せ一杯」なのです。貧乏でも「ありがとうございます」でいいのです。どんな問題を持ってきても「ありがとうございます」になるのです。ただもう感謝だけで幸せで一杯なのです。心はもう幸せになって行く。「ありがとうございます」と、唱えているうちに、その自分はもう、肉体の自分でも魂の自分でもないのですね、「感謝の自分」になっているのです。
 その自分がどんどん「ありがとうございます」と感謝し続けているうちに、段々と神様の光を感じてくる。神様から放射されてる光と輝きを感じるようになってくる。最初はちょっとした小さい輝きを感じるだけなのですが、「幸せ一杯・素晴らしいもの一杯・美しいものばかし」と感じる。それが限りなく段々と大きい光体と輝きを感じるようになってくる。それは丁度太陽の輝きのような感じで、それを大きく感じるようになってくる。そして「みんな光り輝いている・みんな無限に輝いている」というように、それがありとあらゆる神様の働きの全部が複雑に入り組んだ状態で、無限に無限に輝いている状態に感じられてくるのです。 そうすると神様の御心というのが、「輝くこと」という感覚がやはり出てきます。その輝きを感じて自分も輝くことになるのだと。だから、最初考えていた人生の目的と、お祈りで感謝を深めて神様の心をちょっとでも感じてきた時の人生の目的とは、ぜんぜん違うのです。神様の輝きを感じれば感じるほど、自分の目的なんか消えてしまう。もう全て消えてしまって、ただ神様の心を感じ取るのが目的に変わってくるのです。神様の本当の目的と一つになりたいというようにね。なかなか本当の目的を掴むのは大変だと思うのですが、限りなく神様の目的に近づいて行きたい、その為には、神様の与えてくる最高のものを受け続けていたい、というように(変わってくるのです)。


意識はみな神様の前では平等

質問:
 それは人聞にしか出来ないことですか。
ありがとうございます:
 いや、これは違うと思うのです。自分という意識を頂いているということは、みんな平等だと思うんです。動物も植物も鉱物も意識がある限り、全部平等に最高のものを神様の全てを受けいれられると思うのです。 石ころでもその無限に輝いた自分が降りて来たら、石ころが「全部を知る石ころ」になるのです。人間は「単なる石ころ」と見るかも知れないですけども、そこに神様と同じ意識が降りて来るかも知れない。そうすると石が宇宙の全部を知ってるということになる。今私達が人間という中へ意識を持って降りてるでしょう、この自分の意識が、あるときは動物の中へ入り、植物の中へ入り、石ころ一個の中に入ったとしたら、その自分は自由自在ですね。また大きく宇宙というのをぜんぶ中に持って、その中心に立てば、宇宙が自分の中にあるわけです。意識というのはみんな神様の前に立った時は平等だと思うのです。そして、神様から最高のものを必ず受けられるのです。


太陽の願い
質問:
 自分の中に理想というのがあります、夢というか、わからないテレビの映像みたいなものがあります。夢もそうだろうと思うのですけれど、それは見させられているのですか。

ありがとうございます:
 いや、見させられてるというよりも、本当は神様の最高のものは、既にあるんです。あるのですけれども、「それをどれだけ・どの程度感じるか」なのですね。はっきり感じる人もあるし、おぼろげに感じる人もあるし、ぜんぜん感じない人もある。また大きく感じる人もあるし、ちょっとしか感じない人もあるし、それは受け方によってもう千差万別、無限に分かれているのだと思うのです。

質問:
 じゃあ、元々持ってるのをソフトというか、宇宙のソフトは自分の中にあると、しかしそれを感じられるかどうかは自分次第だと。

ありがとうございます:
 そうですね、だから自分の心の奥深くに新しいソフトが、どんどん生み出されてくる。だから、丁度これを例えとして、神様の働きを小さい模型として例えてみると。
 太陽があり地球があって、この世で私達はその太陽の光を感じて、実際の太陽と地球の大気圏に入って揮いている太陽とはまた違います。
 それで私達は今ここで感じている太陽は、大気圏で乱反射起こして一つの光体を作った太陽です。それでも、無限に無限に輝いたという感覚で受けられる太陽です。
 それを神様的に例えますと、肉眼に感じている太陽が無限に輝いているというふうに、素晴らしいと見るのです。

質問:
 それはそうでしょうね、実際の太陽は大変でしょうから。

ありがとうございます:
 それで、その奥に、太陽と地球の間に空間があって、その間に距離が無限にあると考えて、その光がどんどん送られてくるということは、新しい光体を作る為の本当の太陽から来る光が、無限につづまってるわけです、ところてん式に。その一番奥に本体があります。だから「無限に無限に輝いた太陽を受け続けて欲しい」というのが本体の太陽の願いだと思うのです。それで、神様も同じように、無限に無限に輝いた最高の理想の宇宙を与え続けて、それをところてん式に奥に無限につめ、どんどん新しいものを受けて欲しいということでしょう。ところが太陽一個全部を新たに新たに受け直して「ありがとうございます」と言える人が少ないのです。小さいものに囚われてしまい、太陽に背を向けてしまって、雲の中にはまり込んで、太陽を見えない状態にしてしまったり、物陰に入ってしまったりするのです。だから、人間がいろいろな思いを出すというのは、空に浮かぶ雲を作っているようなものです。それで、白雲の時は未だ明るいからまだ「幸せ」という感覚で思い通りになり、「ああ、幸せだな」という感じになるのです。けど黒雲になると「ああ、苦しい、大変」となるでしょう。
 意識は何処へでも自由に移せるはずです。雲の中にも入れるし、太陽の中にも入れる。だから、人聞が神様から自由を与えられて、「最高の輝いた生き方をして欲しい」というふうに使命付けられているはずなんです。本当に輝くことを忘れて、つまらないものの中へはまり込んでしまう。それもある一定期間は必要かも知れないです。雲の中にはまり込んで「ああ、苦しい、暗い」という体験があって初めて、太陽を感じ、また輝きを本当の意味で価値あるものとして受けいれられるのです。


人生の目的
質問:
 今日現在までに至るまでの体験、生身で、しんどい自分もあっただろうし、不安もあったのですか、小さい時から?

ありがとうございます:
 人生の目的については、もの凄く悩んでいるのです。ところが現実にはどんな苦労も苦労と感じていないのです。「ありがとうございます」という感謝の心があったお蔭で、病気しても苦しいとは思わないし、貧乏も苦しくないのです。だから、全部楽しいばかりで受け切ってきた。それはやはり「ありがとうございます」の感謝の心だったと思うのです。
 現実的には浅い感謝でもそういう状態にしてもらった、苦しまずにすんだのです。でも、何億回と感謝し続けてるうちに、「ありがとうございます」という本当の意味は、「究極の神様の名前、最高の神様の名前なんだ」というふうにも感じられてきたのです。
 いろいろな無限の神仏の名前があっても、それを全部束ねているのですね、この「ありがとうございます」の神様は。全ての人に必要な助けを必ず与えてくださる、「ありがとうございます」と呼べば。
 その人の「必要な助け」と、「願ってる・欲しいもの」とは違うのです。神様はその人が最短コースをたどって、最高の幸せにたどり着けるように、必要な物を与え続けてくださる。だから、病気しても「ありがとうございます」を唱えてすぐ治る人もあるし、治らない人もあるのです。治った方がいい人はすぐ治してもらえる。でも、病気してちょっと体験積む方が感謝が深くなって幸せが大きくなるんだったら、ちょっと延ばしてくれる。
 そのように必ず本当の幸せが掴めるように必要なもの与え続けてくださる。これが「ありがとうございます」という神様の働きなのです。これはもう回数多く唱えている程、必要な助けをずーっと受け続け、必ず何かを掴んでいけるのです。表面的な幸せにしても、心の奥深い幸せにしてもですね。


ノ−天気
質問:
 僕、本当にノ−天気だと思うんやけど、だけど目的があって「こうせなあかん」とかっていうのもあまリ規則持たないんですよ、ただ流れるままに、本当にノ−天気だと思うんやけど、回りが大変なこと沢山起きるんですけどね、「何とかなるやろう」という済ますことしてしまって、本当にいいんだろうか、まあ、自分の好きなことをやらしていただいてるんでね、いいんだろうと思うけど、ノ−天気みたいなことでいいんだろうかあ、とちょっと悩んでたんですよ、回りからあまリにもノ−天気過ぎて、ぎゃあぎゃあ、みんなに言われてるんですけど。今の先生の話し聞いてると、いいですね。

ありがとうございます:
 いいですね。流れをどこへ任せるかでしょう。本当はそうなのです。だから、神様の最高の流れがあるわけです、必ず。
 無限の無限の輝いた光の流れがあって、それを受けていく心さえあれば、自然に良くなるように良くなるようにしてくださる。同じ流れでも逆の流れもあります、マイナスヘマイナスヘ行<流れも。これは自分の思い通りにしたいとか、我が強すぎるとそういうふうに走りやすいのです。

質問:
 あんまりにも好きなことをやってるから、我が強いとか言われるんですけど、自分の個の我ではないんです。そこのところがちょっと正しいかどうかよくわかってないのです。

ありがとうございます:
 それは、ちょっとの違いなのです。
「ありがとうございます」と言う言葉を心に繰り返して唱えてるとそれが正しくなります、必ず。


「お祈り」とこだわらない
質問:
 「ありがとうございます」のお祈りをしたいのですが、それは、例えば時間決めて家でやるようにしたらいいのですか。

ありがとうございます:
 .そうですね、それも自由自在でいいです。もう、どういう形でもいいんです。
 まとめて沢山唱えて「ありがとうございます」でも、一心に閉じこもってするのもいいのです。また唱えながら何かしてるのもいいし、寝ながらもいい。なんでもいいんです。
 だから、どういう場であっても、どういう時でも「ありがとうございます」と唱えるのです。そうすると、最高の神様は必要な助けをそこへ降ろしてくださる。
 この「必要な助け・必要なだけ」というのが大事なのです。ちょうど、もぐらが太陽の光をパッと持って来られたら困りますよね。もぐらだったら月明かりぐらいがいいのです。その光の加減までちゃんとし、必要なものだけを的確に与え、そして一回でも大きく受けられるようになったら、またさらに大きいものを与えてくださる。どんどんどんどん必要なだけ与えられ、大きく変化させてくださる。
 だから、「ありがとうございます」のお祈りも、「お祈り」ってこだわらない方がいいのです。もう自然な呼吸ぐらいの感じでいいのです。「ありがとうございます、ありがとうございます」と。一瞬一瞬そういうように感謝を選び続けさえすれば、後は必ず良くなるだけなのです。
 修行してどうこうじゃないし、修行して悟らなければならないというものでもない。修行して幸せになるのでもない、それはまさに逆なんです。
・・・苦行は要らないんですか?

ありがとうございます
 はい、苦行もよかったらしてもいいですけど。(笑い)
でも、無眼の無限の幸せがもうすでに用意されているという大前提があるんです。ただ、それを受けられる自分になれば、「何でもスッと受けられるんだ」という自分になればいいのです。
 大きい幸せを受ける為に先ず小さい幸せから受けて、本当の幸せを受けた時に、それが価値あるものとして受けられるようにするのです。そういう意味で小さい幸せをまだ味わってるんだというぐらいがちょうどいいんじゃないですかね。


絶対他力
質問:
 出来るだけ数は多い方がいいのですか?

ありがとうございます:
 そうですね、数は多い方がいいでしょうが、あまりその数に囚われ過ぎるのも、ちょっとまたつまらない。本当は一回一回「ありがとうございます」と、その時に必要な助けを大きく頂けばいいのです。
だから、一回一回「ありがとうございます」と唱えるだけでいいのです。いつも「ありがとうございます」で。そうしたら、数にも囚われずに、今を大事に生きていける。今必要なことは、今受けたらいいのです。
 だから「ありがとうござます」一言で必要な物を的確に与えてもらって受けられるのです。これが一番楽です。各宗教には、いろいろな修行の仕方があります。自力の修行法も、他力の修行法もありますが、どちらも自分と神様を分けてます、出発点がね。
 でも、本当は神様と自分と一体化した状態から出発する生き方が一番いいのです、「絶対他力」ですね。「元から、神様と自分とは切り離せないんだ」
「神様に無限に無限に護られ続けている自分なんだ」
「護られてるから、そして自由を与えられているからどんなことでも出来たんだ」
というところから出発するのです。
 これは本当に、無限の無限の幸せをいつも受けられる状態です。
 ところが小さい幸せで、それを体験してみようというのも、自由にさしてもらえるところがあるわけでしょう。だから、地獄に落ちても無限の無限の護りを受けながら降りていく。その地獄の体験をちょっとすることによって、本当の極楽の幸せを価値あるものとして受けられるのです。
 だから、「最初から神様とは一体なんだ、切り離すことは出来ないんだ」という「絶対力、絶対他力」の生き方、これが「ありがとうございます」の感謝の生き方なのです。
 他に何も要らない。「ありがとうございます」さえ持っていたら、絶対他力の生き方で神様の無限の無眼の護りをいつも受け続けていける。
 本当の素晴らしい最高のものはこの世にあるのではなく、神様の中にある。神様の最高表現の中にあって、それを感謝の心を起こして受けさえすれば、それが現実に降りてくるというだけなのです。
 この世ではいろいろな事、マイナスが多く、悩み苦み、悲しんだり、未来のことを心配したりします。それは感謝を忘れた生き方から生まれた結果なんです。感謝さえすれば、無限の無限のプラスのいいものが、どんどんどんどん降りてきて現実化するのです。だから、感謝の心さえどんどん現実に降りて<ればいい。そうしたら、自然に良くなるしかない。
 感謝って「ありがとうございます」の中に全部あるんです。健康が欲しかったら健康があるしね、富が欲しかったら富があるし、いろんな発見が必要だったらそれもあるし、全部「ありがとうございます」の中に含まれている。その時に必要なものが必ず降りてくる。公害問題で困ったとしても、「ありがとうございます」を唱えてるうちに、その公害をなくす方法が、いろんな方法で降りてくるのです。

・・・「ありがとうございます」を言葉に発しないといけませんか?

ありがとうございます
 いいえ、心でいいんです。「ありがとうございます」で、現実に全部プラスに置き換わるのです。
水でも(「ありがとうございます」と書いたラベルをはると)その氷の結晶が素晴らしく美しい結晶として写るでしょう。微生物でもそうです。本当は微生物でも、悪いものはないのです。元々は神様の最高表現の中に生まれたのですから、微生物は全部プラスの働きをする微生物なのです。
 だから「ありがとうございます」さえあったらみんなプラスに働くのです。ところがいろいろなマイナスのことを思い出すと、それをかぶった微生物がマイナスの働きをする。人間の体の中へ入って病原菌になるのは全部その人のもっているマイナスの思いがかぶって、その身代わりにそれを消すための働きなのです。
 だから、感謝の深い人は病気にはならないし、なれないのです。微生物が全部プラスに働く。どんな病原菌でもそうなんです。病原菌だけじゃなしに、もう全てがそうです。神様の生み出した全てが全て、本当はプラスの働きをするのです。


神様に全託
質問:
 「ありがとうございます」と、そこに全託していくと神様の働きがあるということですけれども、ありがとうございます は、神様に全託出来たときの体験は・・・。

ありがとうございます:
 悟りは一生涯知れずと言うでしょう。
だから、(悟りは)どんどん変化します。「ありがとうございます」を唱えてるうちに。

・・・何時それが大きく変化したのですか

 う〜ん、何時って決められないですね。唱えれば唱えるほど変化しますから。
先ず、外の体験も変化しますけど、内面もどんどん変化します。感じ方が違ってくるのですね。

・・・百日間断食されて、体が動かなくなって、このまま死ぬんじゃないかと言うとき、そういう時でも

 無いのです。死ぬという恐怖心も何も起こらないのです。

・・・そういう時でも「ありがとうございます」、死んでも「ありがとうございます」、そういう感覚ですか・・。

 そうですね。だから、肉体を自分が動かす感覚もなくなるんです。自分というのがなくなって、呼吸が止まっても、体は動<んです。不思議にね。

・・・あまり辛いとか、苦しいとかは・・。

 その時はないのです。「ありがとうございます」を唱えている限り、その中に入ってるとない、苦しみも痛みも何もない。
その時の自分は、「肉体でも、魂でもない」「感謝の自分だけ」なのです。
 幸せというのは普通、条件付の幸せです。浅い段階で「こうだったら幸せ」と言うように。「ありがとうございます」をかなりちょっと唱え続けたら、無条件の幸せに必ずなる。条件が消えてしまうのです。「こうでなかったら」というのがない。「なんでも幸せ、何でもありがたい」となる。それでいて程度が低いかと言うたらそうでもない。どんどん奥へ奥へ導かれて、神様の最高理想を感じ取れるように高め上げてくださる。
 だから、お祈り・感謝の功徳というのは、本当は内面の変化ですね。神様を感じ取る功徳・神様と一体化していける功徳です。今の私の「ありがとうございます」は、一回一回が「無限の無限のありがとうございます」で、何億回ではないのです。積み上げた感謝じゃない。もう、奥からもらっている感謝に変わってますね。無限に無限に輝いた宇宙が、奥に無限に無限に続いてる、それを感じ取ろうという感謝です。だから、一回の「ありがとうございます」が、もの凄い価値があるのです。回数なんてもう問題じゃないのです。
一回一回が「ありがとうございます」と、噛み締める感謝になるのです。
 でも、誰でもそれを知ってるんです、みんな。こういう話を聞いて、多分「ああ、そうだな」とみんな納得する。「ああ、自分もそうに違いない」と。必ず、そこへ行くのです。だから「無限の無限の幸せが一杯」という言葉でも、いろいろな意味合いがあるわけです。本当は「無限の幸せ」でいいはずなのですが、なぜ「無眼の無限の」と二つ重ねるかというように。


神様の言う「ありがとうございます」
質問:
 「ありがとうございます」と言うのにもいろんなのがある。自分の為に都合がいい「ありがとうございます」が多いでしょう。自分を全部放り出して「ありがとうございます」と言えるって、なかなか出来ないんじゃないですか。

ありがとうございます:
 でも、段々と回教多く重ねてるうちに感謝の心が変化するんです。もらって「ありがとう」から、与える方の「ありがとう」が自然に出てくるのです。与えることが「ありがたい」というように。
 今度は、周りの人の幸せが「ありがたい」と変わってくる。自分の幸せじゃなしに、周りの人の幸せの方が「ありがたい」というようにどんどん広がるんです。大きく、それはもう「ありがとうございます」をどんどんどんどん唱えてるうちに、内面の変化がどんどん起こる。

・・素晴らしいですね。

 それで、最後は神様の「ありがとうございます」に近づいて行くのです。本物の「ありがとうございます」は、神様の「ありがとうございます」なのです。神様がどういうふうに「ありがとうございます」と言ってるかってね。人の「ありがとうございます」と言う意味と、神様の唱えてる「ありがとうございます」の意味が、限りなく近づいて行く方がいい。

質問:
 神様の「ありがとうございます」とは、平たく言うとどういうことですか。

ありがとうございます:
 神様は無限に無限に輝いたものを与え続けて、受けてもらって「ありがとうございます」でしょう。
本当の意味で、与え続けるのが「ありがとうございます」なのですね、神様のは。

「愛」と「ありがとうございます」
質問:
 「愛」とは違うんですか。

ありがとうございます:
 「ありがとうございます」の中に「愛」そのものも入っている、全部入ってる。
「ありがとうございます」の中に、すべての働きが中に入っている。「ありがとうございます」と「愛」とは一つなのです。「ありがとうございます」と「幸せ」も一つなのです、もうすべてが一つなのです。
 いちいち数え上げなくても「ありがとうございます」で、必要だったら全部わかるし、部分的にもわかるしね、一番楽なんです。「愛だ、愛だ」と言って、「愛を与えねばならない」と思うと、ちょっと力みが出たりします。けど、「ありがとうございます」の中に「愛」もあって、「与える愛」も「受ける愛」も全部あるのです。だから、もう自然に無理なくそれが出来る。「ありがとうございます」は噛み締めたらどこまでも味の出てくる言葉ですね。


本当の責任は神様しか取れない
質問:
 何回も、僕なんかも「ありがとうございます」という言葉の持つ力というか、それは「ありがとうございます」と言う大きな海があって、そこヘドボーンと飛び込めばもうそれでいい、ということなんですけど、なかなかそれをせずに、ちょっと会釈ですんでいるような感じも受けるのです。それは何故なんでしょう。

ありがとうございます:
 (笑い)ねえ、飛び込めばいいのにねえ。でも、ちょっとすくって味わうのもいい。大き<味わったり、小さく味わったりして。「ありがとうございます」の中には、いろいろな感謝があるのです。大きい感謝、小さい感謝、深い感謝、浅い感謝、ありとあらゆる感謝の仕方も、同時に一言の中にあるんです。その全部が味わえるのがいいんじゃないですかね。

質問:
 思い切ってドボーンと飛び込むというのは、ある意味ではこの世的な自分のものを捨てると言う意味ですか。

ありがとうございます:
 そうじゃないね。本当は、全部受けるのです。全部活かすのです。そういう思いがあるだけなのです。

・・・そういう思いがあるというのは?

 それは「思い」と「感謝」の違いです。「感謝」だけになりきった時は、全部受けるのです。大きいのも小さいのも、深いのも浅いのも、同時に全部受ける。
 しかし、思いの方は限定します、枠を作ったり、型にはめたり、いろいろしてしまいますね。そこで、徹底するのがいいのです。「ありがとうございます」の感謝だけにする。会釈の方は思いですね。

・・・でも、流れるままにそうするのは無責任と思いませんか。僕は何かそういうところがあって、さっきもちょっと言ったのですけれど。そういうふうなことで「ありがとうございます」ということで感謝はできると納得できたのですけれど。そういう生き方は、ややもすると無責任な生き方になりませんか。

 ただ、本当の責任は神様しか取れないです。最高の責任というのはね。

・・・責任者に任せる、と。

 最高の責任は神様が取ってくださる。無限の無限の揮いたものを与え続け、そういう光の流れを起こしているのは神様ですから。その神様の流れに乗ることが、神様の責任と一つになっていけるのです。それが最高の責任の取り方だと思う。部分的に小さい責任では、本当の責任は取れないのです。だから神様の本当の責任の中へ自分が飛び込めばいいだけなのです。それが感謝行であり、神様にすべてお任せすることなのです。小さい責任の取り方ではない、最高の、究極の責任の取り方です。だからこそ、全てがうまく行くのです。

・・・ああ、少し気が楽になりました。そうか、神様が責任を取ってくれるのか。

 だから「ありがとうございます」と、ある一つのことに対して感謝する、また人に対して「ありがとうございます」と言うと、その人には神様の助けが降りてきます。
 ところがすべての人にもし神様の助けを降ろして欲しいと願ったら、どうしますか? 特定の人だけに「ありがとうございます」と言うだけでは足りないでしょう。全部の人を思わねばならないでしょう。そういうことはできないですね。例えば、地球上のすべての人の顔を思い浮かべて「ありがとうございます」と言うことはできないのです。 でも「ありがとうございます」一言唱えたら、本当はそれ全部にいくのです。
 「お任せ」というのは、すべての人に神様の助けを、必要なだけ与え、それを責任を持って果たしてくださるということなのです。特定の人だけに光を降ろすのだったら、自分でそれを受けてしまいます。でも自分の行き届かないところに対してまでも、全部責任を持って光を与えて助けてくださるようにするには、もうお任せの「ありがとうございます」がいい。ただ「ありがとうございます」を気楽に言った方がいいですね。


下心のある「ありがとうございます」
質問:
 下心のある「ありがとうございます」を自分なんか言っています。そういうレベルの入り口の初心者マークついたような「ありがとうございます」。見返りを求めるようなそういうレベルで・・・。

ありがとうございます:
 それでもいいのです。「ありがとうございます」は本当の価値があるのです。その「ありがとうございます」には、ちょっと自分の思いや願いが付いていくだけ。でも「ありがとうございます」という言葉には本当の価値があるので、必ず必要な助けが、自分だけではなしに全てに行くのです。段々と、そういう自分の思いや願いを順番に消してくださる。「そんな心配要らん」と言って、益々楽にしてくださる。


世界共通語
質問:
 先生は日本だけではなくて、この言葉だったらサンキューはあるし、その他いっぱいありますよね。そういうのはやっぱりこれから広めていかれるのですか。

ありがとうございます:
 いや、私は別に考えていない。でも広がるでしょう。「ありがとうございます」という言葉は世界共通語になると思いますね。

質問:
 一応日本語でということですか。

ありがとうございます:
 日本は「言霊の幸う国」ですから、言葉と言霊の力、神様の働きが一つになっている言葉が多いですね。特にこの「ありがとうございます」がそうですから。サンキューじゃちょっと意味が足りないし、外国の人も自然に「ありがとうございます」を唱えるようになるんじゃないですか。それも自然に。別に日本の言葉占有じゃないですね。自然に気持ちがいいですから。
 また他に外国の言葉でいい言葉があればそれでもいいです。本当は元々いい言葉・正しい言葉・言霊に裏づけされた言葉、それだけがちょっとあればいいのです、この地球上に。沢山の言葉は要らない、幸せになるためには、極端に言ったらこの一言だけでもいいのです。後は神様が与えてくださるのを直感で受けて感じ取ればいいだけなんです。神様を感じるのは直感する言葉ですから。神様を直感できたら何も要らない。


神様の名前
質問:
 神様の現れ方というと、神道では八百万の神様ですか。人間が神様とコミュニケーションするには「ありがとうございます」と言うことで、全部済むのでしょうか。それ以外にですね、何か具体的な方法があるでしょうか。

ありがとうございます:
 八百万の神様はそれぞれ働きが全部違うんです。神様の名前というのは働きの違いなんです。名前ごとに働きが違う。だから、その神様の働きと一つになるんだったら、その神様の名前を呼ぶのが一番いいんです。神の名を呼ぶというのはピッタリーつになることです。どういう神様の名前でもいいんです。その時のその神様の名前を一心不乱に呼び続けたら、その神様とピタッと一つにとけあって助けてくれるんです。

質問:
 何でこういう質問をしたかといいますと、アメリカのある方が二十年間そういう自然界の神様とか知恵と交信する方法を体系化されているのです。八百万の神とかそういう表現でなしに、自然界の精霊だとか妖精だとかと会話をするのです。それでそういうことをちょっとお聞きしたんです。「ありがとうございます」と言うのは大きな海であって、ドボーンと飛び込めばそれで済むことなんですけども、ところがみんななかなかそれが出来ないのです、会釈ですんでしまいます。その時に、八百万の神みたいなものを、自分の相談相手として決めていくといいのではないかと思ったものですから。

ありがとうございます:
 でも、八百万の神様とか天使とか精霊いろいろ名前それぞれ使います。名前というのが神の名になるわけです。精霊というと精霊という神の名です。その範囲の波だけを感じ取るのです。
 本当は自分に必要な助けというのは、ありとあらゆるところから働いてもらうのです。肉体を維持するためには肉体波動に近い必要な要素からの助けが必要になってくるわけでしょう。心は心の波の合うところから受けるわけ。もう全てがそうですね。
 だから「今自分に必要なものが何か」ということがなかなか分かりにくいのです。自分では分かりにくい。それに背後の守護霊・守護神さんが全部わかるかっていうと、そうでもない。やっぱり最高の神様でないとわかりずらいのです。守護霊さん・守護神さんにしても、自分に必要な助けを与えて<れる方ではあるんですけど、全部を与えてるくれるのではない。だから、結局はみんな「ありがとうございます」に戻ります。「ありがとうございます」さえあったら、必要なとこから必ず必要なものを与えてもらえるんです。それもすべての次元から受けないといけない。地獄へ降りたら地獄での助けがある。この世はこの世の助けがあって、極楽行けばまた極楽の助けがある。そんな感じですね。

・・・はい、ありがとうございます。



ありがとうございますになるまでの話
質問:
 先生が何故このように至ったのか、というのを教えてほしいのですが・・。

ありがとうございます:
 私の両親が和歌山出身なんですけど、どちらも孤児同然なんです。親も死に、兄弟も死にってね。この世的に言わせたら、相当運命が悪い。父の方は財産家に生まれ、財産は残ったんだけど、それを使い果たして、体がボロボロになったんです。それでもう「駄目だ」といわれて神懸かりになって助けてもらった、命を。それでいろんな宗教的な仕事もさせてもらい、無報酬で神懸かりになって、お告げをみんなに伝えるような形で人助けをしたんです。仕事は時計屋をずーっとしてたんです。母は漁師の家に生まれて、貧しい状態だったんです、それで遠い親戚へ小さいときにもらわれていって、預かってもらい育ててもらった。相当母の方は苦労を抱えてる。学校へ行くんでも、宿屋と蚕のお世話とかいろんなのをしていたんで、朝早ようからそういう世話を全部していたので、座って食事をしたことがない、というくらい立ってパッと食べて仕事にかかる。学校へ行くにも遠いところの学校のベルが鳴るぐらいの時に走っていく、というような感じでね。だから女の体でありながら、男の人の三倍ぐらい働いたみたいです。特牛(こっていうん・・強健な牡牛)という名前を付けられたぐらいに、相当頑ばった。
 そういう母親でも頼るところが欲しかったのでしょう。それで小さいときから仏壇を自分で作っては拝み、神様を求めてはいろいろあちこち行ったみたいです。で、偶然にも父がそういう拝みやさんみたいなのをしてて、そこへ相談行ったときに、神懸かりで出てきた神様が、いろいろ納得するような話をしてくれたみたいです。
 父と母は相当離れているんです。けど「結婚しなさい」というふうに言われて、まあ結婚した。それから大阪へ出てきて、時計屋をしながらそういう奉仕活動の仕事をし、そこで私たち兄弟四人が生まれた。だから、私の小さいときは未だ時計屋もはやってて、借家も買って持ってたりした。幼稚園まではネクタイ締めていかせてもらっていた。(笑い)戦後のときでも何不自由なしに育ててもらったね。
 ところが小学校上がった頃から、「本当の修行は、滝に打たれたりそんなんするんじゃないよ」「これから本当の修行をさせるから」というんでね。父に対して「時計屋をやめなさい」と神さんが言うて来るわけよ。そういう指示が来た後はもう、今まで一日で時計の修理でも十人ぐらい持ってきてたのに、朝早<から店を開けていたのでね、それ全部ピタッとやめてしまう、そして、仕事ができないから収入ゼロでしょう、家財道具全部質に入れては流してしまう。借家も「売らんならん」といって売ってもお金にならん。瞬く間に全部消えてしまう、財産がね。最後には時計を鉄屑と真鍮に分けて鉄屑やへ売って処分してしまった。結局はもう全部なくして、家もない家財道具も一切ないという状態で家族六人が残るわけ。それで「これからだよ」と言うわけ。
家が無くなって知り合いの人の物置、まあ六量の掘っ立て小屋、物置を借りる。トタン張りのね、そこには布団が無いからわら布団を作ってかぶる。それで着たきりすずめ、もう着替えがない、それに繕いの糸一本無かった。
それで食べるもんだって収入がないからか得られない。何を食べるかというと、畑にほかしてある野菜屑を探してきてはそれを選り分けてそれを食べる、水炊きするわけね。調味料なんか買えない。
薪って何を使うかって、その辺に落ちてる木屑を探してくる。下駄の放ってあるのかとか、何でも燃やしてしまう。そういう状態から出発するのね。
 神さんの方は励ましてくれる。苦労が大きいほど、後から大きな楽がやってくるからってね。どんないやな仕事でもタダで喜んでするのが神さんの御心に叶うんだとか。いろんな言葉で励まし励ましやってくれる。
 最初の一年だったらまだできると思う。ところが十年余り続いた。だから子供の心の痛みや苦しみよりも、母の方が子供に対して相当苦しんだみたいだ。だから「子供に苦労をさせるよりは、自分が苦労したい」というのが親心だと思うんです。子供にまず食べさせるものがない。それで学校で必要な給食代にしてもPTAの会費でも、持って行かせるお金がない。運動会だからといって、女の子は体育のときにブルマというのをはかせるわけにいかない、買えないからね。どうしても必要だからというんで作ったんが、色違いの布で継ぎ合わせて作ったのを履かせる。そうしたら学校の先生が嫌がる、「風くるま」というてね。
 そうするとそれを冷やかされたら、ただでさえ心を痛めてるのに相当心痛めるし、相当ショック受けるわね。だからそういう状態が私も小学校へ上がってからず一つと続いた。給食代が払えないから、一人校庭へ出てはじっとしてる、時間経つのをまって。まあ、その時は私も神さんを信じてるんで、別に苦にはならなかったね。「ありがとうございます」を唱えながら、お祈りに専念してたような感じです。そのうちに段々と安い内職だけはさせてくれるようになる、家族六人で一生懸命する。だからいろんな種類の内職ー杯させてもらったけど、内職してもお金にならん。場合によったら、すればするほど損するのがある。それでも一生懸命させてもらった。学校へ行く時間までし、学校帰ってからも一生懸命してね。家族六人一生懸命しても一食分の小麦粉が買えなかった。だからそういう体験というのは感謝を深めるのに役に立ったと思う。ちょっとしたものでも「ああ、ありがたい」と思う。ちょっと風邪ひいて病気になっても、最初はアスピリンという薬を買いに行くんですけど、お金ないんですよ、それでもどうしようもないから買いに行かなあかんわね。それで子供に行かすわけ、親はやはりお金なしでは買いにいけない。子供が「アスピリン頂戴」って買いに行くでしょう。それでもらってから「ああ、今日忘れた」って「次ぎ持ってきますから」ってパッと帰る、逃げるようにね。やっぱりそれは何回もすると気がねする。段々と「前のお金持っておいでよ」と言われる。そうするともうどこへ行っても買えなくなる。だから薬も買えない、お医者さんにももちろんかかれないしね。
 それで頼るところはやっぱり神様しかなくなって<る。だからいろんな病気まあ栄養失調にもかかりそうな状態ですから。風邪を引いたりいろんな故障を起こす。その中で神様にすがったときだけスッと治してくれた、不思議とね。同じような病気になっても、お医者さんや薬に頼った人は悪くなってるのに、一心に神さんに頼ったときは治してもらえた、不思議にね。
 私の姉でも小学校のときに中耳炎から脳膜炎になって、「もうこれは死ぬ、駄目だ」と言われた。夏の暑い時だったから、手術しても駄目だってね。だからお医者さんは立会いのお医者さんを二人置いて、「絶対死ぬから」というて、一人でようせんかった、手術ね。あの当時、ノミと金づちで頭を割って、腐ったところを取り出す。今みたいなのと違うね。一応腐ったとこ取り出してくれた。でも「これは絶対死ぬ」ってお医者さん言うた。だから「入院させん、家へ連れて帰ってくれ」て言う。で、それを家に連れて帰って治してもらった、神様にね。今も元気、おかしくなってないね。
 そういうふうに神様に一心にすがった時は、いろんな形で助けてもらった。そういういろんな苦労というのは、やっぱり神さんのほうから計画的に与えてもらったお蔭です。先ず感謝を深めるのに大きく役にたててもらった。
 また「人生の目的とは何か」というのも、本当の人生の目的を求める心も起こさせてもらったと思う。表面的にいろんな目的を持って順調にいってたら、それ考えなかったと思う。もうぎりぎりのところで、本質的に「人の幸せとは何か」とか「人生の目的とは何か」とか、いろんな根本的な大事なことを考えるチャンスというのを生み出してもらえたと思う。だから中学のときに、人生の目的を相当悩んだけど、それがまた大きく自分の目的を・目標を定めてもらったと思う。
 だから人生の目的に付いて悩んだときも、いろんな本を読みあさったり、学校の先生にちょっと聞いてみたり、いろいろしたけれども、なかなか納得できなかった。いろんな答えは書いてあっても、また自分で考え出しても、納得できる答えじゃなかった。
 でもその時に人生の目的を「人生の目的を追求することを、人生の目的にして生きなさい」というふうに、ちょっと神様からアドバイスがきた。それでかろうじて自殺もせずに「ああ、人生の目的を追求するのに、自分はもっと真剣にならないといけない」というような気持ちでやっていけた。だから、「人生の目的を知りたい」というのが一番の願いだった。
 それでいろんな勉強もし、お祈りもしっかり深めてという形で、二十歳のときにその「人生の目的」がスッと分かった。それまでもいろんな病気もし、いろんな体験を一杯積ませてもらって、結局は自分の欲を全部取ってもらった。ただひたすら人生の目的を知りたかった。「神様の目的は何か分かったか」、人生の目的は「何だったかなあ」って感じです。その時に掴んだ人生の目的と今のとはまたちょっと違うんですね。
 その時は「神様の御心を受けて、この世に現すのが人生の目的ではないか」というような感じで、スーッと心が納得できた。それだったら「神様に自分の命を捧げつくして、神様の御心を現すために使ってもらおう」という気持ちになれた、二十歳でね。それからボランティア一筋に生きるようになった。いろんな平和運動とか、形ではいろんな資金が要ります。真理の本を人に与えるためにも、買って与えないと駄目でしょう。それで三倍働いたの、朝・昼・晩ね。それでお祈りも一生懸命しながら平和運動のボランティア活動一筋に生きてきた、三十過ぎまでそう。
 それまでは結婚も何も考えてないね、一生独身でいいと思ってた。その間、月のうち三週間は断食し、お金も無かったからもあるんですけど、忙しかった、寝る暇もないぐらい忙しかったから、それで断食する方が楽だった。それが大体十年ぐらい続いているわけ。その間やっぱり、自分の限界を試すというよりも、神様を試していた「どれだけ護ってくれるか」って、傲慢やね。ここまで無茶しても護ってもらえるのか、というくらい、無茶し過ぎたぐらいしてきた。でも不思議に護りに護られてきた。危険なことも一杯あった、病気やいろんなことで死ぬところまで何回もいってる。そのたびに護りに護られてきたんです。やっぱり凄いなと思う。神様を試したというのは本当は良くないんですけどね。でも、どんな時でも護りに護ってくださるというのが、本当の深い確信に変わった。
 二十歳のときの心境と、三十過ぎの心境と全然違う、また今の心境とも違う。二十歳の時はかなり世の中を憂いて、「どうしたら救えるか」というのが強かった。本当に地球が滅亡するかも知れんという、もう本当に追い詰められたような気持ちだった。
 三十になるとだいぶ違う、軽くなってる。お祈りにお祈りを積み重ねて、人の病気を何万人って治してみたり、また平和運動という形で世界の平和を祈り続けて、必ず地球は救われるってね。人はみんな幸せにしてもらえるんだというかなりそういう明るい気持ちに変えてもらった。それもやっぱりお祈りの感謝行のお蔭だと思うんです。それで、三十過ぎからちょっと心が楽になった。それで別に結婚絶対するもんかというそれもなくなってしまって、お任せの気持ちになった。
 それでお任せになると、結婚して見ないかという話が出てくる。それまでは、「絶対結婚せん」という感じだったでしょう。でもお任せになると自然に結婚もするようになって、それまではもう菜食主義的にいきたけど、もう何でも食べるようになる。ただもう感謝を深めてするだけという気持ちに段々と変わってきた。だから結婚するとき、私一円もお金持ってなかった。(笑い)みんな家内に出してもらった。それなのによう結婚してくださいって言えたね。(笑い)厚かましい、お金一円も持ってないのにね。

・・・それなら、紹介されてということですか。

 そう、心の勉強のつながりがあっていろんな場で、ちょっと紹介された。

・・・先生の奥さんが偉いんだ。

 そう、(笑い)私は「清貧に甘んじて生きるから付いてきなさい」って感じ。最初から本当は断られるんでしょうけど。なんか「狐につままれたような感じや」と言うてます。神様につままれて(笑い)やっぱり不思議なこと一杯あった。もう自然に結婚するようになってしまったみたい。みんな神様が運んでしまったような感じでね。そうでなかったらしてないかも知れんね。

・・・なんで結婚しはったんですか。わからん。

奥さん:神様につままれたのね。'

・・・はーあ。

 誰も反対しなかったね。

・・・大変なのが分かってで、よく結婚されましたね。

奥さん:大変なのを知らないから。
(会場大笑い)

・・・結婚されてびっくりされたでしょう。

奥さん:生活が全然反対でしたよね、考え方がすべて。先ず、蓄えるいうことがないでしょう。本当は蓄えて、まあ、後、必要なときに使うとか、困ったときにね、そういうんじゃなくて、全部平和運動に使ったんですよ。

・・・よく生活費出ましたね。

 だから生活費ゼロよ、ゼロ。

奥さん:おばあちゃんいてたし、結婚しても何も買い物に行かないに・・

 本当にゼロなんです、生活費ね。そうして「どうして生きるんか」って言うんですけどね。やっぱり必要なだけ口に入るんです。入れてもらえるのね。

・・・天から降ってくるんですか。

 天から降ってくるし、人からも・・・

奥さん:和歌山にいたときは、お魚を川へとりにいったり・・・

・・・奥さんは偉いわ、凄い偉いわ、先生は慣れてるからいいでしょうけど。

 本当にそう。

・・・普通だったら三日たったらとんで帰りますね。

奥さん:あー、はははは。

 ところが、ちょっと違うところが、神さんの護りが降ってるでしょう、苦労も無駄な苦労はない。だから護りを実感させるための苦労です。だから何もなくても、心はいつも安らかなのは、神様の無限の護りをいつも実感してるから。必要なのは必ず与えてもらえると、よくわかっている。お任せの方が楽なのね。だから私の場合はそれを徹底して実感させてもらえてる、何の心配もしてない。

・・・奥さんは心配しますよね。

 心配しましたよ、取り越し苦労、それを取っても楽ならんことあったけどね。それを取ってもらったからあまり先のことを考えなくなるし、非常に気が楽になりました。

・・・それは何時ごろの話ですか。

 そう一年ぐらいしてから・・・。結婚して子供が生まれるという時でも、お金ないんです、出産費がね。それでまた私を神様が強制的に入院させるでしょう。肺がなくなって心臓がこの辺へ来てね、強制入院させられて

・・・移動してきたの、そんな馬鹿な。

奥さん:もう生きるか死ぬか、生きててもいざりで、本人は車椅子を与えられても、しゃっしゃっしゃっしゃと歩いて・・。

 実際なかった、肺がなくなって、心臓がここらへんにきてた。これで呼吸が出来るんかって、動脈開いてたりしてたみたいね。もうこれ絶対助からんという感じだったみたいです。
 そういう時に子供を出産するでしょう、お金がないのにね。一人ぼっちで。それでも出産の費用ちゃんと与えてもらう。不思議と回してもらう、必要なだけはちゃんとね。やっぱりぎりぎりまで追い詰めては神様を実感させていく。「これだけ護る」というような感じで、必要なものはちゃんと与えて<たさる。私は入院してて楽ちんですよ。
 ところが大勢人生相談に来るんですよ、絶対安静のところへ、(笑い)

・・・奥さんこちらへどうぞ、こんなこと滅多にないですから、両方の話を聞くというのがやっぱり勉強に凄くなりますよ。僕らも結婚生活してて「ああ」というのがあるんですね、聞いていてもの凄く響いて。是非お願いいたします。

M:あまり出ていきたがらないので、あまり言うと。

 いろんなそういう勉強全部、神様を感じる勉強だった。神様と自分との間のクッションを全部取リ除いて、実感させて<れる。だから頼るところを全部取ってもらった方がいいみたいです。
「神様しか与えるところはない」というのが一番大事なんです。そうしたらいつもひしひしと神さんの護りが感じられてくるんです。みんな豊か過ぎたらわからないんですよ。

・・・やっぱり心が凄くきれいで、何も疑うことがなかったからかな。僕らはやっぱりどこかで疑心暗鬼になるし、信じ切るには十年ぐらいかかるのではないだろうか。神様を信じるということはご主人を信じるということですか。でも、心から信じるということは難しいじゃないですか、ご主人を。

奥さん:でも、みんなも信じられると思いますよ。

 100%ですよ、最初から。それでなかったら逃げて行ってます。

・・・で、入院されて。

 私の休息期間だったの。寝かせてもらって、一年ぐらいかな、一年弱ですね。その後もすぐに平和運動一筋でした。三十なんぼね。そやから恐いもん知らず。何があっても恐くないね。

・・・入院されてからいろんな変化はあったんですか。

 もう大きい変化はないですね。後はもうお祈りの道をまっしぐらに進んできただけ。後、平和運動を一生懸命させてもらっただけ。だからもう全部お任せの生き方でしょう、だから自分の思いも何も消えてないの。ただ、もう与えてもらうだけ、という感じですね。

・・・ボランティアというのは、先生みたいに根っこからのボランティアだと理解できます。普通のボランティアっていうと、どこかで何か目的があって、自分の名誉も含めてやる人が多いじゃないですか。

 本当のボランティア、本当の奉仕というのは、私の場合、もう神様への命を捧げつくしての奉仕です。人への奉仕じゃないんです。神様への全託奉仕、後は、神様が自分を使ってくれるだけ。だから、神様が自分を使って世の中のために、平和のために尽くしてくださるのは神様がすることでね。神様への恩返しの気持ちで命を捧げつくしてるだけ。それで与えられたものを感謝で受けきっているだけ、一番得してるね。みんな神計らいで運ばれている。本当はこんな広いところも要らんのですけど、もう小さい六畳の掘っ立て小屋でいいんですね。何の願いもないんです。服も別にねえ、何も着たきりでいいんです。食べ物もなくっても、何も食べんでもいい。小さい頃はよく食べ物なかったら「粘土掘って食べなさい」って言われたんです、神さんから。粘土掘って食べた体験は未だないですけどね。何にもなかったらそのつもりでいますね。

・・・凡人以下の僕でも、全託したらいいんですか。

 本当にそうですね。全託というより、感謝さえしてたらもう全託なんです。そうしたら神様の護りが、好きなだけどんどん降りて、どんどん神様と一体化の道へ進めてくださる。だから自分が立派になってからどうこうじゃない。全部任せた方がいい。だから神様のほうから降りて来て、必要な働きをしてくださる。今の私というのは、過去の積み重ねでなった自分じゃないですよ。私の家系がこれだけマイナスが多かった家系というのは、相当大きな業を重ねているからなんでしょう。でも命を捧げつくして「神様のために」という気持ちになった時は、大きく神様の助けを受けられる状態なんです。だから、過去の生き方なんてもう問題じゃない、神様にとったらね。
 どれだけ大きいマイナスがあっても、そんなのは取るに足らない。後は、神様が使いやすく訓練をして使ってくださる。だから、私に今いいものがあるとしたら、私のじゃないんです。神様が必要に応じて降りてきて、何かをみんなに与えてくれてるだけ、それも必要に応じてだけです。

・・・変な考え方をすると、悪いことをしても神様が与えてくれるというのがあるじゃないですか。例えば、人を殺すようにと「神様がそうせい」と言ったからとか。

 それが本物かどうか、見極めはみんな誰でも出来ます。

・・・本物かどうか・・? 成る程!

 本物は、一人一人みんな知っています。これが本当の神様の働きかどうかって分かります。もし、マイナスを背負うんだったら、みんなのマイナスを大きく背負って自分は苦しむ立場におかれるのは当たり前です。人を苦します立場は立たない。仮に、人を突き殺すような因縁が沢山あったとしても、みんな自分の体の痛みで消してしまう。

・・・それが入院された頃からですね、痛みは今でもずーっと変わりませんか。

 私は二十歳になる前に一年間、痛みで「もう大変」という状態に置かれているんです。最初に両耳が、片耳ずつなんですけど。何か中耳炎的な感じになって、ガンガン割れる、頭がね。それが半年ずつ交代で一年間続く。その後、今度、胃痙攣が一年間続く、二年間痛みがずーっと続いた。それも普通にいろいろなことしながらです。その傷みというのが、今考えるといい体験だと思うんです。今でも相当いろんな痛みをいつも受けるんですけど、平気なんです、痛みがある毎にそれを喜べるのです。

・・・じゃあ、並みの痛みじゃなかった。

 その時の痛みは二年ずっと続いたにしても、痛みに慣らすための痛みなんでしょう。それでも、その後お祈りに専念するようになって、「お祈り」というのは、みんなの身代わりにマイナスを背負っては、それを消す働きです。一旦は受ける、いろんな人の痛みをね。大きい場合は、のたうち回るような痛みです。じっと耐えてお祈りして消してもらう。そりやあ、呼吸止まることもあります。今まではずーっとそうだったんです、二十歳からずーっと。

・・・「ありがとうございます」というお祈りですね、これはどこでどういうふうに感じられて始めるようになったんですか。

 それも、自然に出てきてるんです。いろんな祈り言葉はいろいろ使ってますけど、小さい時からね。
でも「ありがとうございます」という感謝が、やっぱりいつもあるんです。どんな神様の名前を呼んでも「ありがとうございます」はあるんです。その「ありがとうございます」だけに徹し切るようになったのは、ずっと後なんです。いろんな神様の名前を呼び、仏様の名前を呼び、観音様の名前を呼び、一心に呼んでは助けてもらって。それも、感謝行の時にずーつと続いてるんです。

・・・今はどういう生活されてるんですか。

 必要なものを全部与えてもらっている。天から降ってるような感じです、全部がそうです。無一文で何もない状態で、全部整って行くんでしょう。考えられないね。どうやって生活してるのかって言われるんですけど。必要なものは全部、「与えられ過ぎ」ていう感じでね、どうやってお礼せんならんかってね。「感謝の先取り」っていうんですけど、先取りどころじゃないね。もう与えられ過ぎて、感謝が追っつかない。(笑い)


徳を積む
質問:
 宗教でいうとよく「徳をつみなさい」というでしょう。徳を積んだら自分に何か返りますよと。先生のお話はぜんぜん違う観点、徳を積むとか積まないとかじゃないですね。

ありがとうございます:
 神様の無限の無限の徳をいつも頂き直してる。自分の「徳」を積もうなんて思ってない。神様から頂くばっかりでしょう、無限の無限の徳をね。

質問:
 今言った宗教観の「徳を積みなさい」とはどう考えるのですか。

ありがとうございます:
 もう必要ないです。自分が積むような「徳」なんて、本当の徳じゃないです。「徳」という字の意味が、ギョウニンベンに、昔の字体で「直の心」です。「直(なお)びの心を行ずる」というて、直令の心を行ずるという意味でしょう。だから根源の神様の働きが「徳」なんです。本当の「徳」というのは、神様の働きそのものなんです。だから「全徳の無限の無限の働き」「無限に無限に輝いた神様の働き」が「徳」なんです。人間が積める「徳」なんて、何もないのです、本当は。
 その神様の働きを、感謝を深めて頂く・受け直す。それが神様の「徳」を頂くことです。その「徳」さえ頂いたら、自分のものになる。今更「徳」なんて積む必要はない。神様の徳を受ければいいだけ。だから「ありがとうございます」だけでいい。


無限の無限の
質問:
 無限の無限のと繰り返している意味は・・

ありがとうございます:
 本当はこれ皆さん、無眼の無限の・・って。なんで「無限の」の上にもう一つ「無限」を付けた方がいいのか。まあ、考えてもらったらいいかと思うんですけど。幾通りも意味が出てくる。どういう意味があると思われます?「無限の何々」でも素晴らしいんですけど、もう一つ「無限の」と付ける意味がね。

・・・永遠のとかそういう。

 そう、永遠というのも時間的な無限のと言う感じですけど。幾通りも意味が出てきます、沢山ね。

・・・無限のという一言で?

 そうなります。限りないという。

・・・宇宙根源とか?

 普通この世というのは有限です。どれだけ奥へ奥へいっても、限りがあったら有限です。だから、捉えどころのあるのはみんな有限なんです。「無限」というだけでも凄いんです。

・・・宇宙を司るもっと大きいものがあるんですか? 無限の無限の…というのは無限のエネルギー、神の力…

 一つの特性を例えば「無限の無限の幸せ」というふうに見たときに、普通この肉体の自分一個だったら、「無限の幸せ」で終わりますよね。限りなく大きい幸せを掴んだら、「無限の幸せ」を味わってるんでしょう。この肉体の自分一個を掴んだ状態ではそうです。でも、本当の自分は、例えば一つの考え、この場にいる自分と、無限の次元にいる自分とがあるわけです。無限の次元の自分も含めたら、それぞれに無限の幸せを掴んだ無限の無限の…となります。それが一つ。それで今の時間にいる自分と、過去・現在・未来の、無眼の時間にいる自分がそれぞれにあるのです。だから、無眼の時間にいる自分を見ると、また無限の無眼の幸せです、全部自分のものとすればね。宇宙の成り立ちというのは、入れ子構造の、小さい箱の上に大きい箱を作って、その上にまた箱を入れて、箱を入れて、というふうに、どんどん相似形の姿で大きくなっていく。だから宇宙の中に、例えば、一個の原子があるとすると、その一個の原子の中にも宇宙があるという感じで、どんどん無限に無限に広がる。無限に無限に広がる想像を絶した構造の宇宙があるとしたら、今見ている宇宙に無眼の幸せがあったら、そういうのが無限に続いてる。無限のいやしろどのに住む自分から見たら、そこに無眼の無限の幸せを感じる自分があるわけよね。また肉体の自分・人間としての自分があるとするでしょう。でも、人聞以外にも沢山いるでしょう、動物も・植物も・鉱物もね。
 人間も宇宙に無限にいます。一人の自分としての自分が、無限の幸せだったら、宇宙の全部の人の幸せを自分のものとすれば、これも無限の無限の幸せです。それで人以外の、植物や・動物や・鉱物の幸せも含めたら、これもまた無限の無限の幸せです。人間としての無限の幸せを加えて、他の全部の幸せを取り込めばいい。その幸せというのも、これも全部顔が違うらしい、無限の幸せというのでも、またそれが無限に顔が違って変化する。それも幸せ自体が、無限の無限の幸せになる。その一つ一つが必ず無限に質が高くなる・また無限に大きくなってくる・また無限に深みが出てくる。それも全部無限の無限の無限の…て付くんです。そして、無限に無限に輝いた幸せというものが、いろんな要素をバックにして持ってるわけでしょう。丁度、太陽の光体のようなもんです。その光体の奥にそういうものが、無限に無限に続いている。また早く受けて欲しい、幸せを早く受けて欲しいと言う意味で、そういうのも無眼の無限の幸せとして出てくる。そしてそれを全部ひっくるめたもうひとつ奥に「絶対」というのがある。「絶対」の中には、無限の無限の幸せどころじゃないです。それ以上のものがあるわけです。だから、ひとつの特性の「幸せ」というのを掴んだだけでも、無限の無眼の幸せ、というのが底知れん想像を絶するものとして「ありがとうございます」を唱えているうちに、感じられてくるんです。だから、幸せも・喜びも・安らぎも・健康も・恵みも、その全部の要素がそうなんです。そういうものが無限に無限に複雑に組み合わさって、そこへ光の綾模様、もう荘厳極まりないという感じで大光体がパァーっとでて来るんです、ところてん式に押し出されてきてる。そういうのが天から降ってくるのです、本当は。地から湧いてる・もう全体から降り注いでいるという感じでね。その中心に一人一人の自分が本当は置かれているんです。
 だから肉体の自分というのは、無眼の無限の大光体の中心に置かれている。外広がりに無限にどこまでも大きい光が続いている。そうしたら「どこに闇があるんか」となる。本当は、もし自分が勝手に闇を作って、その中に入り込まない限りは、大光源の中心にみんないるんです。それが「無限の無限の幸せ」という本当の姿と思うんです。だから「ありがとうございます」という一言の中に、その「無限の無限の幸せ」も小さく納まってる。それと、ありとあらゆる神仏が全部「ありがとうございます」の中に納まるってる。神様のどんな働きもその中にあるのです、「ありがとうございます」一言の中にね。また「ありがとうございます」が、本当は奥へ入るほど「無限に無限にありがとうございます」に変化する。自分がしてる「ありがとうございます」が、一個の「ありがとうございます」とするでしょう、そうしたら無限の無限のすべての存在が、同じように「ありがとうございます」を言ってくれる。そういう感謝を含めたら「無限の無限のありがとうございます」でしょう。その「ありがとうございます」をまた大きく一つに見る「ありがとうございます」があるでしょう。だから、一言の「ありがとうございます」の中に、常に「無限の無限の幸せ」が「無限の無限の感謝」が全部ある。「みんなの感謝」が全部「自分の『ありがとうございます』」の中に含まれている。また「神様の『ありがとうございます』」も全部、今自分の使う「ありがとうございます」の中に全部入っているのです。また、「自分が唱えてる」というよりも、「神様が唱えさせてくれる『ありがとうございます』」の中に、全ての全てがあるのです。だから、凄い言葉だと思うんです。これ以上の言葉はないかも知れないですね。

質問:
 全てを受け入れようということではないですね。わざわざ分かってて悪の道に入るという、そんなことはないですね。

ありがとうございます:
 ないですね。だから、本当の幸せを実感できる自分になるために、必要なことを神様が的確に与え続けるのです。今の自分にとって一番必要なものを、絶対間違えずに与え続けてくださる。今は小さい光で満足して、それしか受けられない自分だったら、小さい光でちゃんと満足させてくださる、ちゃんと必要なものを与えてくださる。その時にまた自分が大きく変化します。大き<変化したら、また大きいものを与えて<ださる。絶対強制はない、無理はないのです。必要なものを的確に与えて続けて、最短コースで幸せになれるようにしてくださる。そこがまた凄い神様の働きだと思うんです。だから「大きい光が欲しい」と無理に大きい光を浴びるんじゃない。必要なだけがいいのです。飲み水が欲しいのに、洪水のように水がバーっと来たら困りますよね。だから、必要なだけが一番幸せです。その必要性というのがどんどん変化します。自分の心の器が大きくなり、自分がどんどん大きくなるにつれて、大きいものがどんどん流れ込んできます。また、器がなくなったらなくなったで、今度は大きいものと、どんどんどんどん自分が一体化していきます。器へ入れてる間は、まだ小さいです。自分という器が消えていくほど、今度は大きくどんどんどんどん変化します。神様と合体して大きくなっていけばいい。みんなとひとつに一体化していけばいい。それも、より新しいものへ近づくほどいい。なかなか近づけないけれど、無限に無限にところてん式につながっているんですから。