平成26年10月4日のお話
”自分の立場  真(まこと)の神さまは落下傘兵”
 



司会者のおはなし↓
今回まとめを作る上で先生に質問に伺ったのですが、
その時その時で違う先生の言葉をどう受けたらよいのか、という質問をした時に、
自分も今の自分の心境、次の心境と変化するし、
自分一人が聞いているようでも、背後も(助ける方・助けてもらう方の両方)全部が
聞いているから、というお答だったんです。

そこから背後の話になりまして、
ポスティングの時の背後はどうなっているのかということも少し伺いました。

普段からそうなのですが、ポスティングの時は特に、
ちょっとでも、参加したら大きい得をするから、大勢が行列状態で待っていて、
順番待ちで、一人がちょっとさせてもらうぐらい、なのだそうです。

だから、ポスティングしている時も、助ける側、助けてもらう側の両方が、
入れ代わり立ち代わり、色んな縁者が入ってくる。

Aさんの背後についてくる、助ける側と助けてもらう側は、
それがAさんだから、ピタッと一致して出会うことが出来る。
だから、一人一人の存在が、必要になる。

例えば、AさんとBさんが同じ通りで右と左で配る、という時も、
その時どちら側を配るのかというのは、縁者に引っ張られてそうなる。
その中で、間違って違う側をしてダブったり、また、配る予定外のところを配ってしまったり、
というのも、縁者に引っ張られて、必要だから、そうなる。
その辺のところは、お任せしておくことも大事、とのことでした。

ポスティングする方の助ける側、助けてもらう側の縁者だけではなくて、
ポスティングされる方にも、助ける側と助けてもらう側があって、
これがまた、ポスティングする側とピタッと合う。

この一例を知るだけでも、私たちが普段から、
どれだけ色々な目に見えないバックアップを受け続けているか、
ということが感じられてきます。
現実をつかんでしまうと、いつも同じ状態が続いている、というような錯覚が起こります。
でも本当は気付かないだけで、一瞬一瞬、全てが大きく変化している。
そのことを感(観)じ取れるようになることが、大事なのではないでしょうか。
ありがとうございます。


先生のお話を伺っていますと、ある時言われていたことと、
まるっきり反対のことを言われることがあります。

一体、どちらが本当なんだろう、と迷われた経験は、ないでしょうか。


つまり、こういうことなのではないかと思うのです。

ある一つのことを見る際に、
Aという部分的な立場に立ってみるのと、Bという部分的な立場に立ってみるのでは、
その立ち位置によっては、全く正反対のものに感じられるかもしれません。
でも、本心で、その全体を大きく見通すことが出来たならば、
Aも、Bも、矛盾なく、両方が本当だということが理解できる。

先生は今まで、
色んな立場に立ったお祈りや総責任者ということを、
説明してきて下さっています。

それがどの段階に向けて言われていることなのか、
整理して、振り分けながら聞かないと、混乱するだけで、お話を生かすことはできません。

また、段階ごとのお祈りや総責任者を理解することによって、
違いを知って謙虚になることが出来ます。
またそれによって、バックアップの違いや、どれだけ大きいバックアップがいつも
降り注いでいるか、を知ることも出来るようになります。

そこで、今回は、
求める心・受ける心・与える心・支える支え合う心
これらの心境に応じた、お祈りや総責任者の段階について、
整理をし、地図を作るということを試みました。

というわけで、

@お祈りの段階について考えてみましょう。

先生は、例えば
自分の借金返しをするためのお祈りのお話をされることがあります。

また、地球を救うお祈りについてお話されることもあれば、
虚の世界全体を消すお祈りについて、お話をされることもあります。

はたまた、真のプラス、真の神さまを与え尽すお祈りのお話をされることもあります。

では、どのお祈りが、どの心境の段階のお祈りなのか、整理がついていますでしょうか?


A総責任者の段階について考えてみましょう。

総責任者の立場に立つ、とは、どの心境からなのでしょうか。

総責任者にも2種類があります。
全てのマイナスの責任を取る責任者と、プラスを与え尽す責任者。
おのおのどの心境のことを指しているのでしょうか。

ぜひ、考えて見て下さい。

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「借金返し」をするお祈りの段階というのは、
求める心から与える心まで、になります。

でも、借金返しと言っても、二通りあるようなのです。

一つは、応援を受けて借金返しをする段階。
もう一つは、責任を持って自分で借金返しをしようとする段階。

応援を受けて借金返しをする段階が、求める心・受ける心になります。

求める心の祈りは、例えば、病気が治りますようにとか、世界が平和になりますように(五井先生の世界人類が平和でありますように!の世界平和の祈りは求める祈りではありません。これとは違います誤解なきように→大桃注)、という祈り。
受ける心の祈りは、循環を止めて、大難が小難、無難になった、とプラスに受け直そうとするお祈り。

どちらもまだマイナスのお祈りです。
でも、例え、小さな感謝の気持ちからでも、ありがとうございますと唱えていたら、
その時、波の合うところから応援が来て+αが加わるから、効果も少しずつ出てくる。

この段階で大事なのは、応援をいかにうまく受けるか、ということ。(この応援とは支え合い尽くし合いの心のことです、大桃注)
求める心・受ける心は、まだ高い所とは波が合いにくいので、
波を合わせるために、身口意(しんくうい)といって、
例えば、顔の表情一つ、ニコッと笑って祈る方が、高い所と波が合いやすい。
ありがとうございますのシールを活用する、
マイナスが多い時ほど、プラスに喜ぶ、痛くてもいい気持、心地よい痛みと、プラスに喜ぶなど、
言葉・心・行い、全体で波を合わせることが大事、とのことです。

そして、この段階では借金返しと言っても、
実は、まだ本当の意味では、借金返しにはなっていないそうなのです。

例えば、宗教団体などで、お金を出してそこの霊団に、一時的に助けてもらうような場合、
病気治しなどでも、思いの原因を一時的に除けて、代わりに背負ってもらうそうなのですが、
これは、背負ってもらっただけで、消してもらったわけではないから、また借金になっている。

それはまだ「与える心」になっていないから。
そして、「総責任者」の気持ちになっていないから。

求める心や受ける心の人では、まだ総責任者にはなれないそうなのです。
受ける心の「縁覚」の時、自分にどれだけの責任があるのかということに、初めて気が付く。
そして、段階ごとにある、色んな責任を感じ取って、自分はこれを目指す、という気持ちを起こす。

さて、「総責任者」としての実行の始まり、
本当の意味で借金返しが始まるのが、与える心・菩薩からです。(与えきりに与え尽くすという捧げ合い尽くし合いの心を与える心といいます、大桃注)

お祈りで、プラスを与えてマイナスを消そうとする段階です。

最初は、自分個人の借金返しから始まり、次第に縁者の借金返しをするようになります。
心境が上がるごとに、縁者は段々広がって、最後には、虚の世界全体になります。

虚の世界全体を消すための祈りになってゆくのです。

「与える心」で「責任者」として借金返しをしているから、
受ける助けは借金にはならず、無償の助けをバックアップとして受けることが出来るようになります。

このように、同じ借金返しのお祈りでも、借金になるか、無償で消してもらえるかは、
返し方の自分の姿勢次第、ということなんです。
与える心でしていたら、どれだけ助けてもらっても、借金にはならないのです。

でもまだ、与えるプラスは、虚のプラス。
虚のマイナスを消すための虚のプラスです。

そして、支える・支え合う心というのが真のプラスの祈り。

真のプラス・真の神さまを与え尽そうとする総責任者の立場に立つ心境です。

与える心から支える心に変わるためには、
虚のプラスを与えることによってマイナスを消して責任を取る総責任者ではなく、
絶対的な、プラスしかないところのプラス、真のプラスを与える総責任者に
ならなければならないのです。

以上が、
各心境におけるお祈り・総責任者の段階になります。


地図の整理がつき、自分の立ち位置や全体像がわかったら、
次は、どのようにして自分の心境を上げていくか、です。
その際、大事になってくるのが、どういう生き方・どういう助けを選ぶか、ということ。

今回先生のお話で、
上から降りてもらう生き方、「天才教育」と
下から上がっていく生き方、「盆栽(凡才?笑い大桃注)教育」について話があったのですが、

この「天才教育」という生き方を選ぶことが大事。

この上から降りてもらう生き方とは、バックアップをいっぱい受ける生き方、なのだそうです。
+αを沢山受ければ受けるほど、天才教育になるのだそうです。
一方、自分の力だけで上がっていこうとするのが、下から上がる「盆栽教育」、ということになります。

そして、バックアップをより受け、感(観)じ取るようになるには、
どうしたらよいのでしょうか?

それは、自分もバックアップ=支えようとすること、なのです。

今の自分がどの段階であっても、神さまのお手伝いに生きようとすることが、大事です。
例えば、先生を支えるような気持ちでポスティングをする、お祈りをする、
畏れ多いような気がするかもしれませんが・・実行していけたらいいですね。


☆おまけ☆

今回まとめを作る上で先生に質問に伺ったのですが、
その時その時で違う先生の言葉をどう受けたらよいのか、という質問をした時に、
自分も今の自分の心境、次の心境と変化するし、
自分一人が聞いているようでも、背後も(助ける方・助けてもらう方の両方)全部が
聞いているから、というお答だったんです。

そこから背後の話になりまして、
ポスティングの時の背後はどうなっているのかということも少し伺いました。

普段からそうなのですが、ポスティングの時は特に、
ちょっとでも、参加したら大きい得をするから、大勢が行列状態で待っていて、
順番待ちで、一人がちょっとさせてもらうぐらい、なのだそうです。

だから、ポスティングしている時も、助ける側、助けてもらう側の両方が、
入れ代わり立ち代わり、色んな縁者が入ってくる。

Aさんの背後についてくる、助ける側と助けてもらう側は、
それがAさんだから、ピタッと一致して出会うことが出来る。
だから、一人一人の存在が、必要になる。

例えば、AさんとBさんが同じ通りで右と左で配る、という時も、
その時どちら側を配るのかというのは、縁者に引っ張られてそうなる。
その中で、間違って違う側をしてダブったり、また、配る予定外のところを配ってしまったり、
というのも、縁者に引っ張られて、必要だから、そうなる。
その辺のところは、お任せしておくことも大事、とのことでした。

ポスティングする方の助ける側、助けてもらう側の縁者だけではなくて、
ポスティングされる方にも、助ける側と助けてもらう側があって、
これがまた、ポスティングする側とピタッと合う。

この一例を知るだけでも、私たちが普段から、
どれだけ色々な目に見えないバックアップを受け続けているか、
ということが感じられてきます。
現実をつかんでしまうと、いつも同じ状態が続いている、というような錯覚が起こります。
でも本当は気付かないだけで、一瞬一瞬、全てが大きく変化している。
そのことを感(観)じ取れるようになることが、大事なのではないでしょうか。



真の」っていうのと「虚の」っていうのは、正反対、大きい違いがある。
例えば、「真の神さま」と「神さま」、どれだけの違いがあるか。「真のプラス」と「プラス」、大きい違いがある。
「支え合い」も、「真の支え合い」と、「支え合い」がどう違うか。

真の支え合いとは何か。真の神さまの世界の支え合いは何か。
虚の世界の支え合いは、自分を、人を相手にしている。
自分を支えてくれる、人を支えている、みんなを支えている、全体を支えている。対立している。
真の支え合いは違う。人や、みんなを、全体を支えるのではない。真の神さまを支える。
だから真の神さまの御心をそのまま生きる。願いを叶える為に、支えるのに何をしたらいいか。
これが本当の支え。本心の自分でないと出来ないこと。神さまの願いを、目的を、目標をしっかりと、自分のものにして、自分を与え尽す。
真の支え合うも違う。寄りかかる支え合いではない。本心のみんなの力を一つに結集すること。一人の支えでもすごい。
みんなの支えを一つにして、真の神さまの願いを実現するように支えていく。
同じ言葉でも、真の支え合い、普通の支え合い、大きい違いがある。どんな言葉も同じ。
無色透明。真の無色透明の輝きは、無色透明の中にすべてがある。虚の無色透明だったら、無、ゼロ。何もない。
同じ言葉を使っているようで違う。「真の」ということをしっかりと捉えないと、ダメ。

虚の世界を十界って分けている。「真の十界」と「ミニ十界」の違いは大きい。
虚の世界がどうして生まれたか、原因がある。また虚の世界を消す為にはどうしたらいいか。
いったん、虚の世界へ落ちて、地獄まで行ったら、かなり借金・マイナスを積み重ねている。
無限に近い、思い・我を積み重ねている。無限って言ってもいい。その無限のものをどうして返していけるか、消していけるか。
迷路のような虚の世界から抜ける為にも、抜け出る地図が入る。ただ、この地図は、虚の世界の人が作った地図では迷うだけ。
真の神さまが光の道をつけてくれないと、地図にならない。その地図の道は、一本。真祈りへの道、一本だけ。
どこにでもあるのと違う。真祈りへの道をしっかりと見出して、入って行かないとダメ。

木でも鉢に植えて、枝を剪定して手入れして、人工的に手を加えたものを盆栽という。
大木にならない。人の手を加えたら、盆栽に終わる。花の種を蒔いても、いつ芽が出るかって見つめたら、なかなか出ない。
双葉が出て成長し始めるのでも、見つめたら止まってしまう。人でも同じ。寝ている時に成長するという。
見つめることは、過去をつかむこと。縛りを与えること。だから成長が止まる。置き換えが遅くなる、悪くなる。良くならない。
盆栽教育と天才教育と二つがある。

下から1+1は2と勉強しようとしたら、盆栽教育に終わる。過去をつかむから。
過去をつかんだら必ず縛られる。進歩が必ず遅くなる。天才教育は最高のものを与え続ける。最高のものだけを習う。
神習うというのと同じ。神さまの真似をするというのと同じなの。そうすると進歩が早い。早く本物が降りてくる。
それと同じで、地獄から心境を上げて、本当の悟りの世界に到達する為に、どうしたらいいか。
下から上がろうとしたら無限の年月をかけても上がれない。不可能。過去の縛りでがんじがらめになるから。
大勢の神仏に助けてもらっても、なかなか縛りが全部消えるまでいかない。年月がかかりすぎる。

同じ十界と言っても、六道は、求める心、思いの心で一杯。声聞・縁覚・菩薩・仏が思いを消して、
本心の世界、悟りの世界に戻りたいという生き方を取る時。そこに本心の目覚めが出来た時。
本当は、(ミニ十界ではない)正規の十界で、声聞というのは、色んな教えを全部学んで、地図作りをするところ。
全体像をしっかりと捉えないとダメ。そうしないと何もわからない。どっちに行っていいかもわからない。
迷ってしまうだけ。声聞というのは、地図作りをする。悟りへの道をしっかりと全部学んで、体系づけないとダメ。

それが出来たら、今度は縁覚。縁覚は、自分にどれだけの責任があるか気づくこと。
どういう責任を果たしていくか気づくこと。段階を追って、色んな気付き、責任がある。
その全ての責任を感じ取らないとダメ。色んな責任を感じて自分はこれを目指すんだっていう気持ちを起こさないとダメ。
それで菩薩の境地に立つ。

菩薩の境地からは、お祈りだけ。借金返しをする為の、マイナスを消す為の、本当のお祈りを一生懸命する段階。
菩薩や仏のする仕事は祈りだけ。肉体が自分と思って、魂が自分と思ってするのでは、何の力も出ない。
本心の自分が、お祈りの実行をする。でもまだ、本心の自分にはなり切れていない。
本心の自分が目覚めてちょっと顔を出しているくらい。本心の自分が、与える祈りを実行し始めている段階。
本当は借金返しを全部しないと、虚の世界は消えないから、その為の祈りを順番にしていく。
与えて与えて、与え尽す祈りを実行する。自分の為に祈る祈りは、取るに足らない、役に立たない。
みんなの為に、全体の為に与えるだけのお祈りが、必要。これでもまだ虚の祈りなの。借金返しの為の、思いを消す為の祈り。
それがどれだけ大きい責任を感じて大きい与え方の祈りをするかによって、小菩薩が大菩薩になり、大きい仏になっていく。


以下先生のおはなし


(平成26年10月4日勉強会のお話@)

本当に実行するというのはね、ただ地図の上を見るだけではダメなのね。実際に一歩一歩歩むことが大切なの。一つの誠実な実行は万理を知るに勝る!といってね。実際に実行することが大切なの。
 たとえばミニ十界の方は、地図の上で遊んでいるだけなの。それも想念のままごと遊び。これがね、実際に歩むとなったら命懸けなの。
 同じ借金を返すのでも、本当にプラスを持って行かないと消えないのね。だからお祈りも本物でないと同じ与えると言っても消えないのよ。

 実際にマイナスを消すとなったら、その為には本当のプラスを持って行かないとダメなの。消えないのよね。だからこそ真剣なお祈りが必要になるの。
 同じ虚の世界のお祈りでもそうなのね。お祈りする人が借金を積み重ねる生き方だったらお祈りにならないのね。
 真祈りをすると覚悟した者は、要らないものを全部捨てて捨てて、捨て切って、邪魔するものを全部捨て切って、本当に必要なだけを残して、お祈りに入らないと、持っている要らぬものにまつわる黒雲にお祈りを邪魔される。だからなかなかお祈りに向かない。すぐに祈り言葉を忘れてしまうのね。
 虚の世界のプラスのお祈りって言っても、そこまでやらないとプラスにならないのね。どうしても波の合うものを引き寄せてしまう。するとなにも出来なくなる。

 例えば、お祈りの時の姿勢一つがそう。霊媒に降りる色んな姿を見たらよくわかる。
 高い高級な神霊が降りたら、威儀端然として本当に神々しい姿で姿勢がピタッと決まっている。
 本当に威圧するようなものが出てくる。そしたら高級神霊が降りてもらう為の姿勢ってどんなものか。
 やっぱり背骨を伸ばし、頭を上に上げないとダメ。これも一つの形から入る為の、波を合わせる為の一つの方法なのね。
 呼吸でも同じなの。ふかくゆっくりと長く吐く丹田呼吸に入らないとダメなの。でもね、本心の自分に戻っていたら自由自在。一切の形は関係ないの。

 本心の自分は一切の過去をつかまないからどんな姿勢でも自由自在。一瞬一瞬、新たにする姿には、形は無い、姿勢なんか問題にしない。
 どんな姿勢を取っても一瞬一瞬新たに新たになの、過去や現在に捉われた見方の姿は小さい肉体意識で見なければ無いのね。でもそこまで自由自在になるまで行くのに、最初は型を倣(なら)うの、それはね癖(くせ)を直す為なの。
 そして癖(くせ)が無くなったら最後は全ての型を捨てるの。それが真(まこと)の自由自在なの。

 でもね、みんな小さい肉体意識で、下から上ろうとしたら、無限の年月がかかるの。これは絶対に肝に銘じておかないとダメ。大切なことなのね。

 ここに、なぜ真祈りが今降りてくるか?。ポスティング、護摩焚きがあるか?。
 それはね、無限の年月がかかるのを、本当に短時間で悟りの世界に戻そうとする真(まこと)の神さまの計らい(jはからい→計画)なの。大きな大きな無限の無限の愛なの。
 真祈りが降りたら、真(まこと)の神さまが降り立ったら、地獄のどん底の人が、一瞬で本心の悟りに戻る。ここが今までと違うの。
 ポスティングも同じ。なぜポスティングが必要になったか?。真(まこと)の神さまが降り立ってくれたら、万倍億倍以上の、大きい力が降り立つ。
 マイナスを消すだけの力ではない、本心を輝かす大きい力が降りる。マイナスを消しても本心の自覚がなかったら同じこと。
 またマイナスに転落する。真(まこと)の神さまが降り立つのは、本心の自覚を大きく与える。本心を大きく輝かせてくる。
 だからマイナスに堕ちない。どんなマイナスもさっと消えていく。
 それで真(まこと)の神さまのお手伝いに生きるの、この生き方をみんなにしっかり実行させようとするの。

 小さい肉体意識の自分が何かするのではない。そうではないの、反対なの。小さい肉体意識の自分は何もしない。したらダメなのね。小さい肉体意識の自分がするのはみんな間違いなの。
 小さい肉体意識の自分では、良いと思ってしても、我を積み重ねるだけ、思いを積み重ねるだけ。すべて反対なのね。本当は、全て真(まこと)の神さまがして下さるの。真(まこと)の神さまのお蔭で全部出来るの。だから真(まこと)の神さまのお手伝いだけに生きるのがいいの。
 いいですか?だからね、支える・支え合いっていうのは、真(まこと)の神さまの為だけに生きるってことなの。真(まこと)の神さまの願いだけに生きるってことなの。
 それはもう真(まこと)の神さまは、みんなの願いを全部叶える為に生きているの。どんな願いも、全ての願いを全部叶えるのが、真(まこと)の神さまの願いなの。
 それも肉体意識小さい願いではない。無限の無限の大きいものを与えようとするそれはもう大きな大きな願いなの。
 これはねみんなをもう一度本心に戻して、最高の幸せを味わい続けられるように、本当に真(まこと)の神さまと一つになれるようにね。
 すべてのすべてを助け続ける願いを持って、真(まこと)の神さまは働いているのね。それも24時間不眠不休の休み無しでね。

 だから本心の自分に戻ったからといっても、自分の大きい願いがどれだけのものかって考えて真(まこと)の神さまと比べたら、それはもうゼロと同じなの。
 本心ですら、自分の願いを生きたらダメなの。真(まこと)の神さまの願いを生きないとダメなの。
 真(まこと)の神さまの願いを、自分の願いとして受けて生きるのが大事なのね。だから本当の人生の目的って、みんな色々考えて答えを出しているけど、全部間違い。
 肉体の自分の人生の目的なんかマイナス。魂の人生の目的、これもマイナス。いのちの自分の目的、これもマイナス。
 本心の自分の目的、これもまだ小さすぎてダメ。真(まこと)の神さまの目的が自分の目的に変わらないとダメなのね。
 真(まこと)の神さまの為だけに生きるのが本心の生き方なの。そしたら真(まこと)の神さまの全てと、波がピタッと合う。
 そうなると真(まこと)の神さまのバックアップが常に無限に降り注ぐ。各段階ごとに、全部。これも本心の自分に戻っても、
入れ子構造的に無限に段階があるから、自分に合わせた助け方で、神さまは無限倍を降り注がせる。すべての段階ごとにね。

 だから真(まこと)の神さまの護りはいつも完璧。
 ということは、小学生は小学生の助けがある、中学生は中学生の助け、
虚の世界でも段階ごとに助けがある。真(まこと)の神さまの世界、真実の世界に上がっても、真(まこと)の神さまが段階ごとに、
自分の成長に合わせて、必要な助けを的確に与え続けてくれるのね。
 それがわかったらね、もう自分のしていることは何もないとわかるのね。
 虚の世界で救ってもらうのも、自分は何もしてない。本心の世界で上に引き上げて助けてもらうのも、自分は何もしていない。肉体意識の考えていることと反対なの。
 肉体意識の自分がしたら邪魔をする。全て真(まこと)の神さまのお蔭って言わないとダメなの。
 100%真(まこと)の神さまのお蔭って言葉にして、それが本当の自分の信念になるまで、意識の奥の奥まで叩き込まないとダメ。
 この信念が狂うようだったら、間違っているのね。神さまが絶対の愛なんだって、これも自分の言葉で、信念になるまで叩き込まないと、
ちょっとでも神さまの愛を疑うようだったら、間違っているのね。

 だからね、その祈りが真祈りになるまでに、無限の祈りが必要になるの。祈りを鍛えに鍛えぬかないと、真祈りになるまで大変なの。
 そうだから一人の祈りではダメなの。24時間+α。+αが大きく加わらないと、祈りが真祈りに変化しないの。
 では、だからどれだけ+αを与えてもらえるか。そう与えてもらうためにだから自分は真(まこと)の神さまの為だけに生きないとダメなのね。
 真(まこと)の神さまへの恩返しに生きるから、全体もそうするの。でも一人の人を助ける為に、みんなが力を添えるわけがないよね。
 みんな真(まこと)の神さまに奉仕したい。
 人の為に、誰かの為に、っていうのは、虚の世界の小さい助け方なのね。結局結果的にみんな偽物になってしまうの。
 真(まこと)の神さまの為だけに生きる、真(まこと)の神さまの為だけに、自分を捧げる、こう決めたら、みんなが助けてくれる、支えてくれる。
 自分の為にと言ったら、誰も助けてくれない。人の為にと言っても、助けてくれない。小さすぎるのね。
 虚の世界でも高い神さまの出番はない。出て来てくれない。真(まこと)の神さまの為に生きるとなったら、大きくなるのね。
 虚の世界の神仏全部が、喜んで応援につく。それでは足りない。だから本心の世界のみんなが、真祈りを祈り続けて支えに出てくるの。
 そしたら自分もすぐに真祈りを祈れるように、大きく助け続けてもらって、変えてもらえるの。



(平成26年10月4日のお話A)

 まず自分とは何か。肉体が自分、魂が自分、いのちが自分、なんて虚の世界の姿を自分と掴んだら、小さすぎるのね。
 どれだけ大きい自分でも、自分の為に生きたら小さくなるの。本心の自分でも、自分の為にと言ったら小さくなるの。
 これが一番間違っているのね。自分の為にと言ったら、求める心なの。求める心を生きたら小さくなるの。それはね、求めるとみんなから奪うことになるからなのね。
 するとお互いが同じ姿なので、全部奪い取られて小さくなるの、結局自分のものがなくなるのね。
 それにね、受けるのもダメ。循環を止めるから。与えてもらって喜んで受けた、そのとたん循環が止まるのね。今一回受けただけで終わるのね。
 だから、与える練習を始めるのが大切なのね。でも、与えるのでも、自分のものを与えても仕方ないの、それはね真(まこと)のプラスを与えるのではないからなのね。
 そういうのは、あくまでも、与える練習だけなのね。本当の清らかな流れではないんよ。それこそ汚れた濁流を与えているようなもの。汚れを与えているようなものなの。

 本当の一大循環の相象(すがた)というのはね、真(まこと)の一大循環の相象(すがた)と虚の世界で言うような循環とは違うの。
 真(まこと)の神さまの世界の清らかな流れは、どんな汚れもないのよね。だから絶対汚れない。汚れが付かないの。絶対、汚れが付いていかないの。濁らないの。
 でも、虚の世界は、汚れる。濁る。濁っている。同じ流れでも違うのよね。 本当の悟りを開くために必要なのは、真(まこと)の神さまが本当の自分って、本心の自覚を本当に深める為に必要なのは、真(まこと)の神さまのお手伝いに生きることだけなのね。
 それ以外には、みんなに助けてもらえないの。だから、それをしっかりと目的・目標にして、神さまのお手伝いに生きたら、
 もうそれだけに生きたら、みんなに助けてもらえる。全体に助けてもらえるのね。
 これも、自分が自分がって小さい肉体意識が出たらダメ。すべてを邪魔するだけなの。
 一瞬一瞬、真(まこと)の神さまの御心を問い返して、謙虚に素直に「はい」と言わないとダメなのね。

 真(まこと)の神さまの指図(さしず)というのは、一瞬一瞬変わるのね。右へ行け、次に左に行け。前へ行け、後ろに行け。
上へ行け、下へ行けって、もう自由自在に変化する。なぜか?過去の縛りを全部解く為なのね。
 自分が、言葉・思いの縛りでがんじがらめに縛られて、くくられていたら、その縛りを解くだけでも大変なのね。
 過去の縛りを全部解いていかないとダメとなったら、大変なの。振り回される。
 だから、その縛りを上手に簡単に解いてくれているの。神さまは、真祈りを加えるから、草薙の剣を持って、
 自分をくくっているロープを全部断ち切ってくれる。でもねたとえ断ち切ってくれても、そのロープを外さないとダメなの。
 断ち切ったロープを右に行け、左に行けって引っ張られるの。縛りを大きく解いてくれているの。切っただけではダメなの。
 それを自分から外してもらわないとダメ。だから、ちょっと右に行け、左に行け、次に右に行け、左に行けってどんどん変わるのは当たり前なのね。
 
 ところが、草薙の剣が断ち切ってくれなかったら、1本のロープがぐるぐるぐる全部繋がっているのね。
 もし巻き戻したらどうなるか。ちょっとロープを解くだけでも大変なことになるのね。
 1本のロープを外すだけで無限に回転しないといけないのね。1本のロープでもそうなの。
 それがもう、色んなロープが一杯絡み付いて縛っていたら、解けないじゃない。
 だから真(まこと)の神さまが降り立って、ロープを断ち切って、切ったロープを振り回して取ってくれないとダメなの。
 
 つまり、真(まこと)の神さまの導きは、常に右へ行け、左に行け、色々一瞬一瞬変えて(ロープを外すために)、指図してくるようになっているの。
 小さい肉体意識の我を出さないように、謙虚になるように、素直になるようにって、訓練して癖を取ってくれているのね。
  ありがとうございますと祈り続けていたら、小さい肉体意識の我が思いが、消えていっていく。癖が縛りが全部解けていっていく。それで、最後に本心が出てくるのね。
 その時、本心も真(まこと)の神さまの御心のままに、素直になっているのよ。
 これも練習によって、どんどんどんどん神さまのお手伝いができるように変わっていくのね。

 本心の自分が、真(まこと)の神さまに命を捧げて、お手伝いに入る時、まず自分が絶対出ない。自分を出さないのね。
 真(まこと)の神さまだけを前面に出して送り出す。だから、みんなに本当に必要なものを与えると言ったら、真(まこと)の神さまでないと与え切れないのよ。
 もし、小さい肉体意識の自分が出たら、自分がみんなの為に、一瞬にしてみんなの必要なものを見抜いて、本当に必要なものを与えられるかどうか、出来ますか?その人に必要なものを見抜けますか?
考えたらよくわかるよね。一人の人に対してすら、与えられない。なにもできない、一瞬一瞬変化することも見抜けない。
 何が必要か、一瞬一瞬変化していても、見抜けない。また、それに気づいても、一瞬にして必要なものを与えられるか、与えられない。
 本心の自分でも不可能なの。そしたら、わかるでしょ?小さい肉体意識の我の自分、思いの自分は、何もできない。邪魔するだけ。

 だから、一切自分を出さない生き方がいるのね。邪魔しない生き方が必要になるのね。真(まこと)の神さまに全てを委ねる、
全託するというのが絶対必要になるのよね。それで、真(まこと)の神さまが自分を通して働いてくれたら、みんなに必要なものを的確に与えてくれるようになるわけ。
 その助けは無色透明の輝きとなって、光源と光の流れになって、一瞬に必要なものに変身するのね。
 段階ごとに、本当に必要なものに変身して与え続けてくれるの。その流れを加速するのが本心の役目なの。
 ありがとうございます、ありがとうございますで、一大循環の流れを加速すればいい。そうすると、早くみんなに必要なものが届くのね。
 このスピードが遅くなったら、つまり循環を止めていったら必要なものが与えてもらうのに時間がかかるだけの話っていうわけ。
 
 だから、真(まこと)の神さまのお手伝いは、真祈りを与える、一大循環の流れを加速するお手伝いなのね。
 これをちょっとでも小さい肉体意識の我を出したら、流れを止めてしまうのね。逆流を起こすことになるからね、結局それはそれは大きい間違いになるのね。
 大切なことは、まず邪魔をしないことなの。小さい肉体意識の我の自分を生きずに、本心の自分を生きようとすることなの。
 本心の自分は、神さまのお手伝い。
 我の自分は、神さまの邪魔をしに行く。
 だから、小さい肉体意識の思いの自分を生きたらダメなの。

 本心の自分を生きる。のと我の思いの自分を生きる。この違いはどこにあるか?
 過去を掴んだのが、小さい肉体意識の思いの自分。
 絶対の中心から、新たに生まれたのが本心の自分。
 だから、本心の自分は、一切過去を相手にしない。
 常に、新たに新たに、自由自在な自分。
 神さまが真(まこと)の自分っていう自分。
 そこは、神さまの働く”場”(ば→フィールド)だけ。
 自分の力って言ったら、もうおしまい。過去を掴んでいる。 
 自分のものは何も無い。自分も自分のものも、あったらダメ。
 過去を掴んでいるから。これは我の自分になっていく。

 自分も自分のものもないのがいい。
 過去を一切掴まないのがいい。
 そしたら、常に無条件の幸せが湧き上がる、流れ込む。
 そこは、全ての幸せが一杯つまっている。
 だから、我の自分には、幸せなんか無い。
 本当の無条件の幸せが湧き上がる自分に早くなるには、もう、ひたすら神さまのお手伝いに生きるだけ。
 少しでも自分を出したらダメ。
 だから、神さまを送り出すの。神さまを前面に送り出さないとダメ。
 自分を送り出してもらうようだったらダメなの。
 自分を支えてもらうって、喜んだらダメ。大きい間違い。
 自分を支えてもらったらダメなの。
 自分が神さまを押し出す、支えないとダメ。
 そうすると、自分が消えて無くなる。本物の自分に変わるの。
 
 だから、本当の真祈りへの道、地図作りは、やっぱり自分自身でしないとダメなの。
 そして、どの道を歩むか自分が自由意志で決めないとダメ。
 どれが最短コースかって。自分で上ろうとしたらダメ。反対になる。
 だから、神さまから全て降ろしてもらう。
 神さまに降りてもらう。
 神さまに使ってもらう。
 これだけ。一番の最短コース。

 真(まこと)の悟り、これは一瞬で決まること。
 本当に絶対の中心から新たに生まれた自分って、本当に定められたら一瞬で悟っている。
 でも、下から上っていこうと思ったら、無限の年月かけても絶対不可能。 上らない。過去を掴んだら不可能になる。
 だから、過去を掴まない練習をする。新たに新たに、新たに新たにってしっかりと自分を生きる。
 でもそれも、現実の新たにだったら、また過去の残像の中の新たにになる。 それも間違う。だから、絶対の中心から、新たに新たに。

 真(まこと)の神さまが真(まこと)の自分。
 真(まこと)のプラスが真(まこと)の自分のプラス。
 常に、新たに新たに。
 絶対の中心から新たに新たにっていう風に、言葉で定める。
 そしたら、本当の自分。自由自在な無色透明の一切の我の無い、
 本当に幸せ一杯の自分になる。
 本当に言葉だけ。
 虚の世界も全部言葉を使って、みんな自分が言葉通りになっている。
 言葉が食べ物。
 虚の世界の自分を作るのは、言葉。マイナスの言葉を食べたら、マイナスの自分になる。
 プラスの言葉を食べたら、プラスの自分になっている。
 でも、真(まこと)のプラスの言葉は、本心の自分になる。
 だから、真(まこと)のプラスの言葉をしっかりと選んで使わないと、真(まこと)の自分にならない。
 だから、真祈りが必要になる。
 真祈りのありがとうございますは、本心の自分の最高のご馳走になっている。
 常に、本心の自分が最高に幸せ一杯に輝く自分になる。



(平成26年10月4日のお話B)








(平成26年10月4日勉強会のお話@)

本当に実行するというのは、地図の上を見るだけではダメ。実際に歩むこと。
ミニ十界の方は、地図の上で遊んでいる。ままごと遊び。実際に歩むとなったら命懸け。
同じ借金を返すのでも、本当にプラスを持って行かないと消えない。お祈りも本物でないと同じ与えると言っても消えない。
マイナスを消す、その為にプラスを持って行かないとダメ。真剣なお祈りが必要になる。
同じ虚の世界のお祈りでもそう。借金を積み重ねる生き方だったらお祈りにならない。
要らないものを全部捨てて捨てて、捨て切って、邪魔するものを全部捨て切って、
必要なだけを残して、お祈りに入らないと、お祈りを邪魔される。なかなかお祈りに向かない。
虚の世界のプラスのお祈りって言っても、そこまでやらないとプラスにならない。波の合うものを引き寄せてしまう。

お祈りの時の姿勢一つがそう。霊媒に降りる色んな姿を見たらよくわかる。
高い高級な神霊が降りたら、威儀端然として本当に神々しい姿で姿勢がピタッと決まっている。
本当に威圧するようなものが出てくる。そしたら高級神霊が降りてもらう為の姿勢ってどんなものか。
やっぱり背骨を伸ばし、頭を上に上げないとダメ。これも一つの形から入る為の、波を合わせる為の一つの方法。
呼吸でも同じ。丹田呼吸に入らないとダメ。でも本心の自分に戻っていたら自由自在。
過去をつかまないからどんな姿勢でも自由自在。一瞬一瞬、新たにする姿には、形は無い、姿勢なんか問題にしない。
どんな姿勢を取っても一瞬一瞬、捉われた見方の姿は無い。でもそこまで自由自在になるまで行くのに、最初は型を倣う、癖を直す。
そして最後は全ての型を捨てる。

でもみんな下から上ろうとしたら、無限の年月がかかる。これは絶対に肝に銘じておかないとダメ。
なぜ真祈りが今降りてくるか。ポスティング、護摩焚きがあるか。
無限の年月がかかるのを、本当に短時間で悟りの世界に戻そうとする神さまの計らい。
真祈りが降りたら、真の神さまが降り立ったら、地獄のどん底の人が、一瞬で本心の悟りに戻る。ここが違う。
ポスティングも同じ。なぜポスティングが必要になったか。真の神さまが降り立ってくれたら、万倍億倍以上の、大きい力が降り立つ。
マイナスを消すだけの力ではない、本心を輝かす大きい力が降りる。マイナスを消しても本心の自覚がなかったら同じこと。
またマイナスに転落する。真の神さまが降り立つのは、本心の自覚を大きく与える。本心を大きく輝かせてくる。
だからマイナスに堕ちない。どんなマイナスもさっと消えていく。
それで真の神さまのお手伝いに生きる、この生き方をみんなにしっかり実行させようとする。

自分が何かするのではない。反対。自分は何もしない。したらダメ。自分がするのはみんな間違い。
我を積み重ねる、思いを積み重ねる。反対。全て神さまがして下さる。神さまのお蔭で全部出来る。だから神さまのお手伝いだけに生きる。
だから支える・支え合いっていうのは、神さまの為だけに生きる。神さまの願いだけに生きる。
神さまは、みんなの願いを全部叶える為に生きている。どんな願いも、全ての願いを全部叶えるのが、神さまの願い。
それも小さい願いではない。大きいものを与えようとする願い。
これはみんなを本心に戻して、最高の幸せを味わい続けられるように、本当に神さまと一つになれるように、
助け続ける願いを持って、神さまは働いている。

だから本心の自分に戻ったから、自分の大きい願いがどれだけのものかって考えたら、神さまと比べたら、ゼロと同じ。
本心ですら、自分の願いを生きたらダメなの。真の神さまの願いを生きないとダメ。
真の神さまの願いを、自分の願いとして受けて生きるのが大事。だから本当の人生の目的って、みんな色々考えて答えを出しているけど、
肉体の自分の人生の目的なんかマイナス。魂の人生の目的、これもマイナス。いのちの自分の目的、これもマイナス。
本心の自分の目的、これもまだ小さすぎてダメ。真の神さまの目的が自分の目的に変わらないとダメ。
真の神さまの為だけに生きるのが本心の生き方。そしたら真の神さまの全てと、波がピタッと合う。
真の神さまのバックアップが常に無限に降り注ぐ。各段階ごとに、全部。これも本心の自分に戻っても、
入れ子構造的に無限に段階があるから、自分に合わせた助け方で、神さまは無限倍を降り注がせる。段階ごとに。

だから神さまの護りはいつも完璧。だから小学生は小学生の助けがある、中学生は中学生の助け、
虚の世界でも段階ごとに助けがある。真の神さまの世界、真実の世界に上がっても、真の神さまが段階ごとに、
自分の成長に合わせて、必要な助けを的確に与え続けてくれる。そしたら自分のしていることは何もない。
虚の世界で救ってもらうのも、自分は何もしてない。本心の世界で上に引き上げて助けてもらうのも、自分は何もしていない。反対。
自分がしたら邪魔をする。全て神さまのお蔭って言わないとダメ。
100%真の神さまのお蔭って言葉にして、それが本当の自分の信念になるまで、叩き込まないとダメ。
この信念が狂うようだったら、間違っている。神さまが絶対の愛なんだって、これも自分の言葉で、信念になるまで叩き込まないと、
ちょっとでも神さまの愛を疑うようだったら、間違っている。

だからその祈りが真祈りになるまでに、無限の祈りが必要になる。祈りを鍛えに鍛えぬかないと、真祈りになるまで大変。
だから一人の祈りではダメなの。24時間+α。+αが大きく加わらないと、祈りが真祈りに変化しない。
だからどれだけ+αを与えてもらえるか。だから自分は真の神さまの為だけに生きないとダメ。
真の神さまへの恩返しに生きるから、全体がそうするの。でも一人の人を助ける為に、みんなが力を添えるわけがない。
みんな真の神さまに奉仕したい。人の為に、誰かの為に、っていうのは、虚の世界の小さい助け方。みんな偽物になってしまう。
真の神さまの為だけに生きる、真の神さまの為だけに、自分を捧げる、こう決めたら、みんなが助けてくれる、支えてくれる。
自分の為にと言ったら、誰も助けてくれない。人の為にと言っても、助けてくれない。小さすぎる。
虚の世界でも高い神さまの出番はない。出て来てくれない。真の神さまの為に生きるとなったら、大きくなる。
虚の世界の神仏全部が、喜んで応援につく。それでは足りない。だから本心の世界のみんなが、真祈りを祈り続けて支えに出てくる。
そしたら自分もすぐに真祈りを祈れるように、大きく助け続けてもらって、変えてもらえる。



(平成26年10月4日のお話A)

まず自分とは何か。肉体が自分、魂が自分、いのちが自分、なんて虚の世界の姿を自分と掴んだら、小さすぎる。
どれだけ大きい自分でも、自分の為に生きたら小さくなる。本心の自分でも、自分の為にと言ったら小さくなる。
これが一番間違っている。自分の為にと言ったら、求める心。求める心を生きたら小さくなる。求めるとみんなから奪う。
同じ姿で、全部奪い取られて小さくなる、自分のものがなくなる。
受けるのもダメ。循環を止めるから。与えてもらって喜んで受けた、循環が止まる。今一回受けただけで終わる。
だから、与える練習を始める。でも、与えるのでも、自分のものを与えても、真のプラスを与えるのではない。
あくまでも、与える練習だけ。本当の清らかな流れではない。濁流を与えているようなもの。汚れを与えているようなもの。

 本当の一大循環の相象も、真の一大循環の相象と虚の世界で言うような循環とは違う。
真の神さまの世界の清らかな流れは、どんな汚れもない。絶対汚れない。汚れが付かない。絶対、汚れが付いていかない。濁らない。
でも、虚の世界は、汚れる。濁る。濁っている。同じ流れでも違う。本当の悟りを開く、真の神さまが本当の自分って、
本心の自覚を本当に深める為に必要なのは、真の神さまのお手伝いに生きることだけ。
それ以外には、みんなに助けてもらえない。だから、それをしっかりと目的・目標にして、神さまのお手伝いに生きたら、
もうそれだけに生きたら、みんなに助けてもらえる。全体に助けてもらえる。これも、自分が自分がって出たらダメ。邪魔するだけ。
一瞬一瞬、神さまの御心を問い返して、謙虚に素直に「はい」と言わないと。

神さまの指図というのは、一瞬一瞬変わるの。右へ行け、次に左に行け。前へ行け、後ろに行け。
上へ行け、下へ行けって、もう自由自在に変化する。なぜか?過去の縛りを全部解く為。
自分が、言葉・思いの縛りでがんじがらめに縛られて、くくられていたら、その縛りを解くだけでも大変。
過去の縛りを全部解いていかないとダメとなったら、大変なの。振り回される。
だから、その縛りを上手に簡単に解いてくれているの。神さまは、真祈りを加えるから、草薙の剣を持って、
自分をくくっているロープを全部断ち切ってくれる。断ち切ってくれても、そのロープを外さないとダメ。
断ち切ったロープを右に行け、左に行けって引っ張られるの。縛りを大きく解いてくれているの。切っただけではダメなの。
それを自分から外してもらわないとダメ。だから、ちょっと右に行け、左に行け、次に右に行け、左に行けってどんどん変わるのは当たり前。

ところが、草薙の剣が断ち切ってくれなかったら、1本のロープがぐるぐるぐる全部繋がっている。
巻き戻したらどうなるか。ちょっとロープを解くだけでも大変なことになる。
1本のロープを外すだけで無限に回転しないといけない。1本のロープでもそう。
それがもう、色んなロープが一杯絡み付いて縛っていたら、解けない。
だから真の神さまが降り立って、ロープを断ち切って、切ったロープを振り回して取ってくれないとダメなの。

だから、真の神さまの導きは、常に右へ行け、左に行け、色々一瞬一瞬変えて、指図してくる。
我を出さないように、謙虚になるように、素直になるようにって、訓練してくれている。
そしたら、我が思いが、消えていっている。縛りが全部解けていっている。それで、最後に本心が出てくる。
その時、本心も真の神さまの御心のままに、素直になっている。
これも練習によって、どんどんどんどん神さまのお手伝いができるように変わっていく。

本心の自分が、神さまに命を捧げて、お手伝いに入る時、まず自分が絶対出ない。自分を出さない。
真の神さまだけを前面に出して送り出す。だから、みんなに本当に必要なものを与えると言ったら、真の神さまでないと与え切れない。
もし、自分が出たら、自分がみんなの為に、一瞬にしてみんなの必要なものを見抜いて、本当に必要なものを与えられるかどうか、
考えたらよくわかる。一人の人に対してすら、与えられない。一瞬一瞬変化することも見抜けない。
何が必要か、一瞬一瞬変化していても、見抜けない。また、それに気づいても、一瞬にして必要なものを与えられるか、与えられない。
本心の自分でも不可能。そしたら、我の自分、思いの自分は、何もできない。邪魔するだけ。

だから、一切自分を出さない生き方がいる。邪魔しない生き方が必要になる。真の神さまに全てを委ねる、
全託するというのが絶対必要になる。それで、真の神さまが自分を通して働いてくれたら、みんなに必要なものを的確に与えてくれる。
無色透明の輝きとなって、光源と光の流れになって、一瞬に必要なものに変身する。
段階ごとに、本当に必要なものに変身して与え続けてくれる。その流れを加速するのが本心の役目。
ありがとうございます、ありがとうございますで、流れを加速すればいい。そうすると、早くみんなに必要なものが届く。
このスピードが遅くなったら、必要なものが与えてもらうのに時間がかかるだけの話。

だから、真の神さまのお手伝いは、真祈りを与える、一大循環の流れを加速するお手伝い。
これをちょっとでも我を出したら、流れを止める。逆流を起こすから、大きい間違いになる。
だから、まず邪魔をしないこと。我の自分を生きずに、本心の自分を生きようとすること。
本心の自分は、神さまのお手伝い。我の自分は、神さまの邪魔をしに行く。だから、思いの自分を生きたらダメ。

本心の自分を生きる。この違いはどこにあるか?過去を掴んだのが、思いの自分。
絶対の中心から、新たに生まれたのが本心の自分。だから、本心の自分は、一切過去を相手にしない。
常に、新たに新たに、自由自在な自分。神さまが真の自分っていう自分。そこは、神さまの働く場だけ。
自分の力って言ったら、もうおしまい。過去を掴んでいる。自分のものは何も無い。自分も自分のものも、あったらダメ。
過去を掴んでいるから。これは我の自分になっていく。

自分も自分のものもないのがいい。過去を一切掴まないのがいい。そしたら、常に無条件の幸せが湧き上がる、流れ込む。
そこは、全ての幸せが一杯つまっている。だから、我の自分には、幸せなんか無い。
本当の無条件の幸せが湧き上がる自分に早くなるには、もう、ひたすら神さまのお手伝いに生きるだけ。自分を出したらダメ。
だから、神さまを送り出すの。神さまを前面に送り出さないとダメ。自分を送り出してもらうようだったらダメなの。
自分を支えてもらうって、喜んだらダメ。大きい間違い。自分を支えてもらったらダメなの。自分が神さまを押し出す、支えないとダメ。
そうすると、自分が消えて無くなる。本物の自分に変わる。

だから、本当の真祈りへの道、地図作りは、やっぱり自分自身でしないとダメ。
そして、どの道を歩むか自分が自由意志で決めないとダメ。どれが最短コースかって。自分で上ろうとしたらダメ。反対になる。
だから、神さまから全て降ろしてもらう。神さまに降りてもらう。神さまに使ってもらう。これだけ。一番の最短コース。

真の悟り、これは一瞬で決まること。本当に絶対の中心から新たに生まれた自分って、本当に定められたら一瞬で悟っている。
でも、下から上っていこうと思ったら、無限の年月かけても絶対不可能。上らない。過去を掴んだら不可能になる。
だから、過去を掴まない練習をする。新たに新たに、新たに新たにってしっかりと自分を生きる。
でもそれも、現実の新たにだったら、また過去の残像の中の新たにになる。それも間違う。だから、絶対の中心から、新たに新たに。

真の神さまが真の自分。真のプラスが真の自分のプラス。常に、新たに新たに。
絶対の中心から新たに新たにっていう風に、言葉で定める。そしたら、本当の自分。自由自在な無色透明の一切の我の無い、
本当に幸せ一杯の自分になる。本当に言葉だけ。虚の世界も全部言葉を使って、みんな自分が言葉通りになっている。
言葉が食べ物。虚の世界の自分を作るのは、言葉。マイナスの言葉を食べたら、マイナスの自分になる。
プラスの言葉を食べたら、プラスの自分になっている。でも、真のプラスの言葉は、本心の自分になる。
だから、真のプラスの言葉をしっかりと選んで使わないと、真の自分にならない。だから、真祈りが必要になる。
真祈りのありがとうございますは、本心の自分の最高のご馳走になっている。常に、本心の自分が最高に幸せ一杯に輝く自分になる。



(平成26年10月4日のお話B)