21光と闇

「暗闇が在る」というのは、自分の立場から眺めて、自分の抱いている光と比較して、「光明が乏しい・光明が無い」と認めているに過ぎないのです。暗闇は積極的な存在ではなく、ある立場から見て、「光明が乏しい・光明が無い」という、比較上の虚の状態に過ぎないのです。宇宙絶対神は、『無限の無限の大光源』『無限の無限の大光明』そのものです。だから宇宙絶対神の表現としての全大宇宙には、無限に小さい光から無限に大きい光まで、無限の段階の光の表現だけが存在するのです。ところが大きい光の立場から、小さい光を眺めると、暗く感じられるもです。相対的な比較上の問題として、大きい光の立場からは、小さい光は暗闇に感じられるのです。このことは理の当然であって、暗闇として感じることは、善でも悪でも無いわけです。

 

 人にとって大切なことは、天浮橋(あまのうきはし⇒相対の両極)に立つという粉tです。無限の無限の大光明という立場に立つ時は、暗闇に対して、光を投げ与えるだけでよいのです。暗闇から光を求めることは、全く必要が無いのです。報いを求めずに、ただ与えるだけでよいのです。これは愛の心の一面の、『思いやり』に相当するわけです。反対に暗闇の立場に立つ時は、無限に小さい光をも、何と素晴らしい光であることよ!と褒め讃え・感謝し・喜んで、自分の心の中にしっかりと包容すればよいのです。全大宇宙のすべてのものを、素晴らしく感じて、心にしっかりと包容することは、愛の心のもう一面の『寛容』に相当するわけです。自分に少しでもプラス面が有るならば、それは他へ与え尽くす為に循環してきたものです。比較して自慢したり、他を軽蔑したりする為のものでは決して無いのです。また自分が他から何かを与えられようとする時は、それがどんなに小さい光であっても、必ず自分にとって必要不可欠な光なのです。小さい光だから要らないと、決して拒絶してはならないのです。光一元に仰ぎ見て、すべてから光を吸収することが、本心の自分を輝かすことになるからです。

 

宇宙は神さまの愛の表現です。思いやりと寛容の両極の表現です。人もまた『愛』の心を生きるのが、一番自然なのです。思いやりと寛容の心をもって生きる時、人は何の無理も無く自然に、いつもいつも『無限の無限の幸せで一杯』になるのです。宇宙絶対神の全徳は無限の無限の大光明燦然と、常に常に輝き渡っているのです。その光をどれだけ受けるかは、一人一人の完全な自由に任せられているのです。先ずは自分の持っているすべてから光を吸収するのです。その循環を速く大きくしてゆくことが、本心の自分を大きく輝かせる生き方なのです。

 

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