古神道(こしんとう)

 この小論文(しょうろんぶん)の内容(ないよう)は,各(かく)ページ毎(ごと)に独立(どくりつ)しています。どのページから読()み進(すす)んでも、少(すこ)しは参考(さんこう)にしていただける、真理(しんり)の言葉(ことば)の断片集(だんぺんしゅう)です。真理(しんり)をどの程度(ていど)指()し示(しめ)せているか、点数(てんすう)を付()けて見()て下(くだ)さい。読者諸賢(どくしゃしょけん)には、もっと素晴(すば)らしい真理(しんり)の言葉(ことば)を世()のため人(ひと)のために、沢山(たくさん)生()み出()して下(くだ)さることを、心(こころ)から期待(きたい)しています。 トップヘ

真理(しんり)とは真実(しんじつ)の働(はたら)き、宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の愛(あい)の働(はたら)きのこと・・・・・・1
 
本心開発を願う者は、決して惰性に流されてはいけないのです。・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・2

 真理(しんり)とは真実(しんじつ)の働(はたら)き宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の愛(あい)の働(はたら)きの

ことです。宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の真実(しんじつ)の働(はたら)きは、無限(むげん)に無限(むげん)に偉

(いだい)なものです。その偉大(いだい)な働(はたら)きを指(さ)し示(しめ)す言葉(ことば)は、真理(しんり)そのも

のではないのです。真理(しんり)を指(さ)し示(しめ)す言葉(ことば)、真理(しんり)の言葉(ことば)なのです。真理

(しんり)
と真理(しんり)の言葉(ことば)は、太陽(たいよう)とそれを指(さ)し示(しめ)す指(ゆび)のような関係(かんけ

い)
にあるのです。だから真理(しんり)の言葉(ことば)で指(さ)し示(しめ)そうとしている、真理(しんり)そのものを

直接(ちょくせつ)に把握(はあく)することが大切(たいせつ)なのです。種々様々(しゅじゅさまざま)の真理(しんり)の言

(ことば)は、宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の無限(むげん)の無限(むげん)の働(はたら)きの一部(いちぶ)

、またその働(はたら)きの痕跡(こんせき)の一部(いちぶ)を指(さ)し示(しめ)そうとしているのです。宇宙絶対神(

うちゅうぜったいしん)の無限(むげん)の無限(むげん)の働(はたら)きのすべてを、言葉(ことば)で表現(ひょう

げん)することは絶対不可能(ぜったいふかのう)なのです。何故(なぜ)なら今(いま)の一瞬(いっしゅん)に、無

限(むげん)の無限(むげん)の真理(しんり)の言葉(ことば)を、同時(どうじ)に駆使(くし)することはできないから

です。また宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の無限(むげん)の無限(むげん)の働(はたら)きは、一瞬一瞬新(

いっしゅんいっしゅんあら)たに無限(むげん)に無限(むげん)に変化(へんか)し続(つづ)けているからです。五

感(ごかん)や六感(ろっかん)の感覚器官(かんかくきかん)で感受(かんじゅ)している宇宙(うちゅう)は、宇宙

絶対神(うちゅうぜったいしん)の働(はたら)きの軌跡(きせき)、足跡(そくせき)、痕跡(こんせき)のようなもの

です。宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の真実(しんじつ)の働(はたら)きを感受(かんじゅ)するのは、本心(

ほんしん)の心(こころ)の直感(ちょくかん)です。本心(ほんしん)の心(こころ)を磨(みが)き出(だ)し、輝(かが

や)かせて、その直感力(ちょくかんりょく)によって、宇宙(うちゅう)の真実(しんじつ)のすがたを直接(ちょくせつ

)に把握(はあく)するとき、宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の愛(あい)の働(はたら)きを感受(かんじゅ)して

、無限(むげん)の無限(むげん)の幸(しあわ)せで一杯(いっぱい)の自分(じぶん)を発見(はっけん)するので

す。



真理(しんり)のみが、宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の愛(あい)の働(はたら)きのみが、宇宙(うちゅう)の

すべてを生(い)かし、自由(じゆう)を保障(ほしょう)し、幸(しあわ)せを与(あた)え続(つづ)けているのです。宇

宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の愛(あい)の働(はたら)きを、直接(ちょくせつ)に感受(かんじゅ)できた時(と

き)にのみ、真実(しんじつ)の幸(しあわ)せ・無限(むげん)の無限(むげん)の幸(しあわ)せを味(あじ)わうこと

ができるのです。宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の愛(あい)の働(はたら)きに気(き)づかなければ、真実(

しんじつ)の幸(しあわ)せ・心(こころ)の安(やす)らぎを得(う)ることなど不可能(ふかのう)なのです。宇宙絶対

神(うちゅうぜったいしん)の愛(あい)の働(はたら)きの中(なか)にのみ、真実(しんじつ)の幸(しあわ)せは存

在(そんざい)しているのです。宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の愛(あい)の働(はたら)きを、直接(ちょくせ

つ)に把握(はあく)しなければ、真実(しんじつ)の幸(しあわ)せを手中にすることはできないのです。幸(しあわ

)せを求(もと)めて、全大宇宙(ぜんだいうちゅう)を旅(たび)しても、宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の働(は

たら)きの痕跡(こんせき)ばかりを見(み)ているようでは、本当(ほんとう)の幸(しあわ)せは発見(はっけん)で

きないのです。自分(じぶん)の心(こころ)の中(なか)に本心(ほんしん)の心(こころ)を発見(はっけん)して、そ

の本心(ほんしん)の心(こころ)を磨(みが)き出(だ)し、輝(かがや)かせて、その直感力(ちょっかんりょく)によ

って、真実(しんじつ)の幸(しあわ)せ・無限(むげん)の無限(むげん)の幸(しあわ)せを、直接(ちょくせつ)に把

握(はあく)することが大切(たいせつ)なのです。本心(ほんしん)の心(こころ)のみが真実(しんじつ)の幸(しあ

わ)せを知(し)っているのであり、真実(しんじつ)の幸(しあわ)せを味(あじ)わうことができるのです。




本心(ほんしん)の心(こころ)は誰(だれ)の心(こころ)の中(なか)にも、厳然(げんぜん)と存在(そんざい)して

いるのです。人(ひと)の心(こころ)の中に厳然(げんぜん)と存在(そんざい)する本心(ほんしん)の心(こころ)

とは、感謝(かんしゃ)の心(こころ)のことです。宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の愛(あい)の働(はたら)きを

、一瞬一瞬新(いっしゅんいっしゅんあら)たなる全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝き(かがや

)として、しっかりと感受(かんじゅ)できるのは、感謝の心(こころ)・本心(ほんしん)の心(こころ)なのです。先(

ま)ずは”ありがとうございます”という真理(しんり)の言葉(ことば)が指(さ)し示(しめ)している、感謝(かんしゃ

)の心(こころ)・本心(ほんしん)の心(こころ)をしっかりと直接(ちょくせつ)把握(はあく)することが、何(なに)よ

りも何(なに)よりも大切(たいせつ)なことなのです。トップヘ

無限の無限の喜びが一杯!
No. 1  ■本物と偽物、実物と模型の違いは大きいものです。実物の地球と模型と・・・
No. 2  ■正しい信仰とは、宇宙絶対神への絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕の道で・・・
No. 3  ■天津神籬信仰と偶像崇拝信仰とは、全く正反対のものです。前者は、絶・・・
No. 4  ■今ほど『真実の祈り』の必要な時は無いのです。過去世から積み重ねて・・・
No. 5  ■宇宙のすべては、神さまの所有(もの)であって、自分の所有でも他人・・・
No. 6  ■最後の審判は迫っているのです。傲慢で欲深い業想念の心のままで、何・・・
No. 7  ■本心の自分の、光一元に観る生き方が、この世に一大調和をもたらすの・・・
No. 8  ■実行が尊いのです。千里の道も一歩からです。神さま(無限の無限の幸・・・
No. 9  ■謙虚に謙虚になることが、感謝を深めてゆく一番の秘訣です。謙虚
No.10  ■単なる宿命論(運命論)と絶対の宿命論との間には、大きな相違点
No.11  ■物質的豊かさのみを追い求めていては、真実の幸せを掴むことは
No.12  ■本心の心と業想念の心とは、一切が正反対なのです。本心の心には
No.13  ■すべてを神さまの御心のままにと、自分の生命をも捧げ尽くし
No.14  ■神さまの本当の助けを受けられるのは、『感謝と奉仕』の本心の心
No.15  ■宇宙絶対神は、すべてのものの真実の御親です。全大宇宙は、
No.16  ■『神さまの他には何も無い!』これは厳然たる真理です。しかし
No.17  ■偉大なる力によって、生かされているのです。謙虚で素直な本心に
No.18  ■何事もプラスに見える時に、感謝の心は自然に湧き上がって来るの
No.19  ■報い求めず与え尽くす心であれば、いつ・どこにあっても、神さま
No.20  ■『今』を最高に喜んで生きるのが、本心の生き方です。マイナス無
No.21  ■業想念の心(五欲の心・煩悩の心)に陥っては、心の苦しみは絶え
No.22  ■天地人の三才(三つの働き)は、密接な相関関係を保っているので
No.23  ■いのちの洗濯、心の大掃除は、毎日毎日、真剣になされなければな
No.24  ■人は常に自分の住みたい世界に住んでいるのです。各自の信念通り
No.25  ■人は神さまの愛の御心によって、一瞬一瞬新たに新たに、生かされ
No.26  ■悟りを開く(最高の幸せを掴む)ということと、登山において最高
No.27  ■利己的な生き方を捨てて、愛他的な生き方になることが、本心の自
No.28  ■褒められたら・感謝されたら・喜ばれたら、もっと素晴らしいもの
No.29  ■感謝一筋の生き方が、本当の幸せを得る為の正しい生き方なのです
No.30  ■『感謝と奉仕』『求道と伝道』は、悟りへの道を歩む車の両輪のよ
No.31  ■至忠・至孝・至悌、絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕、六波羅蜜(布
No.32  ■宇宙絶対神が、一瞬一瞬新たに新たに、創造し続けている全大宇宙
No.33  ■人は常に正しい目的・目標をもっていなければ、前進することはで
No.34  ■正しい信仰とは、神さまと自分との関係を、常に一対一の状態に置
No.35  ■「武士道とは、死ぬことと見つけたり」この真意を体得できれば、
No.36  ■本心の自分が、無限に無限に幸せな自分なのです。業想念の心から
No.37  ■自分の蒔いた種は、自分で刈り取らなければならないのです。その
No.38  ■「福は内! 鬼は外!」の本当の意味が理解できれば、一切の苦難
No.39  ■自我の心(想念感情・業想念の心)を死に切れば、本心の心が復活
No.40  ■同じ奉仕であっても、自我の心でする奉仕と、本心の心でさせてい
No.41  ■新たなる『今・此処』には、すべてが備わっているのです。この真
No.42  ■業想念の泥沼に落ちたら、もがけばもがく程、深みに沈んでゆくの
No.43  ■絶対神は全大宇宙のすべてのすべてと現れて、自分で自分の表現を
No.44  ■業想念の縛り(七難八苦の苦しみ)から自由になる為には、一心不
No.45  ■仏の四無量心(慈悲喜捨の心)を生きることが、本心の自分を大き
No.46  ■本当の幸せを掴みたいのであれば、決して愚痴をこぼしてはならな
No.47  ■今・ここに与えられているものが、次の一瞬にも与えられ、いつま
No.48  ■自分自身の心の姿勢を、プラスの方向へプラスの方向へと、向け変
No.49  ■過去世から積み重ねて来た業想念の集積を、いかに速く消し去って
No.50  ■本心の心と業想念の心とは、相対の両極に当たるものです。そして
No.51  ■自我の心を死に切ってこそ、神さまのお役に立てるのです。自我の
No.52  ■お祈りは神さまとの対面です。恋人とデートする時には、最高の装
No.53  ■どんなものも正しく使いこなすことができれば、この上なく重宝な
No.54  ■自分の世界(現実の自分の姿や、周りの環境全体)を自分の希望通

 本物と偽物、実物と模型の違いは大きいものです。実物の地球と模型としての地球儀を比較すれば一目瞭然です。幼児は玩具の自動車で遊び、大人は本物の自動車を乗り回すのです。人はすべてにおいて、本物を相手に生きるようにならなければ、未だ真実の生き方では無いのです。宗教信仰においても、真実の正しい信仰とは、直接に神さまを相手に生きる信仰です。神さまの模型を相手にしている信仰は、未だ幼児の信仰です。神さまの模型とは、宗教の教え・行法・神社・神棚・寺院・仏壇・神像・仏像・掛け軸・等々のことです。人工のものは、どんなに素晴らしくても、模型・偽物なのです。模型・偽物にとらわれて、本物を見失った信仰は、誤った偶像崇拝信仰に陥るものです。神さま(本物)を相手に生きるようになる為には、先ず自分自身が本物でなければならないのです。本物の自分とは、神我・真我・本心の自分のことです。絶対より一瞬一瞬新たに、新生してくる神我の自分を、しっかりと自覚することが大切なのです。

 宇宙絶対神はすべてを尽くして、すべての時間・すべての空間に、全徳の無限の無限の輝きなる最高表現・天照大御神と現れ続けているのです。その天照大御神の全貌・全相・全体を正しく感受してゆくことが、真実の正しい信仰・本物の信仰なのです。その為には過去のすべてを心から放し、謙虚にマイナスの極に立って、すべてを光一元に仰ぎ見て、大きく大きく受け入れてゆくということが必要なのです。今の一瞬に、天照大御神の全貌・全相・全体を感受するということは、並大抵のことでは無いというよりは、絶対に不可能なことは明々白々です。だからこそ永遠無窮に努力し続けるだけの、無限の無限の真価値が存在していると言えるのです。

 何事においても、神さまから感受したものが、自分のものとなるのです。神さまから何を感受(感謝で受ける)するかが、自己の運命を大きく左右するのです。神さまから直接受けたものだけが、返さなくて済む無償のプレゼントです。他から借りたり、他から奪ったものは、必ず利息を付けて返さなければならないのです。また大きく奪われることにもなるのです。正しい信仰のみが、天照大御神を感受してゆく本物の信仰のみが、自己の幸せを確固不動のものにしてくれるのです。天照大御神から直接感受する無限の無限の幸せは、他から決して奪われることの無い、また他の幸せを決して侵すことの無い真実の幸せです。自己の幸・不幸は、真実の感謝の有無によって決定されるのです。『ありがとうございます』(天照大御神 今ここに 在します! 新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!)という祈り言葉を駆使して、感謝一筋に生きることが、神さまを相手に生きる本物の信仰であり、最高の幸せを体得する為の唯一無二の易行道です。



正しい信仰とは、宇宙絶対神への絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕の道です。即ち宇宙絶対神への至忠・至孝・至悌の道です。神ながらの道・全託の道・空の道です。偽我(業想念の心・五欲の心・煩悩の心)を捨て切って、真我(神性・仏性・霊性・神の子・仏の子・いのち・本心)を生き切る道です。一瞬一瞬新たに新たに、偽我を否定して、真我を肯定して生きる道です。偽我には常に七難八苦が影のように付き纏うのです。真我には常に常楽我浄の祝福の光が燦々と降り注ぐのです。人は常に『真実の自分とは何か』をしっかりと見定めなければならないのです。そして真我と偽我の区別をつけて、真我のみを選び続けなければならないのです。神さまが与え続けて下さっている無限の無限の幸せとは、真我に対してのみ与え続けられているものです。だから偽我の心のままでは、幾ら幸せを追い求めても、小さな一時的の自己満足はあっても、大きな無限の無限の幸せを感受することは、永遠に不可能なのです。真実の無限の無限の幸せになる秘訣は、偽我を捨てて、真我に戻ることなのです。業想念の心を消し去ってもらって、本心の心を引き出してもらうことなのです。

 間違った信仰のままでは、いかに熱心に・長年続けようとも、真実の幸せを得ることは絶対に不可能なのです。一日も早く、正しい信仰に戻らなければならないのです。間違った信仰の最たるものは、業想念の心のままで、神さまをうまく利用して、御利益を手に入れようとする生き方です。僅かなお賽銭を上げて、大きな御利益を手に入れようとする浅ましい乞食信仰です。しかしながら業想念の心のままでは、神さまの御心と波長が合わないから、神さまを利用することも、神さまの助けを受けることも、本当はできないものなのです。うまく利用できたと思っていても、実際は神さまの無償の愛の助けを受けたのでは無くて、サラ金のように大きな利息を付けて返さなければならない業想念の助けであるかも知れないのです。病気が治った・お金が儲かった・等々のこの世的な御利益があったからと言って、浮かれていては間違った信仰に陥るのです。自分の持っている業想念をどれだけ多く消してもらえたか、本心の感謝の心をどれだけ大きく引き出してもらえたか、このことが本当に神さまの助けを受けたかどうかのバロメーターなのです。神さまの本当の助けを受けるということは、何でも自分の思い通りにしようとする、高慢な我の心を叩き潰してもらうことなのです。又すべてを神さまの御心のままにと、感謝一筋に受けられる謙虚で素直な本心の自分に戻してもらうことなのです。偽我の自分の思い通りになって喜んでいるのは、業想念の心です。偽我の自分の思い通りにならないのを、反対に大きく感謝し喜べる心が、本心の本当の自分なのです。



天津神籬信仰と偶像崇拝信仰とは、全く正反対のものです。前者は、絶対神の働きを正しく理解する為に、天照大御神の御霊代御樋代としての天津神籬〔模型〕を活用し、すべての奥に絶対神を正しく把握してゆこうとする信仰です。後者は、ある特定のものを信仰の対象として崇拝し、それを絶対神そのもののように思い違え、絶対神を小さく貶して観たり、絶対神を全く無視する、無礼千万な信仰です。神籬とは、神の宿る籬(竹・柴などを粗く編んでつくった垣)の意であり、往古、神霊が宿っていると考えた山・森・老木などの周囲に、常磐木を植え巡らし、玉垣を結って神聖を保ったところであり、後には、室内・庭上に常磐木を立て、これを神の宿る所として神籬と呼んでおり、現在、普通の形式は、下に荒むしろを敷き、八脚案を置き、さらに枠を組んで中央に榊の枝を立て、木綿(楮の皮をはぎ、その繊維を蒸し、水にひたして裂いて糸としたもの)と垂とを取り付けたものを指している。本来、神籬とは、絶対神の御霊代・御樋代のことであり、絶対神の霊・体二系の働きを、具体的に分かり易く表現した模型なのです。御霊代とは、一霊四魂〔奇魂・幸魂・和魂・寝魂〕の霊魂の模型・霊魂の代表です。御樋代とは、一元四体(精体・気体・液体・固体〕の元体の模型・元体の代表です。その模型によって、絶対神の働きを正しく理解し、すべてに絶対神の働きを認め、すべての奥に絶対神をしっかりと把握してゆこうとするものなのです。

 天津神籬は、天岩戸開きの際の布刀御幣(ふとみてぐら)を始めとして、神社や寺院の造りの中に、神事や仏事の作法の中に、お正月の飾りの中に、その他種々様々な姿の中に示されているものです。更に拡大的に見るならば、宇宙のすべてに認められるものなのです。全大宇宙そのものが、絶対神の現れ、即ち模型なのです。従って全大宇宙の中に、地球の中に、人体の中に、細胞の中に、原子の中に、大自然のすべての中に、絶対神の真実・最高の模型を見出すことができるのです。大自然の神秘的な姿の中に、絶対神の働きを、即ち絶対神の全徳の無限の無限の輝きを、しっかりと認めてゆくことが、天津神籬信仰の理想なのです。

 絶対神と一つに繋がっているかどうかが、正しい信仰と間違った信仰の分かれ目です。偶像崇拝信仰の間違いは、模型にとらわれて、絶対神を見失っている点です。いかなる聖像(神仏の彫像や絵画等)も、本物とは程遠い模型なのです。それも人工的な模型に過ぎないものです。模型はあくまでも模型として認め、本物をしっかりと把握してゆかなければならないのです。人工の神社や仏壇の中にのみ、神仏が存在するのでは無いのです。人体こそが本来の神の宮(仏壇)であり、絶対神が厳然とその中に在しますのです。



今ほど『真実の祈り』の必要な時は無いのです。過去世から積み重ねて来た、無限の業想念を消し去ることができるのは、『真実の祈り』であるからです。各自の心に湧き上がって来る七難八苦の業想念を、また現実化しつつある地獄絵図の運命を、本当に消し去り・修正することができなければ、地球滅亡の予言を覆すことは不可能です。現在の地球人類の大部分は、噴火山上の舞踏に酔いしれているようなものです。身の危険を省みることも無く、刹那の快楽を求めて、地獄への道を転がり落ちているのです。

 『真実の祈り』を祈る為には、正しい祈り方を学ばなければならないのです。ただ単に祈っていると言っても、その祈り方は千差万別です。我流の間違った祈り方では、何の効果も無いだけでなく、マイナスの結果を招くことにもなるのです。何よりも先ず謙虚に・素直になることです。謙虚に・素直にならなければ、神さまからの的確な導きも助けも受けることはできないのです。謙虚になるとは、地獄のどん底に置かれても、文句の言えない自分なのだと反省し、移り変わる姿のすべてを、光一元に仰ぎ見て、地獄絵図をこんなにも幸せな状態に変えて下さって、本当に『ありがとうございます』と、真心込めて感謝することです。次に素直になるとは、過去のすべてを心から放して、一瞬一瞬新たに新たに、一切を神さまから受け直すことです。自分を、自分のものを、過去の出来事のすべてを、捨てて・捨てて・捨て切って、心から放すことです。そして新たに生まれ変わった自分が、すべてを新たに、神さまから受け直すことなのです。

 移り変わる姿に執着して、過去を掴めば、誰でも業想念の心の奴隷に陥るものです。業想念の心は、求める心・欲深い心であり、傲慢な心・責め裁く心です。業想念の心を自分の心として掴んでいる限りは、この業想念の心と一緒に、間違いなく地獄に転落してゆくのです。五欲の心・煩悩の心・業想念の心を、自分と切り離してしまわなければ、真実の祈りを祈ることも、真実の救われを得ることも、絶対に不可能なのです。真実の祈りを祈ることができるのは、本心の自分即ち謙虚な・素直な・すべてをプラスに受けられる・感謝一筋の自分なのです。この本心の自分に戻ってこそ、真実の祈りを実行し、すべてのマイナス・業想念を消し去ってゆくことができるのです。

 『真実の祈り』とは、『ありがとうございます』と一心に唱えながら、『宇宙絶対統一神・天照大御神 今ここに 在します! 新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!』『みんな天照大御神! 新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯!』と心にしっかりと認めることなのです。真実の祈り・真実の感謝は、『ありがとうございます』という祈り言葉の真実の中身を、しっかりと心に把握することなのです。



 宇宙のすべては、神さまの所有(もの)であって、自分の所有でも他人の所有でも無いのです。神さまから与えられるものを、感謝の心で受けたからと言っても、自分の所有になったのでは無いのです。神さまから一瞬間だけ貸し与えられたに過ぎないのです。次の瞬間には返さなければならないものです。今の一瞬一瞬に、感謝の心で受けたものだけが、その一瞬間だけ貸し与えられたに過ぎないのです。従って自分の所有と言えるものは、一切存在しないのです。ましてや感謝の心を起こすことも無く、自分の所有を持っているとすれば、それは神さまから無断で盗み取ったものです。どんな小さなものでも、自分の所有を持っていたら、大泥棒であり、大罪人です。地獄に投げ入れられても、文句一つ言えないのです。人はもっともっと謙虚にならなければならないのです。物質欲に囚われて、傲慢な心に陥っては、感謝の心で受けることもできなくなるのです。

 五欲(財産欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲)の奴隷になって、自分の所有を多く持てば持つほどに、苦しみの多い心に陥るのです。五欲の執着の心は、厚い黒雲となって、本心の心を覆い隠し、みんなの自由と幸せを奪い取ってゆくのです。五欲の奴隷になりながら、自分の生き方は正しいと幾ら主張しても、神さまの前では通用しないのです。人間の作った法律に触れなかっても、天の法則に触れるようなことをしていては、天の裁きは厳正に下るのです。人は神さまと共に生きる時にのみ、神さまによってその生き方を正しくしていただけるのです。神さまの御心に背いた生き方をする時には、如何に抗弁しようとも、それは間違った生き方なのです。間違った生き方を続ける者が、地獄に落ちて苦しむのは、因果応報であり、自業自得であり、天の裁きを受けた結果です。

 本当に正しい生き方とは、神さまの愛の御心に叶った生き方です。

 即ち、
(1)すべてを天照大御神(神さまの最高表現・全徳の無限の無限の輝き)として、徹底的に拝む生き方です。『天照大御神 今・ここに 在します。みんな天照大御神! 全徳の無限の無限の輝きで一杯! ありがとうございます。』と感謝一筋に生きることです。

(2)一瞬一瞬新たに新たに、一切を神さまから受け直し、自分の所有を持たないことによって、自他の自由を縛らずに済む生き方です。執着の業想念の心に陥る時には、何でも自分の思い通りにしようとして、自他の自由を縛るものです。本心の自由自在な心に戻れば、すべてを神さまの御心のままにと、自分の思いで縛らない生き方になるのです。

(3)求める心・奪う心を捨て切って、一切の報いを求めることなく与え尽くす生き方です。神さまの御心と波長が合えば、『我自らにては何事も成し得ず、天の父 我に在して、御業を成さしめ給うのである。』という、神我一体の正しい愛の生き方となるのです。



最後の審判は迫っているのです。傲慢で欲深い業想念の心のままで、何の苦痛も味わうこと無く、他力的に救われるということは無いのです。業想念の心から本心の心へと、自分自身の心を移行させることによって、誰もが本当の救われを得ることができるのです。真実に救われる為には、業想念の心を捨てて(古い皮を脱ぎ捨てて・脱皮して)、本心の心(新しい自分)に生まれ変わることが必要なのです。今はその脱皮の時期なのです。脱皮できなければ、死を待つだけです。今や地球全体が、一大進化の時期に遭遇しているのです。その為に、現界の波動が幽界の波動に、急速に近づきつつあるのです。そうなると幽界にある姿が、そのまま即座に、現界の姿となって現れて来るようになるのです。今幽界は、人類の積み重ねて来た業想念で一杯です。そのまま幽界の姿が現実化したら、この世は地獄絵図を呈することになるのです。地球人類の三分の二が滅んで、残ったものも悲惨な生き地獄を味わう結果になりかねないのです。

 地球全体の進化の為には、人類の積み重ねて来た業想念が邪魔になるのです。その邪魔な業想念を消し去る為に、地球は大きな浄めの光を浴びて、傷つき・汚れた表皮を脱ぎ捨てようとしているのです。これまでは、人類自らの努力で業想念を消し去るのを、地球は長年忍耐強く待ち続けてくれたのです。しかし、もうこれ以上は待てないという土壇場に来ているのです。そこで一人でも多く、苦痛少なく救われるようにと、その篩い分けが始まったのです。救われる者と滅び去る者とのより分けが始まったのです。救われるのは、業想念の心を遠離して、本心の心に戻った人です。何故なら、篩い落とされるのは、心がその篩いの目より小さいからです。みんなの幸せを祈る本心の心や、みんなの幸せの為に生きている人の心は大きいので、決してその篩いの目から抜け落ちることは無いのです。反対に滅び去るのは、業想念の心を自分の心として掴んで離さない人です。業想念の心とは、五欲(財産欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲)の心のことであり、煩悩の心のことであり、傲慢な・欲深い・頑固な・利己的な・マイホーム主義的な心のことです。そのような心は狭く・小さい為に、汚れと一緒に篩いの目から抜け落ちてしまうのです。

 汚れ物を洗濯する時には、汚れの多いものと少ないものとを区別して、洗剤の量や洗い方を加減するものです。そのように心の汚れを浄める時にも、業想念の多い・少ないによって、その浄め方も異なり、受ける苦痛の量も違うのです。同じ時間で浄めるとすれば、業想念の多い程、激烈な浄め方となるものです。業想念を消し去る為の強烈な浄めの光を浴びたら、業想念が多い場合には、魂の苦痛は大きく、肉体は傷つき、消滅することも有るのです。だから日々瞬々祈り続けて、業想念を少なくしておくことが大事なのです。



本心の自分の、光一元に観る生き方が、この世に一大調和をもたらすのです。すべてを新たに・明るく・善意に・楽天的に・プラスに感受してゆくことが、本心の自分を生きることであり、神さまの一大調和の流れに随順することなのです。神さまの一大調和の流れは、厳然と全大宇宙を貫流しているのです。その流れに素直に従っていれば、一大調和の下に置かれて、無限の無限の幸せで一杯なのです。本心の自分は本来、神ながらに・神流れに・神任せに・自然法爾に生かされていて、無限の無限の幸せそのものなのです。その本心の自分をしっかりと自覚して生きることが、この世にも無限の無限の幸せを実現することになるのです。

 反対に本心の自分を忘れ、過去を掴み・物事に執着して、業想念の心に陥った時には、苦痛を味わうことになるものです。何故なら過去を掴み・物事に執着するということは、自然に移り変わる一大調和の流れに逆らうことになるからです。その流れに逆らえば、大きな抵抗を受けるのは、理の当然です。その大きな抵抗を受けるということが、苦痛を味わうということに当たるのです。どんな苦痛を味わうにしても、その責任は全て自分自身に在るのです。幸せを与えようとしている神さまの愛の働きに、自分が勝手に逆らっているからです。全体の調和を破り、他の幸せを壊そうとするのは、神さまの一大調和の流れに逆行しているのです。自分の生き方が間違っているから、苦痛を味わうことになるのです。苦痛は間違いに気付かせる為の、神さまの愛の諭しなのです。

 この世にはプラスとマイナスの生き方が混在しているのです。プラスの生き方とは、本心の生き方です。マイナスの生き方とは、業想念の生き方です。プラスの生き方は、すべてにプラスの傾向を与え、すべてを蘇生させ・活性化し・幸せにしてゆくのです。マイナスの生き方は、すべてにマイナスの傾向を与え、すべてを衰退させ・腐敗堕落させ・破壊し・不幸せにしてゆくのです。プラスの生き方は、プラスの生き方を助け、マイナスの生き方は、マイナスの生き方を助けるのです。マイナスの生き方を選んで生きている人を、無理やり・強制的にプラスの生き方に変えることは、誰にもできないのです。本人が自分の自由意志で、プラスの生き方を選び取るまでは、どうにもならないのです。例え地獄のどん底に落ちて、無限の無限の苦痛を味わうことになっても、本人がプラスの生き方を選ばなければ、その苦痛は永遠に続くのです。それは他の誰の所為でも無く、マイナスの生き方を選んでいる傲慢な本人に、全責任が在るのです。それ故にどんなことがあっても、幸せに成りたいのであれば、プラスの生き方を選ばなければならないのです。その時にプラスの生き方を助ける、一大調和の流れに乗ることになるのです。



実行が尊いのです。千里の道も一歩からです。神さま(無限の無限の幸せ)に到達する為には、日々瞬々刻々の前向きの努力・実行が大切なのです。地獄の苦痛を味わってもよいと心底から思うなら、無茶苦茶な生き方をすればよいのです。それを阻止することは誰にもできないのです。地獄の苦痛を味わうのも、最高の幸せを味わうのも、その人の自由意志で決定したことであって、他の何者の所為でも無いのです。より大きな幸せを味わいたいのであれば、神さまに向かって一歩でも近づけるようにすればよいのです。神さまに一歩でも近づく為には、プラスの言葉を使い、プラスに思い、プラスの行いをすることが必要なのです。

 何事でも最初は神さまの方から降りて来て、人に寄り添って、手を取り、足を取って、一緒になって、お手本を示して下さるものです。お祈りの練習の場合も、最初の頃は、神さま(守護の神霊)がお祈りして下さり、祈り方・祈りの成果・祈りの功徳等を模範的に示して、到達すべき目標を与えて下さるのです。後は自分自身の努力によって、順次にその目標を達成してゆかなければならないのです。神さま(守護の神霊)は何時までも人に合わせて、代わりに何でもして下さるのだと、甘く考えているとしたら、それは大間違いなのです。自分自身の努力によって、与えられた目標を達成してゆかなければ、次なる目標を与える為に、お手本を示しに降りて来ては下さらないのです。このことを十分に肝に銘じておく必要があるのです。神さまが助けに降りて来て下さっている時でも、自分が前に進もうとしなかったら、決して前には進めないのです。

 幼児でも食べ物を口まで運んでもらったら、喜んで食べるのです。また自分自身で食べ物を自分の口まで運ぼうとするものです。更には他の人の口にまで食べ物を運ぶ練習をするものです。何時までも口を大きく開けて、食べ物を運んでくれるのを待っているようでは、大馬鹿者です。そんな怠け者は、自分勝手にひもじい思いをして、餓死すればよいのです。お祈りというのは、本心の自分を成長させる、食べ物に当たるのです。自分自身が飢え渇くように求めなければ、お祈りを自分のものにすることはできないのです。お祈りの無い人間は、生ける屍です。ガリガリの亡者です。お祈りの無い人間には、本心の成長は無いのです。自分にはお祈りは向いていない・お祈りができない・お祈りをしたくない等とうそぶく者は、自分で自分の臍でも噛んで、死んでしまえばよいのです。お祈りは自分自身が実行しなければ、絵に描いた餅と同じで、空腹を満たす(幸せを掴む)ことはできないのです。お祈りも自分で材料を集め、自分で工夫し、自分から祈るようにならなければ、お祈りの真の味は判らないものです。


謙虚に謙虚になることが、感謝を深めてゆく一番の秘訣です。謙虚な心とは、自己の立場を下に置いて、与えられるものを、仰ぎ見て受ける心です。従って本当の謙虚さとは、マイナス無限大の・地獄のどん底の・これより下は無いという立場に、先ず自分を置くことから始まるのです。自分自身のこれまでの生き方が、本当に正しいものであったかどうかを、厳正に見極める必要があるのです。人間としての自分が、勝手に正しいと思い込んでいても、神さまの目から見た時に、本当に正しいかどうかは、疑わしいものなのです。例えば、宇宙のすべては神さまの所有(もの)なのに、人間が勝手に自分の所有を持っているということは、人間は神さまの所有(もの)を盗み取った大泥棒であるということです。また人間が贅沢な生活を楽しんでいるということは、自然を破壊し、動植物を殺し、残虐非道な殺戮を犯しているということです。本当の正しさは、神さまの御心に叶っていなければならないのです。そういう観点から判断するだけでも、本当に正しい生き方をしている人間は、皆無に近いと言わなければならないのです。

 傲慢で欲深い人間が、如何に自分は正しいと強弁しても、神さまの裁決は、地獄行きを宣告するだけです。深く感謝することを忘れ、生命をも捧げて奉仕することを怠って来た地球人類のほとんどは、神さまの御心に叶わない・不必要な存在なのです。神さまの必要としている人間は、神さまの御心に従って生きる人間です。全体の調和を、世界の平和とみんなの幸せを守り抜いてこそ、必要な存在であると認めてもらえるのです。神さまを無視し、神さまの御心と反対の生き方をしている人間は、存在する価値は無いのです。神さまが忍耐に忍耐を重ね、待ちに待ったその挙げ句が、地球全体の破壊だとすれば、そんな人類は自分勝手に滅んでゆくのだから、神さまに救いを求める資格は無いのです。それなのにまだ神さまは地球人類を救おうとして下さるのです。

 神さまの助けを受けて、地球人類の滅亡を防いでいただく為には、地球人類はもっともっと真剣に、謙虚に感謝を深めてゆかなければならないのです。地球人類が心の中に作り上げた地球人類滅亡の運命は、そのシナリオ通りに現れたら、想像を絶する大惨事となるのです。このまま行けば地球人類のほとんどが滅んで、地獄に落ちて苦しむことになるのは、誰にも予測のつくことです。感謝の無い人間の運命を修正することは、神さまにとっても至難の業です。運命として当然受けなければならない地獄の責め苦を、億分の一以下の軽い姿に軽減してもらっても、この一生は七難八苦の大難の連続になるのです。神さまの無限の無限の守りに対して、涙を流して・感謝し・喜ばなければ、神さまの御心に叶った謙虚な感謝にはならないのです。



単なる宿命論(運命論)と絶対の宿命論との間には、大きな相違点が在るのです。単なる宿命論とは、この世に起こってくる吉凶禍福の一切の出来事は、天の命によってあらかじめ決定されていて、人間の意志・努力もこれを変更することはできないとする考え方です。運命だから仕方が無い、宿命だからどうにもならないと、身の不遇を嘆くだけの、運命の奴隷に成り下がる思想です。人間の自由意志や努力に、何の価値をも見出そうとしない敗者の考え方です。こんな考え方に陥ってしまっては、人は決して幸せにはなれないのです。なるようにしかならないからと言って、投げやりな・自暴自棄の・今さえ良ければという刹那的な生き方をしていては、間違った運命論の奴隷になっているだけです。色々な予言や予知に惑わされて、諦めの心になるのも、人の自由意志と努力の尊さに気付いていないだけです。こんな宿命論は業想念の浅知恵から生み出された、神さまを悪者にして良しとする、最悪の間違った思想です。

 絶対の宿命論とは、宇宙絶対神が創造して与えて下さる運命というものは、最高の叡智と全能の力をもって造り上げられるものであるから、これ以上のものは絶対に造れないという、唯一無二の最高に素晴らしい、全徳の無限の無限の輝きそのものとしての、最高の運命であると言うことです。即ち全大宇宙のすべてのすべてに、天照大御神(全徳の無限の無限の輝き・常楽我浄・真善美聖・至善至美至妙完全円満大調和の当体)の御尊容を感受(無限の無限の感謝の心でしっかりと受け入れる)できた時に、始めて味わうことのできる最高の運命のことを絶対の宿命と言うのです。これは運命の自由創造論の最高の極致と一致するものです。人に与えられている自由意志と努力を、最高・最大に発揮できた時に、即ち業想念の奴隷状態から完全に解放されて、本心の自分を最高に輝かせた時に、享受できる運命を指しているのです。

 一人一人の運命がどれだけ絶対の宿命に近づけるかは、各自の自由意志と努力に委ねられているのです。自分の運命は、自分自身の手で切り開かなければならないのです。今の一瞬一瞬に、自分の自由意志で、何を選択して心に受け入れてゆくかということが、最も重要な課題なのです。人は自分の心に受け入れたものを、自分の運命として現実化してゆくのです。従って常に最高のものを選択して、心にしっかりと受け入れてゆく必要があるのです。最高のものとは、天照大御神の御尊容です。何でも無造作に無意識の内に受け入れているようでは、環境(運命)の奴隷です。天照大御神の御尊容をしっかりと心に受け入れてゆく為には、『ありがとうございます』(天照大御神 今ここに 在します! 新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!)と感謝の祈りを実践し続けることです。



物質的豊かさのみを追い求めていては、真実の幸せを掴むことはできないのです。精神的にも霊的にも、本当の豊かさが備わらなければ、真実の幸せを掴んだことにはならないのです。物質的に贅沢三昧の状態になれても、それが執着心と虚栄心の業想念の心を満足させているだけであれば、真実の幸せとは程遠いものです。反対に大きな苦しみの原因を積み重ねているようなものです。何故かと言えば、物質欲というものは、どんどんエスカレートしてゆくものであって、執着心と虚栄心の業想念の心が大きく膨らんで、本心の心を覆い隠してしまうからです。本心の心を覆い隠されてしまっては、業想念の七難八苦の心で一杯になり、精神的な幸せも霊的な幸せも、全く0になってしまうのです。

 真実の幸せとは、先ず霊的な幸せをしっかりと捉えて、それを精神的に物質的に反映させた状態です。本心の心で神さまの愛をしっかりと感受して、宇宙のすべてを神さまの愛の現れと拝める状態です。神さまの愛を、霊的な幸せをしっかりと捉える為には、先ずこの世への執着を捨てることから始めなければならないのです。無所有無所得の無一物の境地に、先ず立とうとしなければならないのです。神さまの愛を直接に感じ取れるようになるまでは、少なくとも清貧に甘んじて生きようとする覚悟が必要なのです。求める業想念の心を捨て切って、与えられるままに感謝一筋に受け切ってゆこうとする心の姿勢が必要なのです。自分の物をしっかりと握ったままでは、幾ら神さまの愛を直接感じようとしても、それは無理な相談です。ちょうど靴の上から足を掻いて、足の痒みを取ろうとしているのと同じようなものだからです。

 無一物の境地に立とうとするのを邪魔しているのが、執着心と虚栄心という二つの大きな業想念の心です。この業想念の心を消し去ってもらう為には、祈りに祈って、神さまの助けを大きく受けなければならないのです。しかしこの業想念の心が大きいと、祈りたくても祈れないのです。その場合には、祈れている人に対して、自分にできる何らかの手助けをすると効果的です。与えたら与え返されるのが法則です。与える心を起こすことによって、神さまの助けも受け易くなるのです。その祈り人を通して、業想念を消し去る大きな光の助けを受け、祈り易くしてもらえるものです。また大病の後に心が澄み清められたり、台風一過後に晴れ渡るように、七難八苦を覚悟の上で、心の中の業想念をこの世へ押し出して、大きく消し去ってもらうことも、早く祈れる自分になる為には必要なのです。執着心と虚栄心を一日も早く消し去ってもらうことが、真実の幸せへの第一歩なのです。神さまの本当の助けを受けるということは、業想念の心を満足させることでは無く、叩き潰してもらうことなのです。



本心の心と業想念の心とは、一切が正反対なのです。本心の心には正しいと思えることが、業想念の心には間違いに思えるのです。逆に業想念の心には正しいと思えることが、本心の心には間違いに思えるのです。また本心の心には無限の価値あると思えるものが、業想念の心には無価値に思えるのです。逆に業想念の心には無限の価値あると思えるものが、本心の心には無価値に思えるのです。正邪の判断も、価値の判断も、その他一切が正反対なのです。だから本心の心と業想念の心とは、理解し合うことも、一致点を見出すこともできないものです。本心の心は本心の心とのみ、理解し合えて、一致点を見出すことができるのです。業想念の心は業想念の心とのみ、理解し合えて、一致点を見出すことができるのです。

 人は本心の心に戻って生きる時に、幸せへの正しい道を歩んでいるのです。業想念の心の奴隷に陥っている時は、不幸せへの間違った道を歩んでいるのです。本心の心に対しては必ず、正しい導き・援助等が与えられるものです。業想念の心に対しては、間違った甘い誘惑や、一時的な見せ掛けの援助が集まってくるものです。本心の心をしっかりと生きていれば、必ず幸せは大きくなってくるのです。業想念の心の奴隷に陥っていたら、必ず苦しみが大きくなってくるのです。それは天の法則が厳然と働いているからです。何者も天の法則の外へ出ることはできないのです。『天網恢恢疎にして漏らさず』です。人は自分自身が本心の心をしっかりと生きれば良いのです。そうすれば天の助けは自然に与えられるのです。業想念の心の奴隷に陥った人と、言い争ったり、干渉し合う必要は全く無いのです。業想念の心の奴隷に陥った人に対しては、天の法則(神さまの愛)がその間違いに気付かせて下さるのです。

 決して業想念の奴隷に陥ってはならないのです。執着心の奴隷になるな! 虚栄心の奴隷になるな! 必要以上に求めてはならない、必要以上に所有してはならない、決して贅沢をしてはならないのです。財産欲に駆られて、あくせく働いても、決して本当の幸せにはなれないのです。自分名義の財産が幾らあっても、決して本当の幸せにはなれないのです。豪邸に住み、きらびやかに着飾っても、決して本当の幸せにはなれないのです。宇宙には必要十分なものが、既に豊かに備わっているのです。みんなが必要十分なもので満足すれば、不足する人は一人も無いのです。必要以上に貪る者は、他人の持ち分を奪っているのです。すべては神さまからの預かり物です。自分勝手に使ってよいものは、何一つとして存在しないのです。みんなが幸せになるように、生かして使うように、ただその管理を任されているだけなのです。貪りの心は、三毒(貪瞋痴)の一番手です。




すべてを神さまの御心のままにと、自分の生命をも捧げ尽くし、新たに新たに感謝一筋に受けてゆくことによって、本心の自分を大きく輝かせることができるのです。反対にすべてを我がままにと、何事も自分の思い通りになることを願うのは、業想念を積み重ね、本心を覆い隠してゆくことになるのです。常に“今”感謝の心に成り切ることによって、神さまの愛を・助けを・恵みを、直に受け入れることができるのです。反対に過去を掴む業想念の心に陥った時には、神さまからの直の愛を・助けを・恵みを、傲慢にも拒絶することになるのです。そして過去世から積み重ねて来た業因縁の運命に翻弄されることになるのです。因縁因果の法則は厳然と働いているのです。感謝一筋の本心の心は、光の因縁因果の法則の中に、自分を置くことができるのです。即ち神さまを“因”とし、感謝の心を“縁”とし、新たなる全徳の無限の無限の輝きを“果”として受けることができるのです。反対に過去を掴む業想念の心は、闇の因縁因果の法則の中に、自分を置くことになるのです。即ち利害得失の貸借関係によって、厳然と縛られることになるのです。他に対して貸し与えたものは、利息を付けて返して貰えるのであり、他から借りたものは、必ず利息を付けて返さなければならないのです。

 神さまへの感謝を忘れている時は、闇の因縁因果の法則によって縛られるのです。例えば私有財産を持つということは、神さまのものを盗み取った大泥棒なのです。食事をするということは、沢山の生き物を残酷に殺しているのです。贅沢な生活は、他の生存権を大きく侵害しているのです。これだけでも十分に、地獄に落ちて苦しむだけの資格が与えられるものです。人と人との間の貸借関係がどれだけ正しくても、それは泥棒同士のやり取りでしか無いのです。神さまと人間との間の関係が正常でなければ、本当の意味で正しいとは言えないのです。神さまと人間との間の関係を正常に保つ為には、すべてを感謝の心で、神さまからの愛・助け・恵みとして、受けなければならないのです。神さまへの感謝を忘れていては、決して正常な関係を保つことはできないのです。人と人との間のやり取りも、無償で与えた善きものだけが、陰徳・貸し・貯金となって、宇宙銀行総裁である神さまによって、大きく利息を付けて増やして貰えるのです。反対に不労所得(宝くじ・保険金・賭け事・盗み・搾取・儲け過ぎ・土地成り金等々の泡銭)は、地獄の高利貸しから借金をするようなものです。瞬く間に返せなくなるほど大きく膨らみ、心を狂わせる大きな原因となるものです。積み上げた陰徳は、子々孫々までも幸せにするものです。反対にどんな不労所得も、子々孫々にまで災いをもたらすものなのです。子孫には財産を残すよりも、陰徳を残すことが、子孫を幸せにする為に必要なことなのです。



神さまの本当の助けを受けられるのは、『感謝と奉仕』の本心の心なのです。自分が何々をしてやったんだというような恩きせがましい傲慢な心や、利害得失のお返しを求める欲の心は、業想念の心です。業想念の心では、決して神さまの本当の助けを受けることはできないのです。神さまの無償の愛の助けというのは、高次元の心の波動です。その助けを受ける為には、自分の心の波動を、高次元波動に調整しなければならないのです。即ち謙虚に謙虚に、すべては神さまのお蔭であると感謝を積み重ね、一切の報いを求めることなく、与え尽くす生き方を実践し続けることが必要なのです。五欲の心・業想念の心は、神さまの愛の心と波長が合わないから、神さまの助けを受けることはできないのです。感謝と奉仕の本心の心のみが、神さまの御心と波長が合って、神さまの助けを大きく受けることができるのです。

 神さまの本当の助けというのは、業想念・五欲の心・煩悩の心から、本心の安らぎの心に戻すことなのです。先ず執着心と虚栄心を消し去ることなのです。業想念の欲望を幾ら満足させても、本心の無限の無限の幸せとは、雲泥の差があるのです。真実の幸せを得る為には、業想念の心を離れて、本心の心に戻る以外に無いのです。業想念を自分の心として掴んだままでは、本心の安らぎの心を得ることは決してできないのです。だから先ず業想念の心を、執着心と虚栄心を、どんなことがあっても、捨てようとしなければならないのです。そして本心の心をしっかりと掴もうとしなければならないのです。本心の心の立場に立って、業想念の心を消し去り、本心の心を輝かそうとしなければならないのです。本心の心を輝かす為には、業想念の心を無視して、本心の心が本当の自分の心なのだと、しっかりと思い返すようにすることです。何でも自分の思い通りにしようとして、我の心をのさばらしてはならないのです。『感謝と奉仕』の心をしっかりと起こして、本心の心を大きく大きく輝かせてゆくことが大事なのです。

 真実の幸せ・無限の無限の幸せは、常に間断無く降り注がれているのです。感謝の心を起こしさえすれば、その幸せを感受することができるのです。幸せを得る秘訣は、ただ一つ、神さまへの感謝だけです。神さまから受けた幸せは、他の何者もこれを奪うことはできないのです。自分の幸せが失われるとすれば、それは他から奪われるのでは無く、自分自身が神さまへの感謝を忘れた時なのです。神さまへの感謝を忘れさえしなければ、どんな幸せも奪われることは決して無いのです。自分自身が神さまへの感謝を忘れ、業想念の心の奴隷に陥った時にのみ、自分のすべての幸せが失われ、七難八苦の大きな苦しみを背負い込むことになるのです。


 宇宙絶対神は、すべてのものの真実の御親です。全大宇宙は、絶対神の現れです。だから全大宇宙のすべては、すべてのものにとって、真実の御親なのです。鉱物も植物も動物も、一切のものが、自らの生命を捧げて、今の自分を愛し、生かし、育て上げてくれた真実の慈母なのです。人は、宇宙絶対神の全体を把握できた時に、正しい生き方ができるのであり、部分に囚われた時には、間違った生き方に陥るのです。全大宇宙のすべてが、自分の真実の御親なのだと思えた時に、正しい生き方ができるのであり、この世の肉体の親だけが自分の親なのだと小さく思っているような時には、間違った生き方に陥るのです。常に宇宙の全相を把握し、宇宙全体から神さまの愛を感受できてこそ、無限の無限の幸せで一杯!の本心の自分であると言えるのです。皮相に・部分に囚われて、神さまの大きな愛を見失ってしまっては、苦しみ(幸せの無い状態)を味わう業想念の心に陥ってしまうのです。

 本心の自分は、過去世において、無限の年月の間に、ある時は鉱物に・ある時は植物に・ある時は動物に・またある時は人間に、というように種々様々な立場に立って、多種多様の生まれ変わりの体験を積んで来ているのです。その間には全大宇宙のすべてと、いつの時代かに、親子関係の縁が結ばれて来ていると言えるのです。だから全大宇宙のすべてが、今の自分にとっても、真実の御親であると言えるのです。しかしこの考え方も、まだ皮相・部分に囚われた浅い考え方なのです。真実の親子関係は、もっともっと奥深いものです。絶対が表現となって現れる時、絶対は表現の御親です。だから表現の世界に存在する一切の自分にとっては、絶対なる神さまが真実の御親なのです。また絶対の中に本住している本心の自分にとっては、その自分を一大包容している絶対なる神さまこそが、究極の真実の御親なのです。

 全大宇宙のすべてに対して、御親への報恩感謝の心で、孝養を尽くさずにはおれないというのが、真の孝の道なのです。それは即ち、神さまへの絶対奉仕の道です。子は親との一体感を実感してこそ、人は神さまとの一体感を実感してこそ、真実の幸せ(真の心の安らぎ)を得ることができるのです。真の孝の道とは、子が親の思わくを生かそうと、素直にハイと実践する道です。人が神さまに喜んで貰えるようにと、神さまの導きに素直にハイと従う道です。子が親に融け入って、一体化する道です。人が自分のすべてを捧げ尽くして、神さまと一体化する道です。自分のすべてを捧げ尽くして奉仕し、与え尽くす心に成りきった時に、神さまの愛の御心と波長が合って、神さまとの一体感が実感できるようになるのです。



『神さまの他には何も無い!』これは厳然たる真理です。しかしこのことを本当に理解し・体得する為には、先ず神さまをしっかりと把握してゆくことが必要です。神さまをどの程度まで把握しているかによって、その中身は千差万別です。宇宙絶対神の最高表現である天照大御神(全徳の無限の無限の輝き・常楽我浄・真善美聖・完全円満大調和)を、しっかりと把握する立場に立てば、天照大御神の他には何も無い!ということが、自然に理解され・体得されるのです。無限の無限の大光明燦然たる姿を目の当たりにすれば、その眩いばかりの輝きだけがすべてのすべてであって、対立するものは何も無いからです。一切の暗闇も、小さな光も、共に消えて無いからです。『天照大御神はすべてのすべて! 一切は至善至美至妙完全円満大調和!』なのです。

 『神さまの他には何も無い!』だからこそ真に頼りになるものは、神さま以外には何も無いのです。俗言に「何時までも在ると思うな、親と金」という諭しがあるのです。人も物もすべては滅び去り、消え去るものです。何時消え去るかも知れないようなものに頼っていては、真の心の安らぎは得られないのです。人に物に頼っている限りは、その頼りにしているものが無くなった時に、悲嘆のどん底に落ち込んでしまうのです。どんな人も、どんな物も、明日はこの世に存在しないかも知れないのです。否一瞬後に、どのようになっているか予測もつかないのです。もっと厳密に言えば、宇宙のすべてが、一瞬一瞬変化変滅して、無常なのです。無常なるものに頼ることは不可能なのです。一瞬たりとも頼ることはできないものなのです。

 人が本当に頼りにしているものは、無常なるものの背後に働いている、神さまの絶対の愛なのです。人は神さまの愛を信じ、頼っているのです。永遠不滅・永遠不変の神さまの愛に信頼を置いているのです。本心の心が少しでも輝き出ていたら、一目瞭然の道理なのです。ところが本心の心が業想念の心に覆われた時には、この簡単な道理が判らなくなるのです。業想念の心は執着の心です。人に物に執着して、人に物に頼っているかのように錯覚するのです。人が本当に神さまの愛を信じられなくなった時には、周囲のすべてに恐怖を感じるものです。天が落ちてくるのではと杞憂したり、食物に毒が入っているのではと疑ったり、人が自分を殺そうとしている等と疑心暗鬼の心に陥るものです。これらはすべて自分自身が、業想念の心で本心の心を覆い隠した結果なのです。人は本心の心をしっかりと生きて、神さまだけに頼り切らなければならないのです。神さまだけに縋る心を起こせば、神さまの愛はひしひしと感じられるのです。神さまの愛の現れである天使としての人が物が、必要に応じて助け続けて下さるのです。



 偉大なる力によって、生かされているのです。謙虚で素直な本心に戻りさえすれば、その真実のすがたが明らかに見えてくるのです。人は自分の力で生きているのでは無く、宇宙大生命(神)の愛の力によって、一瞬一瞬新たに新たに、生かされているのです。必要なもの一切を豊かに与えられて、無限の無限の幸せ一杯に、生かされているのです。本心の心は勿論のこと、その表現としての魂も肉体も、一瞬一瞬新たに新たに、神さまから分け与えられているものです。神さまから分け与えられなければ、本心の心の自分という意識も、魂も、肉体も、一瞬たりとも存在できないのです。神さまの永遠不滅の生命によって、すべては生かされているのです。神さまの絶対の愛によって、無限の無限の幸せ一杯に守護されているのです。この厳然たる真実に気付きさえすれば、感謝一筋の大安心の境地に遊ぶことができるのです。

 自分の力で生きている等とうそぶく者は、大馬鹿者です。赤ん坊でも判ることが、大人になったら判らなくなる等、愚の骨頂です。自分の生命・自分の力・自分の努力・自分の働き・自分の物等々、微塵も存在することは無いのです。神さまから離れた自分等、一瞬たりとも存在することは無いのです。すべては神さまからの分かれ、神さまの現れです。すべては神さまであり、神さまのものです。神さまの生命が、今・此処に存在しているのを、自分〔自ずからなるもの(神)の分かれ〕と言うのです。だから神さまから切り離された自分というものは、本来決して存在しないのです。

 自分一人の力だけでは生きてゆけないけれども、大勢の人々の力を合わせることによって、人類は幸せに生きてゆけるのだというように、神さまの存在も働きも無視した、人間の力だけで生きてゆけるのだという考え方も、非常に傲慢な間違った考え方です。神さまから切り離されたら、人類の只の一人も存在できないのです。自分は勿論のこと、他のすべての人も物も、神さまから切り離されたら、一瞬たりとも存在することはできないのだということを、しっかりと肝に銘じておかなければならないのです。神さまの他には、頼るべき何者・何物も存在しないのだということを、正しく理解しておかなければならないのです。

 本当の自分は本心(本源・根本・大本・神より分かれた心)なのだと、しっかりとその本心の自覚を深めてゆくことが、すべてを正しく理解できるようになる為の根本です。神さまと神さまの働きを、本当に正しく理解できるのは、神さまの分かれである本心の心のみです。一瞬一瞬新たに新たに、謙虚に神さまの叡知を受け直すことが、本心の自覚を深め、すべてを正しく知る叡智を輝かせることになるのです。



何事もプラスに見える時に、感謝の心は自然に湧き上がって来るのです。表現(相対)の世界は比較の世界ですから、自分の今立っている立場がどこであるかによって、同じものがプラスに見えたり、マイナスに見えたりするのです。全大宇宙のすべてのすべてがプラスに見える時には、常に無限の無限の感謝が自然に湧き上がって来るのです。その状態が本心の心の本来のすがたなのです。本心の心が常に感謝三昧の状態にあるのは、本心は自由自在にその立場を移して、すべてをプラスに見ることができるからです。本来人間の持っている心というのは、その自由自在な本心の心なのです。過去を掴み、物事に執着する業想念の心というのは、自由自在な本心の心の、一変態の姿に過ぎないものです。本心の心は自由自在なるが故に、過去を掴むことも、物事に執着することもできるわけです。しかしこの状態は、本心の心の常態では無いのです。本心の心というものは、常に無限に無限に自由自在でなければならないのです。業想念の心に陥った状態というのは、我を忘れた状態・本心の自分を忘れた状態・本心の心の自由自在性を発揮していない状態に過ぎないのです。あくまでも本心の心の一変態(一風変わった状態)でしか無いのです。

 すべてがプラスに見える立場というのは、一番下の立場です。相対の0(零)では無くて、絶対の0(零)です。相対の0から見た時のマイナス無限大、即ち絶対の0が表現の世界(相対の世界)の一番下になるのです。マイナス無限大の立場(ブラックホール的な闇・地獄のどん底・煩悩熾盛・等々)から見れば、すべてがプラスの状態(大光明・極楽・本心・等々)に見えてくるから不思議です。暗い方から明るい方を見る時は、何事もはっきりと浮かび上がって見えてくるのです。今まで見えなかったものが、明らかになって見えてくるのです。すべてを達観できるようになってくるのです。全大宇宙のすべてのすべてを、明らかに見ることのできる立場・達観できる立場・プラスに見ることのできる立場というのは、この絶対の0(零)の立場の他には無いのです。即ち謙虚な謙虚な、どこまでも謙虚な立場です。

 感謝を忘れ、感謝し難い状態に陥っている時というのは、心の自由を失い、一つの立場に執着し・囚われて、物事をマイナスに見ている時です。プラスの善い状態が続くと、心はそれに執着し・囚われて、離せなくなるものです。そうなると物事を見る立場が、プラスの高い立場になる為に、プラスよりもマイナスに見えるものが多くなってくるのです。どんなプラスの立場も、これが自分だ・これが自分の物だと掴んでいると、高慢な虚栄心(自分のものでは無いのに、自分のものと思うのは、虚の栄えです。)に陥って、感謝できなくなるのです。


報い求めず与え尽くす心であれば、いつ・どこにあっても、神さまの助けを大きく受けることができるのです。報い求めず与え尽くす心は、本心の心そのものです。だから神さまの御心と波長が合って、神さまの助けを大きく受けられるのです。また『与えたものが与え返される』という法則から見ても、他に対して報い求めず与えたものは、必ずやどこかから報い求めず与え返されるものなのです。神さまは宇宙全体です。宇宙のどの部分に対して与えても、神さまに与えたことになるので、神さまが報い求めず与え返して下さるのです。人は他を量る同じ秤で、自分自身をも量るものです。同じ原理を自他共に当てはめて見るものです。報い求めず与え尽くす者は、報い求めず与え尽くして下さる神さまの助けを、素直に何の遠慮も無く、大きく受け入れることができるのです。ところが利害得失を考え、計算付くのお返しを求める心の者は、自分が他に対して与えた分だけしか受け取ることができないのです。その人の持つ心の秤(信念)が、その人の運命のすべてを、決定することになるからです。幾ら神さまが無償の愛の助けを与えようとしても、その人の潜在意識(信念)が頑固に拒絶して、受け入れようとしないのです。計算に合わないものは、どうしても受け取ることができないように、その人の潜在意識(信念)が計らうからなのです。例えば神社にお参りしても、僅かなお賽銭と引換えに、大きな御利益を求める心では、自分の与えたお賽銭と同価値の、小さなお蔭しか受け取ることはできないものです。反対に求める心を一切捨てて、感謝の心と与える心でお参りすれば、求めるに先立って既に与えられている神さまの助けに気付いて、その助けを大きく受け取ることができるものなのです。

 神さまの助けを大きく受けられる自分になる為には、常に『報い求めず与え尽くす』生き方を、実践し続けることが大切なのです。仏教の六波羅蜜(悟りへの実践道)の一つである、布施行(財施・法施・無畏施)がこれに相当するものです。布施とは、自分にとって必要な・大切なものを、一切の報いを求めることなく、惜しげもなく・喜んで・感謝の心で、与え尽くすことなのです。自分にとって不要な・余分なものを与えるのは、布施では無いのです。また何かの返礼を求める心では、幾ら与えても布施にはならないのです。純粋な感謝一筋の心で与え尽くすのが、正しい布施行なのです。どんな布施行も、神さまによって『させていただいている』という、感謝の心で受け直す布施行が本物なのです。正しい布施の心は、神さまの助けを無限に無限に大きく受け入れてゆけるのです。だからこそ宇宙絶対神の全徳の無限の無限の輝きを感受できるようになって、真実の悟りが開けるのです。



 『今』を最高に喜んで生きるのが、本心の生き方です。マイナス無限大の立場から、プラス無限大を仰ぎ見て、全徳の無限の無限の輝きを感受して、『今』無限の無限の喜び一杯に生きるのが、本心の生き方です。『今』の一瞬一瞬を、『今』の一瞬だけを、大事に大事に生き切ることが、本心の生き方です。すべてを神さまの御心のままにと、無我随順して生きるのが、本心の生き方です。与えられるすべてに対して、無限の無限の価値を見出して、感謝一筋に生きるのが、本心の生き方です。本心こそが真実の自分です。神さまがすべてを平等に与えているというのは、本心の人間に対してなのです。本心の人間はお互いに皆、神さまの前においては平等なのです。神さまは決して依怙贔屓などしていないのです。神さまはすべての本心の人間に対して、平等に愛し・生かし・幸せを与え続けているのです。神さまは本心の人間のすべてが、常に無限の無限の幸せ一杯であることを保証しているのです。だから人間は常に本心の自分を生きていなければならないのです。決して本心の自分を忘れてはならないのです。本心の人間は、常に常に無限の無限の幸せで一杯なのです。本心の人間は、既に既に無限の無限の喜びで一杯なのです。真実の幸せを・最高の幸せを、しっかりと実感し続けているのが、本心の自分なのです。

一切の不幸・苦しみの根本原因は、本心の自分を知らないこと、無知にあるのです。本心の自分を忘れていること、本心の自覚の欠乏にあるのです。本心の自分を忘れたままの状態では、どんなに自分は幸せだと強がっても、その幸せは決して本当の幸せでは無いのです。業想念の心では、どれほど五欲(財産欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲)を満足させようとも、いずれは七難八苦の苦しみに変化するのです。だから真実の幸せでは無いのです。本心の自分を忘れたままでは、決して真実の幸せ・無限の無限の幸せを味わうことはできないのです。本心の自分を見失い、本心の自分を生きることを忘れたところから、業想念(五欲)の奴隷に陥り、七難八苦を味わうようになったのです。現実に執着し、過去を掴んで離さない心が、業想念の心です。業想念の心に陥らない為には、本心の自分をしっかりと自覚して、『新たなる今』を生き続けなければならないのです。業想念という闇の心に陥らない為には、本心という光の心を、常に灯さなければならないのです。七難八苦の業想念の心から自由に解放される為には、常楽我浄の本心の心をしっかりと自覚しなければならないのです。自分自身が本心であることを、しっかりと自覚しさえすれば良いのです。自分の不幸を他人の所為にして、他人を責め裁く業想念の心に陥っている限りは、地獄に転落して永遠に苦しみ続けなければならないものです。『新たなる今』を『感謝一筋』に生きる自分こそが、無限の無限の幸せで一杯!の本当の自分なのです。




 業想念の心(五欲の心・煩悩の心)に陥っては、心の苦しみは絶えないものです。業想念の心のままで、心の苦しみを解消しようとしても、それは永遠に不可能なのです。何故なら業想念の心には本質的に、七難八苦の苦しみが影のように付きまとっているものだからです。本来無常なるものに執着して、それをいつまでも保持しようとすること自体が、ナンセンス極まりないものです。ところが執着の心に陥ると、この明白な道理が判らなくなるのです。執着に執着を重ねると、いつの間にか、その執着の心が自分自身であるかのように、錯覚してしまうのです。そして本来自由自在な本心の自分を、無限の無限の幸せで一杯の本心の自分を、見失ってしまうのです。

 業想念の心から本心の心に戻ることが、一切の苦しみを解消する唯一無二の方法です。その為には本心の心を自覚して、本心の自分をしっかりと生きようとしなければならないのです。本心の心とは、真清浄真無垢の心です。業想念の心とは、本心の心を覆う垢のようなものです。垢とは無用になった過去の残骸です。日々その垢(業想念の心)を払拭していれば、本来真清浄真無垢の本心の心が輝いているはずです。ちょうど毎日お風呂に入って、垢を洗い流していれば、身体を美しく清らかに保てるようなものです。ところが何年もお風呂に入らず、垢を積み重ねたままでは、垢で汚れた身体が目に付くようになるのです。そしていつの間にか、垢で汚れている身体が本来のものであるかのように、錯覚してしまうのです。そうなると垢で汚れた身体のままでも良いのだと、自己満足してしまうのです。即ち業想念の心が自分の心なのだと思い込んでしまうのも同じです。そして業想念の心の奴隷になって生きていても、その間違いに気付かなくなるのです。

 人は業想念の奴隷状態から抜け出して、本心の心で生きるようにならなければ、真実の幸せを掴むことはできないのです。その為には毎日毎日、神さまに感謝し続けて、心の垢(業想念)を光のシャワーで洗い流し・消し去ってもらうことが必要なのです。そうすれば真清浄真無垢の本心の心が輝き出て来るのです。その美しい真清浄真無垢の本心の心を自覚することさえできれば、人は無限の無限の幸せで一杯になれるのです。ところが業想念の心に覆われたままでは、本心の心を見失い、業想念の心が自分なのだと錯覚してしまうのです。汚れた醜い者が自分なのだと思い込んでいては、真実の幸せを掴むことはできないのです。本来真清浄真無垢の本心の自分は、厳然と存在しているのです。業想念の汚れさえ拭い去れば、現実の醜い姿は消えて、本心の美しい姿が現前するのです。最高理想の姿は、既に存在しているのです。理想を現実化する為には、業想念の心を消し去って、本心の心を輝かせてゆけば良いのです。


 天地人の三才(三つの働き)は、密接な相関関係を保っているのです。人心は天象(天体の現象や空模様)に投影され、地象(大地に起こる現象)と現れ、人象(人間界の種々様々の現象)となって、人の運命を大きく決定しているのです。人の心が調和すれば、天象・地象・人象のすべてが調和するのです。人の心が乱れたら、天象・地象・人象のすべてが乱れるのです。自分自身の心を調和させるという、大きな大きな責任を、すべての人は担っているのです。自分一人の心の持ち方が、どれだけ大きな影響力を、天地人の三才に及ぼしているか、計り知れないものがあるのです。ちょっと腹を立てるだけでも、その腹立ちの一波は、宇宙を駆け巡って、腹立ちの万波を呼び起こし、大きな影響力を与えるものなのです。腹立ちの想念(怒りの炎)というものは、すべての幸せを破壊し・焼き滅ぼす働きをするものなのです。最初の怒りの炎がマッチ棒の小さな炎であっても、燃え移り・燃え広がるにつれて、大きな大火となるのです。何気なく捨てた煙草の吸殻が、自分の気付かない所で、大きな山火事を引き起こしていた、ということも起こり得るのです。守護の神霊の加護によって、その火種を消してもらわなかったら、いつも大惨事を引き起こした責任者として、処罰されなければならないものなのです。

 人類が起こし・積み重ねて来た業想念の心の物凄さは、そのまま放置すれば、この地球を何万回・何億回となく破壊しても、なお余りある程のものです。その惨劇を万分の一・億分の一に軽減して、守りに護って下さっている守護の神霊が存在しているからこそ、今の地球が滅亡せずに済んでいるのです。その守護の神霊の涙ぐましいまでの忍耐深い愛の守りに対して、いつまでも無視するような生き方をしていては、本当に地球の滅亡が現実化するかもしれないのです。いつまでも業想念の心の奴隷になっていないで、一日も早く本心の調和した心に戻らなければならないのです。謙虚な謙虚な心になって、感謝一筋の心で、一瞬一瞬新たに新たに、天照大御神(全徳の無限の無限の輝き)を感受してこそ、本当の調和した心になれるのです。本当に調和した心の持ち主が急速に増えなければ、天地人の三才に大きな乱れが生ずることになるのは、誰の目にも明白です。筆舌に尽くせぬ程の、天変地異大動乱に見舞われることになるのです。その時期は非常に切迫しているのです。注意報や警報の時期は過ぎて、今正に大惨劇が現実化しようとしているのです。大彗星の地球への激突、超異常気象、大地殻変動、大地震、大噴火、大津波、大陸の海没、核戦争、侵略、大虐殺、難病奇病の蔓延等々、どの一つをとっても驚愕することが、連鎖反応的に勃発せんとしているのです。この惨劇を防止する為には、真祈り(深い感謝行)によって、守護の神霊の加護を大きく受けて、人心を調和させることが必要なのです。


いのちの洗濯、心の大掃除は、毎日毎日、真剣になされなければならないものです。過去世から積み重ねて来た業想念は、心の底深くに、塵となって溜まりに溜まっているものです。その厚い塵の層が、いのち(本心)の輝き出るのを妨げているのです。本心の自覚を得ていても、未だ本心が大きく輝かないのは、塵である業想念が心の底に残っているからです。だからこそ心の大掃除が必要なのです。心の表面に浮かび出る業想念は、氷山の一角です。次から次へと浮かび出て来る業想念に圧倒されてはならないのです。その浮かび出て来る業想念を、一つ一つ着実に消し切ってゆかなければ、心の大掃除はできないのです。本心の心と業想念の心とをはっきりと区別して、今心に浮かび出た業想念は、守護の神霊の大愛によって、消し去られたのである!と、しっかりと心に確認することです。そして『ありがとうございます』と感謝しながら、神さまの中へ飛び込むことです。その時にこそ業想念は着実に消し去られるのです。

 心に溜まった塵である業想念の心の最たるものは、傲慢な心と欲深い心です。業想念の心に圧倒され・負けてしまったら、傲慢な心や欲深い心に陥ってしまうのです。本心の心である謙虚で愛深い心が覆い隠されてしまうのです。傲慢な心とは、神さまの大恩を忘れて、何でも自分の力でしているのだと錯覚する心です。これは自分の物なのだ、自分が何々をしてやったのだと主張するような心です。欲深い心とは、必要以上に贅沢を願う心です。欲深い心は、他人の持ち分を奪い、資源を浪費するものです。全体者である神さまから見れば、強盗殺人に値する大なる罪です。全体の調和の為に奉仕することを忘れて、自分達の利益を優先させる生き方は、癌細胞のような生き方であって、切り捨てられるか、全体と共に死滅するしか無いのです。

 自分の心の中の癌細胞(利己的な心)を早期に切除しなければ、自分自身が全体にとっての癌細胞になってしまうのです。心の畑の雑草も小さい中に、こまめに抜かなければ、心の畑全体が雑草(業想念)に覆い隠されてしまうのです。そうなれば自分も全体も、癌患者の末期症状と同じになって、苦痛の大きい悲惨な姿を呈することになるのです。傲慢な心・欲深い心に陥った人は、末路が悲惨です。地獄の業火に焼かれて、再生するしか方法が無くなるからです。そうなる前に何故、その傲慢な心・欲深い心を消し去ってほしいと、一心不乱に守護の神霊に感謝して縋らなかったのか、後悔しても後の祭りなのです。日々の心の大掃除を怠ったツケが廻って来るのです。謙虚な心で感謝を積み重ね、愛深い心で奉仕を実践し続けることが、日々の心の大掃除に当たるのです。それが守護の神霊の大きな浄めの助けを受ける為の必須条件なのです。



人は常に自分の住みたい世界に住んでいるのです。各自の信念通りの世界に住んでいるのです。その人の願い続けたものが、その人の信念となって、その信念に波長の合う世界に住んでいるのです。その人の心全体を代表するものは、その人が一番多く願い・思い続けてでき上がったもの、即ちその人の信念です。信念こそが各自の心全体の意志表示なのです。神さまが与えて下さっている世界(放送番組)は、マイナス無限大からプラス無限大に至る、無限の無限の種類の世界(無限の無限のチャンネル)です。その中から各自は自由に、自分の願い(信念)通りの世界(チャンネル)を選んで、その世界の中に住んでいる自分を見出すのです。

 今地獄に落ちて苦しんでいる人の場合も、その人自身が地獄の世界を選んだ結果なのです。表面の心が幾ら苦しみの無い世界を願っても、その人の心全体を代表する信念が、地獄の世界に波長の合うものであれば、地獄の世界に住むようになるのです。地獄の世界に波長の合う信念を形成するには、業想念(五欲の心・煩悩の心)を長年に渡って積み重ねなければならないのです。業想念の奴隷になって、マイナス思考の生き方を実践し続けなければならないのです。だから地獄に落ちるのは、表面の心が長年に渡って、地獄に落ちる為の努力をし続けた結果なのです。

 今極楽に遊んでいる人は、本心の心を生きて、プラス思考の生き方を実践し続けてきたからです。本心の心(感謝・喜び・賛嘆・謙虚・素直・愛・知恵・奉仕・等々)をしっかりと生きて、長年に渡ってプラスの努力を積み重ねてきたからです。その結果、その人の信念(心全体)が極楽世界に波長が合うようになって、極楽に遊んでいるのです。 地獄の苦しみを味わいたい者は、過去を掴み、すべてに執着し、五欲(財産欲・名誉欲・色欲・食欲・睡眠欲)を満足させる為に生き、煩悩の心(怒り・恨み・嘆き・悲しみ・愚痴・不平・不満・悪口・雑言・等々)を燃え上がらせて、傲慢で欲深い利己的な生き方を実践すればよいのです。傲慢で欲深い利己的な生き方をする者は、自分と同じような生き方をする者ばかりの地獄に住むことができるのです。

 極楽に遊びたい者は、過去を放し、一切の執着を捨て、新たなる今を生き、他の長所・美点を褒め讃え、謙虚に感謝を深め、愛他の心で奉仕すればよいのです。また『みんなの幸せは自分の幸せ! みんなの喜びは自分の喜び!』と繰り返し繰り返し心に唱えて、自他一体の信念を形成するとよいのです。愛他の心で他の幸せの為に奉仕し、他の幸せを自分の幸せとして喜べる者は、他のすべてから自分の生き方と同じようにしてもらって、極楽世界に住むことができるのです。



人は神さまの愛の御心によって、一瞬一瞬新たに新たに、生かされ・愛され・護られ・導かれて、幸せ一杯にしていただいているのです。神さまの愛の御心を信じることさえできたら、感謝一筋の幸せ一杯の生き方ができるのです。ところが本心の自分を忘れると、業想念の心の奴隷に陥って、神さまの愛の御心が信じられなくなるのです。神さまによって生かされているということが判らなくなると、自分だけの小さな力で生きなければと思うのです。守護の神霊の加護によって、運命を大きく修正してもらっていながら、自我が強くなってくると、自分の力で善くなっているように錯覚するのです。そして傲慢にも守護の神霊の守りを否定し、拒絶するようになるのです。そうなると過去世から積み重ねて来た業想念を、自分自身で背負わなければならなくなるのです。七難八苦の大きなマイナスの運命を、いつまでも味わい続けなければならなくなるのです。自分自身が他に対して何を与えてきたか、その総決算としての運命を宣告されるのです。

 人は常に自己の信念の投影を、環境に写し出しては、運命として眺めているのです。過去世からの想念感情の集積が、その人自身の信念となって、それが機縁に触れて、運命として現実化しているのです。過去に起こしたマイナスの想念感情は、いずれはマイナスの運命となって必ず現実化するのです。それを軽微なマイナスの運命で済ましてもらう為には、感謝一筋の生き方にならなければならないのです。謙虚に謙虚に感謝し続ける、本心の心に戻らなければならないのです。マイナスの運命はすべて、自分自身が神さまをマイナスに見た結果なのです。神さまから与えられたものを、感謝の心で受けなかった結果なのです。神さまを悪者にしてきた結果なのです。神さまに対する不信・不敬の想念が、マイナスの運命の根本原因なのです。

 神さまを正しく信じる心が根本になければ、他の何ものをも信じることはできないのです。神さまへの不動の信を培わなければ、他を本当に信じることは不可能なのです。自分自身がコロコロ変わる業想念の心に陥っては、他を不動のすがたに見ることなど絶対にできないのです。何を信じるにしても、神さまという根本から信じなければ、どんな信も崩れてしまうのです。真心から信頼し・尊敬する愛の心でなければ、自分のマイナスの業想念が一寸浮かび出るだけで、他に対するどんな信も簡単に崩壊してしまうのです。他に裏切られたのではなくて、自分自身の他に対する信が崩れた為に、自分が他を裏切ったのです。人は誰でも業想念の心に陥れば、先ず自分自身を裏切り、次には他を裏切ることになるのです。人は誰でも本心の心に戻れば、先ず神さまを信じ、次に自分を信じ、その次に他を信じることができるのです。



 悟りを開く(最高の幸せを掴む)ということと、登山において最高峰の頂上を究めるということとは共通している点が多いのです。登山においても、先ず真実の願いを立て、不撓不屈の信念を持ち、用意周到な準備をし、十二分のトレーニングを積んで、万全の態勢(物事に対する構えや状態)で臨むのです。それでも成功の可能性は少ないものです。その登山の目標よりも、遙かに遙かに大きな大きな大目標に向かって進むのが、悟りを開き・最高の幸せを掴むことなのです。安易に考えていては、準備段階の途中で挫折するのは目に見えているのです。今生において悟りを開こうと、本当に願っているのであれば、登山の本番に臨む時のように、今の一歩一歩を決しておろそかにしてはならないのです。頂上に近づけば近づくほど、傾斜は急となり、危険な要素は増えてくるものです。もし大きく滑り落ちたり・転がり落ちでもしたならば、怪我をして再起不能となるかもしれないのです。落ちた所からもう一度登り直せばよいのだ、などと言う甘い考えは絶対に通用しないのです。

 悟りの本番に臨むつもりであれば、今の一瞬一瞬を、真剣に・大切に生きなければならないのです。本心の自分をしっかりと生きることが、安全を確認して一歩一歩踏みしめて登ることに当たるのです。もし一瞬でも業想念の心に負けて、その奴隷になるということは、油断して足を踏み外すことに当たるのです。まだ麓の方だから、少し位足を滑らせても、危険は少ないから大丈夫なのだ、と考えているようでは甘いのです。麓で足を滑らすようでは、頂上に近い危険な場所では、足を踏み外す確率は何倍も高くなるものです。100パーセント安全を確認して、着実に登って来ていても、これからのことは未知数なのです。傾斜が急になればなるほど、安全度は低くなるのです。本当に安全なものかどうかを、正しく見抜く眼力が要求されるのです。安全と思って身を任せた途端に崩れ落ちた、というようなことが万に一つ起こっても致命的なのです。

 悟りを開く為の本番としての道を歩む者は、今の一瞬一瞬を、感謝一筋に生き抜かなければならないのです。すべてを感謝の心で受け直してゆかなければならないのです。感謝一筋に生きるということが、一歩一歩着実に、悟りに近づいていることなのです。感謝を忘れ、物事をマイナスに見るということは、足を踏み外し、転落していることなのです。悟りの頂上へ近づけば、一言のマイナスの言葉でも、大きく転落する要因となるのです。それは自分一人が転落するだけでは済まないのです。大勢の人々を巻き添えにしてしまう可能性が大なのです。謙虚に謙虚に感謝を深めている者は、守護の神霊の加護によって、常に常に、転落するのを支えて、押し上げてもらっているものです。



利己的な生き方を捨てて、愛他的な生き方になることが、本心の自分を生きることなのです。自己中心的な生き方を捨てて、他を思いやる生き方になることが、本心を輝かせることなのです。小さな個我に執着して、それのみを自分であると思うのは、業想念の心です。大きな宇宙全体と一体の自覚を持って、自由自在に個我の立場に立ち、他の幸せに奉仕するのが本心の心です。人は業想念の心に陥った時に、大きな苦しみを背負うのです。本心の心の立場に戻った時に、大きな幸せを感得するのです。

 悟りを求めて祈りの行をするに当たっても、小さな自分のことばかりを考えていたり、他の祈りの行を助けることを忘れていると、業想念の心に陥ってしまうものです。そうなると本心を輝かすどころか、だんだんと祈りの行がしにくくなってくるのです。人は常に自分自身の心を反映した世界に住むことになるのです。他を助けることを怠っていると、他からの助けを受けることができなくなるのです。それはとりもなおさず、全体の・神さまの助けをも受けられない状態に自分を置くことになるのです。自分だけの幸せを追い求める心は、業想念の心です。自分の幸せを先ず第一に考えるのは、業想念の心です。業想念の心のままでは、幾ら幸せを追い求めても、追いかければ追いかける程、幸せは遠くへ遠くへ逃げ去ってゆくのです。そして後に残るものは、大きな苦しみだけということになるのです。

 他の短所・欠点を責め裁く業想念の心に陥って、嫌なものから逃げだそうとすればするほど、それはしつこく何処までも追いかけて来るものです。マイナスに見て、それから逃げようとしても、心の中に既に入り込んだマイナスは、そのままでは決して消えることは無いのです。マイナスに見たものを、もう一度プラスに見直すまでは、そのマイナスは心の中から消えることは無いのです。自分の心に取り入れたマイナスは、それをプラスのもので打ち消さない限りは、必ず未来に自分自身の運命として現実化するものです。高慢な心になって他を蔑視すれば(マイナスに見れば)、必ず自分も同じように他から蔑視される(マイナスに見られる)ようになるのです。心に受け入れ・取り入れたものが、運命となって現実化するのが法則であるからです。

 自分だけのことを祈るよりも、みんなの中に自分を含めて、大きく祈るのがより正しい祈り方なのです。『みんな悟っている! 無限の無限の素晴らしさで一杯! みんな祈っている! 無限の無限の感謝で一杯! みんな救われている! 無限の無限の幸せで一杯! みんな神さま! 全徳の無限の無限の輝きで一杯!』このように他を拝むことによって、自分の心の中のマイナスを打ち消すことが、本心の自分を大きく輝かせる生き方なのです。


褒められたら・感謝されたら・喜ばれたら、もっと素晴らしいものを与えたくなるのが人情です。褒めること・感謝すること・喜ぶことが、人への大きなプレゼントになるからです。人(特に本心)は、真理の言葉(プラスの言葉)によって活かされて、大きな幸せを感得するものなのです。褒め言葉・感謝の言葉・喜びの言葉を与えるということは、真理の言葉を与えるということです。それは布施行の法施や無畏施に通じるものです。だから最高のものを与えたことになるのです。与えたものが与え返されるという法則から見ても、褒めて・感謝して・喜ぶということが、更に大きな幸せを与え続けてもらう為の秘訣なのです。

 神さまが与え続けて下さっている全徳の無限の無限の輝きは、みんなに平等に、依怙贔屓なしに、一瞬一瞬新たに新たに、無条件に降り注がれているものばかりです。だから自分の与えたものが与え返されるという、因縁因果の法則を超越したものです。過去にプラスのものを何一つとして与えていなかっても、いつでも自由に、神さまからは最高の無限の無限のプラスのものを受けることができるのです。ただどの程度受けられるかは、一人一人の心次第なのです。もし空に浮かぶ黒雲の中に嵌まり込んだら、太陽の光を受け難くなるのと同じように、業想念の心の奴隷に陥ったら、神さまからのプレゼントも受け難くなるのは当然のことです。神さまからのプレゼントを受ける為には、黒雲の上に出るか・黒雲を消し去れば、太陽の光が受けられるように、業想念の心から離れるか・業想念の心を消し去ればよいのです。

 業想念の心から離れる為には、業想念の心を相手にしないで、神さまの御心だけを相手にすることです。即ち真理の言葉(プラスの言葉)だけを駆使し続けて、本心の自分をしっかりと生きればよいのです。過去の出来事を相手にしないで、今の一瞬一瞬を、大事に生きればよいのです。感謝の心を呼び起こして、今与えられているものを最高に受けて、大きく喜べばよいのです。神さまからの最高のプレゼントは、今の一瞬の他には、受けるチャンスは無いのです。今を最高に生きることが、神さまからのプレゼントを最高に受けることなのです。今の一瞬を最高に生きる為には、本心の自分の感謝の心そのものに成り切ればよいのです。感謝の心に戻れば、無限の素晴らしいものが、既に存在していることに気付くのです。そして感謝一筋に生き続けようとすれば、業想念の心を相手にしないで済むのです。その内に業想念の心は、感謝の深まり・積み重ねに比例して、いつの間にか大きく消し去られているのに気付くのです。わざわざ業想念を相手にして、消し去ろうと力む必要も無いわけです。



感謝一筋の生き方が、本当の幸せを得る為の正しい生き方なのです。自分の思い通りになることを願う生き方では、本当の幸せは決して掴めないのです。神さまの御心のままにと、すべてを神さまの計らいに任せて、只只感謝一筋に、神さまの愛を感受してゆくことが、真実の幸せに繋がってゆくのです。七難八苦の業想念の苦しみから、自由に解放される為には、先ず自分の思い通りにしたいという、業想念の心を捨てなければならないのです。業想念の心(五欲の心・煩悩の心)を自分の心として掴んでいる限りは、七難八苦の苦しみから逃れることは、永遠に不可能なのです。それは焼け火箸をしっかり握りしめながら、火傷の苦痛から逃れようとするようなものだからです。神さまが人間に与え続けて下さっている心というのは、本心という神さまの全徳が無限に無限に輝いた心なのです。人間だから業想念を持っていても当然なのだと言うのは、大きな間違いです。人間だからこそ、業想念の奴隷になってはいけないのです。人間だからこそ、本心の心を無限に無限に輝かせて生きなければならないのです。

 神さまに愛され・生かされ・護られ・導かれて、今・ここに自分が存在させられているのです。それに気付かないのは、神さまへの感謝を怠ってきたからです。神さまへの感謝をしっかりと積み重ねて来たならば、神さまの無限の無限の愛がひしひしと感じられる筈です。神さまを忘れ・無視し・悪く思ってきた長年の想念行為の結果が、本心の心(感謝の心・神さまの愛を感じ取る心)を業想念の心で覆い隠すことになってしまったのです。それは自分自身が業想念の奴隷になって、本心の自分をしっかりと生きなかった為です。安易な・怠惰な心で惰性に流されて、真剣な心で新たに新たに、感謝を深めて生きることを怠った為です。人間には完全な自由が与えられているのです。すべての責任は自分自身に在るのです。神さまへの感謝は、誰からも強制されることは無いのです。既に与えられている本心の無限の無限の感謝は、自分自身の自由意志で、自由自在に駆使してこそ、神さまの御心に叶うのです。感謝するのも自由なら、感謝しないのも自由です。ただ感謝を深めてゆきさえすれば、その感謝に比例して、幸せは無限に無限に大きくなってゆくのです。逆に感謝を忘れ、不平・不満・不足の心になれば、それに比例して、苦しみが無限に無限に大きくなってゆくのです。苦しみというものは、感謝を忘れた間違った生き方に、気付かせる為のものです。何故感謝しなければならないのか?あれこれ理屈を並べ立てても、本心の自分を生きることにはならないのです。要は本心の自分(感謝の心)をしっかりと生きることが、感謝行を真剣に実践することが、無限の無限の幸せを感受する為には必要不可欠であるというだけです。




『感謝と奉仕』『求道と伝道』は、悟りへの道を歩む車の両輪のようなものです。どちらか一方に片寄れば、同じ所を堂々巡りして、前進できなくなるものです。感謝の心で受けたものは、自然と他に与えたくなる、即ち奉仕したくなるものです。また他に与え尽くすものが多くなればなるほど、即ち奉仕すればするほど、感謝の心で受けるものが多くなってくる、即ち感謝の心が深まってくるものです。天地の自然な働きというものは、神さまの愛の働きであって、思いやりと寛容の心の働きです。感謝というのは、マイナスの極から光一元に仰ぎ見て、すべてをプラスに感受してゆく心、即ち寛容の心の働きです。奉仕というのは、必要なものを的確に与え尽くしてゆく心、即ち思いやりの心の働きです。思いやりと寛容の心が深くなることが、即ち愛が深くなることが、悟りへの道を前進している、即ち悟りが深くなっていることなのです。深い悟りの境地というのは、神さまの愛が最高に輝いている状態です。思いやりと寛容の心が、呼吸のように自然に循環している状態です。この神さまの愛の循環の中に自分を置く時は、誰もが神さまの愛を感受し・感得し、神さまの愛と一体化し、神さまの愛そのものになるのです。本当の思いやりとは、自分を与え尽くして、自分を無くすことです。自分のしたことも忘れ、過去の自分が消え去っていてこそ、本当の思いやりと言えるのです。少しでも恩着せがましい心が残っていたり、相手に何かを期待し求める心が残っていたとすれば、それは偽物の思いやりの心なのです。本当の思いやりの心は、自分のすべてを与え尽くして、謙虚なマイナスの極に立つ心、即ち寛容の心へと自然に変化するものなのです。そしてマイナスの極からすべてを光一元に仰ぎ見て、深い感謝の心ですべてから光を吸収して、プラスの極に立つ心、即ち思いやりの心へと自然に戻ってゆくものなのです。

 求道即ち道(真理・悟り・神愛)を求めるに際しても、自分を無くしてゆくことが肝要なのです。いつまでも自分というものが残っていては、利己的な業想念の心に陥って、本当の悟りから遠ざかってゆくことになるものです。小さな自分の幸せの為に道を求めるのでは無くて、最初から他の幸せの為に道を求めて、大きな自分を生きることが、本当の求道なのです。世界を平和にし、人類を幸せにする為にのみ、真理を求め・悟りを求め・神愛を求めることが、真の求道なのです。それは自然に他への大きな働きかけとなって、真の伝道へと変化するものです。自分を無くして、他と一体化することは、即ち真の伝道になるのです。真の伝道とは、世界を平和にし、人類を幸せにする為の真理を、他と一体化して大きくなった自分自身が実行することなのです。すべてを神さまの現れとして、徹頭徹尾拝み続けることなのです。



至忠・至孝・至悌、絶対帰一・絶対随順・絶対奉仕、六波羅蜜(布施・持戒・忍辱・精進・禅定・般若)、布施波羅蜜(無畏施・法施・財施)、四無量心(慈悲喜捨)、至誠心・深心・回向発願心等々、これらのすべては、神ながらに・自然法爾に・無為無我全託の心で為されてこそ、本心開発(悟り)への真実の道に成るのです。自分のすべてを捧げ尽くすと言っても、「自分が」という我の心があっては、我執(とらわれ)になるのです。自分の物を他人に与えるにしても、自分・物・他人を意識している間は、正しい与え方では無いのです。神さまが、神さまの物を、神なる自分を通じて、神なる他人へ与えられたのですから、一切は神ながらに為されているのです。純粋無雑な生き方の中にこそ、本物が現れるのです。我の心(業想念の心・五欲の心・煩悩の心)では、どんなものを与えても、少しもプラスにはならないのです。業想念の心で汚れ切った物は、毒入り饅頭と同じようなものです。貰っても有り難迷惑なだけです。純粋な奉仕の心・感謝の心・喜びの心で捧げ尽くしてこそ、清らかなプラスのものを与えたことになるのです。汚れたマイナスのものを与える者ほど、恩着せがましく、傲慢なのです。清らかなプラスのものを与える者ほど、受けていただけて幸せですと、常に謙虚なのです。

 『私のいのちを神さまの御用にお役立て下さい』と、自分のいのちを捧げる場合でも、業想念の心で汚れ切っていては、神さまにとっては有り難迷惑に違い無いのです。また何の能力も開発されていないようでは、却って足手まといなのであり、邪魔になる位のものです。ちょうど幼子が親の手伝いをする場合に、大事な物を壊したり、何倍も手数をかけるようなものです。それでも親は嬉しいのです。お手伝いをしたいという心根が、愛しく思われるのです。神さまにとっては、人は愛しい幼子ですから、神さまのお役に立ちたいと願えば、人の親以上の喜びであるに違いないのです。それだからこそ、無限の業想念を消し去り、本心(能力)を開発して、お役に立てるように養成して下さるのです。その苦労は並大抵のものでは無い筈です。だからこそ謙虚に・素直に、自分の一切の願いを捨てて、神さまの導きに任せ切ることが大切なのです。

 我の心(業想念の心)で動いては、すべてはマイナスになるのです。感謝の心・謙虚な心・素直な心・喜びの心・本心の心で、神さまの導き・護り・助けを感受してこそ、すべてはプラスにプラスに変化してゆくのです。お祈りに関しても、我の心を掴むと、お祈りをしなければ、しなければ、と自分の力でお祈りをしているかのように錯覚してしまうのです。本心の心であれば、神さまのお蔭・みんなのお蔭で、お祈りをさせていただけて、無限の無限の幸せ・喜び・感謝で一杯!です、ということになるのです。


 宇宙絶対神が、一瞬一瞬新たに新たに、創造し続けている全大宇宙は、全徳の無限の無限の輝きをもって、光一元に表現されている最高傑作です。この最高傑作をいかに味わうかは、人それぞれの自由に任せられているのです。従って神さまの最高傑作である全大宇宙の感受の仕方は、人それぞれに異なった感受の仕方をしていて、同じ感受の仕方は一つも無いのです。Aという人の感受している世界は、Aという人だけの独自の世界です。Bという人の感受している世界は、Bという人だけの独自の世界です。一億の人が存在すれば、一億の異なった世界として、それぞれに感受しているのです。神さまの最高傑作の世界を、人それぞれに独自の受け方をして、人それぞれに異なる世界として、自分だけの世界を感受しているのです。

 神さまが言葉(言霊)によって宇宙を創造しているように、人も言葉によって自分の世界を仮創造しているのです。人は自分の言葉通り・思い通りの世界を現出して、そこに住む自分を見出しているのです。人は自分の運命・環境・世界を、言葉通り・思い通りに創造することができるのです。どんな人の運命・環境・世界も、その人の過去に使ってきた言葉通り・思い通りに成っているのです。人は自分の運命・環境・世界の創造者・支配者です。それに気付き・自覚さえすれば、自分の運命・環境・世界を、自由自在に変化させることができるのです。

 人は自分だけの仮創造の世界に、マイナスの言葉を使ってマイナスの姿を現出させ、プラスの言葉を使ってプラスの姿を現出させているのです。自分の心の畑で、自分の蒔いた種を育てて、自分で刈り取っているのです。自分の世界にマイナスの姿が多いのは、自分が過去にマイナスの言葉を多く種蒔きした結果なのです。その責任はすべて、自分自身に在るのです。他に責任を転嫁すれば、他を責め裁くマイナスの言葉を種蒔きして、マイナスの姿を多く現出させることになるだけです。

 自分の仮創造の世界に、神さまの真創造の世界を、そのまま正しく受け入れる為には、常に常に、どこまでもどこまでも、謙虚な謙虚な心に立ち返る必要があるのです。自分の心の立場をマイナスの極に置いて、すべてをプラスにプラスに受け直してゆくことが必要不可欠なのです。謙虚な心になれば、自然とプラスの言葉が湧き出て来るのです。高慢な心になれば、マイナスに見えるものが多くなって、マイナスの言葉を撒き散らすことになるものです。プラスの言葉のみを駆使できるようになり、更には最高のプラスの言葉・全徳の無限の無限の輝きの言葉を駆使できるようになれば、神さまの真創造の最高傑作の世界そのままに感受できるようになるのです。


人は常に正しい目的・目標をもっていなければ、前進することはできないのです。人生における正しい目的とは、本心の自分に戻り、本心の心を磨き出し、本心の自分を大きく輝かすことです。換言すれば神さまが一瞬一瞬新たに与え尽くしてくる、全徳の無限の無限の輝きのすべてを、感受し尽くせる自分に成ることなのです。人には完全な自由が与えられているので、神さまが与え尽くしてくるものを、受け入れる自由もあれば、拒絶する自由もあるのです。すべてを拒絶し続ければ、マイナス無限大の極・地獄のどん底に自分を置くことになるのです。そこでは真実に満足することは決して無いのです。その虚を埋めなければ、満足できないのです。何らかの必要性を感じるようになっているのです。そしてその必要性を満たす為には、神さまから受け入れる以外に方法は無い、ということに気付くようになっているのです。例えば餓鬼道に落ちた者は、外なる環境に幾ら食べ物を求めても、食べ物が火になって、決して食べることができないのです。そのような体験を積み重ねることによって、必要なものは外なる環境に求めても、決して得られないということに気付くようになるのです。そして先ず自分の心を整えることによって、内なる神さまから、必要なものを心に受け入れて、それを現実化する以外に方法は無いのである、ということを学ぶようになるのです。

 現実に執着し、過去を掴んで放さない者は、神さまを無視し、神さまの恵みを拒絶しているのです。神さまが一瞬一瞬新たに与え尽くして来る、全徳の無限の無限の輝きを、拒絶し続けて、真実の幸せが得られる道理は無いのです。太陽に背を向けたままでは、太陽の光を直接感受することは不可能です。そのように外なる環境に心を奪われ、内なる神さまに背を向けたままでは、神さまの全徳の無限の無限の輝きを、感受することは永遠に不可能なのです。現実に執着し、過去を掴んで放さない者は、過去世から積み重ねて来た業想念の重荷を、自分が好き好んで背負い続けているのです。すべての重荷は下ろせば済むものを、自分勝手に掴んで放そうとしないだけなのです。新しい神さまからのプレゼントは拒絶して、古い過去の残骸だけは大事に掴んでいるのです。

 人は自分の世界の創造者・支配者・主人公なのです。神さまから自分の心に感受したものを、外界(環境・運命)に投影して、それを自分の世界として眺めているのです。過去を放し、執着を捨て、自我の心を無くした者のみが、真実に謙虚な心になれるのです。真実に謙虚な心になった者のみが、マイナス無限大の極から、光一元に拝み上げて、無限の無限の幸せを直接感受することができるのです。現実の幸せは、その幸せな心の投影として、後から自然に付き従って来るものなのです。



正しい信仰とは、神さまと自分との関係を、常に一対一の状態に置くことです。神さま以外の何物をも、見ざる・聞かざる・言わざるの行に徹することなのです。自分の他には神さましか存在しないのである、という心の状態になることが、正しい信仰の根本なのです。その為には神さまのことだけを、思い続け・思い詰めることが必要なのです。心を尽くし・思いを尽くし・精神を尽くし・力を尽くして、内なる神さまを愛するのです。即ち先ず自分の心の奥に神さまを見出すのです。そして内なる神さまを褒め讃え、謙虚な心で感謝し、いつも無限の無限の幸せで一杯ですと喜ぶのです。神さま以外のことに心を奪われ、神さまのことを忘れているようでは、その時は未だ一歩も、正しい信仰に足を踏み入れていない状態なのです。人は二人の主に仕えることはできないのです。神さまに仕えようと思うならば、全身全霊を神さまに捧げ尽くさなければならないのです。神さまが与えようとしている、全徳の無限の無限の輝きを感受する為には、自分の生命をも神さまに捧げ尽くそうとする、真摯な心の姿勢が必要なのです。御利益信仰的に神さまを利用しようとしても、そんな浅ましい心では、神さまの本当の助けを受けることはできないのです。その心に波長の合う業想念の干渉を受けるだけなのです。

 正しい信仰を続けることによって、正しい信ができあがるのです。その信の力が、神さまを直感するのに役立つのです。その信の力が、神さまの全徳の無限の無限の輝きを、感受するのに役立つのです。正しい信は、正しく思い続けることによって、即ち正しい真理の言葉を駆使し続けることによって、養成されるものなのです。信とは、人が自分の心の中に積み重ねた、言葉・思いの集積なのです。過去にどんな言葉を使い、どんなことを思って来たかによって、今の自分の信が決定されているのです。神さまの絶対の愛を、深く信じることができれば、神さまの絶対の愛を直感し・感受することができるのです。人は常に自分の信念に波長の合うものを感受して、自分の運命として享受しているのです。神さまの絶対の愛を直感し、全徳の無限の無限の輝きを感受できる自分である為には、先ず自分の信念を正しい信に置き換える必要があるのです。その為には、マイナスの言葉・疑いの言葉・不信の言葉を、今後一切使わないようにすることが大事なのです。そして常に前向きに・積極的に、プラスの言葉・神さまを愛する言葉・神さまを信ずる言葉を、駆使し続けることが大切なのです。

 『一瞬一瞬新たに、全徳の無限の無限の輝きをもって、顕幽両界を光一元に一大統一している、天照大御神 今・ここに 在します』という意義の、『ありがとうございます』という祈り言葉を一心に唱え続けることは、正しい信を培う為の最高の方法です。



「武士道とは、死ぬことと見つけたり」この真意を体得できれば、悟っているのです。死ぬとは、肉体を殺すことでは無く、肉体を自分と思う、自我の心を死に切ることなのです。自我の心を死に切れば、本心の心に戻れるのです。本心の心は、愛の心・すべてを生かす心ですから、武士道と一致するのです。武とは、戈(ほこ)を止める意義であって、戦闘を収める・争いを鎮める・利己心を抑える、破邪顕正の愛の働きを指しているのです。権威と愛をもって、争いを無くしてゆく勇者を武士と言うのです。武士道とは、大日本精神の一つです。武士は日々、君に忠・親に孝・師に悌を実践して、公に奉仕することによって、自我の心を滅却しようとしたのです。

 君に忠・親に孝・師に悌というのは、自我の心を滅却して、本心の素直な心に戻れば、自然に実践躬行できるものです。逆に忠孝悌を実践しようと心掛ければ、本心の心が出て来て、自我の心を滅却できるのです。自我の心のままで、無理して・我慢して・義務的に・形だけ真似するのでは無いのです。本心の心に戻って、本心の心の自覚をもって、素直な心・謙虚な心・感謝の心・思いやりの心・喜びの心をもって、君に・親に・師に絶対奉仕するのが、真の忠孝悌なのです。自我の心には自分があり、自分の立場というものがあり、自己防衛の心・自己主張の心が自然に湧き出てくるものです。本当に他者の立場に立ち、他者の思惑を生かせるかと言えば、それは元より無理なことなのです。自我の心で幾ら頑張ってみたところで、決して真の奉仕にはならないのです。自我の心で頑張るのでは無く、本心の心で自然に実践してゆくことが大事なのです。

 他者を愛することによって、他者の心に帰一し、他者の本当に必要としているものを知ることができるのです。愛するとは、自己を放棄することであり、自己のすべてを相手に与え尽くすことです。相手の身代わりになって、喜んで苦しみ・死ねる大犠牲精神です。自分の願いを捨て切って、相手の願いを生きることです。真実に愛する心には、失望も落胆も苦しみも悲しみも無いのです。感謝が喜びが安らぎが幸せが、湧き上がるのみです。自分の幸不幸は、決して他人の所為では無いのです。自分が本心の愛の心を生きているかどうかが、幸不幸の分かれ目なのです。愛の心を生きている時は、常に幸せなのです。業想念の心に陥っている時は、常に不幸なのです。愛する者は愛されていることに気付くのです。神さまの絶対の愛、無限の無限の愛は、間断無く降り注がれているのです。他者を愛し、神さまを愛することによって、神さまの無限に大きく・無限に深い絶対の愛を感受することができるのです。愛する幸せ・愛される幸せの両方を、しっかりと自分のものにすることが、真実の無限の無限の幸せで一杯なのです。


本心の自分が、無限に無限に幸せな自分なのです。業想念の心から本心の自分に戻り、本心の自覚を深めてゆくことが、本当の幸せを掴む唯一の道なのです。業想念の心では、真実の幸せを掴むことは、永遠に不可能なのです。移り変わる姿に執着し、過去を掴んで離さない心は、業想念の心です。その業想念の心は、例えれば水面に映る月の姿を本当の月と錯覚して、波によって乱れる月の虚像を掴もうとするのです。真実の幸せは、天空に輝く月であり、太陽であるのに、水面に映る虚像を本物と錯覚しているのです。揺れ動く想念感情の心・業想念の心のままでは、水面に浮かぶ月の虚像すらも、千々に乱れて掴むことはできないのです。本心の自分は常に、一瞬一瞬新たに、月や太陽に相当する、幸せの本体の神さまから直接に、全徳の無限の無限の輝きを受けることによって、実像の無限の無限の幸せを味わうことができるのです。その結果、心の平安が保たれるので、波の無い水面に映る月のように、虚像としてのこの世の幸せも整ってくるのです。

 業想念の心から本心の心に戻る為には、空に浮かぶ雲(業想念の心)を抜け出て、月や太陽に相当する、宇宙絶対神と一体の自分を自覚しなければならないのです。肉体や魂を自分であると、小さく思う想念を捨てて、宇宙が月が太陽が神さまが自分であると、大きく思い返す練習が必要なのです。すべては言葉通りに、思い通りに成るのが、宇宙の厳然たる法則です。小さく思い続けていては、永遠に小さいままで終わるのです。それでは無限の無限の幸せを感得することは不可能です。何を思うのも各自の自由なのです。小さく思っても、大きく思っても、その思いの中心に自分が存在するのです。マイナスに思うのも、プラスに思うのも、自分自身が自由にそう思っているだけです。形の地獄に置かれても、極楽に思うことはできるのです。形の極楽に置かれても、地獄に思うことはできるのです。自分の思いを支配しているのは、常に自分自身なのです。

 小さく利己的に生きる者は、業想念の黒雲に覆われることになるのです。大きく愛他的に生きる者は、神さまの大光明を浴びることになるのです。小さく生きる者は、益々小さくなり、大きく生きる者は、益々大きくなるのです。小さく思う者は、自己限定し、力の出し惜しみをするのです。それで他に与えるものが少なくなって、他からの助けも少なくなり、孤立無援の地獄に陥るのです。大きく思う者は、神さまの無限力を受けて、自分を与え尽くすのです。それで他に与えるものが多くなって、求めなくても、必要なものは豊かに与えられて、無限の無限の幸せで一杯になるのです。業想念の心の奴隷に陥るのも、本心の心を輝かして生きるのも、結局は自分自身が自分の自由意志で、それを選んでいるのです。だからどんな結果に対しても、すべての責任は自分に在るのです。


自分の蒔いた種は、自分で刈り取らなければならないのです。その種は一粒万倍となって、必ず自分に戻って来るのです。プラスの善き種を蒔けば、プラスの善き収穫があるのです。マイナスの悪しき種を蒔けば、マイナスの悪しき収穫があるのです。人の蒔く種というのは、言葉・思い・行いの種です。プラスの善き言葉を使い、プラスの善き思いを起こし、プラスの善き行いをすれば、必ず多大なる収穫となって、プラスの善き言葉・思い・行いが、自分に返って来るのです。そして益々多大に、プラスの善き言葉・思い・行いの種蒔きができるようになり、プラスの善き収穫が無限に増大してゆくのです。

 今現実の運命として現れている姿は、自分の過去の種蒔きの成果です。それがどれほど大きなマイナスの姿であっても、自分自身で刈り取って、そのマイナスの種を焼き捨てる必要があるのです。無責任に逃げて放置すれば、必ず雑草のように、マイナスの姿がはびこって、手の施しようが無くなるのです。自分自身で刈り取るということは、どんな運命でも逃げないで、喜んで受けるということです。そして次にそのマイナスの種を、神さまの力によって消し去ってもらうのです。その為には正しい祈りが必要なのです。『ありがとうございます』(天照大御神 今ここに 在します。新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯!)という祈り言葉を一心に唱えて、宇宙絶対統一神・天照大御神の威神力によって、マイナスの種を消し去ってもらうのです。

 常に『ありがとうございます』と感謝一筋の心を保てば、マイナスの種を消し去ると同時に、プラスの種を蒔き続けていることになるのです。一瞬一瞬新たに新たに、『ありがとうございます』と深い感謝を捧げ続けることは、過去の一切のマイナスを消し去ってゆくことになるのです。そして新たに新たに、最高のプラスの種蒔きをし続けていることにもなるのです。

 決してマイナスの言葉を使ってはならないのです。マイナスを話題にしてはならないのです。どんなマイナスの姿も、感謝の心でその移り変わりを眺めていれば、必ず消し去ってもらえるのです。決してマイナスを掴んではならないのです。マイナスを相手にしてはならないのです。マイナスに巻き込まれない為の秘訣は、感謝の心を保ち続けることなのです。その為には『ありがとうございます』という、最高の祈り言葉を唱え続けることです。一日に一万回以上、必ず『ありがとうございます』と、最高の祈り言葉を唱え続けるのだ!と一大決意をするのです。一大決意をもって勇猛果敢に進めば、鬼神もこれを避けて通るのです。自分自身が本気で、感謝行を実行しようとすれば、感謝行を邪魔するものは、何も無いのです。


「福は内! 鬼は外!」の本当の意味が理解できれば、一切の苦難は消滅し、無限の無限の幸せで一杯となるのです。福(無限の無限の幸せ)は、自分の心の内にこそ見出すべきものなのです。自分の心を深く掘り下げて、絶対より新生してくる本心の心をしっかりと把握すれば、自ずから無限の無限の幸せで一杯となるのです。人の心を大別すれば、二つの心があるのです。一つは、絶対より新生してくる光の心です。他の一つは、役目を果して消え去ろうとする、用済みの闇の心です。一瞬一瞬新たに新たに、絶対より新生してくる、神さまの全徳の無限の無限の輝きを持った、本心(本当の心・本源の心)の心は、光の心です。その光の心は、無条件で・そのままで・他の何をも付け加える必要も無く、最初から無限の無限の幸せで一杯なのです。従ってこの本心の心を、自分の心の内に発見することができれば、福(無限の無限の幸せ)を掴んだことになるのです。もう一つの闇の心とは、過去の心であり、外界に投影されて、消え去ってゆく心です。今に相応しく無い、今は必要としない、邪魔になる心です。新しいものを受ける為には、古いものは邪魔になる鬼に他ならないのです。外界に投影されたものは、一瞬後には、過去の・古い・用済みの・邪魔になる・マイナスの・光の乏しい・鬼のような存在になってゆくのです。従って絶対(光源・内奥)に背を向けて、心の投影された外界に囚われることが、鬼を見ることになるのです。だから鬼は外なのです。

 『福は内! 鬼は外!』の内とは、絶対神を意味するのです。幸福は絶対神の別名です。絶対神より降り注がれて来るものです。従って幸福を得る為には、心の向きが絶対神に向いていなければならないのです。その為には謙虚な心になって、マイナスの極・地獄のどん底に自分の立場を置いて、プラスの極・絶対神を光一元に仰ぎ見ることが、必要不可欠なのです。心を真っ直ぐ絶対神へ向けることさえできれば、無限の無限の幸せが、間断なく降り注がれていることに気付くのです。太陽の輝きにその億万分の一の素晴らしさを、模型として見出すことができるのです。外とは、絶対に背を向けて見る世界です。絶対を絶対神を、視野に見出せない世界は、すべて外なのです。移り変わる全大宇宙のどんな小さなものにも、執着し・囚われたら、絶対を見失ったことになり、心は外へ向いていることになるのです。一瞬でも過去の出来事に心を奪われたら、その時は心は絶対を見失い、外へ向いていることになるのです。心が外へ向いている限りは、無限の無限の幸せはどんどんマイナスされてゆき、マイナスの極に地獄の鬼が見えて来ることになるのです。『福は内! 鬼は外!』という言葉を、真理の言葉(豆)として、年毎に深く深く味わって、真実の無限の無限の幸福を、心の内奥にしっかりと見出すことが大切なのです。


自我の心(想念感情・業想念の心)を死に切れば、本心の心が復活してくるのです。いつまでも自我の心に執着して、自我の心を生きようとするのは愚かなことです。闇は光を浮かび上がらせる役目です。自我の闇の心は、本心の光の心の素晴らしさを、再確認させる役目です。自我の心に陥っているのは、闇に沈潜して、光を見失った状態と同じです。本当の自分は、宇宙絶対神の全徳の無限の無限の輝きを継承している本心の心です。だから本心の心に戻る以外に、真実の幸せを獲得する方法は無いのです。自我の心のままで、幾ら幸せを探し求めても、決して得られる道理は無いのです。幸せの青い鳥は、世界中を探し回っても見つけることはできないのです。自分の中に、本心の心として、最初から存在しているものなのです。

 自我の心を生きるか、本心の心を生きるかは、本人の自由なのです。誰からも強制されたり、自由を奪われることは無いのです。だからこそ、自分自身が本心の心を生きようとしない限りは、永遠に本心の心に戻ることは不可能なのです。がらくたのような自我の心を選ぶか、ダイヤモンドのような本心の心を選ぶか、その選択は本人の自由であっても、いつまでも自我の心に執着している人は気の毒です。自業自得であり、自分の蒔いた種を自分で刈り取っているだけであっても、地獄の苦しみを何億年以上も味わっているのは、愚かさを通り越して、憐れなものです。程度の差はあっても、自我の心を生きている限りは、七難八苦の苦しみは、常に影のように付きまとうのです。

 本心の心に戻りたいのであれば、先ず本心の心と自我の心との区別を、しっかりと付けることです。本心の心とは何か、自我の心とは何かを、はっきりさせることです。そして自我の心が出て来る度に、この自我の心を消し去って下さいと、救済の神々に縋るべきなのです。救う側と救われる側とが、ぴったり一つに繋がれば、効果は大きくなるのです。その上で自分自身はしっかりと本心の心を生きようとするのです。即ち自分は本心の心なのだ、本心の心が自分なのだと、しっかりと繰り返し思い返すのです。

 捨て去り・消し切らなければならない自我の心とは、すべての執着心と虚栄心です。求める心と思い通りにしたい心です。過去を掴む心と部分を掴む心です。私物化する心と自己弁解の心です。これらの自我の心を少なくすればするほどに、本心の心は復活し、その輝きを増して来るのです。本心の心とは、宇宙絶対神の最高表現を、常に新たに新たに受け直す心です。過去にも部分にも執着すること無く、今を新たに生きる心です。謙虚な心・素直な心・明るい心・愛の心・感謝の心・賛嘆の心・喜びの心・奉仕の心・与え尽くす心・・・・・です。神ながらに生かされている心です。


同じ奉仕であっても、自我の心でする奉仕と、本心の心でさせていただく奉仕とは、雲泥万里の差があるのです。自我の心でする奉仕は、高慢で・思い上がった・恩きせがましい・お返しを求める・ちぐはぐな奉仕になるものです。自我の心そのものが、最初から神さまの御心とは正反対のものです。だから神さまの御心に叶った奉仕にならないのは当然のことです。奉仕というのは本来、自分の心を神さまの御心に帰一させ、神さまの導きに素直に従って、神さまの力で『させていただく』ものです。謙虚な心で・素直な心で・喜びの心で・感謝の心で、今必要なことを、一瞬一瞬新たに、させていただくものです。神さまの御心に叶う・神さまに喜んでいただける・神さまのお役にたてる奉仕というのは、神ながらの・神もよおしの・神まかせの奉仕です。神さまの御心・いのち・光の流れのままに、すべてを神さまに任せきった状態が、本当の奉仕なのです。自分が自分の力で何かをするというのは、本当の奉仕からは程遠いものなのです。

 本当の奉仕は、自我の心を無くす為にこそ、必要なのです。自我の心・業想念の心・過去世から積み重ねた業因縁を、消し去っていただく為にこそ、本当の正しい奉仕が必要なのです。神さまのお役に立ちたい・神さまに喜んでいただきたいという、純粋な心による奉仕が、神さまの大きな助け・お蔭・功徳を受けるのに役立つからです。奉仕は決して他の為でも、神さまの為でも、誰の為でも無いのです。自分の為に必要だから、させていただくのです。仏教の托鉢は、布施の心・与える心・思いやりの心を起こさせて、仏の無限の救いを受けさせる為のものです。そのように神さまへの奉仕も、神さまが与えようとしている、全徳の無限の無限の輝きを受け易くする為には、絶対に必要不可欠なものなのです。本当の奉仕の心を起こすことによって、神さまの愛の心と波長が合って、神さまが与えようとしているものを受けることができるのです。奉仕することによって、感謝も自然に深まり、神さまの助けが受け易くなるのです。

 感謝を深め、本心を輝かせ、無限の無限の幸せを感得したいのであれば、先ず神さまへの奉仕を心掛けることが必要不可欠なのです。神さまの御心は、世界の平和とみんなの幸せを実現することです。従って世界の平和とみんなの幸せを祈りながら、粉骨砕身・いのちをも捧げて奉仕することが、神さまへの本当の奉仕になるのです。自分の思い通りにならないからと言って、他を責め裁く心が、戦争の根本原因になっているのです。相手の気持ちを生かそうとしない不和の心が、みんなの幸せを破壊する根本原因になっているのです。だから自我の心を死に切って、本心の心を生き切ることが、神計らいによる本当の奉仕になるのです。


新たなる『今・此処』には、すべてが備わっているのです。この真理に気付きさえすれば、すべての問題は解決するのです。過去のすべてを心から放し、新たなる今・此処を受け直せば、既に問題は無くなっているのです。ここに問題が有るという時は必ず、思い通りにならない時です。行き詰まって自由が束縛されている時です。自由自在な時には、決して問題意識は生じないのです。問題意識とは、過去を掴み、過去に縛られた、自由の無い心の状態です。過去の過ぎ去って消えたものを、いつまでも掴んで放さないことが、問題発生の根本原因なのです。過去に執着し、過去を掴み、過去を放さない心は、業想念の心です。業想念の心には常に、思い通りにしたくても思い通りにならない、自由になりたくても自由になれないという、心の縛りが付きまとうのです。業想念の心とは、言い換えれば、過去に縛られた不自由な心です。その業想念の心のままでは、幾ら自由になろうとしても、決して自由になることはできないのです。自分の自由を拡大する為に、他人の自由を奪えば、必ずその反動として大きく自分の自由が奪われるのです。他人の領分を侵せば、必ず自分の領分も侵されるのです。現実世界の有限のものを奪い合っては、決して真の自由も幸せも味わうことはできないのです。

 他人のものを奪わずに、他人の領分を侵さずに、真の自由と幸せを得る為には、一瞬一瞬新たに、全徳の無限の無限の輝きを、神さまから受け直さなければならないのです。今・此処に、絶対なる神さまの中から生まれ出た自分は、自由自在な本心の自分です。誰からも自分の自由を縛られることは決して無いのです。新たなる今・此処に、絶対なる神さまから受けた無限の無限の幸せは、他から横取りしたものでは無く、神さまから縦に受けたものです。神さまから新たに受け直したものは、必ず自分の運命となって現実化するのです。それは決して他から侵され・奪われることは無いのです。

 もし自分の運命にマイナスがあるとすれば、それは自分自身が自分に必要なものを、神さまから新たに受け直すことを忘れ・怠っていたからです。自分の運命のマイナスは、決して他の何ものの所為でも無いのです。自分自身が自分に必要なものを、神さまから受け取らなかったという結果なのです。宇宙絶対神は、すべての人に無限の無限の幸せを与えても、なお有り余る無尽蔵の幸せを持っていて、もっと多くの幸せを受けてくれるのを待っているのです。神さまは無償の愛の持ち主ですから、神さまからは何を受け取っても、返す必要は全く無いのです。しかし神さま以外から受けたものは、必ず貸借関係の縛りの中に自分を置くことになるのです。他に与えた同じものを必ず受けることになり、他から受けた同じものを必ず返すことになるのは、因縁因果の法則です。


業想念の泥沼に落ちたら、もがけばもがく程、深みに沈んでゆくのです。自力での脱出は不可能なのです。にもかかわらず傲慢な人間は、神さまの折角の救いの手をも振り払って、頑固に拒絶するのです。愚かしい限りです。素直に感謝して、神さまの助けを受け入れたら、直ぐにでも助け上げてもらえるのです。これは人生万般すべての問題に当てはまることなのです。業想念の泥沼に落ち込んだままでは、決して幸せにはなれないということは、明白な事実です。それなのに、業想念の泥沼に落ち込んでいる人間が、自分の周りに余りにも多いと、仲間外れになりたくないという意識が強く働くのか、業想念の泥沼から脱出したいと思わなくなってくるのです。そして業想念の泥沼に落ち込んだままで、七難八苦の苦しみからは逃れようと足掻くのです。人生万般のすべての問題は、業想念の泥沼から脱出さえすれば、即座に解決するものばかりなのです。

 本心の心は、すべての人が異なる個性を持ち、異なる使命を与えられ、異なる人生の道を歩むものであることを、はっきりと知っているのです。だから他と異なることを少しも恐れないのです。他の物真似では決して満足しないのです。他からの強制・縛りに屈伏することなく、自分の自由意志をしっかりと保てるのです。ところが業想念に覆われてくると、個性は隠され、癖だけが目立つようになり、みんな似たり寄ったりの同じような姿をとろうとするのです。そのような業想念の心では、一人でいることが無性に寂しく感じられ、同じような仲間を得て安心しようとするのです。頼り甲斐のある本当の親なる神さまを見失ってしまっては、仕方の無いことです。しかし神さま以外の何ものに頼っても、決して真の安心立命は得られないのです。

 業想念の泥沼から脱出して、空中遊歩の神人・本心の自分をしっかりと自覚してこそ、本当の自由自在な生き方ができるのです。また神さまの絶対の愛を感受して、真の安心立命を得ることもできるのです。その為には自分自身が業想念の泥沼から脱出したいと、切に願わなければならないのです。業想念の心を捨てて、本心の心に戻ろうとしなければならないのです。その願いが不退転の真剣なものであれば、必ず神さまからは救いの命綱が投げかけられて来るのです。否既に投げかけられている、神さまからの救いの命綱を、しっかりと握り締めることができるのです。業想念の泥沼から早く脱出する唯一の方法は、この命綱をしっかりと握って離さないことなのです。この命綱とは『祈り言葉』です。正しい真の“祈り言葉”を、一心不乱に心に唱え続けて離さないことなのです。『宇宙絶対統一神・天照大御神 今ここに 在します! 新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯! ありがとうございます』と寝ても醒めても祈り続けるのです。


絶対神は全大宇宙のすべてのすべてと現れて、自分で自分の表現を最高に味わい楽しんでいるのです。人も絶対神の分霊として、神我一体の自覚の深浅に応じて、自分の世界を創造し、その表現を味わい楽しんでいるのです。絶対神の表現は、全徳の無限の無限の輝きをもって、顕幽(光の世界・闇の世界)両界を、光一元に一大統一した最高傑作です。その味わい方は、マイナスの極からプラスの極を仰ぎ見るという、最高の楽しみ方です。人も絶対神の分霊として、神我一体の自覚を深めることによって、自由自在に自分の世界を創造し、その表現を心行くまで楽しむことができるのです。その為には移り変わるいかなる表現をも掴んではならないのです。掴めばそれに執着し、執着すればそれを自分のもの・自分と錯覚してしまうのです。相対の世界に表現されたすべてのものは、変化消滅する無常なるものです。その無常なるものを掴もうとすること自体無理なのです。掴んだと思った瞬間に消滅して無いのです。既に無いものを有ると思っているのは、掴んだという思いの残像です。それは自由自在な本心の心とは別個の業想念の心なのです。業想念の心を自分の心であると錯覚するところから、自由自在な本心の自分を見失ってゆくのです。執着する業想念の心を蓄積すればするほど、自由自在な本心の心は奥に隠されてしまうのです。

 絶対神の分霊としての自由自在な本心の自分は、自分の世界の創造主であり、自分の運命の支配者であり、また自分の世界・運命を享受(喜んで受入れ味わい楽しむ)する者です。本心の自分は、言葉の力を駆使して、心・信念を自由自在に変化させて、自分の世界・環境・運命を、自分の大いなる夢・希望・理想の通りに実現させてゆくのです。絶対神の一瞬一瞬新たなる全徳の無限の無限の輝きの中から、自分に必要なものを、祈り言葉を駆使して、自分の心に受け入れることによって、それを自分の世界・環境・運命に投影して実現してゆくのです。移り変わるもの・変化するもの・消滅するものは、本当の自分では無いのです。本当の自分は、絶対神の分霊・本心の自分・永遠不滅常住不変金剛不壊の存在なのです。肉体も魂も本当の自分では無いのです。それは本当の自分の表現の一部に過ぎないものです。移り変わるものは、自然に移り変わり、自然に消滅してゆくのです。自分の眼前をどのような世界が通り過ぎても、『来るものは拒まず、去るものは追わず』の心掛けが、本心の自分・不動心に戻る為には必要なのです。肉体や魂だけが自分の表現体では無いのです。自分の見ている環境全体が、世界全体が自分の表現体なのです。このことをしっかりと理解し認識することによって、世界の創造主・環境の支配者・運命の主人公になることができるのです。


 業想念の縛り(七難八苦の苦しみ)から自由になる為には、一心不乱に神さまを呼び・感謝し続けることが大切なのです。遠い過去世から積み重ねて来た、自らの想念感情によって、蚕が糸を吐いて、自ら繭の中に閉じこもるように、本心の自分を自縄自縛して不自由になっているのです。本心の心の自覚が欠乏している(蛹になって眠ったようになっている)間は、自分自身の力でその縛りを解く(繭を食い破る)ことは難しいのです。しかしながら本心の自覚(感謝の心)を取り戻し、本心の自覚を深め、本心の無限力を引き出すことができるようになれば、一切の業想念の縛り(苦しみ)から自由になる(繭を食い破って外に出る)ことも可能となるのです。だから何よりも先ず本心の自覚を取り戻し・深めることなのです。その為に必要なことは、真剣な神さまへの感謝行です。本心の自分とは、一瞬一瞬新たに新たに、神さまの中から新生して来る“感謝の心”そのものです。真剣な感謝行の積み重ねは、本心の自分を呼び覚まし、本心の自覚を速やかに深めてくれるものなのです。本心の自覚が、光が闇を消し去るように、業想念の縛りを消し去ってくれるのです。

 本心の自覚を深めてゆかなければ、いつまでも業想念の心を自分の心として掴んだままで終わるのです。本心こそが本当の自分であるのに、本心であることを忘れていたり、その自覚がぼんやりしていては、業想念を自分から切り離して、消し去ることなど不可能です。業想念の心を掴んだままでは、類は類を呼ぶ(同波長のものが集まる)という法則によって、いつまでたっても、業想念ばかりを引き寄せることになってしまうのです。それでは業想念の縛りから自由になることは、永遠に不可能です。業想念の縛りから自由になる為には、本心の自覚を深めようとして、本心こそが本当の自分なのだと、繰り返し繰り返し思い返すことが必要なのです。

 移り変わる姿に執着して、それらが自分の思い通りになることを願うだけの御利益信仰では、本心の自覚を深めてゆくことは難しいのです。本心の自覚を深めてゆく為には、業想念の心の御利益信仰の域を、一日も早く卒業して、移り変わる姿の一切を、感謝一筋に受け止めてゆくことが大切です。どのような姿の奥にも、神さまの愛の働きを見出そうとしてゆくことが大切です。マイナスに見ている姿を、もう一度光一元に見直して、プラスの無限の価値あるものとして、心にしっかりと受け入れてゆくことが大切です。本心開発(感謝を深める)の正しい信仰に進まない限りは、御利益も永続しないのです。いくら熱心に信仰していても、御利益の無くなる時が来るものです。それは御利益信仰の間違いに気付かせる為の、神さまからの愛のメッセージです。


仏の四無量心(慈悲喜捨の心)を生きることが、本心の自分を大きく輝かせることになるのです。四無量心とは、どれほど素晴らしいかを推し量ることのできない、四つの無限に素晴らしい心と言う意味です。自分が四無量心をもって相対すれば、宇宙のすべても四無量心をもって相対してくれるのです。

 「慈」とは、慈しむ心・思いやる心・与える心・献身の心・奉仕の心・等々の心です。絶対神の全徳の無限の無限の輝きを、個々各々の本心の求め・願いに応じて、必要なだけを的確に与え尽くして、それぞれに相応しい幸せ・喜び・安楽等を与えてゆく心です。絶対神の立場に立って、新たなる全徳の無限の無限の輝きを、光一元に与え尽くす心です。これは小さな求める心の個我を捨て切って、大きな与える心の本心を生き切ることです。自分の救われ・幸せは一番最後にして、他の・みんなの救われ・幸せを先ず一番に願う心です。

 「悲」とは、一大包容の心・寛容の心・謙虚な心・素直な心・感謝の心・賛嘆の心・大犠牲の心・等々の心です。絶対神の無限の無限の聖愛をもって、みんなの苦しみ・痛み・悲しみ・悩み・等々のマイナスのすべてを、自分の身に振り替えて、喜んで受ける大犠牲の心です。そしてマイナス無限大の最低の立場から、光一元に仰ぎ見て、個々各々の・みんなの・全体のプラス面(無限の価値)をしっかりと認め、褒め讃え・感謝し・喜ぶ心です。これはマイナスの姿のすべての責任を、自己に帰す謙虚な心です。マイナスの苦痛等を、先ず自分が一番大きく背負って、他の・みんなの苦痛等を、少しでも軽減したいと願う心です。

 「喜」とは、全体の喜びを・みんなの喜びを・個々の喜びを・ありとあらゆる一切のどんな喜びをも、自分自身の喜びとして喜ぶ、無限の無限の喜びの心です。小さい個我の喜びから出発して、他の喜びを自分の喜びとして加えてゆく生き方は、万神万生万有の一切の喜びをも、自分の喜びに加えてゆくことができるのです。そして絶対神の無限に無限に大きく・無限に無限に深い、ありとあらゆる一切の喜びを、自分の喜びそのものにしてゆける心なのです。

 「捨」とは、今・ここに(すべての時間・すべての空間に)現れている全大宇宙のすべてのすべてを、一瞬一瞬新たに新たに、受けては放し・放しては受ける、無限に無限に新鮮な・新たな感動・新たな感謝・新たな輝きの心です。過去の一切の姿を心から捨離してこそ、新たなる全大宇宙のすべてのすべてを、絶対神の全徳の無限の無限の輝きそのものとして、無限の無限の感動・感謝・喜びをもって感受してゆけるのです。


本当の幸せを掴みたいのであれば、決して愚痴をこぼしてはならないのです。愚痴をこぼせばこぼすほど、幸せは嫌がって、遠くへ逃げ去ってゆくのです。幸せは感謝の在るところへ、喜んで自然に集まって来てくれるのです。過去世から積み重ねて来た大きな業想念(生まれつき持っている宿業)を、この世においてどれだけ沢山、消し去ってもらえるかということが、人生の最大の課題の一つなのです。愚痴ってはいけないと分かっていても、愚痴らずにはおれないのは、大きな業想念に負けているからです。このような愚痴る状態のままで、七難八苦の苦痛を味わうことなく、大きな業想念を消し去ってもらえるかと言えば、普通はそれほど甘くは無いのです。ところが今の時代は、地球救済のタイムリミットがある為に、守護の神霊の大愛によって、常に間断無く、大きく業想念は消し続けられているのです。しかし守護の神霊への感謝が、有るか無いかということによって、各自の運命の現れ方に、大きな違いが生ずるのは、止むを得ないことなのです。地獄の苦痛に阿鼻叫喚していなければならないところを、その苦痛を大きく軽減してもらった姿が、この世の七難八苦なのです。更に助けに助けてもらって、大難を小難に・無難に済ましてもらっているわけです。こんなに甘い甘い話は滅多にあるものでは無いのです。だからこそ守護の神霊への感謝が、絶対に必要なのです。どのようなマイナスの運命の現れ方であっても、真心から感謝し・喜ばなければ、恩知らずなのです。恩知らずの人間が幸せになれる道理は、どこにも無いのです。守護の神霊の加護に対しては、どれだけ深く感謝し続けても、まだまだ感謝は足りないものなのです。従って感謝を忘れたら、真心から『感謝を忘れて、御免なさい』とお詫びしなければならないのです。

 不平・不満・不足を並べ立てて、幸せになった人は一人も存在しないのです。愚痴れば愚痴るほど、マイナスに見れば見るほど、幸せから遠ざかるのです。そして地獄のどん底にまで転落してゆくことになるのです。言葉通り・思い通りに成るのが法則です。従って幸せになりたかったら、法則に則って、プラスに生きれば良いのです。それはすべてを光一元に眺め、すべてにプラスの無限価値を見出し、その本質の素晴らしさを褒め讃え・感謝し・喜び続けて、幸せになる方法です。自分の自由意志でプラスの生き方を選び、自分の力でプラスの方向に進めるようになってこそ、本当の幸せを掴むことができるのです。マイナスの言葉を使って、マイナスの生き方を選び、マイナスの方向に進むことができるのなら、人の本質はプラスだから、プラスの言葉を駆使し、プラスの生き方を選び、プラスの方向に進むことの方が、遙かに遙かに易しいのです。できない、できない、と甘えてばかりいないで、本心の無限力をしっかりと発揮してゆくことです。


今・ここに与えられているものが、次の一瞬にも与えられ、いつまでも与え続けられるものだと考えていたら、大きな大きな間違いです。神さまは絶対の愛だから、与え続けてくれて当然なのだという考え方は、傲慢な業想念の考え方です。謙虚な本心の考え方では無いのです。どんなものもこれっきりなのだ、これが最後なのだ、という気持ちで受けなければ、謙虚な心になって、感謝を深めてゆくことはできないのです。常に常に本心の謙虚な心になって、一瞬一瞬新たに、すべてのものを受け直してゆくことが大切なのです。そうしなければ心に隙ができて、瞬時にして、過去を掴んで執着する業想念の心に陥ってしまうのです。人は本心の自分に戻り切る迄は、一寸油断するだけで、業想念の心に陥って、後悔することになるのです。いつも初心に返って、本心の自分を生き切ろうと、努力し続けることが大事なのです。

 過去を掴んで執着する業想念の心が、その掴んだものを自分のものだと主張するのは、その性質上当然のことです。業想念の心の奴隷に陥っている人にとっては、我の主張は正しい当然の権利なのだと思えるのです。そしてその我の主張から奪い合いが生じ、七難八苦の地獄絵図を現出し、すべての形あるものを破壊し、失ってしまうことになるのです。神さまの立場・本心の立場から眺めると、実に愚かな危なっかしい生き方です。永続する幸せを実現する為には、本心の自分をしっかりと生きて、謙虚に謙虚になること以外に方法は無いのです。

 業想念の心(七難八苦の心)を掴むから,苦しむのです。本心の心を思い返せば、平安を取り戻せるのです。業想念の心と本心の心のどちらを掴むかによって、一瞬一瞬その人の幸・不幸が決定されるのです。業想念の心で神さまを利用しようとしても、それは不可能です。何故なら神さまの助けは、業想念を消し去ってくるからです。神さまの助けは、常に本心の心の立場に戻ってこそ、受けられるものなのです。本心の感謝の心に戻って、感謝を深めてゆくことによって、神さまの助けを大きく受けることができるのです。神さまの愛の助けを、その万分の一どころか、億分の一すら受けていないのが、大半の人の感謝の程度ではないでしょうか。もっともっと感謝一筋に、謙虚に生きてゆかなければならないのです。業想念の大部分は、守護の神霊が消し去って下さるにしても、最後の仕上げは、自分自身の手できっちりとしたいものです。本心の自分をしっかりと生きて、僅かに残された業想念ぐらいは、自分自身の手で消し切らなければならないのです。それでなければ、守護の神霊の操り人形・奴隷であって、自由自在な本心の自分に戻り切ったことにはならないのです。


自分自身の心の姿勢を、プラスの方向へプラスの方向へと、向け変えてゆくことが大切なのです。プラスの方向に向いている時には、一瞬一瞬新たに、自由自在な本心の心で、すべてを大きな大きなプラスに受け直して喜べるのです。マイナスの方向に向いている時には、過去に・小さな立場に囚われて、すべてのマイナスを針小棒大的に大きな大きなマイナスに拡大して、自分勝手に苦痛を味わうことになるのです。時間と空間は相対の両極です。時空一如の原理から、時間を今の一瞬に絞り込めば、空間は無限に広がることになるのです。今の一瞬を生きることによって、本心は無限の自由を感得して、大きな幸せを味わうことができるのです。逆に過去に囚われ・未来を心配すれば、時間が大きく広がることになって、空間が小さく絞り込まれてくるのです。空間が小さくなってくると、本心の自由が失われて、大きな苦しみを味わうことになるのです。今の一瞬一瞬に、宇宙のすべてを新たに受け直してゆこうとするだけで、この世だけでも、無限のプラスを数え上げることができるはずです。プラスに数え上げるものが多くなればなるほど、その人の幸せは大きく大きくなってくるのです。

 マイナスに見ているすべてに対して、『みんな私の持っているマイナスを、身代わりに振り替えて背負い、消し去って下さっているのだ、みんな私の責任なのだ、御免なさい』と真心からお詫びし、感謝できてこそ、謙虚で素直な本心の自分なのです。すべてのマイナスに対して、真心から御免なさい、と言える自分になってこそ、すべてをプラスにプラスに受け直して、感謝を深めてゆけるのです。いかなる理由があろうとも、マイナスに見ること自体、全体者である神さまへの大きな反逆です。何をマイナスに見ても、神さまをマイナスに見ていることになるからです。神さまを悪者にするのは、傲慢極まり無い業想念の心です。それでは本当の幸せを掴むことはできないのです。

 どんな小さな物事であっても、自分の方から「こうしてほしい、ああしてほしい」と求める心を起こしたら、途端に業想念の奴隷に陥って、必ず苦しむことになるものです。こうしてほしい、ああしてほしい、と相手に求めることは、相手の自由を縛ることになるのです。その相手の自由を縛る心が、自分自身をも縛って、結局自分を大きく苦しめることになるわけです。本心の自分は、一切の縛りから開放されてこそ、真の幸せを味わうことができるのです。他の自由を少しでも縛れば、同じように自分自身を縛ることになるのです。我の願いを出せば出すほどに、本心の自分を縛りに縛って、本当の幸せから遠ざかることになるのです。すべての我の願いを捨てて、本心の自分を自由に解放してこそ、無限の無限の幸せで一杯!の自分になるのです。


過去世から積み重ねて来た業想念の集積を、いかに速く消し去ってもらうかが、本心を輝かす為の大事な要点です。空に浮かぶ雲を業想念に例えると、雲の上に輝いている太陽が神さまであり、太陽から放射されてくる新たなる光が本心の自分です。肉体や魂に、本心の心を大きく輝かせる為には、過去に蓄積してきた業想念のすべてを消し切らなければならないのです。過去の自分に一切の執着が無ければ、業想念の雲を生み出すことは無かったのです。その時は青空に太陽が輝くように、本心の光が魂に肉体に燦然と輝いていたのです。新たなる光の流れだけが存在していたのです。本心の光の元が霊であり、中間が魂であり、末端が魄(肉体)です。新たなる光の一筋が、霊・魂・魄と現れては消え去ってゆくのです。ところが現れに執着すると、想念感情の雲を生み出すことになるのです。業想念の雲の集積が少ない間は、白く輝いた薄雲の状態であって、魂はプラスの善き状態です。従って肉体に魂の影が投影されても、プラスの善い状態です。しかし業想念の雲の集積が多くなってくるにつれて、暗く沈んだ厚い黒雲の状態となって、魂はマイナスの悪い状態(七難八苦の煩悩熾盛の状態)となるのです。そうなると肉体にも魂の状態が投影されて、苦痛の多い状態になってくるのです。

 この魂に蓄積された業想念を、速やかに消し去る方法としては、次の二つが最適です。一つは、感謝の心を起こすことによって、神さまの浄めの光を大きく集めて、太陽の光が雲霧を消し去るように、業想念を直接大きく消し去る方法です。二つは、雨雲は雨を降らすことによって、大きく消え去ってゆくように、業想念を形に現して、大きく消し去る方法です。業想念のエネルギーを速やかに発散させて消し去る為には、失敗を恐れずに、積極的に・前向きに・全力を尽くして生きることです。そうすれば魂に蓄積されている業想念を、どんどんスピード化して、形に再現させて消し去ってゆけるのです。その時に大切なことは、再び業想念を蓄積しない為にも、『これで業想念が大きく消し去られたのだ。神さま、ありがとうございます』というように、心にしっかりと『消し去られたのだ』と確認してゆくことです。

 人は業想念がすっかり消し去られた時に、光の自分が光の世界に自由に遊ぶのを実感するのです。業想念の奴隷に陥っていては、決して真の自由を満喫することはできないのです。仮にその業想念がプラスの善きもの(善業)であって、運命としてプラスの善き姿を現していても、善業の奴隷であっては、まだ本心の自由はどこにも無いのです。本心の自分の自由自在性を実感できるようになってこそ、本当の幸せ・喜び・楽しさ等々を、心ゆくまで味わうことができるのです。


本心の心と業想念の心とは、相対の両極に当たるものです。そしてその二つの心を組み合わせて、心の種々様々な姿が表現されているのです。即ち業想念の極から本心の極に至る、無限の無限の段階の心の表現が、一瞬一瞬新たに新たに、光一元に創造され続けているのです。人は今の一瞬一瞬に、どの段階の心の状態を掴むかによって、自由に自分の幸せの程度を決定することができるのです。本心の心を掴めば、楽(幸福)を感じるのであり、業想念の心を掴めば、苦(不幸)を感じるのです。本心の心を掴めば掴むほど、どんどん楽(幸福)が大きくなってゆくのです。逆に業想念の心を掴めば掴むほど、どんどん苦(不幸)が大きくなってゆくのです。それは本心の心は自由自在な心ですから、次の一瞬に、自分の選びたいプラス(楽・幸福)を、容易に掴めるからです。逆に業想念の心は執着の心ですから、次の一瞬も、自分の掴んでいるマイナス(苦・不幸)を、放し難くなるからです。心の習慣性(傾向)がプラスの方向に向いている時は、本心の心(プラス)を選び易いので、自然により大きな本心の心を掴んでゆけるものです。しかし心の習慣性(傾向)がマイナスの方向に向いている時には、その惰性に任せていては、坂道を転がり落ちるように、より低い段階の心(大きい業想念)を、無意識の内に掴んでしまうものなのです。

 マイナスの習慣性(傾向)を、プラスに変えてゆく為には、大きな大きな力を必要とするのです。惰性がついて、勢いよく坂道を転がり落ちるのを止めるには、自分だけの力では不可能なのです。大きな力の持ち主に助けて貰わなければ無理なのです。マイナスの習慣性をプラスに変えてゆく為には、守護の神霊の加護を大きく受けなければできないのです。自分だけの小さな力では、小さなマイナスの癖も、なかなか改まるものでは無いのです。ましてや過去世から積み重ねてきた、感謝を忘れるマイナスの習慣性は、雪崩のように凄まじいものです。自分だけの力では、幾ら感謝し続けようとしても、すぐに感謝を忘れてしまって、業想念の心に陥ってしまうものなのです。

 感謝を深めてゆきたいと真実に願うならば、常に守護の神霊の無限の加護によって、今自分は感謝させていただいているのであると、謙虚に謙虚に思い返さなければならないのです。微塵も自分の力・自分の努力で感謝しているのだ等と、高慢に思ってはならないのです。また自分は感謝できない・感謝が足りない等と、卑下慢の心を起こしても駄目なのです。どちらも傲慢極まりない心です。守護の神霊の無限の加護が無ければ、只の一回の感謝すらも絶対にできないものなのです。常に守護の神霊の無限の加護を、謙虚に謙虚に受け入れる者のみが、感謝を深めさせていただけるのです。


自我の心を死に切ってこそ、神さまのお役に立てるのです。自我の心(業想念の心)では、神さまの御心は掴めないのです。自我の心と神さまの御心とは、その価値判断が正反対なのです。自我の心をのさばらしたままでは、神さまの御心を生きることは不可能なのです。幾ら神さまの為に奉仕しているのだと言っても、自我の心でしていることは、神さまの働きの邪魔ばかりをしているのです。本当に神さまのお役に立ちたいと願うならば、先ず自我の心を死に切って、本心の心をしっかりと生きなければならないのです。

 自我の心とは、傲慢な心・欲深い心のことです。傲慢な心とは、自分は偉いのだと自慢する心であり、自分は駄目なのだと卑下する心です。欲深い心とは、求める心・奪う心です。自我の心が強ければ強い程、神さまの働きを邪魔するものです。謙虚な心・感謝の心・本心の心に戻ってこそ、神さまの働きを邪魔しない自分・神さまのお役に立てる自分になれるのです。神さまへの絶対奉仕の道は、自我の心を死に切って、本心の心を輝かせる為のものです。自分のすべてを神さまにお返しして、自分のすべてを神さまに捧げ尽くして、先ず自分というものを無くしてゆくことが大事なのです。自分のすべてを神さまに捧げ尽くした時に、始めて自我の心を死に切ることができるのです。その時に本心の心が復活して、大きく輝き始めるのです。本心の自分に戻る為には、99パーセントでは無く、100パーセントの捧げ尽くし方が必要なのです。

 無限の業想念を持ったままで良いから、自分のすべてを神さまに捧げ尽くして、どうか神さまのお役に立てるようにして下さいと願えば、神さまは大きく力を揮うことができるのです。100パーセント神さまにお任せするということが、最も大切な要点です。神さまへの全託は、本当に自分を100パーセント捧げ尽くしたものであれば、一度で十分なのです。しかし言葉だけの全託では、自我の心が顔を出してくるものです。その度に全託の決意表明をする必要があるのです。全託の決意表明をし続ける全託行によって、本物の全託に近づいてゆくのです。

 神さまの御心を、神さまの願いを生きる為には、正しい祈りが必要不可欠なのです。正しい祈りとは何かをしっかりと把握して、一にも二にも実行するということが大事なのです。神さまの御心は、全徳の無限の無限の輝きとなって、一瞬一瞬新たに顕現し続けているのです。その新たな全徳の無限の無限の輝きを感受してゆくということが、正しい祈り方です。『天照大御神 今ここに 在します! 新たなる全徳の無限の無限の輝きが一杯! みんな新たなる全徳の無限の無限の輝きで一杯! ありがとうございます』と深く深く感受してゆくことが、正しい感謝の祈りです。


お祈りは神さまとの対面です。恋人とデートする時には、最高の装いをもって、相手を喜ばせようとするものです。お祈りはそれ以上に、神さまに喜んでいただく為に、心身共に最高の状態で臨むべきものです。神さまに好かれるようでなければ、大きな助けは受けられないのです。神さまに嫌われるようでは、お祈りをしても、神さまとは対面できないのです。神さまは本心の心の輝いた状態が好きなのです。明るい心・謙虚な心・素直な心・感謝の心・喜びの心・行き届いた心・思いやりの深い心・・・・・・が好きなのです。そしてそれらの心の表現された状態が好きなのです。だからお祈りをする時には、明るい笑顔で・姿勢を正して・服装もきちんとして、心身共に最高の状態を演出しなければならないのです。更には、神さま! 無限に無限に愛しています! 無限に無限に感謝しています! 無限に無限に幸せです! ありがとうございます!と最高の祈り言葉を駆使して、神さまを喜ばせようとすることが大事なのです。そうすれば神さまの方からも、喜んで対面しに降りて来て下さるのです。

 幾ら愛深い神さまであっても、嫌いなものは嫌い、嫌なものは嫌なのです。傲慢な心・欲深い心は、反吐が出るほど嫌いです。マイナスの言葉を聞かされるのは、耳に栓をしたくなる程に嫌なのです。だらしのない・行き届かない・無責任な態度は、見たくも無いのです。乱雑な・汚れたままの・ゴミ溜めのような状態は、大嫌いなのです。だから常に祈りの場を最高の状態に整える為に、全力を尽くさなければならないのです。先ずこの肉体が最高の祈りの場にならなければならないのです。神さまが喜び勇んで、降りて来て下さるような、清らかな場(神の宮・神殿)にしてゆかなければならないのです。自分の救わればかりを願う利己的な心を捨てて、神さまのお役に立ちたいという純粋な愛他的な心になれば、神さまは喜んで降りて来て下さるのです。自分の身も心も、常に清らかな状態に保つことが、神さまに好かれる必須条件です。

 自分の心を清らかにする一番の方法は、お祈りの場の清掃奉仕をしっかりとさせていただくことです。感謝しながら・喜び勇んで・真心込めて・行き届いた清掃奉仕をすることによって、自分の心の中を大掃除していただけるのです。何の奉仕もしないでいて、神さまの助けだけを受けようとしても、それは無理なのです。与え尽くす奉仕の心になった時にのみ、神さまの助けを受けることができるのです。神さまに対して、どれだけの奉仕ができたか、その奉仕の分量に比例して、神さまの助けを受け取ることができるのです。神さまに喜んでいただける奉仕を、常に自分なりに創意工夫して、絶えず実践し続けることが、神さまに好かれる秘訣なのです。


どんなものも正しく使いこなすことができれば、この上なく重宝なものです。宇宙のすべては、正しく使いこなして、その真価値を見出してくれるのを待っているのです。どんなものも正しく使いこなすことができなければ、宝の持ち腐れです。どんな最高のものを所有していても、正しく使いこなさなければ、その真価値を発揮してくれないのです。使い方が正しければ、毒も薬になるのであり、使い方が間違っていたら、薬も毒になるのです。自動車は正しく運転すれば、包丁は正しく調理に使えば、便利で役立つものです。ところが間違った運転をして、事故を起こしたり、間違った使い方をして、指を切ったりした時に、その責任を自動車や包丁になすり付けるようでは、見当違いも甚だしいのです。すべての責任は、それらを正しく使いこなせなかった自分自身に有るのです。どんなものも雑草や石ころのように見捨てるのは、自分自身がその真価値を見出すことができないからなのです。

 言葉も正しく使いこなすことができれば、これほど便利で重宝なものは無いのです。プラスの言葉だけでは無く、マイナスの言葉も同じように役に立つのです。神さまが与え続けて下さっている、新たなる全徳の無限の無限の輝きの中から、自分に必要なだけを受け取る為に、言葉を使うのです。無限の無限のプラスが必要であれば、無限の無限のプラスの言葉を使えば良いのです。小さなプラスが必要であれば、小さなプラスの言葉を使えば良いのです。もっともっとプラスを少なくする必要があれば、マイナスの言葉を使えば良いのです。例えば太陽の陽射しが強烈な時には、日影が必要になることもあるのです。御馳走で満腹になれば、もう見たくも無いのです。マイナスの言葉には、強い光を和らげたり、不必要なものを消したりする働きが有るのです。マイナスの言葉の効用にも、計り知れないものが有るのです。

 マイナスの言葉の集積は、業想念の黒雲となって、神さまの光を遮っているのでは無くて、逆に強烈な無限の無限の大光明から、笠雲となって光を和らげ、必要なだけの光に調えてくれているのです。順境に馴れて感謝が浅くなった時に、逆境となって謙虚な心を呼び覚まし、感謝を深めさせてくれているのです。草花の種も、強い陽射しに曝されては、発芽することもできないのです。土を被せて、水分を与える必要があるのです。発芽してからも、日除けの必要な時期があるのです。人もそれぞれに、本心の心の種蒔かれる時期が異なっているのであり、その成長過程も花の種類も異なっているのです。すべては神計らいによって、必要なだけの光が的確に与え続けられて、誰もが順調に成育し続けているのであり、本心の心を輝かせつつあるというのが真相です。



 自分の世界(現実の自分の姿や、周りの環境全体)を自分の希望通りに変える為には、先ず言葉の力を駆使して、心の奥から自分自身を変化させて、自分の希望する世界に波長を合わせて、自分をそこへ移動させるのが、最高最善の方法なのです。それを逆にしようとすると、労多くして功少なしの状態に陥るのです。それはテレビ番組を見る時の状態に符合させると、良く理解できるのです。例えば1チャンネルの番組(地獄世界)を見ている人が、10チャンネルの番組(極楽世界)を見たいと思えば、チャンネルを1から10へ切り換えるだけで、簡単に希望が叶えられるのです。それを逆にして、チャンネルを切り換えないで、地獄世界が極楽世界に変化することを願って、画面に幾ら働きかけても、地獄世界を極楽世界に変化させることは、永遠に不可能なのです。これは誰にでも理解できる明々白々の理です。ところが実際の人生においては、これと同じような愚を繰り返している場合が多いのです。画面はそのチャンネルの放送番組通りに移り変わるものであるという鉄則を忘れると、余計なことを願い・考え・試みることになるのです。本当は番組通りに変化しているだけなのに、自分の願い・考え・試みが具体化しているかのように錯覚するのです。

 人はそれぞれ、自分の自由意志で、言葉を選び、心を定め、その心に波長の合う放送番組を感受して、この世という受像機に写し出し、自己の運命として享受しているのです。神さまの放送番組には、無限の無限のチャンネルがあって、誰もが自由に、その中から自分の見たい番組を選び、自己の運命としてそれを楽しむことができるようになっているのです。人はそれぞれに、自分の受像機を持っていて、その受像機の画面を楽しんでいるのです。本来はお互いに邪魔にならないように、同じチャンネルの番組を見ている人同士が集まるようになっているのです。また近いチャンネルの人は近くに、遠いチャンネルの人は遠くに集まるようになっているのです。これを各自の心の状態によって、大きく区分けすると、十界(地獄界・餓鬼界・畜生界・修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界)のようになるのです。ただこの世は、チャンネル切替えの練習の場としての一面を備えているので、異なるチャンネルを見ている人同士でも、お互いに影響を与えあえるように、近くに混在する場合もあるのです。お互いに他の人の生き方を参考にして、チャンネルを自由自在に切り換えることのできる自分に、一日も早く成れるようにしてゆくことが、この世における最も重要な課題です。その意味からも、この世の時間は、チャンネル切替えの達人になる為の貴重な時間です。だから一分一秒も無駄に費やしてはならないものです。真祈りの修行のチャンスは、常に『今』だけなのです。


































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