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「人助(ひとだす)け」に一番(いちばん)必要(ひつよう)なことは、常(つね)に人(ひと)の自由意志(じゆういし)は尊重(そんちょう)されなければならないということです。真剣(しんけん)に感謝(かんしゃ)し、真剣(しんけん)に奉仕(ほうし)している人(ひと)を助(たす)ける場合(ばあい)は、その人(ひと)の自由意志(じゆういし)は、神(かみ)さまの助(たす)けを受(う)け入(い)れるということに、明確(めいかく)に定(さだ)まっているので、問題(もんだい)は無(な)いのです。神(かみ)さまの媒介(ばいかい)になって、どんな助(たす)けを与(あた)えても、プラスに働(はたら)くものです。しかしそうでない人(ひと)を助(たす)ける場合(ばあい)は、助(、たす)けるのが良(よ)いのか、助(、たす)けない方(ほう)が良(よ)いのか、優(、やさ)しいのが良(よ)いのか、厳(きび)しいのが良(よ)いのか、非常(ひじょう)にその選択(せんたく)が難(むずか)しいものです。肉体人間(にくたいにんげん)の方(ほう)は、お節介(おせっかい)が過(す)ぎて、甘(あま)くなりがちです。
 本当(ほんとう)の人助(ひとだす)けは、感謝(、かんしゃ)の深(ふか)まるように助(たす)けることです。思(おも)いの心(こころ)から感謝(かんしゃ)のこころへ写(うつ)り変(か)わらせることであり、浅(あさ)い感謝(かんしゃ)から深(ふか)い感謝(かんしゃ)へと感謝(かんしゃ)を深(ふか)めさせることです。苦労(くろう)の足(た)りない場合(ばあい)は、順境(じゅんきょう)に慣(な)れると、感謝(かんしゃ)を忘(わす)れ、不足(ふそく)を言(い)うものです。だから苦労(くろう)はしっかりとしておく方(ほう)が、感謝(かんしゃ)は本物(ほんもの)になるのです。「喉元(のどもと)過(す)ぎれば熱(あつ)さを忘(わす)れる」では、苦労(くろう)が足(た)りないことになるのです。必要以上(ひつよういじょう)のものを与(あた)え過(す)ぎたら、必(かなら)ず感謝(かんしゃ)を忘(わす)れ、求(もと)める心(こころ)がエスカレートして、不足(ふそく)を言(い)うものです。
 本当(ほんとう)の人(ひと)の自由意志(じゆういし)は、本心(ほんしん)の心(こころ)・感謝(かんしゃ)の心(こころ)の中(なか)に在(あ)るのです。思(おも)いの心(こころ)から来(く)る、思(おも)い通(どう)りにしたいという自由意志(じゆういし)は、偽物(にせもの)なのです。感謝(かんしゃ)の心(こころ)が必要(ひつよう)としているものを与(あた)えるのは、正(ただ)しい助(たす)けです。思(おも)いの心(こころ)が求(もと)めるものを与(あた)えるのは、間違(まちが)った助(たす)けです。本心(ほんしん)の心(こころ)は、感謝(かんしゃ)の深(ふか)まるように助(たす)けてほしいのです。だから思(おも)いの心(こころ)で、求(もと)めている時(とき)は、一切(いっさい)与(あた)えないのが正(ただ)しいのです。思(おも)い通(どう)りになれば、思(おも)いを一杯(いっぱい)積(つ)み重(かさ)ねて、感謝(かんしゃ)から遠(とお)ざかることになるのです。
 思(おも)いの自分(じぶん)を生(い)きながら、求(もと)める心(こころ)を生(い)きながら、未(いま)だ順境(じゅんきょう)に置(お)かれているとすれば、守護(しゅご)の神霊(しんれい)や縁者(えんじゃ)の涙(なみだ)ぐましいまでの応援(おうえん)のお蔭(おかげ)なのです。どれだけ大(おお)きな負担(ふたん)をかけ続(つづ)けているか、想像(そうぞう)を絶(ぜっ)するものがあるのです。そのことに一刻(いっこく)も早(はや)く気付(きづ)かなければ、一大忘恩(いちだいぼうおん)の徒(と)に成(な)り下(さ)がるのです。自分(じぶん)だけが安閑(あんかん)としているのは、恥(は)ずかしいことなのです。自(みずか)らも地獄(じごく)の苦痛(くつう)を背負(せお)い、感謝(かんしゃ)を深(ふか)める気持(きも)ちが無(な)ければ、本当(ほんとう)の感謝(かんしゃ)とは何(なに)か、気付(きづ)くこともできないのです。地獄(じごく)の無限(むげん)の苦痛(くつう)を身代(みが)わりに背負(せお)ってもらうことが、どれほどの感謝(かんしゃ)に値(あたい)するのか、また無限(むげん)の苦痛(くつう)を消(け)し去(さ)って貰(もら)うことに、どれほどの価値(かち)が有(あ)るのか、自分自身(じぶんじしん)で体験(たいけん)すること大事(だいじ)なのです。そうすれば一切(いっさい)不足(ふそく)は言(い)わなくなるのです。謙虚(けんきょ)に謙虚(けんきょ)に感謝(かんしゃ)を深(ふか)め、その感謝(かんしゃ)は本物(ほんもの)に成(な)るのです。無限(むげん)の無限(むげん)の感謝(かんしゃ)の伴(ともな)った感謝(かんしゃ)にならなければ、未(いま)だ本物(ほんもの)の感謝(かんしゃ)では無(な)いのです。