22どんなことも、プラスで受ける

 宇宙は(世界)は、神さまの表現です。その神さまの表現を、正しく感受することによって、無限の無限の真価値を、見出すことができるのです。感受の仕方が間違っていたら、真の価値を見出すことができなくなるのです。「今・此処」に与えられているものを、プラスに受けるか、それともマイナスに受けるかによって、その人の運命が善くなるか、それとも悪くなるかが決定されるのです。どんな物事でも、プラスに受けようと思えばプラスに、マイナスに受けようと思えばマイナスに受けることができるのです。その受け方を決めるのは、あくまで自分自身です。本当に無限の無限の幸せを願っていれば、必ずプラスの受け方をしてゆくのです。

 

 何事も感謝で受けて喜ぶ為には、移り変わる宇宙のすべては、愛と知恵の持ち主である神さまの御心のままに、一人一人に一番相応しいものとして的確に与えられている、と知ることが大事です。神さまの与えるものはプラスのものばかりです。いついかなる時にも、すべてをプラスに受ける為には、自分の立場をマイナス無限大に置けばよいのです。マイナス無限大は宇宙創造の原点です。神さまはマイナス無限大を創造の出発点にして、そこへ無限の無限の大光明を加えて、光一元の妙趣あるプラス無限大の表現を一瞬一瞬新たに、創造し続けているのです。マイナス無限大の立場に立つということは、神さまの働きのすべてをプラスに感受して、神さまの御心を正しく理解する為に、必要不可欠なことです。何事もマイナスに受けるのは、神さまの御心を正しく理解できていないからです。絶対の愛の神さまを、マイナスの言葉を使って悪者にしているからです。神さまについての勉強不足と、マイナスの言葉を不用意に使った結果なのです。だからマイナスに受けた時は、自分自身に全責任があるのです。

 

 もしマイナスに感受するものがすこしでも有ったら、反省し・お詫びして、高慢な心を消し去ってもらうことが必要なのです。高慢な心の奴隷に陥るのは、本心の自分の力を発揮しないで、怠けているからです。

 

 自分の思い通りに生きようとする生き方を捨てて、すべてを神さまの御心のままにと感謝一筋に生きるようにならなければ決して真実の幸福をつかむことはできないのです。すべての不幸な姿は、神さまへの感謝を忘れていることに対しての警鐘です。病気の人は個の病気さえ治れば幸福だと思うかもしれませんが、その程度の思い方では幸福もたかが知れているのです。なぜ既に与えられている健康な部分に対して感謝してゆかないのでしょう。神さまへの感謝を忘れた生き方では、全身に万病を抱えて当然なのに、どうして今与えられている健康を無限の感謝で受け止めてゆかないのでしょう。

 

 マイナスの極以外の立場に立つ時は、その立場から下のものに、何の価値も見出すことができないのです。そしてマイナスに見えるものを、自分勝手に切り捨てることになるのです。マイナスに見て切り捨てたら、それに対応するプラスをも失うことになるものです。

 宇宙のすべては、相対の両極の働きによって、バランスが保たれているのです。絶対が相対的に表現される時には、必ず相対の両極・両方が、同時に存在しているのです。相対のどちらか一方だけが表現されるということは、決して無いのです。光が表現される時には、必ず闇も同時に表現されるのです。時間が表現される時には、必ず空間も同時に表現されるのです。相対に分かれるものの、どちらか一方が表現される時には、必ず他方も同時に表現されるのです。

 

 プラスをより多く感受する為には、マイナスへの感謝・思いやりを深くしてゆくことが大切です。マイナスを責め裁き・切り捨てることは、同時に自分に与えられるプラスをも破壊していることになるのです。マイナスを光一元に眺めて、プラスに受けてゆく感謝は、そのままプラスを大きくすることです。

 

善い環境に置かれて、善い心に成れても、未だ本物とは言えないのです。どんな悪い環境に置かれても、善い心を保持できた時に、本物と言えるのです。環境の影響を受ける心は、業想念も心です。業想念の心では、現実のマイナスに引っ掛かって、必ず心はマイナスに陥るのです。本物・本心の心は、常に神さまだけを相手にするのです。だからすべてをプラスにプラスに受けてゆけるのです。

神さまの御心の中から出発する者は、本心の心を生きているのです。現実から出発する者は、業想念の心をいきているのです。本心の心を生きることによってのみ、マイナスをプラスに変えてゆけるのです。

大きく分けた無限のチャンネルの中から、この世という一つの番組を選んで、この世に生を受けて生かされているのです。この世という一つの番組もまた、無限のチャンネルに再分化されて、その一つを選んで各自それぞれに、異なる運命を味わっているのです。だから同じ運命の人は一人もいないもです。この世に平等ということは有り得ないのです。『人を見て法を説く』というように、仏も一人一人に合わせた法を説くのです。万人いれば、万の異なる法を説くのです。それでなければ、人の自由を縛った、悪平等がはびこることになるのです。

同じ一つのことに対しても、人の受け方も千差万別・無限に変化するのです。万人寄れば、万人の受け方があるのです。また同じ人であっても、時間の経過と共に、受け方が無限に変化するのです。マイナスに受けるのも、プラスに受けるのも、一人一人の自由です。思いの心を生きる人は、マイナス思考に受けがちで、感謝に生きる人は、プラス思考に受けやすいのです。思いを溜めて、惰性に生きる人と、思いを消して、真剣に生きる人の違いです。

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