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 人(ひと)は自分(じぶん)の自由意志(じゆういし)を明確(をめいかく)に示(にしめ)すことが大切(たいせつ)なのです。神(かみ)さまが与(あた)えてくださる、無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルの番組(ばんぐみ)の中(なか)から、何(なに)を選(えら)び、何(なに)を受(う)けようとしているのか、自分(じぶん)自身(じしん)が番組(ばんぐみ)選(えら)びの総責任者(そうせきにんしゃ)なのです。責任(せきにん)を他(た)に転嫁(てんか)する時(とき)から、運命(うんめい)の奴隷(どれい)に陥(おちい)るのです。自分(じぶん)で自分(じぶん)の自由選択(じゆうせんたく)の権利(けんり)を放棄(ほうき)してしますのです。人(ひと)はどの番組(ばんぐみ)でも選(えら)べるのです。どんな運命(うんめい)も享受(きょうじゅ)できるのです。自分自身(じぶんじしん)に自由選択(じゆうせんたく)の権利(けんり)と責任(せきにん)が有(あ)ることを、決(けっ)して忘(わす)れてはならないのです。
 無限(むげん)の無限(むげん)のチャンネルの中(なか)には、すべてが有(あ)るのです。無(な)いものはないのです。人(ひと)は言葉(ことば)通(とお)りの番組(のばんぐみ)を感受(かんじゅ)するのです。どんな言葉(ことば)を使(つか)っても、その言葉(ことば)通(とお)りの番組(ばんぐみ)が、運命(うんめい)となって現(あらわ)れるのです。プラスの言葉(ことば)は、プラスの番組(のばんぐみ)に波長(はちょう)があって、プラスの運命(うんめい)を現実化(げんじつか)するのです。マイナスの言葉(ことば)は、マイナスの番組(ばんぐみ)に波長(はちょう)が合(あ)って、マイナスの運命(うんめい)を現実化(げんじつか)するのです。すべての運命(うんめい)は、言葉(ことば)通(とお)りになるのであり、言葉(ことば)通(とお)りになっているのです。
 過去(かこ)の言葉(ことば)は、消(け)し去(さ)らない限(かぎ)りは、心(こころ)に思(おも)いとなって蓄積(ちくせき)されるのです。その言葉(ことば)は順番(じゅんばん)に、言葉(ことば)通(とお)りの番組(ばんぐみ)を現実化(げんじつか)し続(つづ)けるのです。言葉(ことば)の予約(よやく)が一杯(いっぱい)になると、今(いま)使(つか)った言葉(ことば)が現実化(げんじつか)するのは、過去(かこ)の言葉(ことば)の後(あと)に成(な)るのです。心(こころ)に思(おも)いの蓄積(ちくせき)がなければ、今(いま)使(つか)った言葉(ことば)通(とお)りの番組(ばんぐみ)が、即座(そくざ)に現実化(げんじつか)してくるのです。心(こころ)に思(おも)いの蓄積(ちくせき)が有(あ)るか無(な)いかによって、言葉(ことば)の実現力(じつげんりょく)が、スピードが異(こと)なるのです。
 思(おも)い通(どお)りに生(い)きようとすれば、心(こころ)に思(おも)いが一杯(いっぱい)蓄積(ちくせき)されるのです。感謝(かんしゃ)一筋(ひとすじ)に生(い)きようとすれば、思(おも)いは消(け)し去(さ)られて、心(こころ)に思(おも)いは少(すく)なくなってゆくのです。自我(じが)の思(おも)い通(どう)りにというのは、マイナスの言葉(ことば)か小(ちい)さなプラスの言葉(ことば)を使(つか)う生(い)き方(かた)です。感謝(かんしゃ)一筋(ひとすじ)にというのは、神(かみ)さまの無限(むげん)の無限(むげん)のプラスが一杯(いっぱい)という言葉(ことば)を使(つか)う生(い)き方(かた)です。思(おも)いに生(い)きようとすれば必(かなら)ず、過去(かこ)の言葉(ことば)が消(け)し去(さ)られて、新(あたら)しい無限(むげん)の無限(むげん)のプラスの言葉(ことば)が、極楽(ごくらく)番組(ばんぐみ)を現実化(げんじつか)してくれるのです。
 思(おも)いは、求(もと)める心(こころ)となって、他(た)からの借(か)りを増(ふ)やして、他(た)の思(おも)いをも心(こころ)に蓄積(ちくせき)することになるのです。感謝(かんしゃ)は、与(、あた)える心(こころ)となって、他(た)からの借(か)りを減(へ)らして、思(おも)いが少(すく)なくなってゆくのです。真剣(しんけん)に感謝(かんしゃ)し、真剣(しんけん)に働(はたら)く人(ひと)は、極楽(ごくらく)番組(ばんぐみ)を選(えら)ぶ意思表示(いしひょうじ)を明確(めいかく)にしているのです。だから神(かみ)さまも応援(おうえん)し易(しやす)いのです。不足(ふそく)を言(い)い、怠(なま)けている人(ひと)は、地獄番組(じごくばんぐみ)を選(えら)んでいることになるのです。地獄(じごく)へ落(お)ちてゆくのに、神(かみ)さまの助(たす)けは要(い)らないのです。自然落下(しぜんらっか)で十分(じゅうぶん)なのです。