君が代で使ったHTMLは菊地さんのサイトで勉強しました。菊地さんありがとうございます。以下のコラムは宗教サイトではありません。古神道研究ノ−トです。またその内容に責任を保持していません。さらに著作権も行使しません。どうぞ自由に使いまわしてください。できればちょっとアレンジしていい感じになったよというのをどんどん、是非メールでお知らせください。 河上彰延 使いまわすような内容はまだまだないですが・・・・

君が代は  千代に八千代に さざれ石の巌となりて 苔のむすまで

この歌(うた)は、宇宙絶対神(うちゅうぜったいしん)の最高表現(さいこうひょうげん)・天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御姿(みすがた)を表現(ひょうげん)しているのです。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)の御姿(みすがた)は、即(すなわ)ち光明遍照(こうみょうへんじょう)の”日(ひ)の本(もと)の国(くに)”なのです。

それ故(ゆえ)にこの歌(うた)には、天照大御神(あまてらすおおみかみ)を顕現(けんげん)する偉大(いだい)なる力(ちから)があるのです。

最高理想(さいこうりそう)の世界(せかい)”日(ひ)の本(もと)の国(くに)”を現実化(げんじつか)する、尊厳無比(そんげんむひ)の”祈(いの)り言葉(ことば)”なのです。

従(したが)ってこの歌(うた)は、島国日本(しまぐににほん)の国歌(こっか)では無(な)いのです。

島国日本(しまぐににほん)の私物化(しぶつか)できるものでは無(な)いのです。

宇宙全体(うちゅうぜんたい)の共有財産(きょうゆうざいさん)・最高(さいこう)の宝(たから)なのです。


”君(きみ)” とは、 ”極身(きわまるみ)” であり、宇宙絶対神(うちゅぜったいしん)のことです。 

”代(よ)” とは、一瞬一瞬新(いっしゅんいっしゅんあら)たに、移(うつ)り変(か)わり・置(お)き代(か)わるという意味(いみ)で、絶対神(ぜったいしん)の現(あら)われである ”宇宙(うちゅう)・世界(せかい)” のことです。 

"千(ち)” とは、数多(かずおお)くの・無限(むげん)のという意味(いみ)です。

 ”八(や)” とは、”イヤ(熊野)” であり、無限(むげん)の伸展(しんてん)・拡大(かくだい)の意味(いみ)です。

従(したがって)って絶対神(ぜったいしん)の現(あら)われである宇宙・世界(うちゅうせかい)というのは、無限(むげん)の宇宙(うちゅう)を無限(むげん)に組(く)み合(あ)わせた、重層構造(じゅうそうこうぞう)の荘厳無比(そうごんむひ)の宇宙・世界(うちゅうせかい)なのです。

 本当(ほんとう)の自分(じぶん)・本心(ほんしん)の自分(じぶん)というのは、宇宙絶対統一神(うちゅうぜったいとう
いつしん)・天照大御神(あまてらすおおみかみ)から、新(あら)たなる全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きを感受(かんじゅ)して、常(つね)に無限(むげん)に無限(むげん)に輝(かがや)いている自分(じぶん)です。

その本心(ほんしん)の自分(じぶん)と比較(ひかく)すれば、魂(たましい)の自分(じぶん)も肉体(にくたい)の自分(じぶん)も、全(まった)く無(なき)に等(ひとしい)しい存在(そんざい)なのです。

その無限(むげん)に無限(むげん)に輝(かがや)いた本心(ほんしん)の自分(じぶん)も、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と比較(ひかく)すれば、全(まった)く無(なき)に等(ひと)しい存在(そんざい)なのです。→無きに等しい存在とは、自分がないわけですから、あまてらすおおみかみさまと不離一体の存在であるということです。つまり、真(まこと)の神さまと一体であるということです。

無限(むげん)の人(ひと)に対(たい)して、永遠無窮(えいえんむきゅう)に、新(あら)たなる全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きを与(あた)え続(つづ)けることのできる、宇宙絶対統一神(うちゅうぜったいとういつしん)・天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、筆舌(ひつぜつ)を超(こ)えて無限(むげん)に無限(むげん)に無限(むげん)に偉大(い)な存在(そんざい)です。

 ”さざれ石の巌となりて”というのは、本心(ほんしん)の一人一人(ひとりひとり)が個性(こせい)を発揮(はっき)しながらも、自分(じぶん)のすべてを天照大御神(あまてらすおおみかみ)に捧(ささ)げ尽(つ)くして、完全(かんぜん)に天照大御神(あまてらすおおみかみ)と一体化(いったいか)していることを示(しめ)しているのです。

元始(もと)より本心(ほんしん)の自分(じぶん)は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)と一体(いったい)なのです。今更改(いまらあらた)めて一体化(いったいか)するのでは無(な)いのです。

真(しん)に本心(ほんしん)の自分(じぶん)は、天照大御神(あまてらすおおみかみ)の血(ち)となり、肉(にく)となっているのです。天照大御神(あまてらすおおみかみ)の玉体(ぎょくたい)は、無限(むげん)の無限(むげん)の”個性(こせい)ある輝き(かがや)”を持(も)った最高(さいこう)の宝石(ほうせき)を、無限(むげん)に無限(むげん)に組(く)み合(あ)わせて、一大統一(いちだいとういつ)された宝石(ほうせき)・巌(いわお)(一大連珠(いちだいれんじゅ))なのです。

 "苔のむすまで”というのは、生命(せいめい)・いのちの輝(かがや)いた状態(じょうたい)であるという意味(いみ)です。

いのち・生命(せいめい)ほど、尊(とうと)いものは無(な)いのです。

天照大御神(あまてらすおおみかみ)は、宇宙大生命(宇宙大生命)・いのちの本源(ほんげん)なのです。

常(つね)に生(い)き生(い)きと喜(よろこ)びを表現(ひょうげん)し、常(つね)に活(い)き活い)きと躍動(やくどう)しているのです。

それは即(すなわち)ち全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きなのです。

 ”徳(とく)” というのは、直心(じきしん)を行(ぎょう)ずる、直霊(ちょくれい)の働(はたら)き、絶対神(ぜったいしん)の根源(こんげん)の働(はたら)きという意味(いみ)です。

無限億万分(むげん)の一秒(いちびょう)という一瞬一瞬(いっしゅんいっしゅん)の刹那(せつな)に、新(あら)たなる全徳(ぜんとく)の無限(むげん)の無限(むげん)の輝(かがや)きをもって、”天照大御神(

あまてらすおおみかみ)”荘厳無比(そうごんむひ)・尊厳無比(そんげんむひ)の全大宇宙(ぜんだいうちゅう)が、常(つね)に常(つね)に新生(しんせい)しているのです。

”君が代”は天照大御神(あまてらすおおみかみ→真(まこと)の神さまの表現神)の”御稜威(みいつ)”を讃(たた)える歌(うた)です。




明治維新のおり、新政府、諸外国と対等に付き合う必要性から、国歌制定の必要性に迫られた。後の陸軍元帥、満州軍総大将大山巌を中心として選定を行った。明治2年1865年旧薩摩藩で年賀や祝賀のときに歌われていた薩摩琵琶「蓬莱山」からその一部を抜き出して国歌”君が代”とした。

 この歌は、宇宙絶対神の最高表現・天照大御神の御姿(みすがた)を表現しているのです。天照大御

神の御姿は、即ち光明遍照の”日の本の国”なのです。それ故にこの歌には、天照大御神

を顕現する偉大なる力があるのです。最高理想の世界”日の本の国”を現実化する、尊厳

無比の”祈り言葉”なのです。従ってこの歌は、島国日本の国歌では無いのです。島国日 

本の私物化できるものでは無いのです。宇宙全体の共有財産・最高の宝なのです。

”君” とは、 ”極身” であり、宇宙絶対神のことです。 ”代” とは、一瞬一瞬新たに、

移り変わり・置き代わるという意味で、絶対神の現われである ”宇宙・世界” のことです。

 "千” とは、数多くの・無限のという意味です。 ”八” とは、”イヤ” であり、無限の伸

展・拡大の意味です。従って絶対神の現われである宇宙・世界というのは、無限の宇宙を無

限に組み合わせた、重層構造の荘厳無比の宇宙・世界なのです。

 本当の自分・本心の自分というのは、宇宙絶対統一神・天照大御神から、新たなる全徳

の無限の無限の輝きを感受して、常に無限に無限に輝いている自分です。その本心の自分

と比較すれば、魂の自分も肉体の自分も、全く無に等しい存在なのです。その無限に無限

に輝いた本心の自分も、天照大御神と比較すれば、全く無に等しい存在なのです。無限の

人に対して、永遠無窮に、新たなる全徳の無限の無限の輝きを与え続けることのできる、

宇宙絶対統一神・天照大御神は、筆舌を超えて無限に無限に無限に偉大な存在です。

 ”さざれ石の巌となりて”というのは、本心の一人一人が個性を発揮しながらも、自分

のすべてを天照大御神に捧げ尽くして、完全に天照大御神と一体化していることを示して

いるのです。元始より本心の自分は、天照大御神と一体なのです。今更改めて一体化する

のでは無いのです。真に本心の自分は、天照大御神の血となり、肉となっているのです。

天照大御神の玉体は、無限の無限の”個性ある輝き”を持った最高の宝石を、無限に無限

に組み合わせて、一大統一された宝石・巌(一大連珠)なのです。

 "苔のむすまで”というのは、生命・いのちの輝いた状態であるという意味です。いの

ち・生命ほど、尊いものは無いのです。天照大御神は、宇宙大生命・いのちの本源なので

す。常に生き生きと喜びを表現し、常に活き活きと躍動しているのです。それは即ち全徳

の無限の無限の輝きなのです。 ”徳” というのは、直心(じきしん)を行ずる、直霊の働き、絶

対神の根源の働きという意味です。無限億万分の一秒という一瞬一瞬の刹那に、新たなる

全徳の無限の無限の輝きをもって、”天照大御神”荘厳無比・尊厳無比の全大宇宙が、常

に常に新生しているのです。”君が代”は天照大御神の”御稜威”を讃える歌です。

 この歌は、宇宙絶対神の最高表現・天照大御神の御姿を表現しているのです。天照大御

神の御姿は、即ち光明遍照の”日の本の国”なのです。それ故にこの歌には、天照大御神

を顕現する偉大なる力があるのです。最高理想の世界”日の本の国”を現実化する、尊厳

無比の”祈り言葉”なのです。従ってこの歌は、島国日本の国歌では無いのです。島国日 

本の私物化できるものでは無いのです。宇宙全体の共有財産・最高の宝なのです。

”君” とは、 ”極身” であり、宇宙絶対神のことです。 ”代” とは、一瞬一瞬新たに、

移り変わり・置き代わるという意味で、絶対神の現われである ”宇宙・世界” のことです。

 "千” とは、数多くの・無限のという意味です。 ”八” とは、”イヤ” であり、無限の伸

展・拡大の意味です。従って絶対神の現われである宇宙・世界というのは、無限の宇宙を無

限に組み合わせた、重層構造の荘厳無比の宇宙・世界なのです。

 本当の自分・本心の自分というのは、宇宙絶対統一神・天照大御神から、新たなる全徳

の無限の無限の輝きを感受して、常に無限に無限に輝いている自分です。その本心の自分

と比較すれば、魂の自分も肉体の自分も、全く無に等しい存在なのです。その無限に無限

に輝いた本心の自分も、天照大御神と比較すれば、全く無に等しい存在なのです。無限の

人に対して、永遠無窮に、新たなる全徳の無限の無限の輝きを与え続けることのできる、

宇宙絶対統一神・天照大御神は、筆舌を超えて無限に無限に無限に偉大な存在です。

 ”さざれ石の巌となりて”というのは、本心の一人一人が個性を発揮しながらも、自分

のすべてを天照大御神に捧げ尽くして、完全に天照大御神と一体化していることを示して

いるのです。元始より本心の自分は、天照大御神と一体なのです。今更改めて一体化する

のでは無いのです。真に本心の自分は、天照大御神の血となり、肉となっているのです。

天照大御神の玉体は、無限の無限の”個性ある輝き”を持った最高の宝石を、無限に無限

に組み合わせて、一大統一された宝石・巌(一大連珠)なのです。

 "苔のむすまで”というのは、生命・いのちの輝いた状態であるという意味です。いの

ち・生命ほど、尊いものは無いのです。天照大御神は、宇宙大生命・いのちの本源なので

す。常に生き生きと喜びを表現し、常に活き活きと躍動しているのです。それは即ち全徳

の無限の無限の輝きなのです。 ”徳” というのは、直心(じきしん)を行ずる、直霊の働き、絶

対神の根源の働きという意味です。無限億万分の一秒という一瞬一瞬の刹那に、新たなる

全徳の無限の無限の輝きをもって、”天照大御神”荘厳無比・尊厳無比の全大宇宙が、常

に常に新生しているのです。”君が代”は天照大御神の”御稜威”を讃える歌です。